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ラテンアメリカにおける日系人移民について

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1.移民の始まり

ラテンアメリカへ向けての日本人移民は今から100年以上前、1887年にアルゼンチン、1892年のメキシコ移民などで開始された。大量移民が始まったのは1899年のペルー移民からでその後はメキシコへの大量移民が盛んになった。しかし、メキシコに移住した日本人や、それだけでなくペルーに移住した日本人もメキシコに移った後、アメリカに密入国するようになった。この事態を重く見たアメリカは1907年に日本と締結した協定の中で「日本はアメリカと国境を接する国には移民を送り出さない」という確約を取り付け、それによって多くの日本人を送り出したメキシコへの移民は終了することになった。これによって、メキシコ、アメリカへの移民が困難になった日本政府はブラジルへの移民を積極的に進めていった。1908年にはブラジルへの移民が開始され、明治のはじめから第二次世界大戦前までに24万5千人もの日本人がラテンアメリカへと移民した。ちなみに、国際協力事業団が毎年発行している「海外移住統計」によると、現在、海外に永住している日本人移住者と日系人の全体の約半分がラテンアメリカ地域に住んでいる。そのうちの約80%はブラジルで生活していて、2位以下はアルゼンチン、パラグアイ、ペルー、ボリビアの順になっている。しかし、日系人と称される日本人移住者の子孫の数を数字で示すことはほとんど不可能に近いのでこの数字は1つの目安でしかない。なぜなら、既に子孫は2,3,4、5世となっており、世代を経るにつれて日本人の子孫と言う意識も低くなっている。また、混血を重ねていった場合には何をもって日系人とするか判断が難しくなっている。このように、今では日本人移住者の数を正確には把握できていない状態である。

2.第二時世界大戦前・中

 第二次世界大戦前のラテンアメリカでの対日感情はアングロアメリカの対日感情よりもはるかによかった。しかし、日本人移民が集中したペルーでは都市の下層社会との職業上の競合を起こしてペルー国民から強い反発を受け、1930、40年には反日暴動が起きた。やがて、太平洋戦争が勃発するとラテンアメリカの多くの国が日本との外交関係を断絶して敵対関係に入るようになり、ラテンアメリカの12の国は既に移住していた日本人、日系人をアメリカの強制収容所に収監するというアメリカからの要求に応じた。最も多くの日本人をアメリカの強制収容所に送ったペルーの場合、1800人以上の日本人をアメリカへ引き渡した。メキシコはその要求を拒否したものの、国内の2か所に強制収容所を作り、全国各地に分散していた日本人、日系人を収容した。また、最も多くの日本人移民が暮らしていたブラジルの場合は、日本人社会の指導者の一部を国内で強制収容所に収監したほかに日本人の集会や日本語教育を禁止した。また、第二次世界大戦中に日本は軍事力の大きさからラテンアメリカが侵略される可能性が取り立たされたが、実際日本がラテンアメリカ諸国に対して軍事行動をとることはなかった。

 

3.第二次世界大戦後

 第二次世界大戦が勃発し、そして日本が敗北したことは日本人移民とその子孫の現地への同化を大きく促した。かつて、ラテンアメリカで一財産を築き、その後は帰国を考えていた移民の中にも帰国を断念し、現地で生きていくことを選んだ人々が多くなってきた。今まで以上に現地での生活、仕事に力を注ぐようになった日系人に対しては「日本人、日系人は正直であり、技術もあり、責任感も強く、よく働く」と社会的にも評価されるようになり、それによって地位を高めていった。そして、このようにある程度現地で力をつけていた移民たちによって、日本国内で望むような仕事に就けなかった人々、戦争引揚者などを呼び寄せる形で1952年にまた集団移民が再開されることとなった。しかしながら、戦後のラテンアメリカへの集団移民はわずか6万7千人にしかならなかった。ちなみに第二次世界大戦後に日本人の集団移住を認めたのはブラジル、パラグアイ、アルゼンチンとドミニカだけであった。

1960年代に入ると、日本は高度経済成長を遂げ、戦後再開されたラテンアメリカへの集団移民も下火になった。そして、移民に変わってラテンアメリカ諸国へは、資本、技術協力が国際協力の中心になっていった。以前のような農業中心で未開の地を切り開いていった移民とは違い、日本の高度経済成長に後押しされた大企業を背景とする今までにない、新しい形の日本人が到来するようになった。一方、ラテンアメリカ諸国は1960年代に入ると、激しい社会緊張と政治構想が起こるようになり、緊迫感が生まれた。こうした変化を反映して日本でのラテンアメリカに対するイメージは大きく変わった。日本人移民が夢を持って切り開いていった時の大きな機会と無限の可能性に満ちた新世界国家のイメージは後退し、それに変わって発展途上国とみなされるようになり、そこからの脱却を目指して抗争を繰り広げられる第3世界の国々と見られるようになった。

4.現在の日系移民

 日本人の移民がほとんど途絶えた1980年代に入ると昔とは逆に経済の混乱と不況が起こったラテンアメリカの日系社会から日本への出稼ぎ現象が起こった。この現象で始めは日本に来るのは若者が中心だと思われていたが、老若男女すべての年齢層の日系人が日本に来るようになってしまった。これは1990年に改正された日本側の出入国管理法が、日本国籍を持たない日系2、3世の就労を認めたためで、これによって日本への出稼ぎブームが起こった。この現象が起こったもう1つの理由として、日本におけるバブル経済成長が挙げられる。この時代、3K(きつい、汚い、危険)の職業に就く人が日本人の中になかなかいなかったため、安い賃金で働かせることができる日系移民が重宝された。一財産を築き帰国した者もいたが、バブル経済が崩壊し、不況が訪れると日系人が就く職業がなくなっていった。一度日本に来てしまった以上、帰れなくなってしまった人々も多く、その大半がまだ日本で働いている。1996年の統計によると、日系ブラジル人の約17万人を筆頭にまだ相当数の日系ラテンアメリカ人が日本で労働している。

 

参考文献