Tohoku and Ireland
Winter Session 2006
Eishiro Ito
章 |
章毎のタイトル |
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発想の起点:揺らぐ「日本」と「日本人」 |
1 |
はじめに
a.「国家」(nation)とは?
b.「日本」とは?
c.「東北」とは? |
2
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「東北」の歴史:「日本」に組み込まれる経緯
a. 蝦夷(アイヌ)の地「東北」への近畿王権の侵略:アテルイと坂上田村麻呂
b. 奥州平泉の盛衰
c. 鎌倉期以降の東北 |
3
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「アイルランド」の歴史:
大英帝国に組み込まれ、そこから独立するまで
a. ケルト民族の地:ドルイド教とキリスト教の融合
b. ヴァイキングの侵略と大英帝国の支配に対する戦い、そして共和国の独立
c. 北アイルランド問題とは? |
4
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「東北」と「アイルランド」の類似点・相違点 |
5
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これからの「東北」:日本の東北から世界の東北へ |
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おわりに:受講生のみなさんへ |
[発想の起点:揺らぐ「日本」と「日本人]
(00) 最近のあるニュース番組で、沖縄の若者が「日本と沖縄の関係は...」と発言していたのが妙に気になっています。言うまでもなく、沖縄は日本国の一地方であるはずです。また、「北方領土」、尖閣諸島、竹島が
「日本固有の領土」だと主張する人たちもいますが、本当に「固有の」なのでしょうか?本講では、これらを問題の起点として「日本」
と「東北」、「英国」と「アイルランド」を比較することにより、「日本人とは誰か」、そして「日本とはいかなる国か」を再考する場を提供したいと思います。
私たちが現在「日本人」と呼び、「日本(の領土)」と見なしているものは、実は歴史的偶然が作り出した曖昧な存在ではないでしょうか?恐らく、同様のことは世界中のあらゆる人々や国々、そしてその領土に関しても言えるはずです。現在のEU体制でのヨーロッパでは、国境は日本の県境のような存在になりつつありますし、例えばハンガリー人はハンガリーだけでなく、スロベニアやルーマニアなど周辺諸国にも点在して自分たちの文化を守っています。それは現在の国境が定められた、第一次大戦後のトリアノン条約に臆することなく、全ハンガリー人の半数以上が新しく定められた国境の外に居住し続けたからです。この事実が教えてくれるのは、日本人が抱いているような国境と国家、民族、文化、言語などの関係は、じつは多くの歴史的偶然により、かなり複雑で不安定なものであるということです。「東北」を敢えて「日本」から、「アイルランド」を「英国」から切り離すことで、現在我々が暮らすこの国の多様性と多層性に今一度目を向けてみたいのです。
この講義では、「日本」、「東北」などと、歴史学的にその成立が曖昧で再考の余地があるものについては「」で表記することにします。また、この講義で扱うのは、いわゆる文部科学省検定歴史教科書(the History)という、記述内容に疑いを持つことなく受験用に丸暗記する「大文字の歴史」ではなく、その背後に隠された、小文字の歴史的事実群(the histories)です。
1. はじめに
[1a. 「国家」(nation)とは?]
(01) 「国家」とは何でしょうか?『ニューヨーク・タイムズ』の選んだ20世紀最高の小説、ジェイムズ・ジョイス作『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームは"nation"をこう定義しました:(nationとは)、「同じ場所に住む同じ人々」(the same people living in the same place)。 これだと分かりにくいかもしれません。例えば、国際連合 (United Nations)が国家と認めることが条件ならば、台湾は国家ではありません。シンガポールは国家ですが、同じような商業都市香港は国家にはなりませんでした。
(02) また、「同じ人々」が「同一民族」という意味ならば、例えばアメリカや中国は多民族国家ですからnationではありません。日本にも戦前から在日朝鮮 (韓国)人、在日中国人の方々が少なくとも50万人以上は暮らしておりますし、その他の「外国人登録証」所有の方々、不法滞在者などはいわうる日本国民ではないのです。在日朝鮮人に「あなたの国はどこですか」と質問すれば、どういう答えが返ってくると思いますか?さまざな答えが予測されます。彼らは "Nowhere (no + where) men"なのかもしれませんが、彼らは今ここにいる (now here) 人たちなのです。岩手にも約三千人の在日朝鮮人がいらっしゃいますし、盛岡冷麺やじゃじゃ麺などはこういった方々の存在なくしては今のような素晴らしい特産物にはなっていなかったことでしょう。全国的に見て、国際交流、国際協力が決して積極的に行われているとは言いがたい岩手でも、十分に異文化交流の歴史的足跡を探すことはきわめて容易です。
(03)
漢語における「国家」は、諸侯が納める国と卿大夫が納める家との総称で、特定の境界を持つ支配地・支配民を意味しました。対語は、いかなる限定もされない支配地と支配民、つまり「天下」です。支配機構を出発点にする方向性はヨーロッパの国家(state < L
status) 概念と同じですが、支配の対象である土地と人民を含む点で、微妙なニュアンスの違いを持ちます。"nation"は国家というより、むしろ「国民」の意味合いが強いのです。
[1b.
「日本」とは?]
(04) この国が「日本」という名称を正式に用いるようになったのは698年、大后鸕野讃良(おおきさきうののさらら)が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し、その中で「倭」に代わる国号として「日本」、大王(おおきみ)に代わる称号として「天皇」、さらに「皇后」、「皇太子」などが正式に制度的に定められ、「日本国」がはじめて列島に姿を現わしました。「日本」は部族名でも古来からあった地域名でもなく、そもそもは聖徳太子によって隋の皇帝に宛てて書かれた有名な書簡に由来し、日の出るところ、つまり東の方向を意味し、太陽信仰を背景にしつつも、中国大陸を強く意識した国号でした。この思想が後世、幕末に日本国旗 (the Rising Sun) 創成に受け継がれ、現在に至っております。
(05) 現在、「日本」は島国で、北は宗谷海峡、南は朝鮮海峡まで「日本」という国の国土は広がっています。では、そこに国境がある必然性はあるのでしょうか?これがあると考えられたのは、その範囲内で「単一国民」国家を造ろうとした近代日本国の作り出した幻想、日本国を近代国家にするための否応のない虚偽であったと歴史家網野善彦は考えました。江戸時代初期、明治初期、大正期、昭和初期には、現在の「日本国」の国境は大分違っておりました。一番広がっていた昭和初期には、侵略戦争によって、日本は植民地を獲得し、樺太、千島列島、満州、朝鮮半島、台湾、東南アジアなどを含む大変大きな国でした。現在、皆さんが国境だと信じている境界はじつは
第2次世界大戦の敗戦によって1945年以後に定められた、あるいはアメリカ、ソ連 (1922-1991)、中国など戦勝国によって定められてしまったものなのです。
(06) 陸地に国境を持つ大陸の国々と異なり、「日本」は海によって諸外国と隔てられていたわけではなく、海によって諸外国と繋がっているのです。最初にこれに気づいたのは、仙台藩部屋住 林子平でした。彼の『三国通覧図説』はロシアへも持ち込まれ、フランス語訳されて1832年にロンドンで出版され、のちに江戸幕府が
アメリカのマシュー・ペリー提督と小笠原諸島領有を巡って議論になったとき、日本側の確固たる根拠となりました。(なお、世界最初の露和辞典「ニボンのコトバ」を編纂したのは、1745年千島列島に漂着した南部藩出身の竹内徳兵兵衛一行のさすけという人物だったため、正確には露岩手辞典でした。)
(07)
アムール川⇔サハリン⇔北海道⇔「東北」⇔関東という東あるいは北の文化交流のルートの存在。世界地図をぼんやり眺めて見れば、この列島は弓なりになって大陸に接しています。太古には、「日本海」(朝鮮半島では「東海」と呼びます)は大きな湖でした。当然「東北」経由の文化ルートはあったはずです。古代には、東日本の人口密度は西日本より遥かに高かったようです。
Cf. 三内丸山遺跡、津軽半島の十三湊の豪族安藤氏の館跡、奥州藤原氏の本拠地岩手県平泉、青森県砂沢遺跡で発見された東北地方最古(紀元前2世紀)の水田と水路跡等々。
(08) 強大な文化ベクトル「弥生文化」が中国、朝鮮半島を経て西ルートでもたらされ、「日本」に水田農耕を伝えました。この弥生文化は単に農耕用具など物質面だけでなく、さまざまな社会的制度をも「日本」にもたらしました。その最も大きなものが恐らく被差別部落で、まだ静岡以西には多く残っています。
(09) 弥生文化によってもたらされたものは、米作を中心とする農耕中心主義であり、社会に対する見方の大きな基準として農業がありました。ゆえに農業が発達していない地域(狩猟採集社会)は遅れた貧しい地域であるという見方が広がりました。ここに、東北が現在のように開発の遅れた、貧しい地域だという偏見の根本があります。
[1c. 「東北」とは?]
(10) そもそも「東北」とは方向を示す名称です。それは、近畿地方の大和政権から見て、鬼門とされる、北東の方角にあり、たしかにアテルイなど、近畿王権になかなか従わない住民の激しい抵抗が、鬼のそれにも喩えられたのでしょう。坂上田村麻呂以後に、源氏一門が代々岩手を中心とする東北に反乱鎮圧に来て、その武功を称えるように、仏教の北門の守護者毘沙門天像を盛んにこの地に作らせ、また部門の正統源氏の氏神を祀る八幡宮が東北、特に岩手には数多くあります。むろん、盛岡、八戸を治めた南部家が甲斐源氏の出自であることを明言してきたので、その源氏の正当性を主張するために八幡宮各社を庇護する必要があったことも大きいです。
(11) 「日本」に併合後も、もともと熱帯産の米を寒い地方でも栽培出来るように品種改良出来なかった時代には、「東北」は貧しく遅れた地域だとされました。記録がきちんと残っている江戸時代から昭和初期にかけて「東北」は何度となく大凶作、そして大飢饉に見舞われましたが、それは寒さに強い他の穀物栽培を考えず、盲目的な米作に頼った結果なのです。
2.「東北」の歴史:「日本」に組み込まれる経緯
[2a.
蝦夷(アイヌ)の地「東北」への近畿王権の侵略:
アテルイと坂上田村麻呂]
(12) 「東北」:もともと、かの地は中央(近畿地方)の勢力が行き届かず、野蛮な人々が住む地域という意味で「蝦夷地」と名付けられ、政治の中心が関東に移った近世からは「みちのく」(道の奥)または「奥州」と呼ばれていました。「東北」というのは、無論、京都からみた、この地の方向を示しています。陰陽道では、「北東」または「東北」という言葉は、不吉なものがいる方角を示します。ゆえに、奥州市水沢区に
坂上田村麻呂が建設した鎮守府胆沢城の東北に八幡宮が建立され、また、京都の東北の方向には、邪悪なものが都に入って来ないように、比叡山延暦寺が建立されました。東北地方という呼称が定着したのは、明治以降であるようです。
(13) 「蝦夷地」(奈良・平安時代には北海道ではなく、東北地方のこと): 蝦夷(エミシ)という言葉は、英語ではバーバリアン(barbarian)とでも訳せるでしょう。この英単語はギリシャ語の語源(barbarous)を持ち、「ギリシャと言語習慣の異なるあらゆる外国人」を指しました。つまり、ギリシャ語を話せない者はすべてバーバリアン、即ち野蛮人でした。この呼称は極めて傲慢ではないでしょうか。
(14)
蝦夷という呼称は中世に「日本」の中心であった京都から見て、この地には「日本」とは明らかに異質な、かつその侵略を阻止しようとした文化が確かに存在していたことを示しています。
(15)
773年(宝亀4年)から「三十八年戦争」と呼ばれる戦争が起こります。『続日本紀』によれば、776年(宝亀7年)には「陸奥軍三千人を発して、胆沢の
賊を伐つ」とあります。胆沢の賊とは、当時、「東北」で強い力を持っていた、現在の岩手県奥州市水沢区附近に居留していた阿弖流為(アテルイ=悪路王)と彼に従う兵士たちを指しました。後に征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は、大軍をもって蝦夷征伐に向わせたのです。この地に胆沢城を築いた田村麻呂は、801年(延暦20年)の「胆沢の戦い」で阿弖流為・母礼を降参させ、すでに建設されていた多賀城(現在の仙台市近郊)などとともに、「東北」に京都の力が及ぶようにしました。それとともに関東から多くの移民が入植し、開墾が進みます。
[DVD 1: Aterui]
[2b.
奥州平泉の盛衰]
(16) 平安時代末期、一つの独立国家と言ってもよい平泉が奥州藤原氏によって花開きます。現在もほぼそのままの形で残る中尊寺の金色堂に代表される華やかな黄金文化が栄えた平泉は、往時には人口4万(一説には10万)をこえる、当時
の京都に次ぐ列島第2の大都市となりました。この平泉こそがマルコ・ポーロのジパング黄金伝説のもとになったと主張する学者も多いようです。「東北学」の権威、赤坂憲雄も指摘するように、12世紀の平泉の勢力範囲は現在の「東北地方」の範囲と見事に重なります。すなわち、12世紀の平泉は、現在の「東北地方」の原型を築いたのです。この時代は、平安京の影響を受けつつも、独自に中国その他のアジア諸地域さらには黒竜江など現在のロシア領との交易を行い、「日本」とは異なる文化的多様性を保持しておりました。確かに藤原秀衡が建立した無量光院は宇治の平等院鳳凰堂をモデルにしていたのですが、中尊寺、毛越寺などの大伽藍や金鶏山を含めた平泉全景は、戦いに疲れた初代藤原清衡が目指した「戦争のない極楽浄土」を強く意識したものでした。平安京には表面上恭順の姿勢を保ち、幾度となく黄金など他の「日本」のどの地域よりも豊富な貢ぎ物をしておりましたが、他方では中央政権の直接介入を拒み、「奥州藤原氏自治領」として大いなる発展をしていたのです。しかし、平泉の文字通り黄金時代を築いた三代秀衡没後、政治的影響力の落ちた四代泰衡は、鎌倉の源頼朝の執拗な催促と強迫に屈し、せっかく匿ったいた源義経を襲い自害に追い込み、軍事的統率力に欠いた平泉は、ついに1189年、頼朝率いる鎌倉軍の前に滅亡しました。約500年後に松尾芭蕉がこの地を訪ねたとき、「三代の栄耀は一睡の中」にあり、かつての平泉は田野になっていました(『奥の細道』)。平泉の栄えたのは、12世紀末までの約100年間でしたが、この時代こそが「東北」がもっとも輝いていたときであり、蝦夷時代の独自の文化を保っていた時代でした。「黄金」を採掘するには、多くの山人(やまびと)すなわち、山伏、マタギ果てはこの地に落ち延びていた物部氏の子孫たちの協力が不可欠でした。残念ながら、彼らがどのように平泉に関わっていたのかは現存資料が乏しく、まだ明らかになっておりませんが、白山信仰との関係についてはある程度研究が進んでいるようです。(平泉は岩手県の高校生の皆さんは当然親しんでいるでしょうから、今日はあまり言いません。DVDで簡単にすませます。中沢新一の解説を注意して聞いてください。)
[DVD 2: NHK特集
平泉]
[2c. 鎌倉期以降の東北]
(17) 戦国時代末期に伊達正宗が山形の米沢から現われ、仙台を拠点にして、ときの権力者豊臣秀吉や徳川家康を脅かし、また支倉常長などをヨーロッパに送り独自に交易の道を模索しました。
(18) 明治維新のとき、戊辰戦争に破れた東北、新潟諸藩は、鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩を救済するため奥羽越列藩同盟をつくり、薩長新政府が抱く明治天皇に対し、輪王寺宮公現法親王を擁立し、会議所を仙台におき、アメリカ帰りの玉虫左太夫(仙台藩)が采配を揮って東日本政府樹立を企てました。もっともこれは歴史が証明する通り、たちまちのうちに失敗に終わりました。やがて大正7年(1918)に岩手県出身の原敬が奥羽越初の総理大臣に就任しました。
(19)
以上、見てきたように、東北地方は何度も「日本」に対し戦いを挑み、その度に敗れ、結果として現在のように「日本国」に組み込まれました。九州南部や沖縄、北海道やいわゆる「裏日本」と言われる地域についても、同様に歴史的に論じ、また証明することが重要です。我々の住む「日本国」は実は列島諸地域に本来存在した多様性をすべて「日本」や「日本語」によっ て覆い隠した結果現在の姿となった国家です。
(20)
「東北」という場所が、古来、異文化接触の場所であったことは言うまでもありません。それだけならば、べつに「東北」にかぎったことではないの
ですが、「東北」は、「日本」の漢字文化が確立してから後、つまり有史時代以降の歴史のなかにその異文化接触の痕跡を深く刻み込んでいます。坂上田村麻呂や源義経をめぐる伝承文学、さらに『奥の細道』などの「日本語文学」は、古代・中世・近世の東北を舞台にした「日本」の植民地文学としての共通するひとつの系譜の上に位置づけられます。しかも近世以降、「日本」の経済システムの一部に組みこまれてから後もまだまだ日本の奥として辺境の位置にあった「東北」は、近代以降は北海道以北の植民地主義にさまざまな意味で加担することになり、たとえば樺太(サハリン)への植民政策に人材その他の供給の面で貢献するなど、「東北」の歴史は、コロンブスによるアメリカ発見以降の西洋植民地主義がもたらしたものと歴史的にかなり近いものでした。
*西成彦、天沢退二郎編、『宮沢賢治ハンドブック』「クレオール」69.
3.「アイルランド」の歴史
大英帝国に組み込まれ、そこから独立するまで
[3a. ケルト民族の地:ドルイド教とキリスト教の融合]
(22) アイルランドに関する最も古い記録は、紀元前6世紀初頭に書かれたギリシャの記録:アイルランドは「インスーラ・
サクラ」つまり「聖なる島」と呼ばれ、その島の住人は「エレンの種族」と記されています。
(23) ケルト:古代ギリシャの歴史家ポセイドニオスの記述によれば、ケルト人は勇猛果敢な戦士で、二頭立ての戦車を駆って敵陣に攻め入り、敵の首を取ることを手柄としたところから「首狩り族」と恐れられておりました。ケルト人は背が高くて肌が白く、碧眼紅毛であり、戦士は長く肩まで垂らした波打つブロンドや赤い髪の毛を、チョークを混ぜた水で濡らして馬のたてがみのような形に練り固めていました。女は長髪を二つに分けて剃髪に編み、金や銀の装身具で飾り立てていました。古代からアイルランドは山地と森に囲まれた沼地が多く、耕作にはあまり適していないが、夏の間は放牧に適していました。
[DVD 3: Celts]
(24)
古代アイルランドは全土が多くの部族国家に分割されていたため、統一的政治権力は存在しておりませんでした。それでも文化的統一が保たれていたのは、土着のドルイド教があったからです。ドルイド教の神官はトゥア (ケルト語で「人々」)を離れて、全国どこでも自由に行くことができました。5世紀以降、キリスト教が次第に広まるにつれて、ドルイド教は姿を消しましたが、その影響は未だに残っております。それは、キリスト教会が布教にあたり、土着のドルイド教と対決することを避け、ケルト神話も否定せずに認めてきたことと無関係ではないのです。
(25) 367年以来、スコットランドとウェールズ南西部にケルト人植民地が建設されると、ケルト人ははじめてキリスト教と出会います。のちにアイルランドの修道士たちは海外への布教活動に熱心に出向き、ブリタニア、フランス、ドイツ、スイス、イタリアなどへ足を伸ばします。
[3b. ヴァイキングの侵略と大英帝国の支配に対する戦い、そして共和国の独立]
(26)
8世紀の終わり頃になると、アイルランドはたびたびヴァイキングの侵攻を受けました。830年代になるとヴァイキングの侵攻はますます激しくなり、次第に内陸部の奥深くまで侵入するようになり、教会や農場をすっかり荒らしたのです。
(27) 1066年、ノルマン・コンクェスト。ブリタニアはノルマン人の支配下にはいりました。
(28) ウェールズのストロングボウ将軍、登場。アイルランド征服にイングランドが積極的に動きます。1171年、アイルランドは北西部の一部辺境を除いてイングランド王ヘンリー2世の支配下に置かれました。1175年10月にウィンザー条約が結ばれ、ローリー・オコナーがコノート地方の支配権と引き換えにヘンリー2世の宗主権を確認しました。これがアイルランドのイングランドへの従属の発端です。
(29) 13世紀以降、イングランドは、フランスとの戦争に熱中するあまり、アイルランドにそれほど興味を示さなくなってしまい、もともと数の上ではケルト民族に対して圧倒的に少なかったノルマン人の統治力には翳りが見え始めます。このためケルト人諸候たちも隙あらば反抗するようになり、1270年にオート・イン・チップの戦いでノルマン人に勝利するとノルマン人の軍事的優位はなくなりました。
(30) 14世紀になると、イングランドはスコットランドとの戦いやフランスとの百年戦争(1337-1453)に突入したため、アイルランド植民地にかまっているゆとりはなくなりました。また、イングランドのバラ戦争(1455-1485)におけるヨーク家とランカスター家にもアイルランドは大きな影響を与えました。最初ヨーク公に組みしたアイルランドは、1485年以降ランカスター系のテューダー王朝に仕えつつ、一方で脅威を与え続けました。
(31) 1533年、ヘンリー8世が王妃カサリンと離婚してアン・ブーレンと結婚しましたが、ローマ法皇が認めなかったので、カトリック教会と決裂、1534年にはイングランド国教会を設立して宗教改革に乗り出します。これに対し、カトリック教徒が多数を占めるアイルランドのキルデア伯爵家のシルクン・トーマスが1534年に反乱を起こしましたが、イングランドからの派遣軍によりまたたく間に鎮圧されました。ヘンリー8世は歴代イングランド王の中ではじめて名実ともにアイルランドの支配者になりました。これ以来、ダブリンには常時イギリス軍が駐留し、アイルランドは1922年の自由国設立まで400年近くもの間イギリス人総督の直接支配を受けることになります。
(32) イングランドは一切アイルランド的なものを許容せず、イギリスへの完全な同化を強要しました。(これは、大和朝廷の「東北」支配と同様です。)
(33)
新入植者たちの成功を目のあたりにしたアイルランドの人々も、みずからイギリスに同化し、言葉も次第に英語が普及しました。すなわち、英語を話す者が支配者であり、上流階級と考えられたために、アイルランド語は辺鄙な地方で教育のない者がしゃべる言葉として嫌われていきました。
(34) 1649年、清教徒革命を指導したオリヴァー・クロムウェルは、アイルランドの反政府勢力を壊滅させるため、当時のヨーロッパ最強と言われた2万人の新教徒による精鋭部隊を派遣しました。カトリック教徒は宗教的情熱に駆られた新教徒部隊によって情け容赦なく殺戮されました。その無差別殺戮の様子は長くアイルランド人の間で語り継がれ、アイリッシュ・ナショナリズムを育くむことになりました。
(35)
18世紀初頭、アイルランド議会は全員プロテスタントで占められ、アイルランド全人口の3/4を占めていたカトリックは全国土の14%しか所有していませんでした。また、法律上カトリックの商人はギルドに加入することは出来ず、政府職員、軍人などの公務員にもなれず、弁護士、検事にもなれませんでした。
(36) 18世紀のアイルランドで一般庶民がいかにひどい暮らしをしていたか、『ガリヴァー旅行記』の著者でダブリンの聖パトリック寺院主席司祭ジョナサン・スウィフトは、1729年に『穏健なる提案』(A Modest Proposal)というパンフレッドで「いっそのこと子供を殺して食料として食べてしまったらどうだ」と痛烈に皮肉っています。
(37) 1801年、ついにアイルランドは大英連合王国の一部となりました。
(38) 連合王国の下で次第に反英的かつ被害者意識の強いアイルランド・ナショナリズムが育っていきました。それはロバート・エメットからダニエル・オコンネルを経て「青年アイルランド党」の運動に受け継がれました。これは当時被選挙権すらなかったカトリック教徒の差別撤廃闘争で
した。オコンネルらの運動の甲斐あって1829年にはカトリック解放法案がイギリス議会を通過しました。この法案により依然として数の制限はあったものの、アイルランド人
にも官僚や議員になる道が開かれました。オコンネルは更に数回にわたって「モンスター・ミーティング」(怪物集会)と呼ばれた大衆デモを開き、一度に50-75万の人々がオコンネルのもとに集結しました。しかし、1843年にはついにイギリス政府はこの集会を禁止し、オコンネルはその決定に従わざるを得なかったのです。そして1847年オコンネルは失意のうちにこの世を去りました。
(39) 1858年にはアメリカでアイルランド系移民を中心にフェニアン協会が設立され、アイルランドとカナダで何度か武装蜂起をしましたが、その度にイギリス軍によって鎮圧されました。
(40) 1845年から大飢饉がはじまり、当時のアイルランドの主食であったジャガイモを腐らせる胴枯れ病が発生して収穫が激減し、その被害は3年間に及びました。結局、アイルランド人はこの深刻な事態に対処することが出来ず、いたずらに餓死するのを待つか、祖国を離れ移民あるいは難民となって他国へ渡るしかなかったのです。1840年には約800万人以上だったアイルランドの人口は19世紀末には半分以下に激減しました。1994年、アイルランドを代表する女性歌手の一人シニード・オコーナは「大飢饉」(“Famine”)という歌の中で「あの大飢饉はイギリス政府がひき起こした人災だ」と訴えています。
(41) 大飢饉の後のアイルランドの大きな問題は土地問題と国家としての独立でした。そこに登場したのがイギリスのW.E. グラッドストン内閣で、彼は一度は下野したものの1868年から1894年に政界を引退するまで一貫してアイルランド自治の実現に向けて努力しました。グラッドストンは1869年に教会法を定め、すべての宗派を平等に扱い、1870年に土地法を成立させてアイルランドの小作農を保護しようとしました。
(42) チャールズ・スチュワート・パーネル:富裕なプロテスタント地主階級出身で、決して雄弁家ではない彼の得意戦術は議事妨害でしたが、一方では天才的な人心掌握術の持ち主で、巧みに人々の支持を集めていきました。グラッドストン内閣の支持を取り付けたとき、このままパーネルが指導者であればいつかはアイルランドに自治がもたらされるだろうと思われました。ところが1890年11月に彼が友人の妻オシェイ夫人と密通していたというスキャンダルが表ざたになると、グラッドストンを困惑させ、プロテスタント政治家パーネルを失脚させる格好の攻撃材料をカトリック教徒に与えてしまいます。離婚したオシェイ夫人と正式に結婚して再起をはかったものの、結局政治の舞台から引退を余儀なくされて、まもなく彼は失意のうちにこの世を去りました。
(43) パーネルの死後、彼のアイルランド議会党が分裂し、政治的な影響力を失い、グレゴリー夫人、ウィリアム・バトラー・イェーツ、ジョ
ン・ミリントン・シング、ダグラス・ハイドら詩人、文学者たちによるアイルランド文芸復興運動が花開きました。そして、一部の知的エリートのための小さなサークルから一般大衆的レヴェルに広げたのはダグラス・ハイドとオーニン・マクニールが創設したゲール語同盟でした。[注:ゲール語=アイルランド語]彼らはゲール語がまだ話されている地域でその保存をはかり、次第にその地域を拡大していくことを目標としました。いわばアイルランド語の復権です。
(44) ハイドはこう主張しています:「母国語と母国の慣習を捨ててしまえば、どうやってわれわれがイギリス人とは違う、別の国の人間だということを世界の人々に認めさせることが出来ようか。だから、今のアイルランドの世代がやらなければならないことは、アイルランドという独自の文化国家を再建することだが、それはまず言葉、文学、音楽、スポーツ、衣服、思想などでイギリス人の模倣をやめ、脱イギリス化することから始まる」。そして、マイケル・キューザックによってゲール体育協会が設立され、ハーリングやゲーリック・フットボールのようなイギリスにはないアイルランド独特の競技の普及が奨励されました。
(45)
ハイドやキューザックは、こうしたスポーツを通じて青少年の間でアイルランド人としての自覚を高めることが独立への一番の近道だと考えました。ナショナリストの中には、僅か数年の間に急速に膨れ上がった組織としてのゲール語同盟の政治的側面を活用しようとする者もいました。当時、独立国の要件と考えられていたのは、明確な独自の文化を持っているかどうかということであり、アイルランドはまさにそうした独特の文化を持つ民族なのであるから当然独立を認められるべきだ、とナショナリストたちは主張しました。
(46) 1914年に第1次大戦が勃発。イギリス政府は戦争遂行をすべてに優先し、アイルランド自治問題を当分凍結しようとしました。当初、アイルランド人は戦争を静観していましたが、戦争の長期化に伴い、予備役まで含め大量動員がかけられ、カトリックも経済的な理由から多数志願兵として徴兵に応じました。戦争は一時的に好景気をもたらしましたが、すぐに物資が不足し、インフレが人々の暮らしを脅かしました。
(47) 1916年4月24日、絶望的な情況の中で、ほとんど無謀とも言える「復活祭蜂起」がナショナリスト集団シン・フェイン党によってなされました。旧式のライフル銃だけで武装し、ろくに軍事訓練を受けていないアイルランド人男女約1,000人がダブリンの中央郵便局など中心部を占拠し、パトリック・ピアースを大統領、ジェームズ・コノリーを副大統領に選出して共和国の成立を宣言しました。彼らは、機関銃や大砲で武装した圧倒的な大英帝国の正規軍を相手に1週間抗戦しましたが、結果的には数千人の死傷者と市の中心部の破壊をもたらしただけで鎮圧され、完全な失敗に終わりました。この叛乱は当初まったくダブリン市民の支持を得られなかったのですが、大英帝国は一つの決定的な判断ミスを犯しました。共和国宣言に署名した7名の首謀者を含む15人の反乱指導者をろくに詮議も受けさせずに事件後次々に銃殺したのです。この暴挙により、それまでこの蜂起に冷淡だったダブリン市民の感情が急速に逆転しました。
(48) 1919年には、銃殺事件によって大量の同情票を集め大幅に議席を伸ばしたシン・フェイン党がドール・エレン(アイルランド国民議会)という代表者会議を召集、反乱軍指揮官の一人ながらアメリカ国籍を持っていたため処刑を免れたエーモン・デヴァレラを議長に選出、副議長にアーサー・グリフィス、武装集団の組織者にマイケル・コリンズがそれぞれ任命されました。
(49) 1919年、イギリス・アイルランド戦争が始まり、1921年7月まで続きました。アイルランド軍を主に指揮していたのはコリンズでしたが、それはイギリス軍の兵舎や警察署に対する襲撃、政府要人の待ち伏せ、暗殺と、これに対する報復としてのイギリス軍による民家の焼き討ちや容疑者の処刑といった陰惨な戦いで、いわば近代的ゲリラ戦のはしりとなりました。
[DVD 4: Michael
Collins]
(50)
しかし、戦いに疲れた双方から休戦を求める声が強まり、1921年夏に休戦、同年12月妥協の産物としてイギリス・アイルランド条約が成立しました。これにより、はじめてアルスター(現在の北アイルランド)を除くアイルランドの26県に自治領という地位が認められました。
(51) シン・フェイン党内部で、アルスターを除く26県での分離独立を主張する者と、あくまでアイルランド全島での独立を主張する者との間に対立が起こり、内戦に発展します。その内戦中独立の功労者マイケル・コリンズも暗殺されました。また自由国の初代首相グリフィスも死亡しました。確かにこの条約はナショナリストにとって決して満足出来るものではなかったのです。
(52) アイルランドはその後長い年月をかけて同じく自治領であったカナダなどとも協力し、大英帝国を英連邦(コモンウェルズ)という自治権を持った諸国の自由な連合体に変えて行くことに成功しました。あくまで条約に反対したデヴァレラはフィオナ・フォイル(共和党)を組織し、その後労働党の協力を経て1932年第1次内閣を組織、一旦下野しましたが、1973年までの長期間首相、大統領を数期務め上げ、一貫してイギリスと距離を置き、独立主権国家を目指しました。
[3c. 北アイルランド問題とは?]
(53) このようにして1922年に現在のアイルランド共和国は誕生しましたが、依然として北アイルランドはイギリス領であり、俗にIRAと呼ばれるシン・フェイン党の極右派アイリッシュ・リパブリカン・アーミーは未だにロンドンなどで爆弾テロをくり返しています。北アイルランド問題は旧東西ドイツや朝鮮半島の問題以上に、解決困難な民族及び宗教問題です。根本になっているのは、750年近くに及んだ大英帝国のアイルランド支配、特にクロムウェルの清教徒革命がもたらした極度のカトリック排斥とそれに対するカトリック側の激しい抵抗です。北アイルランドはプロテスタントが圧倒的に多いのですが、彼らの多くはイギリス系移民の子孫です。
(54) つまり、イギリス系アイルランド人とカトリック系アイルランド人の争いが、20世紀初めの独立戦争時、工業地帯であるアルスター (1912年太平洋で沈没した、あの有名なタイタニック号もベルファストで建造されました)と、それ以外の農業・酪農・漁業中心のカトリック優勢3地域 (マンスター、レンスター、コノート)を分断してしまいました。1922年以降、北海道ほどの広さのアイルランド島が二分割され、アルスターは「北アイルランド」として大英帝国内に残り、残り3地方がアイルランド共和国を形成したのです。
4.
「東北」と「アイルランド」の類似点・相違点
(55) 共通点:
1. 文化的ルーツ:蝦夷 (アイヌ) vs.ケルト
2. 侵略と文化的同化の脅威:大和朝廷 (日本)vs.大英帝国
3. 侵略に対する数度にわたる民族的抵抗と敗戦
(56) 相違点:
1. 近代「日本国」は、(各地に部落民などへの差別はありましたが)「日本国」の範囲内であれば一応日本人と認め、日本語と日本文化を普及させ、「同化」に成功しました。
2. アイルランドには依然としてケルト文化が残っていますが、東北には地名を除いてほとんど蝦夷 (アイヌ) 文化の痕跡がありません。
3.結果として、東北には古来の文化がわずかしか残っていないのです。これはよい面、悪い面があります。
(57)
ただ、アイルランドに古来のケルト文化が根強く残っているとはいえ、ケルト本来の言語 (Gaelic) を話せる人たちはごく一部です。最近(とくにナイ
ジェリアと中国から)急速に増加傾向にある移民を除き、アイルランド人のうち95%以上は英語を母国語として話し、残りの5%も英語を支障なく使います。英語を話すことは、英米への移民の際、またビジネス上、断然有利ですし、英語を用いて自分たちのケルト的ルーツを表現することで、偉大な芸術家に成り得た例も数多くあります。ただ、やはり本来のケルト語をきちんと話せないということは、アイルランドにとってジレンマです。ということで、本来のケルト語を保護しようと、アイルランド語の国歌を意味のよく理解出来ない小学生たちに暗唱させたり、道路標識なども敢えてケルト語表記を上部に記すなど、いろいろとケルト文化保護政策がとられております。
5.
これからの「東北」:日本の東北から世界の東北へ
(58)
この講義の最後にみなさんに伝えたいことは、大英帝国の影響を強烈に受けつつも小国ながら文化・文学大国であるアイルランド人のように、自分たちのルーツ、「蝦夷」と言われた時代、「黄金文化の奥州平泉」を誇りを持ってほしいということです。「日本」や「日本人」、「日本語」という全統思想のヴェールによって覆い隠された、列島諸地域の多様性、多層性にどうか今一度目を向けてほしいのです。自分の生まれた「東北」そして「岩手」の素晴らしい過去の歴史とこれからの無尽蔵の可能性に目を向けてほしいのです。
(59) 私のこの"Atelier Aterui"という英語サイトは、もちろん、奥州市水沢区の英雄アテルイにちなんだものです。このサイトの設立趣旨は、この滝沢村の岩手県立大学から世界に向けて、私の研究分野である、ジェイムズ・ジョイスをはじめとするアイルランド文学などの最新研究情報を発信し、語学学習室での英語の授業を充実させ、かつて宮沢賢治が岩手を
Ihatovと表記したように、岩手をIwateとして、盛岡をMoriokaとして英語で写真を多用して紹介することなのです。
(60)
最近、「グローカライゼーション」(glocalization)という言葉が使われ出しています。それは、「地域の」(local)と「世界化」(globalization)という言葉を合成したものです。もっと、現在の「日本」に埋没したアテルイや平泉の残した文化遺産に目を向けてみませんか?「日本」の諸地域とは異なる「岩手」の「異文化性」を発掘してみませんか?身近なところでは、「盛岡冷麺」は北朝鮮、「盛岡じゃじゃ麺」は中国との異文化交流が生んだものです。あるいは、かつて平泉が独自に中国やロシアと交易して達成したように、「異文化交流」であなた方もこの「岩手」にわくわくするものを創造しませんか?私たちが住んでいるのは、「東北」の「岩手」という、日本の中では決して経済的に豊かとはいえない土地ですし、ご存じのように全国的にも少子高齢化や過疎化が進む後進地域なのかもしれませんが、少しだけ見方を変えてみてください。何もいつも東京や大都市を基準にしなくてもいいのです。基準は一つではありませんし、一つであってはならないのです。もっと自由な発想で、いろいろな価値観がなければいけません。そして、自由な発想で個性と個性が出会えば、また新たな価値観が生まれ、新たな文化が創造されます。「東北」と「アイルランド」の出会いもそうなのです。たとえば、年代も場所も全く違いますが、アテルイとマイケル・コリンズはその生涯といい、大帝国に対する戦い方(ゲリラ戦)といい、とても共通点があります。それに気がつきましたか?
平泉はともかく、アテルイの残した遺産は目に見えないものですが、我々が先祖代々受け継いで来た誇り高き「蝦夷」と呼ばれた、おそらくは「日本人」よりは、アイヌ民族に近い民族の血であり、またその精神的遺産なのです。岩手の県境が定まったのは明治初期ですから、まだ、130年あまりしか経っておりませんが、ここは素晴らしい歴史と自然を持つ、まだまだ発展出来る余地と余力がある(必ずしも産業的発展とは限りません)、実に魅力的なところではありませんか!どうぞ私のホームページでその素晴らしさを確認してください。我々は、岩手をIwateとして世界に認知されるべく情報発信しております。また、それを世界にアピールすることで、新たな「異文化交流」がはじまります。みなさんもどうか「岩手」という土地に生まれたこと、生活していることに誇りを持って、我々のルーツである「岩手性」を積極的に活かしてください。そして、新たな出会いを常に求めてください。宮沢賢治、石川啄木、最近では高橋克彦がそうであるように、「岩手性」は日本だけでなく、世界に向けて発信できる強烈な個性であり、独創性になるのです。そして、それは、「異文化」を持つ「他者」との交流で常に発展し、新たな文化が生まれる可能性を秘めているのです。
[おわりに:受講生のみなさんへ]
現在は、道州制の移行も検討されておりますが、「東北」、「岩手」から、皆さんがそれぞれの方法で新しい可能性を「発掘」してくれることを願って今日の講義を終わります。今日はどうもありがとうございました。
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