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この原稿は字句修正を加えた最終原稿ではありません。印刷された最終原稿は岩手県立大学紀要公開 http://www.iwate-pu.ac.jp/office/library/ をご覧ください。ポストコロニアル・フェミニズムとナショナリズム:プエルトリコの女性たちの歴史、経験の記憶

岩手県立大学社会福祉学部 三宅(志柿)禎子

Post Colonial Feminism and Nationalism: Experiences of Puerto Rican Women in the US and Puerto Rico MIYAKE-SHIGAKI, Yoshiko In Puerto Rico , the women started to keep their distance from the political issue of the island that is a US territory when they united on the women's issues. This has caused the established parties to rethink their politics and also has accelerated the argument objectively about the island political status. Meanwhile, in the US, the influence of Puerto Rican women is felt in grass roots movements and in women of color movements. They have added their Latina perspective to the mainly white middle class American feminist movement. Also they add new national identity to the traditional one as Puerto Rican with different circumstances and problems. Both are causing a new paradigm in politics. Their movement is growing rapidly in the group of minorities of a sovereign nation and on feminism at the outskirts of a sovereign nation.

 

私のことを、思い出すのではなく感じてほしい あなたの愛と私の魂の間にあるのはトリル、震える音のひびきだけ ・・・ 私のことを、思い出すのではなく感じてほしい 私のことを考えるのをやめるほど、それだけ私を愛することになるのだから

(!No me recuerdes! !Sienteme! / Hay solo un trino entre tu amor y mi alma… !No me recuerdes! !Sienteme! / Mientras menos me pienses, mas me amas. “Cancion hacia adentro”, Julia de Burgos, El mar y tu) 1)

1、周縁に切り捨てられた者のことば、フェミニズムの視座  ポストコロニアリズムの尖鋭理論家として知られるトリン・ T ・ミンハ( Trinh T. Minh-ha )は、 1989 年に出版された著書『女性・ネイティヴ・他者』で次のように語り始める。

 

 「昔むかしに始まった物語・・・その物語は本当のところ、始まってもいないし、終わってもいない・・・その起源は、はるか昔 ? 一群の力の強い男たちが、自分たちを真ん中の支配の座にすえて、・・・自分たちが特別の場所を得たという手柄をことさら強調し、自分たちの集団から外れているとみなす者には押し付けがましい態度をとり、自分たちの考えのなかだけにくるまり、内にいる者と外にいる者の両方の精神を語るのだと言いながら、いつも内にいる者の理屈だけで外にいる者を解釈してきた。」 2)

 権力の側から一方的に行われる解釈という行為に疑問を投げかけ、ポストコロニアリズムのフェミニストとして、ミンハは周縁に位置する者の立場からその主張を展開した。そして、アジア人女性であり、作家、映像作家であるという自らの経験から導きだされた感覚をポストコロニアリズムのなかのフェミニズム理論に昇華し提起した。また、さまざまな文化が融合するハイブリッドの視座に依拠することによって、支配する側からカテゴリー化されることを拒み、「差異」を無限に保ち続け、人を区分する境界をあいまいにすることを提唱した。西洋に対する東洋、マジョリティに対するマイノリティといった二項対立的な思考の転換を迫り、それぞれが保持するさまざまな側面をそのまま受け入れることを提起する。  それは例えば、「マイノリティであるアジア人女性のフェミニスト」と区分されたときに生じる、何かが違う、という感覚を思い起こしてみれば理解しやすいかもしれない。カテゴリー化されたとたんに常に生じるありのままの自分との違和感、それを突き詰めて考え抜いていくとカテゴリー化された部分から抜け落ちていく差異の部分にたどり着く。ただし、そこでは、言語化からすり抜けていった齟齬の部分を顕在化させるために自らの声を探すのと同時に、支配する側からの解釈を逃れなければならない、という離れ業も必要とされる。なぜなら、発した声が、支配する側の言葉で解釈されたとたんに、支配する側の現実となってしまうからである。つまるところ、ミンハの思想は、真実は語られる者の視線によって異なる事実となっていくという複雑な問題を抱えたまま、いかにして周縁に位置する者の現実を可視化させるのか、そして、誰がどうやって声を出していくのか、ということに対するひとつの回答を提起したとも言えよう。周縁に位置する者の現実を葬り去らせないためには、声を発し、存在を可視のものとさせる必要があるが、同時に、解釈を与えられれば、その解釈に疑義を差し入れ続けなければならない。それが、与えられた解釈に対して異なる差異化を進めていくということではある。スピヴァクの「サバルタンは語ることができない」という主張 3) が模索するものと共通するものがある。

 

 「言葉は、時代を経るにつれて、からっぽになっていく。死に絶え、また現れ、そうして新しい意味をまとい、いつもまた聞きの記憶を身に帯びていく。女は何かを言おうとすれば、自分を切れ切れに裂いて不透明な言葉にし、自分の声は沈黙という壁に塗り込めるしかないと言われる。・・・いかに多くの女が、主人の道具を借り、そのために主人の掌のなかだけで踊っていることとなって、早まった死を宣告されてしまったか。」 4)

とミンハは嘆く。  言葉によって語られる概念は支配者によって作られてきた。ミンハは米国におけるアジア人女性として中心から外れた周縁に位置する。その社会のなかで言葉を持たない者が、自らを可視化させるために主人の道具を使用することで絡められる危険を察知し、同時に、自分たちが存在する現実を可視化させていくことの重要性も肯定する。その矛盾にこだわりながらも、中心とは異なる文化に位置する自らの空間とそのありようを肯定すること、それを無限に続く差異化としてミンハは主張した。この思想は 1985 年に出版された D. スペンダーの『ことばは男が支配する』を想い起こさせる。スペンダーは言葉というものが、権力側の男の都合の良いように働くことを実証した上で、不可視部分の女の潜在的な力に期待を寄せている。

 

「男たちは、・・・男たちだけの現実に閉じ込められているのではないだろうか。・・・私が女には潜在的な力があると考えるのはこの意味においてである。女たちは、無言集団としての経験によって得た広汎な意味へのアクセスをもっているのだから、それを利用すればよい。女が支配集団になってはだめだと考えるのもこのためである。支配集団は誤った意味の発達を促す。末端にいる者のほうが生産的な場合もある。」 5 )

 力の中心から切り捨てられた者のみが気づくことができる現実を可視化する力を女たちが持っている、とスペンダーは述べる。そして、ミンハは、その支配する者によって形作られた言葉を使用しながら、周縁に置かれた者の存在を言語化する際のあやうさを認識すると同時に、その力を力として具現化し、支配の中心に埋没してしまわないために、「〈差異としてのジェンダー( gender-as-difference )〉という物語は・・・変異しつづける物語」 6 ) という「無限に押し進める差異化」 7) の概念を提唱した。ただし、ミンハが周縁に位置する者のことを述べる場合に、スペインダーの言う「無言集団」の女とその範囲が一致するかどうかは疑問ではある。  また、このミンハの概念は、メキシコ系アメリカ人女性チカーナ、グロリア・アンサルドゥーアの『ボーダーランズ/ラ・フロンテーラ』の思想の影響をも感じさせる。ミンハの『女性・ネイティヴ・他者?ポストコロニアリズムとフェミニズム』の訳者である竹村和子は次のように訳者あとがきで述べている。

 

「『一つの文化から別の文化へ絶え間なく移動を続ける私、一度にあらゆ文化のなかにいる私』の『境界空間での闘争』というアンサルドゥーアの思想は、何らかの形でトリンの『理論化』に示唆を与えただろうと思われる。・・・『わたし』の場所を差異化しつづけるトリンの理論/詩は、『境界空間』という語でもっともよく説明できるものと言えるだろう」 8)

 結局のところ、ミンハの理論は、突然、何の前触れもなく現れてきたものではなく、それまでのフェミニズム理論の深化のなかから生まれてきた思想であることが分かる。 2.米国マイノリティ女性とトランスナショナル・フェミニズム  ところで、『ボーダーランズ/ラ・フロンテーラ』が出版されたのはミンハトリンの『女性・ネイティヴ・他者』刊行の二年前、 1987 年のことである。この著作によって、文化の交錯する境界地域のメキシコ系アメリカ人女性たち、チカーナの経験がポストコロニアリズムのひとつの理論として提起されることになるのであるが、著者のグロリア・アンサルドゥーアは 1981 年に編集者として、 This Bridge Called My Back: Writings Radical Women of Color 9) の刊行に携わっている。『ボーダーランズ』の前身ともとれるこの著作で、アンサルドゥーアたちは、アメリカ女性の周縁部分に位置する黒人女性、アジア系アメリカ人、ラテン系女性、ネイティブアメリカ人女性を women of color としてとらえ、その連帯を打ち出した。トランスナショナル・フェミニズムの視点がアメリカのフェミニズムの周縁に位置する者たちの側から提起され始めていたのである。アメリカ女性たちの周縁部に位置する女性たちの women of color としてのフェミニズム、そして更に差異化を深化させる形で打ち出されたアンサルドゥーアのメキシコ系アメリカ人女性、チカーナ、としての国境を超えた第三世界のフェミニズム、これらの提起が米国において成されていることは、フェミニズム全体がフェミニズムズと複数形で表現されるようになったフェミニズム全体の潮流と一致している。この点も興味深い。アメリカ合衆国のなかでのフェミニズムの多様化は、地球規模でのフェミニズムの進化と密接に関連していることが窺える。  周知のことであるが、 1975 年のメキシコで開催された世界女性会議で発せられた第三世界の女性たちの欧米フェミニズムに対するブルジョア批判は、その後、双方の世界でフェミニズムの盛り上がりとそれぞれが持つ運動全体の視野の広がりとともに、フェミニズムの多様性を生み出した。それは、フェミニズムの分裂ととらえるより、深まりとして把握すべきものである。いみじくも、米国内のヒスパニック女性は、米国フェミニズムの中心にある白人のフェミニズムより第三世界の女性たちのフェミニズムに呼応し連帯し、それを米国内のフェミニズムに持ち込む、と指摘されるところであるが、そのような動きが、米国内のフェミニズム、さらにはラテンアメリカ・カリブ地域全体のフェミニズムの豊かさを生み出しているのである。 1984 年に『ブラックフェミニストの主張』を執筆したベル・フックスは、冒頭で「アメリカのフェミニズムは、性差別の抑圧で最も犠牲になっている女性たちから立ち現れてきたことがない。」 10) と述べ、フェミニズムの言説を支配する白人女性のフェミニストたちを辛辣に批判した。しかし、それは、「フェミニズムの闘いを矮小化しようとしているのではなく、むしろ豊かにすることを求めている」 11) とも述べ、周縁に位置する女性たちのフェミニズムにおける重要性を主張している。周縁に位置する者が声を発してその存在を可視化させていく働きが、フェミニズムの持つひとつの力でもあることを考えるとき、その力が効を発し、もともと潜んでいた女性の間の多様性が浮き彫りになった、ということでもある。それは、フェミニズムを後退させるものではなく、可視化されていく多様な現実を前に、新たなフェミニズムの動きが形成されていくことにつながる。  これらの米国内に見られる women of color 、トランスナショナル・フェミニズム、チカーナの境界線上のフェミニズムとは、特権化した主権国家の周辺地域、あるいは、主権国家内のマイノリティ集団において急速に勢力を拡大するフェミニズムとして今後さらに発展していく可能性を秘めている。そして、プエルトリコ人女性たちの経験も、脱植民地化が未完成の社会におけるフェミニズムという点において、ポストコロニアル・フェミニズムのなかで位置づけなおすと、その意義がいっそう鮮明になってくる。 3、米国本土におけるプエルトリコ人女性たちのフェミニズムの動向  米国におけるプエルトリコ人移民女性たちは、移住当初からタバコ製造業や繊維産業の分野で重要な稼ぎ手となってきた。また、 70 年代以降、ヒスパニックに対する福祉政策を求めた社会運動、公立学校でのバイリンガル教育プログラム設立運動、大学でのプエルトリコ研究組み込みの運動などでも女性たちは常に重要な役割を果たしてきた。  しかしながら、これまでの調査から、アメリカ合衆国本土に、プエルトリカン・フェミニズムと捉えられるような運動は存在せず、フェミニストの異なるグループが散在しているにすぎないことが判明した。プエルトリコの女性たちは、国家レベルではなく、州やコミュニティのレベルで活動しており、しかも、活動分野は、健康、教育、環境など多岐に渡る。しかしながら、黒人でもなく白人でもないプエルトリコ人としてのアイデンティティのもとに、日常の生活改善や草の根運動のレベルで活発に各分野で活躍し、その存在を顕在化させた彼女たちの活躍は、ラテン系女性のなかのプエルトリコ人女性という存在を浮き上がらせ、マイノリティ女性たちのフェミニズム内部に多様性をもたらした。その活動は、他のマイノリティ住民とともに、それまでに存在した、白人と黒人とからなるアメリカ合衆国、という認識を変更させていく重要な勢力を生み出している。また、他のラテン系女性たちとともに、 women of color の一翼を担い、アングロサクソン系アメリカ人女性のフェミニズムに欠落しがちなマイノリティ女性や第三世界の女性たちの視点を持ち込み、フェミニズムの質の転換を求める勢力としても重要な役割を果たしている。 12 )  プエルトリコ人女性の運動がプエルトリカン・フェミニズムという形にならない理由は、米国全土に広まって居住し、それぞれが連絡を取っているわけではないという地理的理由もさることながら、それ以上に、彼女たちが直面する問題が、プエルトリコ人特有のものというよりも、米国本土に生活するマイノリティ全体の抱える問題と共通する側面が強いということによる。従って、地域で他のマイノリティとともに活動をする、あるいは特に、権利獲得、生活改善などの課題に、他のラテン系女性たちと共闘するといった活動が多くなる。  それでは、彼女たちのこのマイノリティとしてのフェミニズムは、プエルトリコの政治の焦点である植民地問題にどのような影響を与えたのか、という点についてはどうであろうか。  米国本土でのプエルトリコ人の女性たちの存在が、マイノリティ女性の間に多様性をもたらしているのと同様に、植民地問題についても、プエルトリコ人コミュニティ自体の変化と密接に関連性を持ちながら、ナショナリズムのありように変化を生みだしている点が注目に値する。 13 ) 米国での経験が、島政治に対する見方への変化、そして、米国内でのマイノリティとして経験から生まれたナショナル・アイデンティティの多様性を生み出しているのである。  例えば、ニューヨーク州立大学の Edna Acosta-Belen 教授は、米国本土に住むプエルトリコ人のアイデンティティが、米国本土で生まれ育った者が半数以上を占めるようになった現在では、エスニックやマイノリティとしてのものであることを含めて多様化していることを指摘し、そこにはイコール反米ということを意味せず、アメリカン・ドリームや民主主義、経済的豊かさの肯定を含む意識があることを指摘した。 14) それは、直接、プエルトリコの州制移行などの問題に言及するものではなく、また、独立主義を批判するものでも州制移行を主張するものでもない。しかしながら、米国本土のプエルトリコ人たちに、プエルトリコで常に問題とされる州か独立かといった選択とは異なる視点が存在することを印象づけた。それは、筆者が米国本土に居住する研究者や地域活動家の話を聞くときにときおり感じるものである。独立を主張するグループの話ですら、それは、プエルトリコの独立論争とは印象が異なる。米国本土に暮らす経験のなかから生まれたプエルトリコの政治的見解は、そこでの生活のなかでの特有のものに変質していくようである。米国本土で耳にするプエルトリコ独立の主張は、具体的な独立の道筋を語るというよりは、異国の地でのアイデンティティ確認としての手段として、或は、そのためのナショナリズム高揚のためのものとしての色彩が強い。プエルトリコでは経験しない差別を米国本土で経験するために、米国に在住するプエルトリコ人たちは、プエルトリコ以上にナショナリスティックになる、だからより先鋭な独立主義者が多くなる、とシカゴに住むプエルトリコ人が筆者に語ってくれたが、それはプエルトリコで耳にする、どのような政治的形態がプエルトリコの人々に豊かな暮らしをもたらすのか、といった論争とは別個のものである。  このように、米国本土に存在するナショナリズムはその立場の相違から、プエルトリコとは異なる見解が存在するが、フェミニストの間では、トランスナショナリズムという言葉を耳にした。前述したように、米国本土でラテン系女性たちと活動することの多いプエルトリコ人女性は、その経験からトランスナショナリズムのフェミニストの影響を強く受ける。その女性たちは、プエルトリコの植民地問題におけるナショナリズムに対して懐疑的な見方をすることに筆者は気づいた。ただし、プエルトリコ人コミュニティでは、ナショナル・アイデンティティを確立するために独立主義を鼓舞する、或は知識人としての踏み絵的存在として独立主義が存在したために、表立って批判することを避ける傾向が存在することも事実である。しかし、それらは今後、プエルトリコの言論界において既に開始されている国民国家概念の相対化に拍車をもたらしていくと思われる。また、さまざまな諸要因が複合的に作用し合う中で、プエルトリコ人コミュニティ地域に支配的であった独立主義指導の政治活動にも変化が生じ始めているのも事実である。 プエルトリコとは異なる環境に生きるプエルトリコ人女性は、その経験や、地域での生活改善の運動の過程で、そのナショナル・アイデンティティも現実に見合った多様なものに変容しており、それがこれまでのネイション、ステイト、アイデンティティの概念に新たな視点を提供していると言えよう。 4、プエルトリコにおけるフェミニズムの動向  一方、プエルトリコでは、米国本土とは異なる形で女性たちの経験がこれまでの既成政党政治に新たな視点を提供する結果を生んでいる。  プエルトリコでは、 50 年代以降のプエルトリコ社会の工業化社会・消費社会への移行とともに、女性の高学歴化と経済的自立が進み、女性たちを取り巻く環境が大きく変化した。この急激な経済成長とともに女性の社会進出が拡大し、女性運動の下地が徐々に形成されたのである。 70 年代に入り、アメリカのフェミニストのリーダーとして注目を浴びたグロリア・スタイナムのプエルトリコ訪問、政府の女性問題調査報告を契機とした大論争とフェミニスト・グループの活動が一挙に活発化した。この運動に刺激される形で既成政党も女性問題の解決に勢力的に取り組むようになっていった。 70 年代半ばには、活発化した女性たちの運動の勢力を集結しようとプエルトリコ女性連盟( Federacion de Mujeres Puertorriquenas )が結成された。しかし、この組織は期待された女性運動の連合体としての力を発揮することなく短命に終わってしまっている。内部に既成政党の党派主義が持ち込まれ、組織は混乱した。この時期、フェミニズム勢力に影響され、政党が女性差別撤廃を掲げ、社会のさまざまな面で性差別撤廃が政策として推進されたが、これとは対照的に、女性運動内部では、プエルトリコの政治的地位をめぐる対立が持ち込まれ、多くの組織が自己解体していったのである。つまり、この時期、フェミニズムが社会的には勢力を増しながら、プエルトリコの植民地問題によって、運動組織が壊滅していく、という経験をするのである。  しかし、この 70 年代の苦い経験のあと、フェミニストたちは、大きな政治組織ではなく、女性の健康を考えるグループ、ドメスティック・バイオレンスの被害者用シェルター経営などの個別課題を解決する小さな組織を再結成し始める。 80 年代後半には、それらのグループが協力し、ドメスティック・バイオレンスを犯罪とする法律制定に向けて、行政側の女性たちとも連帯し、大きな運動をつくり出し、 89 年に法制定にこぎつけいてる。個別課題に取り組むそれぞれのグループがひとつの利益課題に対して協力し、行政に圧力をかけたのである。連帯にあたっては、各グループが行政の人間、研究者らとともに連絡協議会を結成し、運動の展開を推進していった。この形態は、それぞれが暴力に反対する、労働者の問題を解決する、健康知識を広める、といった個別の課題に取り組むグループの連合体であったため、特定政党のイデオロギーが内部に持ち込まれ、政党に直接引き回される危険性を回避できたのである。個別問題に活動の目標を絞った各グループが一つの利益課題に対して共闘するという従来見られなかった運動スタイルを生み出した。このような動きは、植民地問題を中心に対立を続けていたそれまでの既成政党政治のあり方に変更をもたらした。もちろん、 70 年代の女性指導者たちが、党派主義をフェミニズム内部に持ち込まれるのを極力避けた、という点も見落としてはならない。  つまり、 プエルトリコでは、女性問題解決に向けて女性たちが連帯することを最優先し、既成の政党政治の在り方に対し距離を置くようになった。このような勢力が、植民地に関する政治的議論や政党政治の政策に大きく影響を与えた。  ビエケスの運動では、米国本土での経験が生み出したトランスナショナルの視点から、多くの本土在住のプエルトリコ人がこの運動に連動して連帯した。そして、プエルトリコの女性たちは政党と一線を画すフェミニズムの経験から、ビエケス住民の運動に連帯した。ビエケスの住民は州制移行派の女性リーダーが活躍しているが、その運動をプエルトリコの植民地問題の対立の混乱を招くことなく、幅広い支持のもとに米軍基地反対の運動を作り上げて、ビエケス米軍基地返還という結果を生み出した。これまでであったら、州制移行派の組織する運動に独立主義者が 5 、結論:ナショナリズムとプエルトリコの女性たちの歴史、経験の記憶 プエルトリコの女性たちは、米国本土とプエルトリコで、それぞれ異なる環境と条件のもとによりよい生活を求めて日々奮闘している。それぞれに異なる課題と取り組んでいるが、ともに、女性の問題を具体的に解決する道筋を模索する過程で、既存の政治的枠組みのなかでは限界があることを察知し、新たな取り組みによる解決策を模索している点で共通している。そこでの経験から導きだされた結果として、政治的思考の多様性を認めた上で活動目的に対して協力する姿勢が、ビエケスでの米軍基地反対闘争で、これまで対立を続けていた既成政党の枠を乗り越え、新たな連帯の運動を作り出すという結果を生んでいると言える。それは、これまでの政治的対立の思考からは生み出されず、女性たちが自分たちの問題と取り組む過程で学んだ知恵である。 米国本土では、他のマイノリティ住民との生活改善の取り組み、他のラテン系女性グループと一緒になった生活向上を目指した地域活動などに見られるマイノリティ女性間のトランスナショナルな連帯の経験。そのような経験のなかで形成されるナショナル・アイデンティティはプエルトリコの政治的地位に関する問題に関する見解もプエルトリコのものとは微妙に異なり、結果的にプエルトリコのナショナリズムに多様性をもたらしている。また、プエルトリコでは、女性たちは、女性問題の解決を求める女性たちのなかから党派主義の弊害を避けるために個別問題に活動の目標を絞った各グループが一つの利益課題に対して共闘するという従来見られなかった運動スタイルを生み出した。このような動きは、植民地問題を中心に対立を続けていたそれまでの既成政党政治のあり方に変更をもたらした。 これらの両地域での女性たちの経験が、ビエケス島米軍基地反対闘争においても女性たちが中心となり、既成政党政治の枠組みを乗り越えた新しい共闘スタイルを生み出す力となった。このビエケスの米軍基地をめぐる運動では、プエルトリコおよび米国本土のプエルトリコ人たちがこれまでにない基地反対闘争を組織し、最終的な基地撤去の結果を生んだのである。そこには、これまでの独立か州か、といった植民地問題をめぐる対立を乗り越えて連帯するという新たな動きを作り出した。それは、硬直化したこれまでの政治的発想では問題を解決できない、というこれまでの経験と、ナショナル・アイデンティティにも多様なものがあることを認識したことが、逆に成功を導きだした、と言える。  トリンやアンサルドゥーアのポストコロニアル・フェミニズムが、ときとして米国内のフェミニズムの分裂を招き、フェミニズムの力を衰退させるものと危惧されることがあるが、プエルトリコ女性たちの既存の政党政治のあり方へ統合されることを拒み、そして既存のナショナリズムへ統合されることを拒んだ新しい取り組みは、プエルトリコ社会を分化させ、プエルトリコ社会の統一を衰退させるものではなく、社会自体の硬直化を崩壊させより豊かな社会へと導いていることは明らかである。  冒頭、プエルトリコの詩人フリア・デ・ブルゴスの詩を引用した。フリアは独立主義者として政治的な詩も多く、また、女性としての強い意志を示す多くの作品があり、現在でもフェミニストグループのパンフなどに頻繁に引用されている。残念ながらこのようなフリアの愛の詩がフェミニズムのなかで引用されたのを筆者は未だ目にしていないが、フリアの愛の詩のなかには、男のニヒリズムや哲学を皮肉り、肉体を含めた生の輝く愛を男に訴える作品が多い。それは、フリアの愛の形が男に理解されていなかったことを意味する。その是非はともかくとして、ここにも、男の司る言語表現のなかでは言葉にならない思いを発した声が存在している。フリアは、二人の間をつなぐものは、言葉ではない振動と表現している。そして、頭で考えるのではなく自分のことを体全体で受け止めて、と訴えている。それは、相手の思考の回路のなかには存在し得ない自分を何としてでも受け入れさせたいという切ない願いでもあったかもしれない。それは、周縁にある者の思いで、中心にある者たちには理解できない声であるかもしれない。フリアは男との愛の葛藤をこの詩のなかに込めたのかも知れないが、周縁にある者のひとつの思いと受け止めることもでき、そしてそれが、相手側には理解されない訴えであるところが、周縁と中心との関係を比喩しているようでもあり、男の思考の限界を示唆しているようにもとれ興味深い。 注 1)•  de Burgos, Julia, El mar y tu, Puerto Rico Printing and Publishing Co., 1954, Puerto Rico, pp19-20, 拙訳 . 2) ミンハ、トリン・ T. 『女性・ネイティヴ・他者?ポストコロニアリズムとフェミニズム』 岩波書店 (1995/08 第一刷、 1999/1/14 第四刷 )p. 2 . 3) スピヴァク、 G.C. 『サバルタンは語ることができるか』 , 上村忠男(翻訳) みすずライブラリー みすず書房  1998 年第 1 刷  2003 年第 6 刷 参照(原文 Spivak,Gayatri Chakravorty “Can the Subaltern Speak?” in: Cary Nelson and Lawrence and Grossberg, eds., Marxism and the Interpretation of Culture, Urbana, University od Illinois Press, USA, 1988 )。 4 )ミンハ、 p.127. 5 )スペンダー、 D. 、訳れいのるず=秋葉かつえ『ことばは男が支配する : 言語と性差』 勁草書房  1987 年第一刷 1994 年第三刷  pp.157-158. (Spender, Dale, Man Made Language, New York University Press, First published in 1980, Second edition published in 1985, Reprinted 2001, USA). 6 )ミンハ、 p.186. 7 ) Ibid., p.243. 8 ) Ibid., pp.244-245. 9) Moraga, Cherria, Anzaldua, Gloria, Eds., This Bridge Called My Back: Writings Radical Women of Color , Kitchen Table: Women of Color Press, New York, USA, 1981, 1983. 10 )フックス、ベル (訳 清水久美) 『ブラックフェミニストの主張:周縁から中心へ』勁草書房  1997 年  p.1. 11) Ibid., p.25. 12 )詳しくは 拙著「移民、政治、女性: 米国本土におけるプエルトリコ人移民女性と政治」『岩手県立大学社会福祉学部紀要』第 4 巻第 2 号 岩手県立大学社会福祉学部  2002 年 3 月  pp.9-18 参照 . 13 )拙著「アメリカ合衆国におけるプエルトリコ系移民社会の歴史的推移とアイデンティティの変容」『岩手県立大学社会福祉学部紀要』第 3 巻第 2 号 岩手県立大学社会福祉学部  2001 年 3 月  pp.23-32. 「エスニック・カルチャーの表象形態としての音楽:ニューヨークとヒスパニック」『岩手県立大学社会福祉学部紀要』第 4 巻第 1 号 岩手県立大学社会福祉学部  2001 年 9 月  pp.11-18. ”Transformation of National Identity Living in the US: the Case Study of the Puerto Rican Women in Chicago” 『岩手県立大学社会福祉学部紀要』第 5 巻第 2 号 岩手県立大学社会福祉学部 2003 年 3 月 pp.27 -34 参照 .

14 ) The Center for Latino, Latin American, and Caribbean Studies at the University at Albany 、 Director Edna Acosta-Belen とのインタビュー録画資料、 2001 年 9 月、 The Center for Latino, Latin American, and Caribbean Studies at the University at Albany にて録画、筆者所有 .