Tohoku and Scotland
Winter Session 2014
震災後再考:「東北をして日本に於けるスコットランドたらしめん」
伊東 栄志郎

章毎のタイトル

発想の起点:東日本大震災後の復興の遅れ
1 はじめに
1a. 東日本大震災
1b.「日本」とは?
1c. 「東北」とは?
2
「東北」の歴史:「日本」に組み込まれる経緯
2a. 蝦夷(アイヌ)の地「東北」への近畿王権の侵略:アテルイ坂上田村麻呂
2b. 奥州平泉の盛衰
2c. 鎌倉期以降の東北
3
スコットランド」の歴史: ローマ人が記したカレドニアが大英帝国に組み込まれ、さらに独立を目指すまで
3a. スコットランドの紹介: 概要、位置と基本数値、気候、首都、産業、歴史的有名人、スポーツ・文化等、「スコットランド系」食べ物
3b. ケルト民族の地: タキトゥスの『アグリコラ』
3c. 中世スコットランドの形成
3d. 近代スコットランド史: 大英帝国に組み込まれるまで
3e. 19世紀以降のスコットランド:スコットランド独立問題とは?
4
「東北」と「スコットランド」の類似点・相違点
5
これからの「東北」:日本の東北から世界の東北へ

おわりに:受講生のみなさんへ

 


[発想の起点:東日本大震災]

(00)



1. はじめに

[1a. 東日本大震災]


(01) 忘れもしない2011年(平成23年)3月11日14時46分18秒に宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル、仙台市の東方沖70キロメートルの太平洋の海底を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生しました。地震の規模はモーメント・マグニチュード (Mw) 9.0の観測史上世界三番目の大地震で、震源は、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500キロメートル、東西約200キロメートルのおよそ10万平方キロメートルという広範囲で最大震度は宮城県栗原市の震度7でした。この地震により巨大津波が広範囲に発生し、東北地方と関東地方の太平洋沿岸部に壊滅的な被害をもたらしました。死者・行方不明者は18,483人、建築物の全壊・半壊合計40万1,566戸、発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上でした。復興庁によると、2014年11月13日時点でも避難者数なんと23万5,957人です。東日本大震災の被害は今もまだ続いており、避難が長期化していることが大きな問題です。日本政府は震災による直接的な被害額を16兆円から25兆円と試算しています。

(02) 最悪なのは、大津波の被害を受けた東京電力福島第一原子力発電所は、全電源を喪失し原子炉を冷却できなくなり、1号炉・2号炉・3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生、大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な原子力事故に発展したことです。国際原子力事象評価尺度で最悪のレベル7、チェルノブイリ原子力発電所事故と同等に位置付けられています。同原発の立地する福島県浜通り地方を中心に、周辺一帯の福島県住民の避難は長期化して、上記(02)のように避難者数がなかなか減らない最大原因になっております。

(03) 特に震災被害の福島、宮城、岩手は被災三県と呼ばれ、日本政府による復興支援策と復興資金援助を頂いております。震災後まもなく4年経とうとしておりますが、まだまだ以前のような状況には戻りません。あと何年、あとどれだけの労力と予算が完全復興にかかるのでしょうか?そもそも完全復興は可能なのでしょうか?そもそも我々が暮らす東北地方は、震災以前にも他の地方と比べて豊かな地域だったでしょうか?今講義では、日本における東北の歴史を振り返り、それを地球の裏側の日本によく似た島国である英国におけるスコットランドの歴史と比較することにより、今後の東北のことを考える機会を皆さんに提供したいと思います。



[1b. 「日本」とは?]

(04) この国が「日本」という名称を正式に用いるようになったのは698年、大后鸕野讃良(おおきさきうののさらら)飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し、その中で「」に代わる国号として「日本」、大王(おおきみ)に代わる称号として「天皇」、さらに「皇后」、「皇太子」などが正式に制度的に定められ、「日本国」がはじめて列島に姿を現わしました。「日本」は部族名でも古来からあった地域名でもなく、そもそもは聖徳太子によって隋の皇帝に宛てて書かれた有名な書簡に由来し、日の出るところ、つまり東の方向を意味し、太陽信仰を背景にしつつも、中国大陸を強く意識した国号でした。この思想が後世、幕末に日本国旗 (the Rising Sun) 創成に受け継がれ、現在に至っております。

(05) 現在、「日本」は島国で、北は宗谷海峡、南は朝鮮海峡まで「日本」という国の国土は広がっています。では、そこに国境がある必然性はあるのでしょうか?これがあると考えられたのは、その範囲内で「単一国民」国家を造ろうとした近代日本国の作り出した幻想、日本国を近代国家にするための否応のない虚偽であったと歴史家網野善彦は考えました。江戸時代初期、明治初期、大正期、昭和初期には、現在の「日本国」の国境はそれぞれ大分違っておりました。日清・日露戦争以降、植民地獲得・領土拡張を続けた「大日本帝國」は昭和初期、樺太千島列島満州、朝鮮半島、台湾、東南アジアなどを含む大変大きな国でした。現在、皆さんが日本の国境だと信じている境界は、じつは 第2次世界大戦の敗戦によって1945年以後に定められた、あるいはアメリカ、ソ連 (1922-1991)、中国など戦勝国によって定められてしまったものなのです。


19世紀前半に英国で作成された地球儀 (New Lanark, Scotland):
江戸時代の鎖国政策の影響で「日本海」の名称が「高麗海」と一部の世界地図に記載されていました。


(06) 陸地に国境を持つ大陸の国々と異なり、「日本」は海によって諸外国と隔てられていたわけではなく、海によって諸外国と繋がっているのです。最初にこれに気づいたのは、仙台藩部屋住 林子平でした。彼の『三国通覧図説』はロシアへも持ち込まれ、フランス語訳されて1832年にロンドンで出版され、のちに江戸幕府が アメリカのマシュー・ペリー提督と小笠原諸島領有を巡って議論になったとき、日本側の確固たる根拠となりました。(なお、世界最初の露和辞典「ニボンのコトバ」を編纂したのは、1745年千島列島に漂着した南部藩出身の竹内徳兵兵衛一行のさすけという人物だったため、正確には露岩手辞典でした。)

(07) アムール川サハリン⇔北海道⇔「東北」⇔関東という東あるいは北の文化交流のルートの存在。世界地図をぼんやり眺めて見れば、この列島は弓なりになって大陸に接しています。太古には、「日本海」(朝鮮半島では「東海」と呼びます)は大きな湖でした。当然「東北」経由の文化ルートはあったはずです。古代には、東日本の人口密度は西日本より遥かに高かったようです。

Cf. 三内丸山遺跡、津軽半島の十三湊の豪族安藤氏の館跡、奥州藤原氏の本拠地岩手県平泉、青森県砂沢遺跡で発見された東北地方最古(紀元前2世紀)の水田と水路跡等々。

(08) 強大な文化ベクトル「弥生文化」が中国、朝鮮半島を経て西ルートでもたらされ、「日本」に水田農耕を伝えました。この弥生文化は単に農耕用具など物質面だけでなく、さまざまな社会的制度をも「日本」にもたらしました。その最も大きなものが恐らく被差別部落で、まだ静岡以西には多く残っています。

(09) 弥生文化によってもたらされたものは、米作を中心とする農耕中心主義であり、社会に対する見方の大きな基準として農業がありました。ゆえに農業が発達していない地域(狩猟採集社会)は遅れた貧しい地域であるという見方が広がりました。ここに、東北が現在のように開発の遅れた、貧しい地域だという偏見の根本があります。

[1c. 「東北」とは?]

(10) そもそも「東北」とは方向を示す名称です。それは、近畿地方の大和政権から見て鬼門とされる北東の方角にあり、たしかにアテルイなど、近畿王権になかなか従わない住民の激しい抵抗が、鬼のそれにも喩えられたのでしょう。坂上田村麻呂以後に、源氏一門が代々岩手を中心とする東北に反乱鎮圧に来て、その武功を称えるように、仏教の北門の守護者毘沙門天像を盛んにこの地に作らせ、また部門の正統源氏の氏神を祀る八幡宮が東北、特に岩手には数多くあります。むろん、盛岡、八戸を治めた南部家が甲斐源氏の出自であることを明言してきたので、その源氏の正当性を主張するために八幡宮各社を庇護する必要があったことも大きいです。

(11) 「日本」に併合後も、もともと熱帯産の米を寒い地方でも栽培出来るように品種改良出来なかった時代には、「東北」は貧しく遅れた地域だとされました。記録がきちんと残っている江戸時代から昭和初期にかけて「東北」は何度となく大凶作、そして大飢饉に見舞われましたが、それは寒さに強い他の穀物栽培を考えず、盲目的な米作に頼った結果なのです。




2.「東北」の歴史:「日本」に組み込まれる経緯

[2a. 蝦夷(アイヌ)の地「東北」への近畿王権の侵略:
アテルイと坂上田村麻呂]


(12) 「東北」:もともと、かの地は中央(近畿地方)の勢力が行き届かず、野蛮な人々が住む地域という意味で「蝦夷地」と名付けられ、政治の中心が関東に移った近世からは「みちのく」(道の奥)または「奥州」と呼ばれていました。「東北」というのは、無論、京都からみた、この地の方向を示しています。陰陽道では、「北東」または「東北」という言葉は、不吉なものがいる方角を示します。ゆえに、奥州市水沢区に 坂上田村麻呂が建設した鎮守府胆沢城の東北に八幡宮が建立され、また、京都の東北の方向には、邪悪なものが都に入って来ないように、比叡山延暦寺が建立されました。東北地方という呼称が定着したのは、明治以降であるようです。

(13) 「蝦夷地」(奈良・平安時代には北海道ではなく、東北地方のこと): 蝦夷(エミシ)という言葉は、英語ではバーバリアン(barbarian)とでも訳せるでしょう。この英単語はギリシャ語の語源(barbarous)を持ち、「ギリシャと言語習慣の異なるあらゆる外国人」を指しました。つまり、ギリシャ語を話せない者はすべてバーバリアン、即ち野蛮人でした。この呼称は極めて傲慢ではないでしょうか。

(14) 蝦夷という呼称は中世に「日本」の中心であった京都から見て、この地には「日本」とは明らかに異質な、かつその侵略を阻止しようとした文化が確かに存在していたことを示しています。

(15) 773年 (宝亀4年)から「三十八年戦争」と呼ばれる戦争が起こります。『続日本紀』によれば、776年 (宝亀7年)には「陸奥軍三千人を発して、胆沢の 賊を伐つ」とあります。胆沢の賊とは、当時、「東北」で強い力を持っていた、現在の岩手県奥州市水沢区附近に居留していた阿弖流為(アテルイ=悪路王)と彼に従う兵士たちを指しました。後に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、大軍をもって蝦夷征伐に向わせたのです。この地に胆沢城を築いた田村麻呂は、801年 (延暦20年)の「胆沢の戦い」で阿弖流為・母礼を降参させ、すでに建設されていた多賀城(現在の仙台市近郊)などとともに、「東北」に京都の力が及ぶようにしました。それとともに関東から多くの移民が入植し、開墾が進みます。

巣伏古戦場記念碑 (岩手県奥州市水沢区)



アテルイ記念碑 (岩手県奥州市水沢区跡呂井)



献花やお供えの絶えないアテルイとモレの首塚 (大阪府枚方市牧野公園)



胆沢城政庁正殿復元図 (岩手県奥州市水沢区)


[DVD 1: Aterui


 

[2b. 奥州平泉の盛衰]

(16) 平安時代末期、一つの独立国家と言ってもよい平泉奥州藤原氏によって花開きます。現在もほぼそのままの形で残る中尊寺の金色堂に代表される華やかな黄金文化が栄えた平泉は、往時には人口4万 (一説には10万)をこえる、当時 の京都に次ぐ列島第2の大都市となりました。この平泉こそがマルコ・ポーロジパング黄金伝説のもとになったと主張する学者も多いようです。「東北学」の権威、赤坂憲雄も指摘するように、12世紀の平泉の勢力範囲は現在の「東北地方」の範囲と見事に重なります。すなわち、12世紀の平泉は、現在の「東北地方」の原型を築いたのです。この時代は、平安京の影響を受けつつも、独自に中国その他のアジア諸地域さらには黒竜江など現在のロシア領との交易を行い、「日本」とは異なる文化的多様性を保持しておりました。確かに藤原秀衡が建立した無量光院は宇治の平等院鳳凰堂をモデルにしていたのですが、中尊寺毛越寺などの大伽藍や金鶏山を含めた平泉全景は、戦いに疲れた初代藤原清衡が目指した「戦争のない極楽浄土」を強く意識したものでした。平安京には表面上恭順の姿勢を保ち、幾度となく黄金など他の「日本」のどの地域よりも豊富な貢ぎ物をしておりましたが、他方では中央政権の直接介入を拒み、「奥州藤原氏自治領」として大いなる発展をしていたのです。しかし、平泉の文字通り黄金時代を築いた三代秀衡没後、政治的影響力の落ちた四代泰衡は、鎌倉の源頼朝の執拗な催促と強迫に屈し、せっかく匿ったいた源義経を襲い自害に追い込み、軍事的統率力に欠いた平泉は、ついに1189年、頼朝率いる鎌倉軍の前に滅亡しました。約500年後に松尾芭蕉がこの地を訪ねたとき、「三代の栄耀は一睡の中」にあり、かつての平泉は田野になっていました(『奥の細道』)。平泉の栄えたのは、12世紀末までの約100年間でしたが、この時代こそが「東北」がもっとも輝いていたときであり、蝦夷時代の独自の文化を保っていた時代でした。「黄金」を採掘するには、多くの山人(やまびと)すなわち、山伏マタギ果てはこの地に落ち延びていた物部氏の子孫たちの協力が不可欠でした。残念ながら、彼らがどのように平泉に関わっていたのかは現存資料が乏しく、まだ明らかになっておりませんが、白山信仰との関係についてはある程度研究が進んでいるようです。(平泉は岩手県の高校生の皆さんは当然親しんでいるでしょうから、今日はあまり言いません。DVDで簡単にすませます。中沢新一の解説を注意して聞いてください。)

[DVD 2: NHK特集 平泉



無量光院復元図 (岩手県平泉町)



中尊寺金色堂 (岩手県平泉町; 岩手県庁観光ガイド・サイトより)



源義経最後の地と伝わる高舘義経堂から見た北上川 (岩手県平泉町)


[2c. 鎌倉期以降の東北]

(17) 戦国時代末期に伊達正宗が山形の米沢から現われ、仙台を拠点にして、ときの権力者豊臣秀吉徳川家康を脅かし、また支倉常長などをヨーロッパに送り独自に交易の道を模索しました。

(18) 明治維新のとき、戊辰戦争に破れた東北、新潟諸藩は、鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩を救済するため奥羽越列藩同盟をつくり、薩長新政府が抱く明治天皇に対し、輪王寺宮公現法親王を擁立し、会議所を仙台におき、アメリカ帰りの玉虫左太夫(仙台藩)が采配を揮って東日本政府樹立を企てました。もっともこれは歴史が証明する通り、たちまちのうちに失敗に終わりました。やがて大正7年(1918)に岩手県出身の原敬が奥羽越初の総理大臣に就任しました。

(19) 以上、見てきたように、東北地方は何度も「日本」に対し戦いを挑み、その度に敗れ、結果として現在のように「日本国」に組み込まれました。九州南部や沖縄、北海道やいわゆる「裏日本」と言われる地域についても、同様に歴史的に論じ、また証明することが重要です。我々の住む「日本国」は実は列島諸地域に本来存在した多様性をすべて「日本」や「日本語」によっ て覆い隠した結果現在の姿となった国家です。

(20) 「東北」という場所が、古来、異文化接触の場所であったことは言うまでもありません。それだけならば、べつに「東北」にかぎったことではないの ですが、「東北」は、「日本」の漢字文化が確立してから後、つまり有史時代以降の歴史のなかにその異文化接触の痕跡を深く刻み込んでいます。坂上田村麻呂源義経をめぐる伝承文学、さらに『奥の細道』などの「日本語文学」は、古代・中世・近世の東北を舞台にした「日本」の植民地文学としての共通するひとつの系譜の上に位置づけられます。しかも近世以降、「日本」の経済システムの一部に組みこまれてから後もまだまだ日本の奥として辺境の位置にあった「東北」は、近代以降は北海道以北の植民地主義にさまざまな意味で加担することになり、たとえば樺太(サハリン)への植民政策に人材その他の供給の面で貢献するなど、「東北」の歴史は、コロンブスによるアメリカ発見以降の西洋植民地主義がもたらしたものと歴史的にかなり近いものでした。

 *西成彦天沢退二郎編、『宮沢賢治ハンドブック』「クレオール」p. 69.





3.「スコットランド」の歴史

ローマ人が記したカレドニアが大英帝国に組み込まれ、さらに独立を目指すまで




[3a. スコットランドの紹介]

(21) スコットランドの紹介




[MP4 1: "Symphony No. 3 in A minor, op. 56 "Scottish"
by Felix Mendelssohn (1809-1847)
1. Movement "Andante con moto- Allegro un poco agitato"
Gewandhausorchester Leipzig
Franz Konwitschny, conductor
Leipzig 1962



概要:843年から続いたスコットランド王国(Rioghachd na h-Alba; Kinrick o Scotland; Kingdom of Scotland)が1707年の連合法(Acts of Union)によって、グレートブリテン連合王国(Kingdom of Great Britain)の一部になりました。ラテン語では「カレドニア」と呼ばれます。南太平洋のニュー・カレドニア(New Caledonia/Nouvelle-Caledonie)は現在はフランス領ですが、イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャプテン・クック; James Cook, 1728-1779)が1774年、海上からニューカレドニア本島(グランドテール)を「発見」し、山の多いスコットランド(カレドニア)を思わせる眺めからニューカレドニアと名づけたのです。すなわち、スコットランドといえば山地(ハイランド)のイメージがあります。北上山地、特に葛巻町から岩泉町へと向かう国道340号線沿いなどはスコットランド中央のグレン・コー(Glen Coe)にそっくりです。


グレン・コー(Glen Coe)


位置と基本数値:スコットランドは大ブリテン島北部に位置し、2012年人口5,254,800人、面積は78,772 sq kmで、北海道本島(77,984.86 sq km)より少し大きい程度です。これは大ブリテン島(Great Britain; 219,850 sq km)全体の約3分の1に相当します。(英国全体の面積は244,820 sq km、人口63,181,775人[2011]ですが、世界各地に海外領土(territories)、王室属領[Crown dependencies]があるほかに英連邦[Commonwealth of Nations]と呼ばれる国々があります。) なお日本列島総面積は377,961 sq kmで周辺諸島を含む北海道面積は83,456 sq km、東北地方66,890 sq kmです。こういうと英国本国は日本よりも小さな国という印象を受けるかもしれませんが、スコットランド以外は平坦な地域が多いので、実は山国日本よりずっと広々としています。緯度的には、スコットランドは北緯54度から61度の間に位置しています。首都エジンバラやグラスゴーの緯度は北緯約56度で、日本の北海道よりはるか北にあたり、モスクワとほぼ同じ緯度にあたります。(北極圏は北緯66度33分です。) ちなみに岩手県立大学の緯度は北緯39度48分ですので、どれだけスコットランドが高緯度に位置するのか分かりますね!

気候:典型的な西岸海洋性気候で、メキシコ湾流の一部である北大西洋海流と偏西風の影響により緯度の割に比較的穏やかです。冬は高緯度の割に暖かく、最寒月平均気温は2℃〜6℃で、日本だと北関東(群馬県や栃木県)くらいの過ごしやすさです。夏は最暖月でも14℃〜19℃程度と涼しいのです。岩手県に比較すると一年を通じて気温差が小さく過ごしやすいです。山間部を除いてまとまった雪も降りません。

首都:エディンバラ (Edinburgh; 2006年人口463,510人)で欧州有数の美しい街並みがユネスコ世界遺産登録されていますが、最大都市は英国産業革命発祥地である工業都市グラスゴー(Glasgow; 2006年市街地人口580,690人;都市圏人口2,850,000人)でロンドンバーミンガム(Birmingham)マンチェスター(Manchester)に続く英国第四の都市です。


優秀な人材を輩出し続けるグラスゴー大学本館
(The neo-Gothic Main Building, University of Glasgow)




エディンバラの美しい街並み (A north view from Forewall Battery, Edinburgh Castle)



産業:古くは石炭がスコットランドの主要産業であり、英国の産業革命を支えました。1960年代に北海油田(North Sea oil)が開発され、埋蔵量が欧州随一と判明すると、漁港アバディーン (Aberdeen)は石油基地として大きな発展を遂げ、現在の人口192,080人(2006)です。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっています。さらに1980年代からは半導体産業や情報通信産業の誘致が盛んに行われており、スコットランド中部のIT産業の集積地帯はシリコン・グレン(Silicon Glen)と呼ばれています。

歴史的有名人:アダム・スミス (Adam Smith, 1723-1790;「経済学の父」で『国富論』著者)、ジェームズ・ワット (James Watt, 1736-1819; 蒸気機関の改良によりグラスゴーから産業革命を起こす)、ジョン・ロウドン・マカダム (John Loudon McAdam, 1756-1836; 道路のアスファルト舗装を発明)、ジョゼフ・リスター (Joseph Lister, 1827-1912; フェノールによる消毒法の開発)、アンドリュー・カーネギー (Andrew Carnegie, 1835-1919; 米鋼鉄王となりカーネギー・ホール[Carnegie Hall, NY]で有名)、ジョン・ボイド・ダンロップ (John Boyd Dunlop, 1840-1921; タイヤチューブ、バルブを発明)、 アレクサンダー・ベイン (Alexander Bain, 1811-1877; FAXの発明等)、アレクサンダー・フレミング (Alexander Fleming, 1881-1955; ペニシリン[Penicillin]の発見で有名な細菌学者)、ジョン・ロジー・ベアード (John Logie Baird, 1888-1946; テレビの発明等)、アレクサンダー・グラハム・ベル (Alexander Graham Bell, 1847-1922; 世界初の実用的電話の発明等) 等々。


アダム・スミス像 (Statue of Adam Smith in front of St Giles' Cathedral, Edinburgh)




ジェームズ・ワット像 (Statue of James Watt, George Square, Glasgow)



*コリン・ジョイス (Colin Joyce, 1970-)によれば、イギリス人の生活を皮肉って次の物がすべてスコットランド人によるものだということです:マーマレード、レインコート、自転車、タイヤ、乾留液(タールマック舗装)、蒸気エンジン、イングランド銀行、糊つき切手、タバコ、電話、ローストビーフ、アメリカ海軍、麻酔薬など。『聖書』にもスコットランド人が最初に出て来ますが、これはジェームズ6世が英訳を進めたからです。(『驚きの英国史』[NHK出版新書] 2012年 pp.79-83)

**よくドラマや映画で登場する[ニュー・]スコットランド・ヤード ([New] Scotland Yard)は、ロンドン警視庁 (Metropolitan Police Service; MPS)の通称です。特にスコットランドには関係がなく、ロンドン警視庁本部の所在地ニュー・スコットランド・ヤード(New Scotland Yard)に由来しています(Big Benから徒歩10分程度; Big Benの脇道Bridge Streetを通り、Parliament SquareからA302[Victoria Street]沿い右手に見える)。日本の警視庁の通称を本部所在地旧称にかけて「桜田門」(正確には、「外桜田門」; 幕末に井伊直弼大老が暗殺された江戸城桜田門付近;現在の「霞が関」)というのと同じです。

スポーツ・文化等:スコットランド発祥のスポーツといえば、15世紀に始まったゴルフ(golf/ Scot. gowf)が有名です。全英オープン(The Open Championship)は1990年以降、5年に1回はゴルフ発祥の地セント・アンドルーズ (St. Andrews)で開催されます。また、14世紀初頭にハイランド地方ではじまったハイランド・ゲームズ (Highland Games/Highland Gathering)は、スコットランドのハイランド地方各地で5月から9月にかけて行われる競技会です。もともとは力自慢の競技会でしたが、バクパイプ (bagpipe)の演奏会などもあり、伝統文化を感じるイベントです。また、毎年8月に盛大に開催されるエディンバラ・フェスティバル) Edinburgh Festival)は芸術と文化の祭典で、市内の各所で数えきれないほどの大道芸人たちのパフォーマンスが楽しめる楽しいイベントです。

ロバート・バーンズ (Robert Burns, 1759-1796; 「蛍の光」["Auld Lang Syne"]や「故郷の空」["Comin' Thro' the Rye"]で有名な詩人)、ウォルター・スコット (Walter Scott, 1771-1832; 詩人、歴史小説家)、コナン・ドイル (Arthur Conan Doyle, 1859-1930; 『シャーロック・ホームズ・シリーズ』著者)、ロバート・ルイス・スティーヴンソン (Robert Louis Stevenson, 1850-1894;『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』著者)、ショーン・コネリー (Thomas Sean Connery. 1930-; 『007シリーズ』等で有名な俳優)、ユアン・マクレガー (Ewan McGregor, 1971-; 『スター・ウォーズ・シリーズ』のオビ=ワン・ケノービ役等で有名な俳優)、ジェラード・バトラー (Gerard Butler, 1969-; 『オペラ座の怪人』等で有名な俳優)、アンディ・マレー (Andy Murray, 1987-; プロ・テニス・プレーヤー) 等々。





ロバート・バーンズ像 (Statue of Robert Burns, George Square, Glasgow)




ロバート・バーンズ作「蛍の光」レリーフ
(Plaque commemorating Robert Burns' "Auld Lang Syne," Buchanan Bus Station, Glasgow)




ウォルター・スコット像 (Statue of Sir Walter Scott, Scott Monument, George Square, Edinburgh)




シャーロック・ホームズ像 (Statue of Sherlock, Marylebone Road, London)


「スコットランド系」:スコットランド系アメリカ人ですと、一番日本と関係が深いのは、第二次世界大戦後日本を占領した連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー (Douglas MacArthur, 1880-1964)でしょう。彼自身はアーカンソー州 リトルロック (Little Rock, Arkansas)出身ですが、父方の家系はハイランド出自の貴族の出で、祖父のアーサー・マッカーサー(Arthur MacArthur, Sr., 1815-1896)はグラスゴー生まれの弁護士でごく短期間ながらウイスコンシン州知事となった人物です。また『赤毛のアン』(Anne of Green Gables, 1908)などで知られるカナダ人作家L・M・モンゴメリ(Lucy Maud Montgomery, 1874-1942)もやはり父方がスコットランド系で、旦那さん(Ewen ["Ewan"] MacDonald)もスコットランド系長老派教会牧師でした。『赤毛のアン』でも主人公アン(Anne Shirley)はノバスコシア州(Nova Scotia; "New Scotland")出身の孤児という設定で、養父母となるマリラとマシュー・カスバート(Marilla & Matthew Cuthbert)の兄妹もスコットランド系で、二人の母親がスコットランドから祖国の花スコッチ・ローズ (Scotch rose)をたずさえて渡ってきたと『赤毛のアン』第37章に記されていますね。

『ハリー・ポッター』(Harry Potter):当時まだ無名だった作者J. K. ローリング (J. K. Rowling, 1965-)がエディンバラのコーヒー・ハウス「エレファント・ハウス」(The Elephant House)『ハリー・ポッターと賢者の石』(Harry Potter and the Philosopher's Stone)を執筆したのは有名な話です。エディンバラ城の外観はホグワーツ魔法魔術学校 (Hogwarts School of Witchcraft and Wizardry)のモデルと言われております。


エディンバラ城 (The Gatehouse of Edinburgh Castle)




ポッタリアン・ガールズの皆さん (Potterian Girls for advertising Harry Potter and the Deathly Hallows at Eason Bookshop, Dawson Street, Dublin)



食べ物:

     ハギス (Haggis): 羊の内蔵、玉ねぎ、ハーブなどを羊の胃袋に詰めたもので、煮るか茹でて食べます。シングル・モルト・ウイスキーによく合いますが、好みの分かれる味です。


ハギス (Haggis)料理の一例 (The Willow Tearooms, 217 Sauchiehall Street, Glasgow)


     スコッチ・エッグ (Scotch egg): 茹でた卵を香辛料の効いた牛ひき肉で包み、さらにパン粉を付けて揚げたもので、日本でもスーパーなどで入手可能です。ピクニックでよく食べます(*厳密にはスコットランド料理ではありません)。

     スコッチ・ウイスキー (Scotch whisky)は、現在放映されているNHK朝ドラ『マッサン』でもおなじみですが、定義上スコットランドで製造されるウイスキーのことです。麦芽を乾燥させる際に燃焼させる泥炭(ピート)に由来する独特の煙のような香り(スモーキー・フレイバーと呼ぶ)が特徴の1つです。大麦麦芽を原料としたモルトウイスキー(malt whisky)とトウモロコシと大麦麦芽を5:1の割合で配合したグレーンウイスキー(grain whisky)があります。ウイスキーは英国にとって5大輸出品目の1つであり、その輸出規模はおよそ200か国、日本円にして約6000億円です。スコットランド全体では石油に次ぐ大事な輸出品目となっております。


スコッチ・ウイスキー専門店 (Whisky Galore of The Green Welly Stop, Tyndrum, Crianlarich, Perthshire FK20 8RY, Scotland)

英国は、ユーラシア大陸を挟んで極東にある日本とは対称的に極西にある島国で、東北の比較材料として扱う資格は十分なのです。




[3a. ケルト民族の地: タキトゥスの『アグリコラ』]


(22) スコットランドの歴史は、およそ一万年前、デヴォンシャー氷期の終わりごろに人類が初めて移住してきた時期に始まります。スコットランドはヨーロッパ最古の歴史をもつ王国とされますが、1707年以降ブリテン連合王国の一部の地位に甘んじてきました。近年自治が拡大されてきており、連合王国からの分離を求める声も少なくありません。スコットランド独立の気運が盛り上がり、ついに今年2014年夏にスコットランド独立住民投票が行われましたが、結果は英国内に留まることになりました。ただ、ロンドン政府はスコットランド住民の不満を抑えるために今後スコットランドに様々な権限を譲歩することになると言われております。また、スペインのカタルーニャ州バスク自治州などで高まる欧州各国の独立運動・自治権拡大運動などに多大な影響を及ぼすことになると思われます。

(23) ブリテン島に関する文字史料が登場する8500年前までには、スコットランドに人類が到達していたようです。しかし、このとき彼の地に人類がいたとしても、間氷期が終わって寒冷になると人類はいなくなり、ふたたび人間が住めるほどに温暖になるのは紀元前9600年ごろでした。中石器時代、本格的にスコットランドに人類がやってきて狩猟採集生活を送るようになります。新石器時代になると、農耕の開始により定住生活が可能になります。スコットランドの新石器時代人はメイズハウ(Maeshowe; 紀元前3500年頃)に代表される石室をもつ墳墓をつくり、紀元前3000年頃からは環状列石(ストーン・サークル)列石(ストーン・ロウ)など巨石遺構をつくります。これらの遺構はヨーロッパ各地にみられる巨石文化で、ストーンヘンジも同じ影響下にあります。考古学者たちは、当時の人々がすぐれた天文観測能力を有していたと考えています。なお、ストーンヘンジをミニチュア化したような環状列石は、秋田県鹿角市の縄文時代後期 [約4,000年前] の遺跡 大湯環状列石をはじめとして日本・世界各地にあります。青銅器時代になると、こうした巨石建造物にくわえて数百の民家を包含する規模環濠集落の遺跡も見つかるようになります。

(24) 文字史料のある歴史時代は、ローマ帝国ブリタンニア侵攻から始まります。ローマ以前にもわずかながら書かれたものが存在しますが、この頃はもっぱら口述伝承でした。このあたりは東北・北海道のアイヌ民族と同じです。こうした伝承は、のちのキリスト教の伝来とともに失われました。これはキリスト教宣教師たちがドルイド(Druids)を中心とする旧来の伝統を一掃したこと、飢饉や戦争によって社会の態様が大きく揺れたことなどに起因する。ローマ以前のスコットランドを伝える唯一の史料は、紀元前325年にマッサリア(Massilia; 現在の仏マルセイユ; Marseille)のギリシャ人ピュテアス(Pytheas)によるブリテン島探検の手記です。 ローマ帝国の侵攻は紀元43年に始まりました。ローマ軍はイングランドにあたる地域を征服したのち、将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラ(Gnaeus Julius Agricola, 40-93)が79年、スコットランドに攻め入ってきました。カレドニア(Caledonia)先住民たちは激しい抵抗をしましたが、ローマ帝国は82年-83年に艦隊をオークニー諸島 (Orkney Islands)にまで及ぶスコットランド沿岸に展開して威嚇し、84年のグラウピウス山の戦い(Battle of Mons Graupius)でカレドニア人を破りました。アグリコラの部下たちはブリテン島全土の平定を宣言しました。これらの変遷を知る唯一の手がかりは、『ゲルマーニア』(Germania, 98)でお馴染みのコルネリウス・タキトゥス (Cornelius Tacitus, c55-c120)の書『アグリコラ』(Agricola, 98)でした。タキトゥスはアグリコラ将軍の娘婿でした。その後300年にわたってローマは当地を支配し続けました。また、ローマは防御線を建設して異民族からの防御を固めます。その有名なものが、120年代、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(Publius Aelius Trajanus Hadrianus, 76-138)が命じたハドリアヌスの長城(Hadrian's Wall)とその20年後に建設されたアントニヌスの長城(Antonine Wall)で、ローマ帝国の国境線(Frontiers of the Roman Empire)としてユネスコ世界遺産登録されています。ただ、間も無くこの国境線は役に立たなくなり、ローマ人たちはカレドニアの直接支配を結局諦めました。この理由は、人口密度が低すぎて徴税効果が上がらないであろうこと、および気候・風土がローマ人に合わなかったことなどであったと考えられています。ローマの支配は40年から410年まで及び、現在のイングランド南部を中心にローマ化が進みました。属州化以降ローマ人やガリア人(Galli)ゲルマン人が主に兵士として渡来したのです。


[3b. 中世スコットランドの形成 ]

(25) 409年、ローマ帝国がイングランド南部のブリタンニア(Britannia)から撤退したとき、スコットランドは、大別してふたつのグループに分かれていました。すなわち、体を彩色もしくは刺青をした部族ピクト人(Picts; 民族的起源不明)とケルト系土着のブリトン人(British tribes/ ancient Britons)です。それから現在のデンマーク、北部ドイツ周辺にいたゲルマン人がグレートブリテン島に渡ってきました。彼らは先住のケルト系ブリトン人を支配し、ケルト文化を駆逐しました。これが英国における最初のアングロ・サクソン人です。彼らのゲルマン方言が英語の基礎となりました。

(26) スコットランドの王朝は、6世紀ごろピクト人によるアルバ王国(Alba)の成立によって始まりますが、その勢力範囲は中央部に限られておりました。しかし、その起源や変遷については信頼できる史料にとぼしく、こまかな流れまで追うことは難しいとされます。(この短い講義で扱えるような代物ではありませんので悪しからず。)


(27) 1018年にスコットランド南西部はマルカム2世 (Mael Coluim mac Cinaeda, ?-1034; r. 1005-1034)の征服によってスコットランド王朝の支配下に入ります。このころ確立されたタニストリー(Tanistry)という王位相続制度によって、スコットランドは二つの家系が交互に王位を継承していました。タニストリーは王の生前から後継者を決めるため、後継者にしてみれば王の早逝が望ましかったのです。結果、王の暗殺事件が何度となく起こってしまいました。シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)の戯曲『マクベス』("Macbeth" 1606)は、こうした社会的背景によって起きた事件の物語で、実在のスコットランド王マクベス (1005-1057; r. 1040-1057)をモデルにしています。

(28) 1066年ノルマンディー公ギヨーム2世 (duc Guillaume II de Normandie, 1027-1087; r.1066-1087 as William I)によるイングランドの征服ノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England)に始まる外との接触は、スコットランド史に新たな展開をもたらします。ひとつにはイングランドとの勢力争いが顕在化したこと、もうひとつは多様な民族の流入と社会・文化の変化でした。

(29) ウィリアム1世らイングランド諸王はノルマン・コンクエストの延長としてスコットランドにたびたび侵攻し、ときにはスコットランドを屈服させることもありました。このころからイングランドとの抗争が日常化し、双方の境界線はハドリアヌスの長城を上下しました。

(30) スコットランドは対イングランド戦略の必要性からフランスと「古い同盟 (Auld Alliance; Fr. Vieille Alliance)」を結んで対抗しました。その後しばらくフランスとは友好関係を維持しましたが「古い同盟」はフランスの属国化を意味する体制でもありました。エドワード1世(Edward I, 1239-1307; r.1272-1307)の征服により1296年イングランドに屈服して、スコットランド王座のシンボルであったスクーンの石(Stone of Scone)を奪われました。しかし、10年後、ウィリアム・ウォレス(Sir William Wallace, 1270-1305)らが反乱をおこして独立戦争がおこりました。この戦争は曲折をへて1318年には実質的独立を達成し、1328年になってイングランドとの和約も成立しました。

(31) 1320年に有力諸侯によって採択され、ロバート1世が承認したアーブロース宣言(Declaration of Arbroath)は、マグナ・カルタ(Magna Carta; the Great Charter of the Liberties of England, 1215)のごとく、その後のスコットランドの統治の根幹をなす宣言となりました。いわく、イングランドに従属する王は人々の手によって斥けられるとし、この宣言はのちのちまでスコットランドの政治を左右し、国王への権力集中を防ぐ効果をもたらしました。

(32) マクベス(Macbeth)をはじめスコットランドの支配者の多くがローマに巡礼しましたが、その後スコットランドはキリスト教世界との結びつきを強めていきました。支配者層にとってキリスト教の庇護はステイタスでした。教会組織が整えられ、各地に修道院が建立されました。またフランス・イングランド・フランドルなどから移民が流入し、その文化や社会制度が取り入れられてヨーロッパ的封建社会が形成されていき、スコットランド社会の変貌も促しました。ゲール語は次第に公用語としての地位を失い、支配者層は英語・フランス語を用いました。ヨーロッパ文化と既存の文化の混在は、スコットランド内の分離も促す結果となりました。ハイランドとローランドは文化の違いが顕在化しはじめ、氏族が統治するハイランドへの野蛮なイメージが形成されつつありました。

(33) 初期ステュアート朝(Stewart [Stuart] dynasty, 1371-1714)からメアリ・ステュアート(Mary Stuart, 1542-1587; r.1542-1567)までの時代はしばしば謀略や暗殺の渦巻いた暗い時代と言われます。これは王の権力が同時代の中世諸国家より制限されていたことから、貴族どうしの内紛という形であらわれたもので、もとよりスコットランド全体を転覆せしめる事態にはなりませんでした。より激しい混乱は、ルネサンスと宗教改革によってもたらされたのです。

(34) 隔絶したハイランド(The Highlands)と開かれたローランド(The Lowlands)の差は、さらに広がりつつありました。聖職者兼歴史家ジョン・オヴ・フォーダン (John of Fordun, c1360-c1384)はハイランド人について「屈強で実直、そして野蛮な民族」と記しています。ハイランドはケルト系、ローランドはアングル系であり、言語も異なっていました。こうした多様性のもと、スコットランドは国王のもと緩やかな連合体をなしていたのです。

(35) ステュアート朝前期はまた、スコットランドの文化が繁栄した時代でもありました。1413年にはスコットランド初(英語圏三番目)のセント・アンドルーズ大学(University of St Andrews)*が開設され、ゴルフの原型となるスポーツが生まれました。各地に豪華な聖堂が建てられ(のちの宗教改革により多くが破壊)、ローマやフランスの文化を取り入れる動きが盛んになりました。貴族層を中心に識字率が飛躍的に向上しました。一方、教会組織の腐敗が始まっており、これが過激な宗教改革をもたらすことになりました。

     *英国王位継承順位現在第2位のケンブリッジ公ウィリアム王子(Prince William, Duke of Cambridge, 1982-)とケンブリッジ公爵夫人キャサリン(Catherine, Duchess of Cambridge, 1982-)がともに学び、出会った大学としても有名ですね。


[3c. 近代スコットランド史: 大英帝国に組み込まれるまで]

(36) メアリ・ステュアート(Mary Stuart, 1542-1587; r.1542-1567)はスコットランドで根強い人気のある女王ですが、彼女にとって不運だったのは、同時代に宗教改革(Reformation)が起こったこと、そしてメアリ自身がフランス育ちの敬虔なカトリックだったことです。当時のスコットランド教会は、司教など高位聖職者に莫大な富が集中し、上納金を納めなければならない地方教会は荒廃していましたし、文字の読めない聖職者が説教壇に立つことも珍しくありませんでした。こうしたなかでやってきた宗教改革で、スコットランドの特に好戦的な中産階級の人々に穏健なルター派(Lutheranism)よりも実生活に根ざしたカルヴァン派(Calvinism)が選ばれたのは自然なことでした。スコットランド宗教改革の指導者にして長老派教会(Presbyterian Church)の創立者ジョン・ノックス(John Knox, 1510-1572)の思想はたちどころに広まり、彼の扇動による宗教暴動は各地で起こって聖堂が破壊されました。華美は悪とされました。その後建てられた教会は一切の芸術性を排したつくりになってしまいました。スコットランドで現存する中世建築物が少ないのはこのためであり、以降しばらく、スコットランドは文化的に不毛の地となりました。

(37) スコットランドのプロテスタント化は、イングランドへの接近も意味しました。(ただ、ジョン・ノックス自身は、エドワード6世 (Edward Y, 1537-1553; r. 1547-1553)の治世でイングランド国教会王室付属牧師をした経験もあり、イングランド国教会祈祷書の作成にも関わりましたが、結局、礼拝観に関する相違のためにイングランド国教会と袂を別つ事になりました。)メアリの亡命と刑死によってスコットランドはフランスとの「古い同盟 (Auld Alliance; Fr. Vieille Alliance)」を捨て、イングランドとの「新しい同盟」("new alliance")への外交転換をはかったのです。折しもエリザベス1世 (Elizabeth I, 1533-1603; r.1558-1603)には後嗣がなく、親戚のスコットランド王のイングランド王位継承が現実味をおびるようになりました。

(38) エリザベス1世の父親のヘンリー8世 (Henry VIII, 1491-1547; r.1509-1547)の姉マーガレット(Margaret Tudor, 1489-1541)と、スコットランド王ジェームス4世(James IV, 1473-1513; r.1488-1513)の子が、スコットランド王ジェームス5世(James V, 1512-1542; r.1513-1542)で、その唯一生き残っていた子が、メアリー・スチュアート(Mary Stuart, Dec. 8, 1542-Feb. 8, 1587; r. Dec. 14, 1587-July 24, 1567)でした。父王が死んだとき、彼女はまだ生後6日でしたが、それでも彼女は亡王の跡を継いでスコットランド女王となりましたが、波乱万丈の人生を歩み、関係が冷え切っていた2度目の夫ステュアート家傍系の従弟ダーンリー卿ヘンリー (Henry Stuart, Lord Darnley, 1545-1567)を3度目の夫ボスウェル伯(James Hepburn, 4th Earl of Bothwell, 1535-1578)と結婚するための殺害嫌疑・騒乱で廃位され、イングランドに亡命します。そこで、1558年に王位を継いだものの庶子でありプロテスタントであったエリザベス女王の強力なライバルとなり、度々イングランド王位を主張しましたが、ついに1567年7月24日にエリザベス女王の苦渋の決断により処刑されてしまいました。これに抗議するという名目で、同じカトリックのスペイン国王フェリペ2世 (Felipe II, 1527-1598; r.1556-1598)は、イングランドに無敵艦隊 (Sp. Armada Invencible/ the Spanish Armada)を送り、1588年のアルマダの海戦 (Spanish Armada/ Sp. Grande y Feliccsima Armada)へと繋がっていきます。メアリーの波乱万丈な人生は、エリザベス女王とともにその後多くの文学・芸術作品の題材になっております。

(39) 1603年春、スコットランドに一大転機が訪れました。エリザベス1世(Elizabeth I, 1533-1603; r.1558-1603)の死によって、ジェームズ6世(James VI, 1566-1625; r.S1567/E&Ir1603-1625)にイングランド王位を継承してほしいという急使がやってきたのです。母親メアリ・ステュアートが叶えられなかったイングランド王位継承の夢を、息子ジェームズは無血で叶えることとなりました。しかし、これはスコットランドに暗い影をおとす時代の始まりでもあったのです。
     同君連合(personal union)から連合法(Acts of Union 1707)によるグレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain, 1707-1801)誕生、そしてジャコバイト反乱(Jacobite Rebellion, 1715)にいたる近世スコットランドの変遷は、しばしば暗い時代とされます。スコットランドは独自の王を失い、つぎに自分たちの議会を奪われ、スコットランドらしさをも失ったのです。この時期のスコットランドは、イングランドに吸収されていった時代でした。エディンバラからウェストミンスター(Westminster)に移ったステュアート家の王たちは、ほとんどスコットランドに戻ろうとしませんでした。スコットランドには担当国務大臣をおき、それが摂政となって行政にあたることとなりました。

(40) 清教徒革命 (Puritan Revolution)は、広義には1638年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」もしくは名誉革命 (Glorious Revolution, 1688)とあわせて「イギリス革命」(English Revolution)とも呼ばれます。

(41) 監督制教会のイングランドと長老制のスコットランドは教義をめぐって衝突し、主教戦争からスコットランド内戦(Scotland in the Wars of the Three Kingdoms)、そしてオリバー・クロムウェル (Oliver Cromwell, 1599-1658)によるスコットランド征服という事態を招きました(イングランド内戦; English Civil War, 1642-1646/1648-1649)。このとき共和政イングランドが施行した航海条例(Navigation Acts)がスコットランド経済に打撃を与えました。この条例によって、スコットランドも「外国」とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されたのです。スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮に喘ぐようになりました。

(42) 1688年の名誉革命(Glorious Revolution)は、スコットランドにとってはイングランド議会が勝手に王をすげ替える暴挙でした。スコットランド議会は安全保障法(The Act of Security, 1704)によって独自に王を擁立する権利を有するという宣言を発しました。これに対してイングランドは外国人法(The Alien Act, 1705)で応酬しました。すなわち、合同に同意しなければ航海法体制に加えてヨーロッパとの交易も制限するとしたのです。人口で約5倍、経済力で38倍の差があった相手に対抗できたのはここまででした。ついにスコットランドはイングランドの軍門に降ったのです。

(43) 連合法 (Acts of Union, 1707)による両国議会の統合は、スコットランドが独立を最終的に放棄した画期でした。これは何より経済的に追いつめられたスコットランドに残された唯一の途だったのです。航海条例(Navigation Acts)で締め出されたスコットランド経済は停滞し、さらに飢饉が追い討ちをかけました。起死回生を図ったダリエン計画 (Darien Scheme; イングランド東インド会社に対抗しての中央アメリカ植民計画)はイングランドの妨害に遭って破綻し、自力経済再建は不可能になりました。スコットランド議会は1707年1月16日、涙ながらに自らの解散を決議したのです。

(44) 1715年にジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート (James Francis Edward Stuart, 1688-1766)がステュアート朝復興を目論んで起こしたジャコバイト運動 (Jacobite Rebellion)は、これを機にスコットランドの独立を取り戻そうとする運動でもありました。1715年の反乱の手際がよければ独立は成功していたかもしれない、と今でも指摘されます。しかし、この反乱は結局鎮圧され、さらにグレン・コーの虐殺や氏族制度解体が行われました。イングランドへの恨みと背中合わせに、ローランドを中心にイングランド化が進んでいったのです。

(45) 18世紀後半から19世紀にかけて、スコットランドは著しい社会の変化・経済成長を経験しました。ヨーロッパの一辺境から大西洋貿易のターミナルとなり、産業革命の中心地としての地位を確立しました。これはスコットランド人の起業精神、ハイランド・クリアランス(The Highland Clearances)などの大規模な囲い込み、大学改革およびイングランド航海法体制下に入ったことなどが原因とされています。18世紀も後半になってから、合同の経済効果がようやく現れてきました。航海法(Navigation Acts)体制の内側に組み込まれたことにより、アメリカ大陸との交易が活発になりました。そこから製造業がひろがり、畜産物・穀物・綿織物から19世紀にいたって鉄鋼業・石炭業も活発になったのです。スコットランドの都市化・人口増が急速に進みました。イングランドに比べて、物価・人件費が圧倒的に安かったことと、アイルランドからの移民が大量に流入してきたことも大きな成長要因でした。

(46) 当時、イングランドの批評家サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson, 1709-1784)は自著『英語辞典』(A Dictionary of the English Language, 1755)のカラス麦(oat)の項目で右のように説明しています:「カラス麦(oat)はイングランドでは馬の飼料だが、スコットランドでは人間が食べる」。それに対し、弟子に当たるスコットランド人のジェイムズ・ボズウェル(James Boswell, 1740-1795)は、「ゆえに、イングランドの馬は優秀で、スコットランドでは人間がすぐれている」とやり返しました。

(47) スコットランド啓蒙(Scottish Enlightenment)は、多くの起業家・知識人を輩出しました。蒸気機関を改良したジェームズ・ワット(James Watt), 1736-1819)、社会学の祖とされるジョン・ミラー (John Millar, 1735-1801)そして作家ウォルター・スコット (Sir Walter Scott, 1771-1831)など、当時の優れた人材ではイングランドを凌駕していました。多くの技術が実用化され、イギリス産業革命はこうした人物によって支えられたのです。


ジェイムズ・ボズウェルの関係の深いレストラン (The Witchery by the Castle and Secret Garden Restaurant, explaining the reputation of the building connected with James Boswell and Samuel Johnson, Edinburgh)




ジェイムズ・ボズウェルと関係の深いレストラン (同上)



[3e. 19世紀以降のスコットランド:スコットランド独立問題とは?]

(48) 19世紀に入ると、産業革命後の工業の大発展により、大英帝国の版図は拡大を続けます。世界中の植民地を交易先とすることでスコットランド産業は成長をつづけ、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、スコットランド、特にグラスゴーの造船業・機械工業は大英帝国経済にとって不可欠な存在でした。しかし、20世紀初めごろから経済は失速し、しだいにスコットランドの地位は低下していきます。二つの大戦はスコットランドの産業に致命的な打撃を与え、ナショナリスト(右翼)勢力が広がってきました。

(49) 第一次世界大戦は、スコットランドにつらい影響をもたらしました。失業と貧困のせいで、兵の募集に応じる率が高かったので、戦争による被害も大きかったのです。大英帝国におけるスコットランドの比率は、人口では10%だったのに、兵の数では15%、死者の数では20%となりました。

(50) スコットランド経済は、第一次世界大戦のころかから徐々に地盤沈下していきました。この理由として、第一に労働者と資本家の対立 (貧富の格差が広がり、劣悪な生活環境に追い込まれていた労働者は不満を募らせた)、第2に実学志向の弊害 (スコットランドの教育機関は実学志向が強く、数学など基礎研究の軽視)が挙げられます。その結果、世界の技術革新に対抗出来なくなりました。

(51) 第二次世界大戦では、エディンバラやグラスゴーといった主要都市がドイツ軍の爆撃にあい、スコットランドは甚大な被害をうけました。(スイス人同様)勇猛で屈強な戦士であるという評判が名高いハイランド人はじめ、多くのスコットランド人が徴兵され、特にハイランドの過疎化に拍車をかけました。いっぽう、第二次世界大戦はブリテンの結束を要求したので、スコットランドの民族運動も隅に追いやられていました。福祉国家路線をとる労働党政権のなかで、経済も安定し、比較的平穏に1950年代は過ぎていきました。ところが、1960年代に入ると、高度経済成長下の日本など、造船業のライバルの出現によって経済の停滞がおこりました。ナショナリスト政党が息を吹き返し、分離をもとめる声が大きくなっていきます。

(52) 1960年に北海油田(North Sea oil)が採掘され始めたことは、ひとつの転機となりました。原油推定埋蔵量は130億バレル、日産約600万バレルで、イギリスは2014年現在でもEU加盟国最大の原油生産国ならびに原油輸出国です。(対岸のノルウェーも競うように開発し始め、ノルウェーはロシアを除く欧州最大の原油生産国・輸出国です。)油田開発は、スコットランド経済復興の追い風となると同時に、イングランドへの対抗意識が再燃する契機ともなります。すなわち、北海油田はスコットランドのものであるはずなのに、その恩恵を被っているのはイングランドであるという意識です。この不満からスコットランド国民党は勢力を伸ばし、連合王国からしだいに距離をとり始めました。時の政権もこれを察し、スコットランド自治を実現する方向へと政策転換がはかられました。しかし一方で、政治的自立と経済的自立の間でスコットランドは揺れ動くこととなります。

(53) マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher, 1925-2013; p.m. 1975-1990)の保守党政権が1979年誕生して「小さな政府」政策が、公約通り地方分権政策をもたらしました。スコットランド議会設立の動きが表面化し、1979年国民投票が行われましたが、このときは有効票数が集まらず否決されました。

(54) 1997年に首相の座についたトニー・ブレア(Tony Blair, 1953-; p.m.1997-2007)はスコットランド出身でした。このブレア政権のもと同年、再度の国民投票が行われ、スコットランド議会を創設することが可決されました。1997年、議会開会に先立って前述のスクーンの石(Stone of Scone)がエディンバラに返還されました。

(55) 1999年の総選挙で選ばれた129名の議員は「ジャコバイト(Jacobites)の象徴である」白い薔薇を胸につけ、ホリールードハウス宮殿(The Palace of Holyroodhouse)の隣につくられた仮議事堂に会し、以下の宣言をもって開会しました:「1707年3月25日以来、一時的に中断していたスコットランド議会を、ここに再開する」。1999年にスコットランド議会復活後初の議会選挙が行われ、労働党のドナルド・デュワー (Donald Dewar, 1937-2000)が自治政府初代首相に選出されました。

(56) 2011年、独立推進派のスコットランド国民党(SNP; The Scottish National Party)が過半数の議席を取ると、翌2012年SNPのサーモンド自治政府首相(Alexander Elliot Anderson Salmond, 1954-)は、英国からの独立を問う住民投票を2014年9月に行うと発表し、キャメロン英首相(David William Donald Cameron, 1966-; p.m.2010-)もこれに同意する協定書に調印した。2014年9月18日、スコットランドの住民を対象に、連合王国からの独立の是非を問う住民投票が行われました。有効投票数3,619,915(得票率99.91%)中、賛成44.7%(1,617,989票)、反対55.3%(2,001,926票)という思わぬ大差でスコットランド独立は否決されました。翌9月19日、独立が否決された責任を取るべくサーモンドは首相と党首の辞任を表明、「指導者としての私の時間はもうすぐ終わるが、スコットランドの独立運動は今後も続く。夢は決して終わらない」と語りました。



4. 「東北」と「スコットランド」の類似点・相違点:
押川方義の「東北をして日本に於けるスコットランドたらしめん」



(57) 共通点:
   1. 中央とは異なる独特な文化的ルーツ:蝦夷 (アイヌ) vs.ケルト
   2. 侵略と文化的同化の脅威:大和朝廷 (日本)vs.大英帝国
   3. 中央政府に対する数度にわたる民族的抵抗と敗戦

(58) 相違点:
   1. 近代「日本国」は、(各地に部落民などへの差別はありましたが)「日本国」の範囲内であれば一応日本人と認め、日本語と日本文化を普及させ、「同化」に成功しました。
   2. スコットランドには依然としてケルト文化が残っていますが、東北には地名を除いてほとんど蝦夷 (アイヌ) 文化の痕跡がありません。結果として、東北には古来の文化がわずかしか残っていないのです。これはよい面、悪い面があります。
   3. 大多数の東北人は自分たちの地域・文化に誇りを感じていない。一方で、スコットランド人は自らのアイデンティティーに強い誇りを感じている。

(59) ただ、スコットランドに古来のケルト文化が根強く残っているとはいえ、ケルト本来の言語 (Gaelic) を話せる人たちはごく一部です。

(60) さて、愛媛宇和島伊達藩出身の士族で横浜修文館(横浜バンド)というバラ((John Craig Ballagh,1842-1920))& ヘボン博士の英語塾で学んだ押川方義(1852-1928)は、横浜で受洗し、キリスト教伝道のために新潟、仙台を訪れ、1886年に仙台神学校(後の東北学院大学)、宮城女学院(宮城学院大学)を設立しました。1889年に欧米視察に出発し、翌1890年スコットランドのエディンバラを訪問します。1895年に『東北文学』で仙台をエディンバラに譬えています。1897年には当時東北学院で英語を教えていた島崎藤村も、「告別の辞」で東北をスコットランドに比較しています。1911年5月に押川正義が「東北をして日本に於けるスコットランドたらしめん」と述べたと、『東北文学』に掲載されました。

(61) 1918年には、米国人宣教師クリストファー・ノス (Christopher Noss,1869-1934)がTohoku the Scotland of Japanをフィラデルフィアで出版しました。(この本は、東日本大震災被災者支援で2011年に送料込みでエディション・シナプスから1冊1万円で復刻出版されました。イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831-1904)の『日本奥地紀行』(Unbeaten Tracks in Japan, 1880)やチャールズ・A・ロングフェロー(Charles Appleton Longfellow 1844-1893)の『ロングフェロー日本滞在記』(Twenty Months in Japan, 1871-1873; 山田久美子訳 平凡社 2004)などのごく僅かな例外を除けば、英語で書かれた初の東北案内といえる文献で東北(6県に加え新潟も含む)の歴史、地理、宗教、産業や人々の生活などを記述した前半部分と、キリスト教伝道や東北学院、宮城学院での教育活動などを中心内容とする後半部分からなり、約165の項目がさらに細かい見出しに分けられ、55点の写真やカラーの折り込み地図2点も付いて、東北事典としての利用もできるように編集されています。)

(62) 押川方義の「東北をして日本に於けるスコットランドたらしめん」は、当時の仙台を中心としたキリスト教伝道関係者に心の奥深く刻み込まれた言葉でした。この言葉には、日本で活躍したスコットランド人宣教師であり、押川の横浜時代の恩師であったセオボールド・アドリアン・パーム(Theobald Adrian Palm, 1848-1929)の影響があったと言われております。

(63) パームは1873年にエディンバラ大学医学部を卒業し、医学士と外科医学修士を取得して、スコットランド一致長老派教会の宣教師として、妻メアリを伴い、1874年5月15日に横浜に入港、 ヘボン式ローマ字と明治学院創設者として有名な米国長老派教会の医療伝道宣教師ジェームス・カーティス・ヘボン(James Curtis Hepburn, 1815-1911)を訪ね、築地に滞在しつつ日本語を習いますが、翌1875年1月に長女誕生の喜びもつかの間、夫人と生まれたての長女二人を続けざまに失ってしまいます。その悲しみから立ちあがり、4月から新潟で医療伝道を開始することになりました。正にスコットランド人の不屈の精神の顕現です。そして、新潟で押川方義に出会うことになります。パームは新潟でも現地の人たちからの嫌がらせ・伝道妨害、そして1880年8月6日に起こった新潟大火により、診療所が焼失します。1883年4月に大阪で大阪で第二回在日プロテスタント宣教師協議会が「現地教会の自給」というテーマで開催された。パームはその会議で「医療伝道の位置」というテーマで講演し、その半年後にスコットランドに帰っていきました。

(64) 江戸時代末期から明治の文明開化の時代、日本の近代化には、スコットランド人たちの貢献が目立ちます。幕末長崎で活躍した武器商人トーマス・ブレーク・グラバー (Thomas Blake Glover, 1838-1911)、工部大学校(東京大学工学部の前身)の初代総長となったヘンリー・ダイヤー (Henry Dyer, 1848-1918)、同じく東大医学部の前身東京医学校の初代校長ウィリアム・ウィリス (William Willis, 1837-1894)、そして軽井沢開発のアレクサンダー・クロフト・ショー (Alexander Croft Shaw, 1846-1902)などが有名です。


トーマス・ブレーク・グラバー像 (Bust of Thomas Blake Glover by Old Glover House, Glover Garden Nagasaki)


(65) 私伊東が最初に出会ったスコットランド人といえば、大学時代の恩師小竹ヘザー (M. Heather Kotake)先生です。首都エディンバラで牧師の家にお生まれになったと伺いました。私は、社会言語学ゼミや言語学概論などで2年間お世話になりました。「将来は大学教授になってはどうか」と最初に強く勧めてくださった方でもあります。普段は主に言語学などをご教授されておられましたが、最終講義では、"Introduction to the Folklore of Scotland" (2012年3月13日 至東北学院大学)という題目で、故郷スコットランドのことをご講義されました。厳しい反面、ユーモアのセンスもおありで、スコットランド伝説の怪獣「ネッシー(Nessie the Loch Ness Monster)は、雌ですよ!」と断言されていたのが印象的でした。


ネス湖 (Loch Ness in search of Nessie the Loch Ness Monster)


(66) 19世紀後半から20世紀前半にかけて、日本は文明開化と称して、積極的に西洋化に勤めたことは皆さんよくご承知のことでしょう。2014年11月25日に放送されたNHK朝ドラ『マッサン』の第9週 第50話の次の会話を聞いてください。これはモデルとなったニッカウヰスキーの創業者かつサントリーウイスキーの直接的始祖である竹鶴政孝(1894-1979)とそのスコットランド人妻リタ(Jessie Roberta “Rita” Cowan, 1896-1961)の大阪新婚時代というから計算しておおよそ1923年前後、大正末期のころです。日清・日露戦争に勝利し、領土としては一番拡大していた頃ですが、それでも当時のスコットランド人たちの認識では、まだまだ日本は自分たちには到底叶わないと考えていたのだと思います。盛岡出身の新渡戸稲造Bushido: The Soul of Japan :『武士道』1900)は日本の文化や日本人の価値観を英語圏や欧米に広く紹介したのですが、それでもまだまだ日本と英国、スコットランドには大きな差があったのですね。いわんや、東北地方とスコットランドの差はさらに大きかったわけです。

[MP4 2: 平成26年度後期NHK連続テレビ小説『マッサン』第9週 第50話 2014年11月25日放送]







5. これからの「東北」:日本の東北から世界の東北へ


(67) 同じケルトの国ウエールズは早々とイングランドに同化してしまいました。ゆえに連合王国を構成する一つの国ではあっても、英国旗ユニオン・ジャック(Union Jack)にもウエールズの旗は含まれていません。日本の北海道とほぼ同じ面積のアイルランド島では、工業都市ベルファスト(Belfast)を含む北部はまだ英国領ですが、南部は800年に渡る抗争の末、1922年についに英国から独立を勝ち取ったのです。


(Downloaded from the Wikipedia, dated Oct. 17, 2007)



(68) 前述したように、ケルトの国スコットランドは歴史上何度となく、アングロサクソンの国イングランドと戦って、何度も敗れてきました。何度も妥協を余儀なくされました。でも、その度に、彼らの「誇り」と「不屈の精神」で自分たちの文化、アイデンティティーを守ってきたのです。

(69) では、「東北をして日本に於けるスコットランドたらしめん」という言葉を1911年当時ではなく、2014年の東北地方で考えてみましょう。スコットランド人たちから日本人は昔から直接的に間接的に多くのことを学んできましたが、いま我々東北人が一番学ぶべきなのは、彼らの「誇り」と「不屈の精神」ではないでしょうか?どうか、皆さん、「東北」に誇りを感じてください。もし東北人、岩手人たる自分に誇りが感じられないのならば、皆さんの手で未来の東北人、岩手人が自分たちの住んでいる場所に誇りを感じられるようにしてください。そのために自分にはどのような貢献が出来るのかそれぞれ考えてみてください。決して他人任せにしないで、自らが「東北」に出来るだけのことをするのです。そして、それを次世代に伝えましょう。次世代が自分たちの成し得たことをもっとよくしてくれると願いながら。最後にスコットランドの伝統楽器バグパイプの演奏を聴いていただきます。曲はもちろん、スコットランド国歌 (非公式) "Scotland the Brave"です。

[MP4 3: "STV Scotland - The Royal Scots Dragoon Guards Perform at Edinburgh Castle":
"Scotland The Brave" (2008)



 


[おわりに:受講生のみなさんへ]

(70) スコットランドから「誇り」と「不屈の精神」を学んで、「東北」、「岩手」から、皆さんがそれぞれの方法で新しい可能性を「発掘」してくれることを願って今日の講義を終わります。今日はどうもありがとうございました。



 
 
 
 




*本講義は、恩師志子田光雄先生の最終講義「近代日本の形成とスコットランド---押川方義の『東北をして日本に於けるスコットランドたらしめん」をめぐって」(2008年3月8日 至東北学院大学)を基礎資料としています。志子田先生の最終講義の意義を震災後を再考してみることが本講義の主たる目的です。

**また、恩師故西山良雄先生には、ご専門のJohn Donneとともに、The English Authorised King James Version of the Bibleに関する基礎知識はじめ、Robert Burns、Sir Walter Scottなど、スコットランド文学の醍醐味を教えていただきました。

***さらに、スコッチ・ウイスキー、特にラフロイグ(Laphroaig)のスモーキー・フレイバーの美味しさを教えてくださった会員制「小田バー」店主で酒豪として名高かった恩師故小田基先生にも謝意を表したいと思います。私は小田バーでお金を払った覚えがまったくありません。天にまします小田先生、「つけ」はいつどのように返したらいいのでしょうか?
 



   



        


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