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女性の権利に関する法制整備と女性運動:
1970年代以降のプエルトリコにおける女性政策とフェミニズム

はじめに

 プエルトリコ(Puerto Rico)では1929年に、読み書き能力があることという制限つきであったものの、初めて女性の参政権が認められた。これは、1928年にラテンアメリカ・カリブ地域の中で最も早く女性参政権が成立したエクアドルに次いで2番目に早く、世界的にみてもかなり早い時期に女性参政権が成立したケースだと言える。また、1970年代には、一連の家族法の改正が行われ、妊娠中絶が合法化された。カトリック教会の影響で、中絶を禁止している地域が多いラテンアメリカ・カリブ地域にあってプエルトリコのケースは特異なケースである。さらに、1989年には、家庭内暴力を犯罪とする法律が制定されたが、これはラテンアメリカ・カリブ地域で最も早かった。

 このように、プエルトリコにおける女性に関する法制整備の歴史をみると、女性の権利を守り、女性の地位を向上させる法律が他地域に先駆けて制定されていることが分かる。その際、後述するようにこれらの法律が制定されていく過程では、政党の運動とは別に形成されていた女性運動からの、政府、行政側への働きかけが極めて重要な役割を果たした。そこで、本稿では、プエルトリコにおける女性政策形成の過程にフェミニズムが具体的にどう関わったのかを考察し、その過程でプエルトリコの女性運動に生じた変化を検討する。

1,歴史的背景

(1)1930年代以降のプエルトリコにおける女性の政治参加

 前述のとおり、プエルトリコの女性は1929年に制限付きながら参政権を持つようになり、実際には1932年の総選挙から、その権利を行使するようになった。表1はそれ以降現在に至るまでのプエルトリコにおける総選挙におけるプエルトリコ議会の上院・下院議員および市長数・市会議員における女性の割合を示している。

[表1]

 この表から明らかなように、1940年代までは特に島議会レベルでの女性議員数は極めて限られていた。1950年代以降になって上院議員が増加傾向を示しているが、下院議員は70年代、80年代と減少しているし、市長の割合も60年代が最大となり、以後は減少している。このように、参政権確立当初から一部の女性が議会に参加し、また、市会議員への女性の参加は当初から一割を越えているものの、女性が選挙権を得てから今日までの約60年間を通して、全体として女性の議会への参加は限られていた。ただし、1996年になり初めて上院、下院、市長数ともに女性の割合が一割を越えているので、90年代以降は全体的な増加が予想される。

 このような女性の政治参加の動向にフェミニズムはどう関わってきたのだろうか。女性運動の盛り上がった時期と女性の議員が増加した時期との関連を見ると、明確な関連は見いだされない。今世紀初めに、女性参政権運動が活発になったが、女性参政権が成立した後の女性の議会への参加は限られていた。また、70年代に入り、フェミニズムブームと呼ばれる時代になるが、この時期に女性議員の際立った増加は確認できない。つまり、女性運動が盛り上がった時期と、女性議員の割合が高くなった時期とは重なっていない。女性運動は議会への進出を目指さなかったようである。

 このことに関し、1930-1980年の間のプエルトリコ人の投票行動と女性の関係を調べたイサベル・ピコはその研究において、議会への女性の進出が少ないことを数値として明らかにすると同時に、女性の投票拒否行為が男性より多いことを指摘している1)。また、プエルトリコの政治と女性に関する本を著したマルガリータ・オストラサもその研究のなかで、「女性たちは公的な面における参加を促進するために投票権を使用していない。今世紀初めに権力に到達するために闘われた参政権を利用していないし、憲法によって保障された権利を守るために女性が投票権を行使したという証左が存在しない2)。」と結論づけている。それでは、プエルトリコの女性たちは、女性の地位を改善する政策を実現するために、どのような政治的取り組みを行ったのであろうか。

(2)女性参政権成立過程における女性たちの政治活動

 十九世紀末から今世紀初頭にかけて、プエルトリコにおいても女性参政権運動が盛り上がった。この女性参政権成立の過程では、女性解放運動の二つの流れが大きな力を発揮した。専門職および富裕階層の女性たちによる女性解放運動と、労働者階級の中から生まれた女性解放運動である。この女性運動は、女性参政権成立においてどのような役割を果たしたのであろうか。以下にその経緯についてまとめる。

 1898年に米国主権下に移管したプエルトリコでは、米国政府の政策によって公的教育が島に普及していった。その結果、女性の教育機会が大幅に拡大し、教師や看護婦といった専門職の女性が増加した。その中から多くの女性参政権論者が輩出した。また、これらの専門職の女性らとは別に、プエルトリコの主要産業であったタバコ産業や縫製業といった分野に女性労働者が多数従事していたため、今世紀初頭から盛んになった労働運動のなかで女性が重要な位置を占めた。その労働運動のなかに女性解放の運動が生じ、女性参政権運動に合流し、プエルトリコの女性参政権運動の大きなうねりを作り出した。

 これらの女性運動の高まりを背景に、参政権成立の最終段階ではプエルトリコの女性団体が米国の女性団体を通じ、米国議会へロビー活動を行った。このロビー活動の結果、プエルトリコ議会は、1929年に読み書き能力のある女性に対して参政権を承認した。また、1935年の全ての女性への参政権の成立過程では、社会党が連立与党として参政権成立に貢献した。この社会党は、当時の労働運動組織の政治部門としての政党であり、先にも触れたように、労働運動組織は、多数の女性労働者を抱えていた。そのため、社会党は女性たちの参政権成立に当初から積極的であった。特に、労働者階級の女性には文盲が多かったため、社会党は全ての女性参政権確立を強く主張していたのである。

 このように、女性参政権成立の過程では女性参政権論者たちが実際の政治勢力となり議会を動かし、また、労働者階級の女性たちの存在も政治的な勢力として女性参政権をめぐる各政党の政治動向を大きく左右した。しかし、女性の参政権が認められて初の1932年の選挙で誕生した女性議員はマリア・ルイサ・アルセライ(María Luisa Arcelay)のみである。また、1936年の初の普通選挙で誕生した女性議員はマリア・ルイサ・アルセライに加えてマリア・M.・デ・ペレス・アルミロティ(María M. de Pérez Almiroty)が当選しただけである。この二人は議会でフェミニスト議員として活動した様子はなく、縫製工場主でもあったマリア・ルイサ・アルセライに関しては、多くは女性である被雇用者の労働時間制約や賃上げ案に執拗に反対したことが指摘されている3)

 つまり、女性参政権成立過程では、女性たちが大きな政治勢力として議会に圧力をかけ、また政党の政治動向に影響を与えていたにも関わらず、この女性運動は、政治的意志決定の場である議会へ女性が参加していく、ということには結びつかずに終わっている。

2,1970年代以降のプエルトリコにおける女性政策とフェミニズム

(1)1970年代以降のフェミニズムブームと公的機関の女性問題への取り組み

 女性参政権確立以後、女性解放の動きが再び活発になるのは70年代以降のフェミニズムの登場を待たねばならない。今世紀に入って雇用労働市場に参入を始めた女性たちは、プエルトリコ社会の工業化社会・消費社会への移行とともに、その役割も変化させた。50年代のプエルトリコ社会の工業化の進展は、女性の高学歴化と経済的自立の機会の拡大をもたらし、都市に住む女性の意識を変化させた。そして、50年代以降の急速な経済成長過程で生じた女性の社会進出は、60年代に専門職女性たちを中心とした性差別への抗議行動を生み出した。この抗議行動が契機となり、プエルトリコ政府は女性差別に関する調査を開始した。

  そして、1972年にその調査結果が公表され、その結果、女性問題に関する大論争がプエルトリコで巻きあがった。その論争のなかから誕生した最初のフェミニストのグループMIA Mujeres Intégrate Ahora)は、新しい家族法の成立に向けて議会に精力的に働きかけた。このフェミニストたちの動きに影響され、政党も女性差別に対する取り組みを政策として掲げるようになった。社会に進出した女性たちの意向を政党が意識し始め、選挙公約に女性政策を掲げるようになったのである。その結果、1973年に政府は、女性の権利改善委員会(la Comisión para el Mejoramiento de los Derechos de la Mujer)を設立し、教育の場における性差別調査、女性への暴力、セクハラへの対応などに一定の成果を挙げた。また、1975年にメキシコで開催された国際婦人年世界会議を受けて、プエルトリコでも1977年に女性会議が開催された。こうしてプエルトリコ内部の事情と国際的趨勢の双方から、公的機関や政府筋が女性問題に取り組まざるを得ない状況が醸成されていった。

(2)1970年以降の女性の地位に関する法制整備

 このように、1970年以降に生じたプエルトリコのフェミニズムのブームでは、政府や行政機関の女性政策にフェミニストたちが積極的に関わった。そして、女性の地位を向上させるための政策が実施され、女性の権利を守るための法律の整備が進んでいった。それには、女性たちが職場や教育の場で平等の権利を可能な限り享受できるようにと、70年代から80年代にかけて、フェミニストたちが行政の場や大学の研究機関で、法改正や教育システムの改革に特に力を入れて取り組んだことが大きく影響している4)。実際、この70年代以降にフェミニストたちの働きかけで実現していった法整備により、女性の地位が改善され、向上したのである。そこで、この法的整備の主なものを表2にまとめる。

[表2]

 以上のように、プエルトリコ政府は女性たちの要求に応じ、70年代以降、女性の権利を守り、地位を向上させるための法的整備を行った。

 しかし、これらの諸立法に関しては、例えば、雇用上の性差別や人種差別などを禁じた1964年の公民権米国連邦法第七編のプエルトリコへの適用、1980年の米国連邦政府の職場での機会均等委員会指針のセクシャル・ハラスメントを禁止する事項のプエルトリコへの適用、などから、プエルトリコ女性の権利は米国連邦政府の関連法規に支えられている点を問題点として指摘する声もある。また、自身の体に対する自己決定権、同一労働に対する同一賃金、セクハラ禁止、性暴力の禁止などに対する女性の要求は、米国女性運動が影響しているとも指摘されている。そして、このことから性差別を撤廃していくためのプエルトリコ独自の政治構造が進展しない、或いは、自立した女性運動が育ちにくい、という指摘もなされている5)。しかし、女性の地位を改善するために適用できる法律を活用することは必要なことであるし、米国の女性運動の影響があるとしても、結果的にはプエルトリコの女性たちが自分たちの問題とした課題である。そして、これらのフェミニストたちの努力によって女性の地位が大きく改善されたのである。

 また、妊娠中絶の合法化に関しては、米国最高裁が1973年に中絶の権利をプエルトリコに適用したことによってプエルトリコ女性の妊娠中絶が合法化された経緯がある。このことをもって妊娠中絶の合法化は植民地的とする声も根強い6)。しかし、プエルトリコのフェミニストたちは、この権利を当初から支持し、偏見の強い妊娠中絶の女性の権利を擁護し7)、女性たちへ啓蒙活動を行っている。同時にこの権利が守られるよう行政側の対応を促す活動を進めている。

 確かに、プエルトリコは他のラテンアメリカ・カリブ地域とは異なり、米国本土での女性政策がプエルトリコの政策の方針に直接影響を及ぼす。しかし、そうであるにしても、70年代以降の法的整備の過程において、プエルトリコの女性たちが政治的に大きな力を発揮したことは否定できないであろう。

3,プエルトリコ政治とフェミニズム

(1)プエルトリコの政党政治とフェミニズム

 以上のようにプエルトリコの女性たちは、政府や行政側に働きかけ、女性政策を実現させ、政治的に無視できない勢力として存在するが、それでは、プエルトリコの政治を担ってきた政党と女性運動の間にはどのような関係が存在してきたのであろうか。

 プエルトリコは1898年の米西戦争終結以降は米国領土となり、1917年に米国市民権を賦与され、1952年以降は米国の自由連合州として現在に至っている。米国の領土になって百年が経過したが、この間、プエルトリコでは米国との政治的地位を巡って政党が激しく対立してきた。米国の正式の州になるか、独立かという政治的地位の問題、或いは親米か反米かといった問題が、プエルトリコの政治の焦点となり、フェミニストたちの運動にまで影響を及ぼすのである。

 例えば、今世紀前半の女性参政権成立の過程では、プエルトリコ女性団体が米国議会にロビー活動を行ったが、このことを指して、女性たちの行動を反愛国的と捉える向きがあった8)。また、「米国のまねをして女性が男性のように振る舞い投票するようになった」といった男性側の反発も生じた9)

 しかし、プエルトリコの女性団体が米国政府に働きかけて、プエルトリコ議会へ圧力をかけたのは効果的な方法であったし、実際、その政治活動は効を奏した。また、女性が参政権を得たことを米国化の一部とする男性側の反発は、当時プエルトリコの主要産業に成長したタバコ工場や縫製業で女性労働者が増え、女性を取り巻く文化が大きく変化したことが原因となっている。プエルトリコの近代化に伴って生じた社会の変化への戸惑いが、スペイン領時代への郷愁と米国への反発を生み、女性の社会進出の象徴である女性参政権運動に対する嫌悪に米国への反感が結びついたのである。

 70年代のフェミニズムブームのなかでも、プエルトリコの政治的地位をめぐる対立が女性運動の場に深刻な影響を及ぼした。この時代、フェミニズム勢力に影響され、政党が女性差別撤廃を公約し、社会のあらゆる面での性差別撤廃が政策として推進された。しかし、これとは対照的に、女性運動内部では、組織内に党派主義が持ち込まれ、女性の組織は混乱し、女性団体の多くが短命に終わっている。

 例えば、最初のフェミニズムグループMIAが結成された後、1975年に広範な女性の力を結集すべくプエルトリコ女性連盟(Federación de Mujeres Puertorriqueñas)が結成された。本来ならば女性グループの連合体として大きな力を発揮するはずであった。しかし、組織のなかに党派主義が持ち込まれ、組織は混乱し二年で解散した。政治的地位をめぐるプエルトリコ内部の対立が女性運動内に混乱をもたらすのである。MIAも最終的には特定政党のイデオロギーが持ち込まれ、自立的組織運営に支障をきたし解散している。

 このように、政治的地位をめぐってプエルトリコが米国との間に深刻な問題を抱えている以上、女性たちの性差別への取り組みも、この問題をめぐる対立に影響されざるを得ない。しかし、80年代の女性運動はこの問題を克服し、これまでに経験したことのない女性の連帯行動を生みだし、女性政策が実施される上で極めて重要な役割を果たした。そこで、次に80年代女性運動の意義について考察する。

(2)1980年代のフェミニズムの意義

 80年代のフェミニズムでは、70年代にフェミニストたちが女性の政治組織づくりを目指したのとは対照的に、健康問題や女性への暴力問題といった個別課題に活動の目標を絞った女性団体の結成が目立ってくるようになる。そして、それらの課題に取り組む各グループが、女性への暴力という課題に関して連帯し、女性運動の大きなうねりを生み出した。これらの女性団体は、1988年に女性団体連絡会議(Coodinadora Paz para la Mujer)を結成し、政府や行政側に働きかけ、1989年に女性への暴力を犯罪とする法律を成立させた。この女性団体連絡会議には様々な民間の女性団体や大学の女性問題研究機関に加えて行政側である政府の女性局担当者らも加わり、法制定の過程で政治的圧力団体として大きな力を発揮した。

 このように、行政側の人間も含めてフェミニストたちが連帯し、ひとつの政治勢力となり、政府側とテーブルを囲んで交渉し、目標を達成するというのは、これまでのプエルトリコの女性運動にはなかった経験である。これはプエルトリコのフェミニズムの政治的な成熟を示すものであり、プエルトリコの女性運動が抱えてきた党派主義の問題を克服した例として特筆すべき出来事であった。

 この党派主義の問題を克服した理由としては、各女性グループが、暴力を受けている女性を保護する団体、主に労働者女性の問題を扱うグループ、というように活動目標を絞った団体であったため、特定政党のイデオロギーが運動の内部に持ち込まれ運動が分裂する、ということが生じにくかったことが大きく作用した。

 1998年に筆者が行った調査では、女性団体のなかで指導的立場にある一部の女性活動家が同時に政党幹部である場合には、これに対する批判も耳にした。しかし、プエルトリコのフェミニストの各団体は、性差別は許されない、という前提のもとで、それぞれが取り組んでいる活動を筆者に熱心に語り、政党色が表立って示されることはなかった。しかし同時に、それは、プエルトリコの女性解放を全般的に語るというよりは、性差別が引き起こす個別の問題へと集中する傾向にあった。従って、そこから、現在のプエルトリコのフェミニストたちは、例えば暴力の問題ばかりに取り組み、それ以外のことは念頭にない、などといった批判も聞かれたが、それも理由のないことではない。実際、女性団体連絡会議は個別のグループの連合であるため、いったん、法律制定という目標を達成したあとは、各グループは、それぞれの活動へ専念しているようである。プエルトリコの研究者の間には、これをプエルトリコのフェミニズムの次の段階への移行と分析する立場と、曲がり角にきていると批判する立場がみられるが、その双方に真実が含まれているように思われる。

 つまり、この80年代の女性運動はこれまでになく女性たちの大きな力を発揮する可能性を示したが、限界も持つ、ということである。個別の課題に取り組むグループは、それぞれが具体的目標に向かって活動している。従って特定政党のイデオロギーが入り込みにくく、政党に直接引き回されることが少ない。しかし、各グループが個別問題に取り組む団体であるために、女性連絡会議の活動で一定の目標が達成されると、そのあとそのままひとつの政治団体となっていくことは難しく、女性問題全体へ取り組んでいくための組織の運営が容易でないという限界も持つ。以上のような理由で、女性運動が過渡的発展段階にあるとも解釈できるし、同時に限界にぶつかり曲がり角にあるとも分析できる。

 しかしその一方で、女性問題が日常生活の分野で生じる問題であるので、米国との政治的地位をめぐる考えの相違で分裂しているプエルトリコの政党は、女性問題に対応できない、という指摘も10)女性運動のあり方を考える上で示唆的である。個別グループの連合体による女性運動の限界があるにしても、政党政治が女性運動に及ぼす弊害の方がより深刻な問題になりうる。政治的地位をめぐって別れている政党政治が、女性差別の重要性を覆い隠しがちになるからである。このことを考慮すると、政党と直接結びつかない個別グループの連帯という形でこそ、女性問題の政治的解決の道筋がつけられるとも言える。

 確かに、フェミニストたちは、政党議員として議会へ進出し議会を動かすのではなく、様々な女性グループが集合した政治圧力団体として議会へ働きかけて政府に女性政策を推進させるのに成功した。そしてまた、プエルトリコ議会が、プエルトリコの政治的地位をめぐる見解の相違によって対立する場となっている以上、80年代後半に実践された個別グループの連絡会議の形によって、女性運動は、政党の対立の影響を受けずに、女性問題解決に向けた連帯を生み出すことが可能になったのである。

結論

 今世紀にはいり、プエルトリコの女性たちは、教育水準が比較的高く、雇用労働市場に早くから参入していたことを背景に、政治的にも経済的にも社会のなかで重要な役割を果たしてきた。そして、今世紀前半には女性参政権を成立させ、後半にはフェミニストたちが政府や議会へ活発に働きかけて、女性の地位を向上させる法制度を確立してきた。その結果、ラテンアメリカ・カリブ地域でも先進的と言える女性の社会的地位を築いている。その背景に、米国連邦政府の女性政策や米国の女性運動の影響があったことは無視できないが、プエルトリコの女性たちの存在が政治的、経済的に重要であり、政党がその存在を意識せざるを得ないこと、フェミニストたちが行政の場や大学の研究機関で法改正や教育システムの改革に特に力を入れ、政府や行政に女性政策を実施するよう活発に働きかけてきたことが最大の要因であった。

 また、プエルトリコの女性運動は、長い間、プエルトリコの政治的地位をめぐる党派間の対立の影響を受け、女性の組織化に深刻な問題を抱えてきた。しかし、個別の課題に取り組む女性グループが、ひとつの目標を達成するために共同行動をとった80年代以降の女性運動のあり方は、女性運動内部に混乱をもたらしてきた党派主義の弊害を克服する可能性を開き、女性問題の政治的解決の方法を示したと言える。

1) Isabel Picó, Women and Puerto Rican Politics, Social Science Research Center Univ. of Puerto Rico, Puerto Rico, 1985参照.

2) Margarita Ostolaza Bey, Política sexual en Puerto Rico, ediciones huracán, Puerto Rico, 1989, p.135筆者訳.

3) María de Fátima, Barceló Miller, La lucha por el sufragio femenino en Puerto Rico 1896-1935, ediciones de huracán, Puerto Rico, 1997, p.226.

4) Alice Colón-Warren, "Investigación y acción feminista en el Puerto Rico contemporáneo: notas desde un punto en su intersección y movimiento temático", Caribbean Studies, Vol. 28, No. 1, January - June 1995, Instituto de Estudios del Caribe Facultad de Ciencias Sociales Univ. de Puerto Rico, Puerto Rico , pp.163-196.

5) Ostolaza Bey, op.cit., pp.103-107.

6) Yamila Azize-Vargaz, Luis A. Avilés, "Abortion in Puerto Rico: The Limits of a Colonial Legality", Puerto Rico Health Science Journal, Vol. 17, No. 1, March, 1998, Published by Univ. of Puerto Rico Sciences Campus, Puerto Rico, pp.27-36.

7) Alice Colón et al., El aborto en Puerto Rico: Ensayo bibliográfico y bibliografía anotada, Centro de Investigaciones Sociales UPR, Puerto Rico, 1994参照.

8) Centro Coordinador de Estudios, Recursos y Servicios a la Mujer, Centro de Investigaciones Sociales de la Univ. de Puerto Rico, Participación de la mujer en la historia de Puerto Rico, NewJersey, Rutger, USA, 1986, p.44.

9) Lillian Guerra, Popular Expression and National Identity in Puerto Rico: The Struggle for Self, Community, and Nation, Univ. Press of Florida, USA, 1998, pp.193-194.

10) Madeline Ramón, "El movimiento de mujeres y la politización de la vida cotidiana: algunas reflexiones en torno al problema del poder", Revista Ciencias Sociales, Vol. XXVII, 3-4, Sept.-Dic., 1988, UPR, Puerto Rico, pp.69-79.