更新16/decembre/1999
ある犯罪の被疑者を起訴するかどうか、つまり、刑事裁判を始めるかどうかの決定は、検察官に任されています。
被害者が告訴したり、第三者が告発することによって、犯罪捜査を始めさせたりすることはできますが、
裁判そのものを始めさせることは、たとえ被害者であっても、できません。
もしも、検察官が間違えたり、不公平な決定をしたとしたら、どうなるでしょうか。
被疑者が、刑罰を受けるべきではないのに、起訴された場合には、裁判で真実が明らかになります。(ならなければ困ります)
その人にとっては、不幸な間違いですが、それでも、間違いが正されるチャンスがあります。
被害者にとっては、少なくとも、自分が傍聴できる公開の裁判で、さまざまな証拠によって裁判官が下した判決です。
完全に納得することはできないとしても、自分でいろいろ考えることができます。
では反対に、刑罰を受けるべきだったのに、あるいは、それが犯罪なのかどうかよくわからなかったのに、
被疑者が起訴されなかった場合はどうでしょう?
その人は、ほっとするかもしれませんし、もしかしたら、モヤモヤしたものが残るかもしれません。
被害者にとっては、決定の理由を教えてもらうことができないので、
まったく納得できない結果に思われることでしょう。
そして、そのままでは、間違いを正すチャンスは、誰にもありません。(裁判官には出番がありません)
そのままでは、真実を明らかにし、正義を追求する、という刑事裁判の目的が、うやむやになってしまいます。
そこで、検察審査会の出番になるのです。
検察審査会とは、検察官の不起訴の決定を、法律の素人である一般市民が、正しいかどうかチェックする制度です。
検察官が不起訴にした事件を調べ、
おかしい、起訴すべきだった、と考えれば、「起訴相当」(8/11以上)、
そこまではいかないけれど不起訴にするのは不十分だ、と考えれば、「不起訴不当」(6/11以上)、
不起訴でよかった、と考えれば、「不起訴相当」、と決定します。
そして、その決定を、検察庁に勧告します。
その数は、全国で地域別に201ヵ所、岩手県内には5ヵ所あります。(盛岡、二戸、遠野、宮古、一関)
メンバーは11人。くじ引きによって、一般の有権者から選ばれます。
ですから、20歳以上の人は、誰でも、検察審査会のメンバーに選ばれる可能性があるのです。
(ただし、プロの法律家の人や、裁判所や検察庁等で働いている人などは、除かれます)
この制度は、 イギリス、アメリカの起訴陪審という制度を基に作られました。
陪審制とは、法律のプロである裁判官や検察官の他に、
素人である一般市民が、裁判の始まり(起訴)と裁判そのもの(審理と判決)に関わる、という制度です。
有権者の中から、それぞれ、くじで選ばれます。
起訴陪審では、刑事裁判をするかどうか=起訴するかどうかを、陪審員が決定します。
判決陪審では、刑事裁判なら有罪か無罪か、民事裁判なら原告と被告とどちらの言い分を認めるか、を決定します。
(刑罰の中身や賠償金の額などは、裁判官が決めます)
アメリカの裁判ドラマの中で、しばしば見かけます。
イギリス、アメリカの陪審は、決定権を持っています。
しかし、日本の検察審査会は、決定権を持っていません。
あくまでも、検察庁に「勧告」するだけ、つまり、「こうした方がよかったのに」と言えるだけです。
検察庁がそれに従って考え直すかどうかは、検察庁自体に任されています。
それが、このチェック制度の限界と言えます。
とはいえ、検察審査会は、役に立たないお飾りの制度ではありません。
検察審査会の勧告によって捜査が再開され、起訴されて有罪判決が出るケースはいくつもあります。
また、仮に裁判にまでは至らなくとも、新聞などで取り上げられることによって、
世論によって追及されることもあります。(政治家の汚職事件など)
昨年(1998年)の12月にも、
小学生が交通事故で死亡した事件について、検察審査会の「不起訴不当」の議決を受け、
運転していた人が業務上過失致死罪で起訴された、ということが、
全国の新聞で報道されました。
世間を騒がすような大事件じゃなくとも、
私たちにとっていつでも起こるかもしれない身近な事件でも、
検察審査会の出番があるのです。
次のページで、交通事故の被害者や遺族になってしまったときのことを考えてみましょう。
→ 交通事故と裁判
もしも、偶然、地元の検察審査会のメンバーに選ばれたら、張り切って参加してくださいね!
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