[研究業績へ戻る]

プエルトリコにおけるドメステック・バイオレンスとフェミニズム

Feminism and Domestic Violence in Puerto Rico

志柿禎子

SHIGAKI, Yoshiko

プエルトリコにおけるドメステック・バイオレンスとフェミニズム

はじめに

 筆者は1998年の夏に、プエルトリコの女性たちの現状とフェミニズムの動向を把握するために現地調査を実施した。その目的は特に、70年代以降に出現した新しい女性運動によって女性たちを取り巻く環境がどのように変化したか、またプエルトリコ政府が女性問題に対してどのような政策を実施しているかを調査することにあった。

 その結果、50年代以降のプエルトリコ社会の工業化社会・消費社会への移行とともに、女性の高学歴化と経済的自立が拡大し、女性たちを取り巻く環境が大きく変化したこと、また、この急速な経済成長過程で生じた女性の社会進出のなかから、女性たちの性差別に反対する運動が生まれ、そして、この女性たちの運動に影響されるかたちで公的機関や政府筋も性差別をなくすための女性政策を実施してきたことが明らかになった。

 しかし、調査の過程で、これらの性差別に反対する運動や公的機関の女性政策のなかでも、女性への暴力に反対する取り組みが女性運動のなかで重要な意味を持っていることが明らかになってきた。女性問題の研究者の多くは、女性運動の重要な到達点として、女性への暴力を犯罪とした法律制定に向けた運動を高く評価し、女性団体の多くがドメスティック・バイオレンスを重要な女性問題として認識しており、行政側の女性政策もこの問題に大きな比重を割いていた。女性たちがこの問題で強く連帯してる様子は、今世紀初頭に女性解放運動が女性参政権運動に集約していったことを思い起こさせる。それほど、このドメスティック・バイオレンスという問題はフェミニストたちの間で女性問題の象徴的課題として受け止められていた。そのためか、インタビュー調査では、一部の研究者から、「暴力問題以外にも未解決の女性問題が山積みしているのに、現在の女性運動家たちときたら、口を開けば、ドメスティック・バイオレンスのことばかりだ」という批判を耳にすることもあった。

 確かに、プエルトリコの女性団体の動向を調査しながら、女性運動が、ドメスティック・バイオレンスの問題一色になっている、という印象を筆者もぬぐえなかった。しかし、そうだとすれば、なぜ、多くのフェミニストたちは、ドメスティック・バイオレンスの問題に焦点を絞っていくようになったのであろうか。

 本稿では、現地で収集したインタビュー記録と統計資料をもとに、プエルトリコの女性運動がどのような経過でドメスティック・バイオレンスに関わっていくようになったのかを検証し、上記の問いを解明する。

1,シェルター「フリア・デ・ブルゴスの家」

 まず、プエルトリコで最初にドメスティック・バイオレンスへ取り組んだ団体について考察する。

 プエルトリコで、虐待を受けている女性のためのシェルター(緊急避難所)の第一号、「フリア・デ・ブルゴスの家(Casa Protegida Julia de Burgos)」が設立されたのは、1979年のことである(1)。このシェルターは、あるグループが、家庭内暴力を受けていた若い女性とその子供たちを救おうと試みたものの、結局は何もできずに見捨てるしかなかったという苦い経験をし、その体験のなかから生まれた。暴力を受けていたその女性と、虐待の犠牲になっているそのほかの女性や子供たちを何とか救いたいという彼らの熱意によって、「フリア・デ・ブルゴスの家」が誕生した。そして、このシェルターの誕生によって、ドメスティック・バイオレンスという問題の存在が一般に認識されることになり、保護された女性と子供たちの記録が、統計数字としてまとめられ公表されるようになった。この施設は、その後のプエルトリコにおけるドメスティック・バイオレンスの犠牲者に対する援助システムのモデルとなっていった。

 1980年に「フリア・デ・ブルゴスの家」の施設が始動した時に、シェルターに駆け込んだのは二人の女性とその子供たちであった。シェルターは、ボランティアと、寄付によって支えられていた。しかし、その態勢が、助けを求めにくる女性たちの増加に追いつかなくなったため、1981年に専任の所長を置き、翌年に専任職員を一人雇用し、1983年には政府の補助金を受けるようになった。1985年には、施設の改造が行われ、12名の女性とその子供たちを受け入れるようになった。同時に、入居者以外の虐待の犠牲者への対応も開始し、また、子供の犠牲者のための特別プログラムも開始した。このようにして、「フリア・デ・ブルゴスの家」は開所以来、多くの女性たちを暴力から保護し、ドメスティック・バイオレンスに病める家庭に援助の手を差し伸べてきた。

 「フリア・デ・ブルゴスの家」のパンフレットによれば、1991-1992年にこの施設が対応した女性の数は824名で、子供の数は284名である。そのうち130名の女性がシェルターに入居している。ドメスティック・バイオレンスの犠牲になっている女性の相談に応じ、必要があればシェルターに入居させ、必要なケアを提供し、子供たちのためのプログラムを用意している。そのほかにも、コミュニティや学校に出向いてドメスティック・バイオレンスに関する啓蒙活動を実施する。そして、これらの活動は、所長、運営担当者、コーディネーター、相談員、心理学者、児童教育の教師らがそれぞれ一名と、六名の施設従業員の運営態勢で支えられている。

 1998年に筆者が現地で実施した「フリア・デ・ブルゴスの家」の所長エバンヘリスタ・コロン(Evangelista Colón) とのインタビューによれば、98年の時点で施設は17名の女性と30名程度の子供を受け入れるスペースを持ち、月に20名ほどが相談に施設を訪れ、また、電話による相談は月に150名ほどにのぼるとのことであった。また、子供を連れて施設にやってくる女性たちは、周りの理解を得ることができずに、孤独な状態であるので、支援の気持ちと、信頼の気持ちと愛情をもって接することを基本にしているとのことであった。事態が深刻な場合は女性は施設に入居し、ドメスティック・バイオレンスに対応した専門のプログラムに参加し、最長三ヶ月まで滞在できる。その間に、施設のほうで、新しい住居を探し、希望者にはその後、最長二年間の就職プロジェクトに参加させる。そして、企業の協力などを得て仕事先もあっせんするとのことであった。入居者の大半は夫や恋人である加害者との関係を断つことを決心し、新しく人生をやり直すとのことで、施設が提供しているプログラムは女性たちを救うのに、おおむね効果を発揮しているとの説明であった。そのほか、警察とも連携し、警察署に助けを求めるにくる女性たちをシェルターに保護し、女性の生活再建の援助を行っているとのことであった。そして、虐待をくぐり抜ける女性たちは、経験に基づく豊富な知識を持ち、人間として素晴らしい才能を示してくれるということもエバンヘリスタ・コロン所長は付け加えた。

 施設に送られた元入居者からのシェルターへの感謝の気持ちが綴られている手紙の一部を見せてもらうことができたのでその一部を引用する。

「自信を喪失し、おびえた気持ちで入所しましたが、出ていくときには不安は消え、自分自身の価値と自分の生きる道を取り戻すことができました。自分の尊厳のために、自分を大切にするために負けてはいけない、と考えられるようになりました。(Llegué con incertidumbre y salí con dirección, fue a buscar protección y me sentí protegida, llegué insegura y salí con la seguridad de que hay una memoria mejor, con una única dirección de luchar por mi y mi propio respeto, que valgo, porque el don de gente no se mide en valor sino en existencia.)(2)

人としての尊厳を否定され、自分自身の価値を見失った女性が、暴力から逃れた場所で自分を取り戻していく姿がこの手紙によく表われていよう。

 以上簡単にみてきたように、小さなグループから始まった活動が、現在では、「フリア・デ・ブルゴスの家」としてドメスティック・バイオレンスに取り組む草分け的団体として社会的な信用を得、また、行政と協力しながら多くの女性を救う団体にまでなっている。この例は、単に、ドメスティック・バイオレンスに対する数名のボランティア運動が大きく成長した、という成功物語に終わるものではない。政府の条例によって、毎年、運営資金が保障されている団体にまで変化した例としても重要である。

 それは、ドメスティック・バイオレンスという問題がいったん人々の間で認知されると、この問題がプエルトリコの深刻な社会問題であり、そして女性問題でもある、ということが広く社会で認識されていったことを示している。そのような状況が生じれば、政府としてもこの問題を放置できないのは当然である。実際、この問題に対する取り組みは瞬く間に人々の支持を得、そして、多くの女性団体がこれに続いていった。

2,プエルトリコの山間部でのドメスティック・バイオレンスへの取り組み

 次に、島の内部の山間部に位置する町、アイボニートの女性団体、「女性たちの思索の家(Casa Pensamiento de Mujer del Centro, Inc.)」の例を考察する。

 この団体は、最初は女性問題全般に取り組むグループとして出発していったが、やがて、女性の抱える重要な問題のひとつとしてドメスティック・バイオレンスに関わっていくようになった。以下に、この団体に設立当初から活動に参加し、カウンセラーを担当しているイルダ・リベラ・ペレス(Hilda L. Rivera Pérez)に筆者が1998820日に現地で行ったインタビューの内容を要約する。

 イルダ・リベラ・ペレスによれば、この団体は、都市部でない地域で、女性たちの問題を女性たちの手によって解決しようとした団体としては最初の団体、ということであった。最初はアイボニートの友人同士である女性7名が集まり、女性としての立場や政治、宗教のことなどを語り合った。1980年のことである。じきに、さまざまなプロジェクトを手がけるようになった。例えば、自分たちのからだを知り、女性に押し付けられた性的タブーから自由になるフェミニストたちのアクティビティなどにも参加している。やがて、自分たちだけではなく、アイボニートの人たちと自分たちの活動を共有しようということになり、中絶に関する講演会や映画会などを企画するようになった。

 そのうち、都市部で仕事をしながらプエルトリコ大学の授業を受けていた仲間の一人が、コミュニティに関する授業でプロジェクトの提案の仕方という課題を与えられた。この女性はこの機会を利用し、当時の自分たちの活動をプロジェクト案にすることを仲間たちに持ちかけた。実際、女性問題に関する活動は都市部に集中していて、都市部でない彼女たちは、講演を聞くにしろ、情報を得るにしてもすべて都市部まで出かけていかなければならなかった。そこで、自分たちの町に女性問題に取り組む女性のための組織を作るとしたら、何が必要か、どういうシステムを作り上げるべきかというアイデアを仲間たちで持寄り検討を重ねた。町の女性たちに関するデータを集め、町の女性たちが何を必要としているか聞きとり調査を行った。その結果、暴力に関することや女性としての自分自身の見直しなどというテーマが上がってきた。彼女たちは、それらをまとめてプロジェクト案を完成させた。たまたま、その頃、ノルウェーに本部のある国際共同組合の基金がプロジェクトを公募していたので、できあがった案を応募したところ、運良く採用された。そこでその基金を元に、彼女たちはプロジェクトを開始することにした。

 開始するにあたっては、まず、女性たちが、自分の思ってることを話せる場所を確保することから始めた。同時に、女性たちの間で、最も問題になってるのは暴力の問題であることを認識していたため、その問題に比重を置くことにした。いったん組織を運営し始めると、多くの女性たちが瞬く間に集まってきた。イルダ・リベラ・ペレスは当時のことを次のように語った。

  「場所を探したの、女性たちのスペースを。自分たちの場所があるって誰の目からも分かるような。自分たちの抱える問題を、安心して隠さず話せる場所。困っていることを助けあうの。特にドメスティック・バイオレンスに関する資料を集めたわ。この問題はまだよく認識されていなかったし。いったん、自分たちが相談に行く場所ができたって分かったら、女性たちはたくさんやってきたの。やっと見つけたわ、涙を流せる場所を、話すことができる場所、変な目で見られないし、責められないし、あれしろこれしろって言われないで前向きに生きることを手伝ってもらえるところが出来たって。(... ese lugar, provisualizamos como espacio para la mujer, un espacio donde la mujer pudiera ir a ventirar hablando de su problema, que se asegurará un ambiente de confidencialidad que se sintiera libre de expresar y la medida de lo posible. Pues, nosotras buscaremos la ayuda necesaria para la situación que ella tuviera. Obviamente decidimos trabajar con la violencia doméstica para este aquí Aibonito apenas conoce la violencia doméstica. Nosotras empezamos a sacar la información a flote. Cuando las mujeres se entera de que hay un lugar donde puede ir a hablar, donde ya puede ir a buscar la ayuda, entonces ellas vinieron como así... Por fin hay sitio donde yo puedo llorar, donde yo puedo ir a hablar, donde no me van a juzgar, donde no me van a condenar, donde no me van a decir que tengo que hacer, donde me van a ayudar, para hacer adelante. )」

 しかし、施設を開始した時点から、その態勢では女性たちの需要に追いつかないことが目に見えていた。そのため、彼女たちは、町の行政側にプロジェクトとして施設運営案を提案し、幸い快く協力の承諾を得たそうである。それ以降、行政側の援助を受け、また、そのほかにも多くの人の援助を受け組織を運営しているとのことであった。

 この団体、「女性の思索の家」のパンフレットによれば、1990年の開所以来1998年まで、女性問題に関する教育活動を100回以上実施し、その教育活動に参加した人は8445人におよび、事務所に相談に訪れた女性の数は1994人で、そのうち、80%がドメスティック・バイオレンスの問題で相談に来ていると記されてある。

 イルダ・リベラ・ペレスの話からも分かるように、この組織は女性たちの問題を解決していくための女性組織である。従って、決してドメスティック・バイオレンスの問題を専門に扱う団体というわけではない。ドメスティック・バイオレンスに専門に対応する「フリア・デ・ブルゴスの家」とは異なり、草の根で活動する女性たちが、女性問題の重要な課題として自然にドメスティック・バイオレンスに取り組むようになったということである。それだけこの問題が女性たちの生活に重くのしかかっている、ということである。

3,サン・フアン市女性局のドメスティック・バイオレンスへの取り組み

 ここで、行政側のドメスティック・バイオレンスの取り組み例を考察するために、1998819日に、プエルトリコの首都サン・フアン市の女性局の副ディレクター、デニセ・マルケス・モリナ(Directora Aasociada de la Oficina Asuntos de la Mujer, Municipio San Juan, Denise Marquez Molina)と実施したインタビューの内容を以下にまとめる。 

 サン・フアン市女性局の職員体制は25人で、うち、心理学者2名、ソーシャルワーカー2名、カウンセラー2名、常勤弁護士3名、パートタイムの弁護士が2名である。1984-85年のサン・フアン市の条例によって首都圏の女性の経済、社会的地位の改善を促進する部局として設置された。

 プエルトリコでは、住民の約6割が米国が定める貧困層に相当する。女性の貧困の問題も深刻で、全世帯の四分の一が女性世帯主であり、そのため貧しい生活を余儀なくされている女性が多い。特に、人口集中の進む首都サン・フアン市は女性の貧困率が高く、市長が女性局の設置に積極的で、女性の貧困の問題解決を目的に女性局を設置している。以下にデニセ・マルケス・モリナのインタビューの内容の一部を引用する。

「この女性局は市の条例によって設置されました。女性の地位を高め、差別をなくし、特に女性の人権を守り、社会経済的不利益を被らないようにするためです。特にここでは、婚姻していない母親や離婚した女性が一人で子供を育てているため、生活に困っている女性が多いのです。サン・フアン市には非常に貧しい女性世帯主がたくさんいます。

 ・・・何分、首都ですから、人口集中度も高いものですから、当然、そういう問題が生じるのです。ですから、女性に不利な差別をなくすこと、それに、女性の貧困の問題を解決するために女性局が設置されました。ですから、女性の社会経済的に不利な状況を是正するために、住居や雇用や学習の機会など、あらゆる援助を提供します。そうして、女性たちが男性と同等の地位を得られるように支援するのです。そのために女性局があるのです。

 ・・・今言ったような問題を解決するために、予算がついたわけですが、徐々に、ドメスティック・バイオレンスの問題がプエルトリコ社会での深刻な問題になっていたものですから、ここの仕事もこの問題に関わる比重が大きくなっていったのです。(... basicamente se crea por una ordenanza municipal que establece, se crea la oficina de alcalde de entonces para ayudar a las mujeres en su desarrollo para lograr eliminar el discrimen que ya se ve que existiera en la sociedad y para adelantar, sobre todo lo que tenga que ver con el derecho de la mujer, eliminar la situación de la mujer de la desventaja socio-económica. Porque aquí, nosotros tenemos un proporción bien grande de mujeres, jefa de la familia, mujeres que son madres solteras o mujeres solas que se han divorciado o que nada que se han separado de una relación tienen hijos y están bajo nivel de pobleza. A nivel de municipal San Juan hay una taza bien alta de mujer jefa de familia con un nivel de pobleza extremo.

   ... porque aquí capital se concentra la gran parte de población total de la isla y entonces eso uno de las razones que también crean esta oficina además de promover de este el desarrollo de las mujeres eliminar toda la situación de discrimen en que contra la mujer. Pues eso incluye trabajar con su situación desventaja socio-económica con proveerle toda la posibilidad de cual alternativa a la mujer a nivel de vivienda, de empleo, de estudios, de todo el apoyo que necesita en la sociedad para poder integrarse en igualidad de condición que hombre. Nosotros, pues, dentro de esta ordenanza que crearon la oficina...

   ... en ese momento, pues, se le asignó un dinero para atender la población femenina de San Juan, ¿verdad?, basicamente con esta necesidad de estos problemas que yo presento. Pero es que en el camino, pues, han ido creciendo estos problemas que un momento se ha dado se veía pequeñito cada vez van arropando la sociedad, la violencia doméstica, que uno de los problemas más serios que nosotros tenemos aquí en Puerto Rico. Pues es como que uno de los problemas más complejos y más grandes que requiere nuestra atención aquí en la oficina a nivel de trabajo.)」

 デニセ・マルケス・モリナは女性局についてこのように説明をし、その後、彼女たちが実施している性差別をなくす教育活動、ドメスティック・バイオレンスの被害者に対する女性へのカウンセリング活動や電話相談、法的処置の支援などの取り組みについて語った。また、現在ではこの問題のほかに、保育所の造設プランの作成などにも取り組んでいるとのことであった。

 このように、行政側であるサン・フアン市の女性局の取り組みも、前節の女性団体と同じような傾向が示されている。つまり、サン・フアン市女性局は、女性が差別されている状況を改善するため、また、特に女性の貧困状態を改善するために設置された部局であるのだが、この女性局も、「女性の思索の家」と同様、女性差別の重要な課題としてドメスティック・バイオレンスへ大きく比重をかけていくことになったのである。女性に対する暴力は男女間に存在する権力、支配という構造的な差別の問題に根づくものである以上、行政側が女性差別の問題に対応しようとすれば、必然的にこの問題に向かい合わざるを得なかったということである。

4,政府の対応

 それでは、政府のドメスティック・バイオレンスに対する取り組みは、どうなっているのであろうか。以下に概略する。

 70年に入り、プエルトリコでは、女性の社会進出を背景にしてフェミニズムが活発化した。当時、最初に誕生したフェミニストのグループ、MIA(Mujer Intégrate Ahora)は、新しい家族法の成立に向けて議会に精力的に働きかけた。そして、この時代のフェミニストたちの運動に影響される形で政党も女性差別に向けた取り組みを政策として掲げるようになった。民主民衆党(Partido Popular Democrático)は選挙戦で女性局の設置を公約として掲げ、72年の選挙戦勝利後、73年には政府は政府内に女性局を設置し、教育の場における性差別調査、女性への暴力、セクシャル・ハラスメントへの対応に一定の実績をあげた。また、75年にメキシコで開催された国連主催による国際女性第一回世界会議を受けて、プエルトリコでも77年に女性会議が開催された。こうしてプエルトリコ内部の事情と国際的趨勢の双方から、公的機関や政府筋が女性問題に取り組まざるを得ない状況が醸成されていった。76年には夫婦共同による財産管理などに関する一連の家族法の改正も実施し、女性の権利に関する法律を整備した(3)。これらの法整備のなかで、ドメスティック・バイオレンスに直接に関係する法律としては以下のものがあげられる(4)

1973年 57号法

 女性の権利改善委員会(Comisión para el Mejoramiento de los Derechos de la Mujer)を設置した。

1982年 両院合同決議26

 プエルトリコ政府が女性への暴力の問題を認識し、男性から暴力を受けた女性への保護施設である「フリア・デ・ブルゴスの家」への予算を決定した。

1987年 18号法

 1125日を女性への暴力に反対する日と定めた。

1989年 54号法

 ドメスティック・バイオレンスを犯罪と規定した。

 このように、政府も、一連の女性政策の流れのなかで、ドメスティック・バイオレンスを重要な課題と捉え、積極的な政策を展開した。もちろん、政府の動向にはフェミニストたちの政府への働きかけが大きく作用した。特に1989年の54号法に関しては、フェミニストたちがこれまでに経験したことがないほどの大きな女性運動を作り出し、女性たちが行政側と直接に交渉し、議論を重ねて法律を成立させている。プエルトリコのフェミニストたちは、政治的圧力団体として大きな実績をあげたと言える。

 つまり、70年代以降の女性運動の盛り上がりが、政党の女性政策に影響をあたえ、政府の女性政策を後押しし、女性を取り巻く環境を大きく変えたのである。そのなかでも、プエルトリコの女性たちが、ドメスティック・バイオレンスを犯罪と規定する法律を制定させたことは、プエルトリコの女性運動の歴史のなかでも重要な意味を持ち、またラテンアメリカ・カリブ地域のなかでも最も早くこの種の法律を成立させたという点でも特筆すべき出来事であった。

5,プエルトリコにおけるドメスティック・バイオレンスの現状

 以上みてきたように、民間の女性団体、行政および政府もドメスティック・バイオレンスを深刻な社会問題として真摯に対応している。それでは、プエルトリコのドメスティック・バイオレンスの実情はどのようなものであろうか。以下に概略する。

 ドメスティック・バイオレンスにより死亡した女性の数は、1981-82 46名、1983 26名、1984 22名である。また、年間最低見積って6000人の女性がドメスティック・バイオレンスの被害にあってるとされている(5)

 また、プエルトリコ女性団体連絡協議会のパンフレット(6)には、1988年〜1997年の10年間に337名の女性が死亡したというプエルトリコ警察の数字があげられている。ほぼ10日に一人の割合で女性が男性のパートナーに殺されていることになる。プエルトリコ全体での殺人による死者の数は、1990年から1993年までの4年間で総数3227人であるから(7)、一年当たり約807人、10日間でみると約22人が殺人によって死亡している。従って、この22人のうちの1人が男性のパートナーから殺された女性のケースということになる。

 この数字をどう解釈するかは難しいところであるが、少なくとも、殺人発生率の高さがプエルトリコ社会の深刻な問題となっていることは疑いがない。地元の新聞が行う世論調査でも、治安の問題は人々の最大関心事にあがっている。このように暴力がプエルトリコ社会の深刻な問題であるという共通の認識が存在するので、いったん、ドメスティック・バイオレンスという形での女性への暴力の存在が明らかになると、人々は女性への虐待が簡単に殺人事件に結びつくことを理解する。従って、ドメスティック・バイオレンスに反対する運動は、思想の違いを問わず支持を得やすい。筆者が現地で「キリスト教会の男尊女卑の解釈に反対する女性たちの会(Commadres)」にインタビューした際にも、話がドメスティック・バイオレンスにおよぶと、「(離婚に反対する)神父ですら、ドメスティック・バイオレンスの犠牲者を夫から逃がすよう取り計らってくれる」ほど、この問題は世論の支持を受けている、と語っていた。

 このほか、殺人に至らないまでも、上述のプエルトリコ女性団体連絡協議会のパンフレットによれば、1990-1996年の間に、プエルトリコ警察に116,075件のドメスティック・バイオレンスの事件が記録され、うち、14,552件が保護処置を受けている。プエルトリコは人口約350万人の島であるから、人口に対する発生率は極めて高く、問題は深刻である。

 また、ドメスティック・バイオレンスを受けた女性が、どのようなダメージを受けるのかに関しては、最近になってさまざまな調査結果が出されるようになってきている。ここでは、「フリア・デ・ブルゴスの家」から提供を受けたドメスティック・バイオレンスに関する調査結果を参考資料として提示する。調査は1994年にプエルトリコで実施されたものである。

調査対象者:ドメスティック・バイオレンスを生き延びた女性74

年齢20-56歳、平均年齢34

高校までの教育を受けた者 80%、

大学の教育を受けた者20

年収は4,000ドル以下の者から40,000ドル

全員、サン・フアン市女性局もしくは「フリア・デ・ブルゴスの家」の法的保護を受けていた

調査結果:

 精神的虐待を受けていたと答えた者 100%

 肉体的虐待を受けていたと答えた者 66%

 性的虐待を受けていたと答えた者 43%

 経済的虐待を受けていたと答えた者 42%

 

 子供時代に虐待の犠牲者であったと答えた者 43%

 子供時代に虐待の目撃者であったと答えた者 61%

 この子供時代の虐待について加害者が実の父親であったと答えた者 61%

 この子供時代の虐待について加害者が継父であったと答えた者 11%

 この子供時代の虐待について被害者が母親であったと答えた者 76%

   虐待されて持った感情については、怒り、惨めさ、恐怖、悲痛さ、無力感などがあげられ、特に恐怖心については90%の女性がその感情として回答している。同時に、99%の女性が、自分自身と子供の健康が危険にされされ感情的に不安定になると答えている(8)

 以上、この調査結果を参考にするだけでも、ドメスティック・バイオレンスの犠牲者の状態は深刻なものであることが分かる。そして、暴力社会という問題が、女性たちの生活に重くのしかかっているのが伝わってくる。もちろん、暴力の犠牲者は男女を問わず悲惨である。しかし、ドメスティック・バイオレンスという問題に限っては、その犠牲者の多くが女性であるという事実から、やはり社会に深く根をおろす性的・経済的不平等のひとつの結果として対応策を取っていく必要がある。

結論

 これまでの考察から、70年代以降、女性の社会進出に伴い、女性運動が活発化し、それが、80年代後半にドメスティック・バイオレンスの問題解決に向けた取り組みに集約されていった経緯が明らかになった。そして、プエルトリコ社会に暴力という問題が大きく影を落としており、ドメスティック・バイオレンスが女性の問題として深刻で緊急性を要したがために、ドメスティック・バイオレンスの犠牲者を救おうとした支援活動は瞬く間に規模を拡大し、女性差別の問題を解決しようと活動を始めた団体は、ほどなく、この問題に対応していくようになったことが分かった。また、本稿では具体的に触れなかったが、女性の健康問題や中絶の権利に取り組むさまざまな女性団体や大学の女性研究センターの研究者たちも、自分たちが関わる課題に取り組む一方で、ドメスティック・バイオレンスの問題にも連帯していった。

 それは、女性への暴力は男性の力の誇示であり、そして社会が期待する家庭内における男女役割の延長線上の問題であることを、フェミニストたちは容易に理解したからである。特に暴力ということに関してはプエルトリコ社会では解決が望まれる重要課題であり、緊急性も高いため、プエルトリコではこの問題をめぐって女性団体が容易に連帯できたのである。また、社会的にも支持を広く集めやすかったため、政府や行政側も女性たちの運動に刺激される形で対応策を打ち出していった。

 ところで、本稿の冒頭で提示した、なぜドメスティック・バイオレンスへ女性運動が集中していったかという問題に戻るならば、

(1)この問題が緊急性の高い暴力というプエルトリコの社会的問題であったこと、

(2)男女役割の延長にある問題であり、潜在的に多くの女性が助けを必要としていた問題であったこと、

(3)従って社会的支持を受けながら、多くの女性組織が思想の違いを超えて、また、以前から女性運動の問題として指摘されていた党派主義の問題を乗り越えて一致協力できる課題であった、

という点が重要な要因として挙げられる。従って、フェミニストたちの運動が活発化し女性差別の問題が、社会全体の問題として認識されるようになるにともなって、ドメスティック・バイオレンスの問題も、解決を急ぐ重要な性差別の問題として女性運動のなかで浮上してきたと言える。

 但し、この他にも、米国の女性団体によるドメスティック・バイオレンスへの取り組みや、この問題に対処する国際機関の増加といった国際的な動向も、プエルトリコの女性運動のドメスティック・バイオレンスへの取り組みに大きく影響していることが指摘されている。これらの要因については稿を改めて考察する。

*本研究は財団法人岩手県学術研究振興財団の平成10年度助成金交付研究、「プエルトリコ女性の状況と社会的地位」により実施された。

(1)フリア・デ・ブルゴス(Julia de Burgos 1914-1953)はプエルトリコを代表する女性詩人。詩人として成功したが、恋人に捨てられ、失望のうちに、ニューヨークのヒスパニック・ハーレムで行き倒れになり、死亡した。「フリア・デ・ブルゴスの家」の所長エバンヘリスタ・コロンによれば、フリア・デ・ブルゴスはプエルトリコを代表する詩人であり、フェミニストであり、そして男性から虐待を受けた女性の一人でもあるので、彼女の名前を施設の名に冠したということであった。また、筆者が施設のなかを見学した際にも、施設の食堂には壁一面に大きなフリア・デ・ブルゴスの肖像が描かれていて印象的であった。

(2)フリア・デ・ブルゴスの家から筆者に提供された元入居者からの手紙より。

(3) 詳しくは拙著「女性の権利に関する法制整備と女性運動:1970年代以降のプエルトリコにおける女性政策とフェミニズム」『言語と文化』第2号、岩手県立大学言語文化教育センター、2000年(印刷中)参照.

(4)Margarita Ostolaza Bey, Política sexual en Puerto Rico, ediciones huracán, P.R., 1989, pp.170-184より筆者作成.

(5)プエルトリコ大学ウマカオキャンパス女性委員会ホームページ: http://cuhwww.upr.clu.edu/mujer/doc_int1.htm

(6)Coordinadora Paz Para la Mujer, Mujeres contra la violencia doméstica: proyecto coalición puertorriqueña contra la violencia doméstica, Puerto Rico, 1998, p.1.

(7)志柿光浩・志柿禎子「5章 現代プエルトリコの人と社会」中川文雄・三田千代子編『ラテンアメリカ人と社会』新評論社、1995年、p.121.

(8)Valle Ferrer, Diana, "Violencia contra la mujer : efectos, estrategias y consecuencias", Conferencia presentada ante la Trigésima Convención Anual de la Asociación Médica de Puerto Rico, Sección de Psiquiatría. (1994), San Jun, Puerto Rico, pp.14-17.

参考文献

・志柿禎子「女性の権利に関する法制整備と女性運動:1970年代以降のプエルトリコにおける女性政策とフェミニズム」『言語と文化』第2号、岩手県立大学言語文化教育センター、2000年(印刷中).

・志柿禎子「14章 プエルトリコの新しい社会と女性」『ラテンアメリカ 新しい社会と女性』新評論、2000年(印刷中).

・志柿光浩・志柿禎子「5章 現代プエルトリコの人と社会」中川文雄・三田千代子編『ラテンアメリカ人と社会』新評論社、1995年、pp.107-126.

・梶山寿子 『女を殴る男たち:ドメスティック・バイオレンスは犯罪である』文藝春秋、1999.

・ミランダ・デービス編、『世界の女性と暴力』明石書店、1998.

・国際女性の地位協会、『国際女性 '92(特集バイオレンスと性)』、年報第6号、尚学社、1992.

・国際連合『世界の女性1995:その実態と統計』日本統計協会、1995.

Ley 54 Ago. /15/1989, Puereto Rico, pp.1-27.

Coordinadora Paz Para la Mujer, Mujeres contra la violencia doméstica: proyecto coalición puertorriqueña contra la violencia doméstica, Puerto Rico, 1998.

Valle Ferrer, Diana, Albite Vélez, Lillian, "Culutura, economía y política desarrollo; una dialéctica de vilencia contra la mujer", Ponecia presentada en el Congreso Interdisciplinario sobre Pobleza y Desarrollo celebrado en Santo Domingo, República Dominicana, el 1ro de agosto de 1994.

Silva Bonilla, Ruth, et al., Hay amores que matan: la violencia contra las mujeres en la vida conyugal, Ediciones Huracán, Inc., Puerto Rico, 1990.

Rivera Ramos, Alba Nydia, "Efectos Psicológicos de la violencia doméstica", Rivera Ramos, Ed., Alba Nydia, La mujer puertorriqueña: investigaciones psico-social, Editorial Edil, Puerto Rico., 1991, pp.193-201.

Knudson, Doris, "Que nadie se entere: la esposa maltratada en Puerto Rico", Azize Vargas, Yamila, Ed., La mujer en Puerto Rico,  Ediciones huracán, Puerto Rico, 1987, pp.139-154.

Margarita Ostolaza Bey, Política sexual en Puerto Rico, ediciones huracán, P.R., 1989.

Alice Colón-Warren, "Investigación y acción feminista en el Puerto Rico contemporáneo: notas desde un punto en su intersección y movimiento temático", Caribbean Studies, Vol. 28, No. 1, January - June 1995, Instituto de Estudios del Caribe Facultad de Ciencias Sociales Univ. de Puerto Rico, Puerto Rico , pp.163-196.

Yamila Azize-Vargaz, "At the Crossroads: Colonialism and Feminism in Puerto Rico", Barbara J. Nelson and Najma Chowdhury, Ed., Women and Politics Worldwide, Yale University Press, USA, 1994, pp.625-638.

Alice Colón, Ed., Género y mujeres puertorriqueñas; tercer encuentro de investigadoras, Centro de investigaciones sociales Universidad de Puerto Rico, Puerto Rico, 1994.

Morrison, Andrew R., Loreto Biehl, María, Eds., Too Close to Home: Domestic Violence in the Americas, Inter-American Development Bank,USA, 1999.

United Nations, The World's Women 1995: Trends and Statistics, United Nations publication, New York, 1995.