Cultural Studies
for Morioka College
(Last Updated: 26 January 2010)
Eishiro Ito


文化研究
アイルランド、ユダヤの文化・文学研究からの「東北」の再考

授業概要
アイルランド文学を長年研究してきたが、最近「東北」という言葉に親近感と違和感を同時に感じる。我が国における東北地方と英国におけるアイルランドは、その歴史的・文化的背景がかなり類似している。また、出稼ぎ/移民により、故郷/祖国を離れて暮らす人々が多いことも共通している。パレスチナ問題を抱え、世界各地に分散して暮らすユダヤ人もその点では同様である。アイルランドにはスコットランドやウエールズ同様ケルト文化が根強く残り、ユダヤ民族は二千年近く「国なき民」として欧州など世界各地に暮らしながら、文化の独自性を保ってきた。本講義では、これら2つの事例を文化論的・文学的に比較検討することで、「東北」にも独自の文化が成立し得たという仮説のもとに、岩手を中心とした東北史に新たな視点を加えたい。いわゆる"The History"に隠された"histories"を歴史・文学作品その他の資料から発掘することにより、東北文化のクレオール的諸階層を顕示したい。
 「東北史」を日本史の中だけで扱わず、アイルランド、ユダヤと比較研究することで「東北史」を共時的・通時的に開放することを目的としたこの 講義により、この岩手県が歴史上、そして文学上非常に興味深い地域であることが再認識されるであろう。本講義は、講師の一方的なものではなく、受講生たちとの共同作業により「東北」の潜在的可能性を考察する。

第1回 はじめに: 発想の起点:揺らぐ「日本」と「日本人」
a.「国家」(nation)とは何か?
b.「日本」とは何か?どこからどこまでか?
c.「東北」とはどこか?
d.「東北人」とは誰か?

第2回 「東北」の形成
a.「東北」(nation)と「日本」はどのような関係か?
b.「東北」の独自性:「日本」の他の地域とはどこが異なるか?
c.「東北」内では、統一的文化はあるのか?
d. 自分の出身地ならではの特産物や風習などを列挙してみよう。

アイルランド

第3回 ケルト民族
a. ケルト民族はどこから来たか?
b. ケルト民族の勢力範囲は?
c. ケルト文化の特徴は何か?また、「東北」との類似点は?
d. なぜケルトはローマ帝国に敗北したのか?「蝦夷」の歴史との類似点は?

第4回 アイルランドの歴史1: ケルト民族の地:ドルイド教とキリスト教の融合、そして、ヴァイキングの侵略
a. なぜケルトの文化はアイルランドに根付いたか?
b. ドルイド教とはいかなるものか?
c. アイルランドへのキリスト教伝来は何をもたらしたか?
d. ヴァイキングの侵略とノルマン人の支配とは?

第5回 アイルランドの歴史2: 大英帝国の支配に対する戦いと共和国の独立
a. 大英帝国のアイルランド支配のきっかけは何か?
b. 大英帝国支配に対し、アイルランドはどのような抵抗をしたか?
c. アイルランド国内は、一致団結して対英レジスタンスを行ったか?
d. 1922年アイルランド自由国成立は、国民にどのように受け入れられたか?

第6回 アイルランドの歴史3:現代のアイルランドと北アイルランド問題
a. 1922年自由国成立時、なぜ北アイルランドは同調しなかったか?
b. カトリックとプロテスタントの争いとは?
c. シン・フェイン党やIRAはどのような活動をしてきたか?
d. 近い将来、北アイルランド問題は解決可能か?それはなぜか?

ユダヤ 第7回 ユダヤ民族ユダヤ教
a. ユダヤ民族は、もともとどこでどのような生活をしていたか?
b. なぜユダヤ人は、エジプトやバビロニアに連れていかれたか?
c. 旧約聖書に見られるユダヤ教の世界観は?
d. ローマ帝国はどのようにユダヤ人をイスラエルから追い出したか?

第8回 ユダヤの歴史1: ローマ帝国による放浪と分散
a. ユダヤ人のディアスポラ後、エルサレムはどうなったか?
b. イスラム・スペインではどのようにユダヤ人は暮らしたか?
c.中世のユダヤ人が従事していた職業とは主に何か?
d. 中世のユダヤ人に対する異教徒の態度はどうであったか?

第9回 ユダヤの歴史2: 中世から近代までのユダヤ人の暮らし:
アシュケナジー (アシュケナジム)とスファラディ (セファルディム)
a. 東欧におけるユダヤ人の暮らしはどうであったか?
b. イデッシュ語という言語はいかなるものか?
c. 近代ヨーロッパのユダヤ人はどう暮らしたか?
d. フランス革命はユダヤ人にどう影響したか?

第10回 ユダヤの歴史3: ホロコーストイスラエル建国とパレスチナ問題
a. ユダヤ人の自己嫌悪と反ユダヤ主義はどう関係するか?
b. シオニズムとは何か?
c. ユダヤ人が受けてきたホロコーストを簡潔に説明しなさい。
d. パレスチナ問題とは何か?いかにすれば解決可能か?

東北史再考 第11回:「東北」の歴史1:「蝦夷」が「日本」に組み込まれる経緯
:
a. 「東北」という呼称はいつどのような経緯で生まれたか?
b. 古代「東北」は文化的に統一されていたか?
c. 蝦夷の地「東北」への近畿王権の侵略はどう行われ、また蝦夷はどう抵抗したか?
d. 征服後の「東北」経営はどう行われたか?

第12回「東北」の歴史2: 奥州平泉の盛衰
a. 前九年の役と後三年の役を簡潔にまとめなさい。
b. 平泉の栄華はどのようなものか?
c. 平泉の没落の原因は何か?
d. 豊臣秀吉の「奥州仕置」とは何か?

第13回「東北」の歴史3: 近代以降の「東北」とまとめ
a. 江戸時代の「東北」の様子は?
b. 幕末期における「東北」出身の思想家・学者たちの動向は?
c. 奥羽越列藩同盟とは何か?
d. 明治以降の「東北」における軍国主義とは?

第14回 文学の「東北」、そして岩手
a. 文学、映像における「東北」はどのようなところか?
b. 宮沢賢治について思うところを記しなさい。
c. 石川啄木について思うところを記しなさい。
d. 中沢新一の『哲学の東北』(1995)の見解をどう思うか?

試験
第15回 試験: 2010年1月26日 4限
論述形式問題二問:
1. アイルランド、ユダヤ、「東北」の比較:類似点・相違点を論じなさい。
2. 「東北」の再定義:新たな「東北」の可能性を論じなさい。
テクスト
テクスト: 上田和夫、『ユダヤ人』(講談社現代新書 no.0834)
           波多野裕造、『物語アイルランドの歴史』(中公新書 no. 1215)

参考書:  河西英通、『東北―つくられた異境』(中公新書 no. 1584)
            河西英通、『続・東北―異境と原境のあいだ』(中公新書 no. 1889)

 



[発想の起点:揺らぐ「日本」と「日本人]

(000) 最近のあるニュース番組で、沖縄の若者が「日本と沖縄の関係は...」と発言していたのが妙に気になっています。言うまでもなく、沖縄は日本国の一地方であるはずです。また、「北方領土」、尖閣諸島竹島が「日本固有の領土」だと主張する人たちもいますが、本当に「固有の」なのでしょうか?本講では、これらを問題の起点として「日本」と「東北」、「英国」と「アイルランド」を比較することにより、「日本人とは誰か」、そして「日本とはいかなる国か」を再考する場を提供したいと思います。

私たちが現在「日本人」と呼び、「日本(の領土)」と見なしているものは、実は歴史的偶然が作り出した曖昧な存在ではないでしょうか?恐らく、同様のことは世界中のあらゆる人々や国々、そしてその領土に関しても言えるはずです。現在のEU体制でのヨーロッパでは、国境は日本の県境のような存在になりつつありますし、例えばハンガリー人はハンガリーだけでなく、スロベニアルーマニアなど周辺諸国にも点在して自分たちの文化を守っています。それは現在の国境が定められた、第一次大戦後のトリアノン条約に臆することなく、全ハンガリー人の半数以上が新しく定められた国境の外に居住し続けたからです。この事実が教えてくれるのは、日本人が抱いているような国境と国家、民族、文化、言語などの関係は、じつは多くの歴史的偶然により、かなり複雑で不安定なものであるということです。「東北」を敢えて「日本」から、「アイルランド」を「英国」から切り離すことで、現在我々が暮らすこの国の多様性と多層性に今一度目を向けてみたいのです。


この講義では、「日本」、「東北」などと、歴史学的にその成立が曖昧で再考の余地があるものについては「」で表記することにします。また、この講義で扱うのは、いわゆる文部科学省検定歴史教科書(the History)という、記述内容に疑いを持つことなく受験用に丸暗記する「大文字の歴史」ではなく、その背後に隠された、小文字の歴史的事実群 (histories)です。



1. はじめに

[1a. 「国家」(nation)とは何か?]


(001) 「国家」とは何でしょうか?『ニューヨーク・タイムズ』の選んだ20世紀最高の小説、ジェイムズ・ジョイス作『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームは"nation"をこう定義しました:(nationとは)、「同じ場所に住む同じ人々」(the same people living inthe same place)。 これだと分かりにくいかもしれません。もしも、国際連合 (United Nations)が国家と認めることが条件ならば、台湾は国家ではありません。シンガポールは国家ですが、同じような商業都市香港は国家にはなりませんでした。

(002) また、「同じ人々」が「同一民族」という意味ならば、アメリカ合衆国や中華人民共和国は多民族国家ですから、"nation"ではなくなってしまいます。日本にも戦前から在日朝鮮 (韓国)人在日中国人の方々が少なくとも50万人以上は暮らしておりますし、その他の「外国人登録証」所有の方々、不法滞在者などはいわゆる日本国民ではないのです。在日朝鮮人に「あなたの国はどこですか」と質問すれば、どういう答えが返ってくると思いますか?さまざな答えが予測されます。彼らは "Nowhere (no + where) men"なのかもしれませんが、彼らは今ここにいる (now here)人たちなのです。岩手にも約三千人の在日朝鮮人がいらっしゃいますし、盛岡冷麺やじゃじゃ麺などはこういった方々の存在なくしては今のような素晴らしい特産物にはなっていなかったことでしょう。全国的に見て、国際交流、国際協力が決して積極的に行われているとは言いがたい岩手でも、十分に異文化交流の歴史的足跡を探すことはきわめて容易です。

(003) 漢語における「国家」は、諸侯が治める国と卿大夫が治める家との総称で、特定の境界を持つ支配地・支配民を意味しました。対語は、いかなる限定もされない支配地と支配民、つまり「天下」です。支配機構を出発点にする方向性はヨーロッパの国家(state < L status)概念と同じですが、支配の対象である土地と人民を含む点で、微妙なニュアンスの違いを持ちます。"nation"は国家というより、むしろ「国民」の意味合いが強いのです。



[1b. 「日本」とは何か?どこからどこまでか?]

(004) この国が「日本」という名称を正式に用いるようになったのは698年、大后鸕野讃良(おおきさきうののさらら)飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し、その中で「」に代わる国号として「日本」、大王(おおきみ)に代わる称号として「天皇」、さらに「皇后」、「皇太子」などが正式に制度的に定められ、「日本国」がはじめて列島に姿を現わしました。「日本」は部族名でも古来からあった地域名でもなく、そもそもは聖徳太子によって隋の皇帝に宛てて書かれた有名な書簡に由来し、日の出るところ、つまり東の方向を意味し、太陽信仰を背景にしつつも、中国大陸を強く意識した国号でした。この思想が後世、幕末に日本国旗(the Rising Sun)創成に受け継がれ、現在に至っております。

(005) 現在、「日本」は島国で、北は宗谷海峡、南は朝鮮海峡まで「日本」という国の国土は広がっています。では、そこに国境がある必然性はあるのでしょうか?これがあると考えられたのは、その範囲内で「単一国民」国家を造ろうとした近代日本国の作り出した幻想、日本国を近代国家にするための否応のない虚偽であったと歴史家網野善彦は考えました。江戸時代初期、明治初期、大正期、昭和初期には、現在の「日本国」の国境は大分違っておりました。一番広がっていた昭和初期には、侵略戦争によって、日本は植民地を獲得し、樺太千島列島満州、朝鮮半島、台湾、東南アジアなどを含む大変大きな国でした。現在、皆さんが国境だと信じている境界はじつは第2次世界大戦の敗戦によって1945年以後に定められた、あるいはアメリカ、ソ連(1922-1991)、中国など戦勝国によって定められてしまったものなのです。


江戸時代後半(19世紀前半)に英国で作成された地球儀 (スコットランド ニュー・ラナーク)


(006) 陸地に国境を持つ大陸の国々と異なり、「日本」は海によって諸外国と隔てられていたわけではなく、海によって諸外国と繋がっているのです。最初にこれに気づいたのは、仙台藩部屋住 林子平でした。彼の『三国通覧図説』はロシアへも持ち込まれ、フランス語訳されて1832年にロンドンで出版され、のちに江戸幕府がアメリカのマシュー・ペリー提督 (Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)と小笠原諸島領有を巡って議論になったとき、日本側の確固たる根拠となりました。(なお、世界最初の露和辞典「ニボンのコトバ」を編纂したのは、1745年千島列島に漂着した南部藩出身の竹内徳兵兵衛一行のさすけという人物だったため、正確には露岩手辞典でした。)

(007) アムール川サハリン⇔北海道⇔「東北」⇔関東という東あるいは北の文化交流のルートの存在。世界地図をぼんやり眺めて見れば、この列島は弓なりになって大陸に接しています。太古には、「日本海」(朝鮮半島では「東海」と呼びます)は大きな湖でした。当然「東北」経由の文化ルートはあったはずです。古代には、東日本の人口密度は西日本より遥かに高かったようです。

Cf. 三内丸山遺跡、津軽半島の十三湊の豪族安藤氏の館跡、奥州藤原氏の本拠地岩手県平泉、青森県砂沢遺跡で発見された東北地方最古(紀元前2世紀)の水田と水路跡等々。

(008) 強大な文化ベクトル「弥生文化」が中国、朝鮮半島を経て西ルートでもたらされ、「日本」に水田農耕を伝えました。この弥生文化は単に農耕用具など物質面だけでなく、さまざまな社会的制度をも「日本」にもたらしました。その最も大きなものが恐らく被差別部落で、まだ静岡以西には多く残っています。

(009) 弥生文化によってもたらされたものは、米作を中心とする農耕中心主義であり、社会に対する見方の大きな基準として農業がありました。ゆえに農業が発達していない地域(狩猟採集社会)は遅れた貧しい地域であるという見方が広がりました。ここに、東北が現在のように開発の遅れた、貧しい地域だという偏見の根本があります。

[1c. 「東北」とはどこか?]

(010) そもそも「東北」とは方向を示す名称です。それは、近畿地方の大和政権から見て、鬼門とされる、北東の方角にあり、たしかにアテルイなど、近畿王権になかなか従わない住民の激しい抵抗が、鬼のそれにも喩えられたのでしょう。坂上田村麻呂以後に、源氏一門が代々岩手を中心とする東北に反乱鎮圧に来て、その武功を称えるように、仏教の北門の守護者毘沙門天像を盛んにこの地に作らせ、また部門の正統源氏の氏神を祀る八幡宮が東北、特に岩手には数多くあります。むろん、盛岡、八戸を治めた南部家が甲斐源氏の出自であることを明言してきたので、その源氏の正当性を主張するために八幡宮各社を庇護する必要があったことも大きいです。

[DVD 1: 『長編アニメーション アテルイ』 (岩手県 2003) ]


(011) 「日本」に併合後も、もともと熱帯産の米を寒い地方でも栽培出来るように品種改良出来なかった時代には、「東北」は貧しく遅れた地域だとされました。記録がきちんと残っている江戸時代から昭和初期にかけて「東北」は何度となく大凶作、そして大飢饉に見舞われましたが、それは寒さに強い他の穀物栽培を考えず、盲目的な米作に頼った結果なのです。もちろん、東北諸藩では、稲作の他に、毎年の気候の変動に左右されない、寒さに強い作物 (そばや芋など)の栽培も奨励いたしました。しかし、藩の収入は主に米の徴集高 (石高)によって幕府に評価されましたので、藩主、代官たちはこぞって、山間部や沿岸部のおよそ農業には不適当な土地さえも開墾を命じました。土地の所有は富裕な武士階級や一部の地主たちに限られ、ほとんどの農民は年貢も小作料も支配者の恣意的にさだめられる不安定な暮らしを余儀なくされました。収穫した米はまず年貢として取り上げられ、残りは換金のため米商人に売らねば成りませんでした。残りは来年の為の種籾でしたが、飢饉のときはそれさえも食べざるをえませんでした。この状況は、昭和にはいっても続き、戦前東北出身の召集兵たちは軍隊は三度米が食べられる天国だと言ったと伝えられます。とくに貧農が多い北東北、とくに岩手出身の軍人がめざましい活躍をしたのにはこういう背景がありました。

[1d. 「東北人」とは誰か?]


(012) 「東北人」とは誰なのでしょうか?「東北人」とは「日本」の他の地域に暮らす人々とはどのように異なるのでしょうか?東海道・山陽新幹線に乗った後、東北新幹線に乗れば、乗客の顔つきの若干の違いに気がつくかもしれません。それは他の「日本人」などとの混血の歴史の後でかすかに残るアイヌの血脈が為せるものかもしれません。しかし、蝦夷の末裔と言えるほど、「東北人」は独自の文化の痕跡を現代まで残してはいないのです。

(013) 「ケルト」には、「ヨーロッパ大陸のケルト」と大陸から島に追われた「英国諸島、アイルランドのケルト」の2種があります。カエサルの有名な『ガリア戦記』はローマ帝国がガリア(フランス、スイス、ベルギー周辺)を制圧する様がラテン語で記録されております。「大陸のケルト」のガリア語は紀元5世紀頃消滅しますが、島のケルトの末裔たち(「東北人」同様、各民族との混血)は王統譜や英雄神話などはアイルランドのゲール語、ラテン語などで7世紀頃から記録されてきました(鶴岡真弓 vs. 赤坂憲雄「共振するケルトと東北」1995.3)。

(014) 広く「日本列島」や北方に分布してきたアイヌや「蝦夷」と呼ばれた古代人(縄文人)を西方から伝わった稲作文化が、文化的に大きく2つに分けてしまいます。弥生(稲作)文化を受け入れた本州北端までの地域と続縄文文化、擦文文化と続く北海道からオホーツク沿岸地域です。

(015) 古代「東北」は、「ケルト」同様、前歴史的な世界でした。元々「語り部」の文化はあっても、「文章記録」という習慣を持たない「東北」も「ケルト」もかつては独自の文化があったのですが、自分たちの言葉ではほとんど記録を残していないのです。ケルトの文化を研究するときに、カエサルやプリニウス、ヘロドトスなどの、ギリシャ語やラテン語で書かれたテクストを必要とするように、「東北」について書かれたものはほとんどが柳田国男の『遠野物語』(明治43年; 1910年)がそうであるように、外部の人々が伝え聞いた話などを彼らの言葉で記録したものです。柳田は、遠野生まれの佐々木喜善の語る昔話を稲作民族としての「日本人」たる自分の文体に直しました。ところが、その柳田は昭和の初めごろになると、遠野の、あるいは「東北」の一地方の独自性を否定し、「日本人の信仰なり伝承なりのヴァリエーションにすぎない」という趣旨のことをいうようになります (鶴岡真弓 vs. 赤坂憲雄『共振するケルトと東北』1995.3)。それは、まるで近代イギリス人がほとんど英語しかしゃべらなくなったアイルランド人の文化を揶揄していうのと似ています。




2.「アイルランド」の歴史

ケルト民族の島が大英帝国に組み込まれ、700年後独立するまで



[2a. アイルランドの紹介]

(016) アイルランドと言えば
「庭の千草」("The Last Rose of Summer") や「ダニーボーイ」("Danny Boy")、小泉八雲という日本名で知られるラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn, 1850-194)、アメリカ第35代大統領ジョン・F・ケネディ (John Fitzgerald Kennedy, 1917-1963; p.1961-1963)、アメリカ第40代大統領ロナルド・レーガン (Ronald Wilson Reagan, 1911-2004; p.1981-1989)のルーツ、『ガリバー旅行記』(Gulliver's Travels, 1726; r.1735)の作者ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swift, 1667-1745)ジョージ・バーナード・ショウ (George Bernard Shaw, 1856-1950)オスカー・ワイルド (Oscar Fingal O'Flaherty Wills Wilde, 1854-1900)、音楽の分野ではエンヤ (Enya; Eithne Ni Bhraoain, 1961-)U2 (1980-)クランベリーズ (The Cranberries, 1990-2004?)他多数。停戦合意後、最近はイスラム過激派の活発な活動に比べ、すっかりなりをひそめてますが、かつては大英帝国を脅かしたIRAの爆弾テロリストもいます。北海道くらいの広さのところに、カトリックが多い南の共和国に人口350万人ほどが居住し、プロテスタントが多い英領の北アイルランドには約150万人が住んでいます。さらに、全世界に散らばったアイルランド系移民とその子孫はアメリカを中心に7,000万人以上いると言われております。

この国は、ユーラシア大陸を挟んで極東にある日本とは対称的に極西にある島国で、東北の比較材料として扱う資格は十分なのです。


[2b. ケルト民族とは誰か?ケルト文明とはどのようなものか?]


[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]



(017) ケルト以前のヨーロッパには、謎の民族が巨石遺跡を遺しました。イングランド南部ソルズベリー (Salisbury)北西13 kmに広がる環状列石*ストーンヘンジ (Stonehenge)は、紀元前2500年-紀元前2000年の間に製作されたと推定されますが、じつはそれを囲む土塁と塀は紀元前3100年頃にまで遡るという調査結果が最近でました。馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン [Trilithon];三石塔)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル; menhir)が配置されています。
  ストーンヘンジでは、夏至の日に、ヒール・ストーン (Heel Stone)と呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線状に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられています。太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒 (the Druids)**の礼拝堂など、遺跡の目的についてさまざまな説が唱えられていますが、未だ結論はでておりません。また、アイルランドの古代ケルト人の聖地タラの丘 (Hill of Tara) の近くには、推定紀元前3200年頃建設されたニューグレンジ (Newgrange)という円形古墳 (直径は約100m。運ばれた石は約20万t)が1699年の再発見されました。冬至の日には、太陽の光が一つしかない細長い入り口から曲りくねった19mの通路を通りぬけ、中心部の石室まで差し込んできます。ストーンヘンジもニューグレンジも太陽信仰に関係があり、宗教的儀式に使用されたと推定されております。これら2つの巨石遺跡は同じ民族が建設したのかもしれませんが、残念ながらその民族のことについてはほとんど知られておりません。ケルト民族がヨーロッパにやってくると、ヨーロッパ各地に遺跡を遺して忽然と姿を消してしまったのです。大陸の覇権はケルト民族やローマ帝国、ゲルマン民族へと移っていきますが、後世の征服者たちも巨石遺跡を尊み、大切に保護し、また、さまざまな儀式や王の権力の象徴として用いられました。
  (*規模は小さいですが、同様な環状列石が秋田県鹿角市大湯にあります。大湯環状列石は、万座・野中堂環状列石を中心とした縄文時代後期 [推定4,000~3,500年前]の遺跡です。)
  (**Daru-vid [「楢 [ナラ]の賢者」の意味: "Daru"は「楢」、"vid"は「知識」を意味する]というケルトの言葉。)


ニューグレンジ入口 (アイルランド ミース郡)


(018) オーストリアのザルツブルク (Saltzburg; 「塩の砦」の意)近郊のハルシュタット (Hallstatt)には、古代ギリシャ人から「よそ者 (strangers/outsiders)/部族 (tribes)」という意味のケルトイ (Celtoi; ケルト;Celts)と呼ばれ、ローマ人から「ガリア」(Galli or Galatae)と呼ばれた人々の最初の文明 (ハルシュタット文明; 第1期ケルト文明)の痕跡があります。そこでケルト人は当時大変貴重だった岩塩を採掘していました。現在でも岩塩は豊富で、その岩塩を豊富に含む地質のおかげで紀元前のケルト社会の遺跡が非常にいい状態で保存されております。ハルシュタットの遺跡により、ギリシャ、ローマ以外のヨーロッパ人のルーツ、「ケルト」の存在が確認されました。ローマ帝国が巨大な力を持つ前 (カエサル [Gaius Julius Caesar, 100 BC-44 BC]の登場以前)、ケルト人は、ドナウ川やライン川流域など、ヨーロッパ全土に広く居住していました。ハルシュタット文明は、ヨーロッパ初の鉄器文明で、紀元前1200年から紀元前450年頃までハンガリーからフランス中部にかけての中央ヨーロッパに栄えた文明です。[DVD 1: Celts (BBC 1986) 第1話]


ドナウベント (ハンガリー北部ヴィシャグラード)


(019) ケルト人は、ギリシャ人、ローマ人のように石を用いず、「日本」や「蝦夷」(アイヌ)と同様に、主に木材を用いて家屋を造りました。また、文字を持っておりませんでしたので、彼らの社会の記録は、彼ら自身によって残されておりません。彼らのことは、ギリシャ、ローマ人など、文字で記録する習慣を持つ他民族の偏見と誤解に満ちた記録でしか長い間確認出来ませんでした。ところが、近年の科学の進歩により、彼らの文化が非常に高度であったことが分かってきました。文字を持ちませんでしたが、文化や伝統を口承で伝えました。[DVD 1: Celts (BBC 1986) 第1話]

(020) ケルトの社会では農耕も交易も立派に行われており、北ヨーロッパ全域にわたり、ギリシャ、ローマに比較しうる高度な文化圏を築いておりました。紀元前にすでに死者を火葬する習慣まで持っておりました。1984年8月イングランド、チェシャー州 (Cheshire County)の沼地での推定2300年前とされる若い男性のミイラ発見は、古代ケルト社会の生け贄の習慣や宗教的儀式の解明に大いに役立ちました。また、ヨークシャー (Yorkshire County; 面積は岩手県と同程度; 15,713 sq km)の北部でケルトの墓の発掘がありました。それは古代のイギリスには見られないもので、むしろハルシュタットの墓の形式に類似しておりました。このことも、ケルト文化圏が広範囲にあったことを示しております。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(021) ギリシャの歴史家ストラボン (Strabon, 63 BC-AD 23)の記録『地理書/地理誌』(Geograhica, 17 vols.)によれば、ケルト人は放浪癖があり、外部からの刺激(他民族との軋轢、脅威)により、頻繁に住居を変えたそうです。では、もともとケルト民族はどこから来たのでしょうか?一説には、青銅器時代 (諸説あり: ヨーロッパでは紀元前3000年頃から紀元前1100頃) に中央アジアの草原あるいはヒマラヤ山脈の麓から馬と車輪付きの乗り物 (戦車、馬車)でやってきたと推定されております。彼らの言語はインド・ヨーロッパ語族に属しております。まず彼らはハンガリーの平原に定住、しかしその後もローマ帝国に脅かされると西方や北方、それから四方へ移動していきました。それは今でもヨーロッパの諸都市の名前などに多くのケルト文化の影響があることで確認できます。ハンガリーのブダペスト (Budapest)もその一つですが、さまざまな他民族との交流の中でケルトの独自性は次第に失われておきました。スイスのヌシャテル湖 (Lake of Neuchatel/Neuenburgersee) 東岸の鉄器時代 (第2期ケルト文明)のラ・テーヌ (La Tene) 文明の痕跡もそうです。紀元前500年頃、ラ・テーヌは栄えました。ケルトはその頃、鉄器を思い通りに操り、優れた鉄製武器は他民族の大量虐殺を可能にし、次第に他民族から恐れられていきました。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(022) ハルシュタット近郊で発見されたケルトの王子 (紀元前550年夏死亡)の埋葬品の発見は、ケルト文明の豊かさを示しております。青銅製の葬儀用ベッド、黄金の靴、素晴らしい装飾の短剣、ベルト、鉄と木で出来た頑丈な馬車も発掘され、それは「死」というものが、「ここではないどこかへ出かけること」であると信じられていたことを示します。また、一緒に見つかった大きな窯は、イタリア製で、それは交易が行われていたことを示します。黄金の装身具は、高貴な人の死体を装飾して人々に見せたり、祭りをするのに用いたのです。ケルト人の農場などは非常に近代的なもので、高度な生活水準を感じさせるものでした。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(023) ヨーロッパの文化構造の中で、ケルト文化は大きな影響力を持っておりました。ローマ人はケルトを武力で制圧すると、イギリスのバース (Bath) のローマ神殿や公共風呂遺跡、オーストリアのウイーンのシュテファン大聖堂 (Stephansdom)などはケルトの聖なる遺跡を取り壊したところに建造されました。このような風習は「日本」の至るところでも見られるようです。


シュテファン大聖堂 (ウイーン)


(024) ケルト民族はヨーロッパ人の父祖と見なされるべきです。ギリシャやローマの歴史家たちも、「ケルトはもっとも偉大なバーバリアン (蝦夷)」と記述しています。それは、ケルトがかつてヨーロッパのかなりの範囲を支配していたことがあったからです。ヨーロッパにおいてケルトの優勢だった長い時間に比較すると、ローマ帝国の支配 (帝政開始紀元前27年から東ローマ帝国滅亡1453年まで)など、ほんの短い時間にしかすぎません。現在、確認出来る限り、ケルトはヨーロッパに居住した最古の民族です。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(025) ケルト民族は好戦的で、首狩り族で、自分たちの体に絵を描く野蛮人というイメージがありますが、それはギリシャやローマの歴史家がそれを誇張して伝えたからです。しかし、実際はかなり知性的であり、吟唱詩人などは予言者的な役割も果たし、部族によってはかなり重用されました。戦いは、ケルト人にとっては、儀式のようなもので、現在のスポーツ競技と同様に、対立する部族が出会えば戦い、決着は各部族の代表者による力比べで決することもあったようです。このあたりは、江戸時代の「日本人」が記録した北海道のアイヌ民族の習慣にも通ずるものがあります。また、ケルト人は、余暇の間に「死をもてあそぶ」習慣もあり、酒宴の席で剣技の競い合いをしたりしました。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(026) 紀元前200-紀元前100年頃、カエサル時代の直前には、ガリア (Gallia)でケルトにも統一国家を作ろうとする動きがあり、貨幣経済が始まり、都市が建設されつつある一方、王位を主張することが蔑まれ、選挙などで統治者を決めようとする動きがありました。イングランドのケルト要塞遺跡メイデンキャッスル (Maiden Castle) のような施設もヨーロッパ各地に作られ、各王の支配力を誇示しました。しかし、ケルトが統一国家を持ち、ヨーロッパ全土を支配することはありませんでした。ケルトは結局アテルイ以前の古代「東北」同様、小さな集団である各部族がそれぞれの地で勢力を持つ社会のままでした。そのことが、ガイウス・ユリウス・カエサル率いるローマ軍の征服を許すことになったのです。カエサルによるローマ軍のヨーロッパ北上 (ガリア戦争;The Gallic Wars, 58 BC-50 BC)は、ケルトの支配がもっとも広範囲に及んだころのことでした。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(027) ローマ軍は常にケルトの優位に立っていましたが、ケルトにはそもそも軍隊と呼べるほどの組織はありませんでした。しかし、ガリアのアルウェルニ族 (Arvemi/Auvergne)ウェルキンゲトリクス (Vercingetorix, 72 BC - 46 BC)がフランスに登場します。彼は、弱冠20歳前後で歴史の表舞台に登場し、カエサルのガリア遠征に対抗するため、ガリア人の結束を促し、各部族をまとめ上げ、対ローマ統一部隊を組織してガリア各地でゲリラ戦やローマ軍の兵站線の寸断、焦土作戦を展開し、ローマ軍を苦しめます。彼の登場の仕方、戦い方は、まるでケルトの阿弖流為(アテルイ=悪路王)ともいうべきものでした。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(028) しかし数で圧倒的に勝っても、統率の取れていなかったウェルキンゲトリクスのガリア軍は、最終的にアレシアの戦い (Battle of Alesia, 紀元前52年8月-10月:アレシアは現在のブルゴーニュ [Bourgogne] のディジョン [Dijon]周辺)で組織化されたローマ軍に追い詰められて包囲され、突破作戦を決行しましたが失敗し、各部族出身の部下たちの安全を条件についに降伏、投降します。その後、ウェルキンゲトリクスはローマへと送られますが、6年間投獄された後、カエサルの凱旋式が行われた際に縛り首にされました。本来、カエサルは敵に回った人間でも処刑することのない温厚な人物でしたが、彼だけは処刑したのです。それは彼があまりに有能であり、生かしておくことが危険と判断したからだと言われております。19世紀にケルト文化の再評価が始まると、ウェルキンゲトリクスはフランス最初の英雄、ガリア解放の英雄とみなされ、かつてのアレシアの地にナポレオン3世 (Charles Louis-Napoleon Bonaparte, 1808-1873; r.1852-1870)によって彼の銅像が立てられました。[DVD 2: Celts (BBC 1986) 第1話]

(029) 統一された社会の作れないケルトは、カエサルのガリア征服後、急激に勢力を弱め、人口もみるみるうちに減少しました。ケルト人がローマ軍に被ったもっとも残虐な行為は、歴史記録からの彼らの文化の記述の排除であり、またケルト遺跡の物理的排除でした。ローマ人は、征服した各地で、ケルトの建築物を破壊し、その上にローマ式建造物を建てていきました。かくして、かつて偉大な文化を築いたケルト人は、歴史から忘れられていったのです。彼らが考古学・歴史学で再び脚光を浴びたのは、18世紀に産業革命が英国で起こり、ヨーロッパ各地で19世紀に工業が発展し、中央集権が崩れ、各地で民族運動が盛んになってからでした。


[2c. ケルト民族の地アイルランド:ドルイド教とキリスト教の融合]


(030) アイルランドに関する最も古い記録は、紀元前6世紀初頭に書かれたギリシャの記録です。アイルランドは「インスーラ・サクラ」(Insula sacra) つまり「聖なる島」(holy island)と呼ばれ、その島の住人は「エレン (Erin)の種族」と記されています。したがって、その頃からブリタニア (Britania)の西方にもう一つ島があることをギリシャ人は知っていたことになります。その島をラテン語でヒベルニア(Hibernia)、ギリシャ語ではエリウ(Eriu)と読んでいたようです。これが後にゲール語 (ケルト語)ではアイレ(Ire)となります。[波多野 序章 1]

(031) ケルト:古代ギリシャの歴史家ポセイドニオス (Posidonius/Poseidonios of Rhodes, 135 BC-51 BC)の記述によれば、ケルト人は勇猛果敢な戦士で、二頭立ての戦車を駆って敵陣に攻め入り、敵の首を取ることを手柄としたところから「首狩り族」と恐れられておりました。ケルト人は背が高くて肌が白く、碧眼紅毛であり、戦士は長く肩まで垂らした波打つブロンドや赤い髪の毛を、チョークを混ぜた水で濡らして馬のたてがみのような形に練り固めていました。女は長髪を二つに分けて剃髪に編み、金や銀の装身具で飾り立てていました。古代からアイルランドは山地と森に囲まれた沼地が多く、耕作にはあまり適していませんでしたが、夏の間は放牧に適していました。[波多野 序章 2-3]

[DVD 3: Celts (BBC 1986) 第2話]


(032) グレート・ブリテン (Great Britain)の"Britain"とは、ケルト人の一派であるブリト族名 (Brit) に由来します。スコットランド (Scotland)の"Scot"は、ラテン語の"Scottus" (=Irishman)に由来します。Walesは、「外部から着た種族の領域」(the territory of the alien race)という意味で、かつてかの地にケルト人かローマ人入植者の子孫が住んでいたことを示唆します。ウエールズがイングランドに征服された後に登場する大英帝国のユニオン・ジャック旗 (Union Jack)は、スコットランドとアイルランドを加えたケルト三国がアングロ・サクソンのイングランドに次第に征服されていく過程を図式化していると言えます [DVD 1: Celts (BBC 1986) 第2話]:


(Downloaded from the Wikipedia, dated Oct. 17, 2007)



(033) ケルト民族の衰退は、カエサルの時代に始まりました。組織的なローマ帝国の威光は、ケルトを西へ西へと駆逐しました。ローマ皇帝クラウディウス (Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus, 4th Emperor of Rome, 10 BC-54 AD)によってブリタニアはローマに征服されます。紀元61年、コルチェスター(Colchester:ロンドンから北東へ85kmに位置する、ブリテン島最初の城塞)で焼き討ちなど、ローマ軍に激しい奇襲攻撃をかけたことで有名なケルトのイケニ族の女王ボアディケア(=ブーディッカ: Queen Boadicea [Boudica] of Iceni)は、ケルトの恐らく最後の大規模な抵抗をしたのですが、結局二人の娘も戦死し、自殺におい込まれました。(その様子を再現した映画が『ウォーリアー・クイーン』[Warrior Queen, 1987]で、TSUTAYAなどでレンタル可能です。) このころすでにパリやロンドンはローマの軍事基地やがては都市として存在していました。ところが、それから400年後、ローマ人たちは、軍隊とともに突然引き揚げてしまい、大変な混乱を引き起こしました。この権力の真空状態を埋めたのが、アングル人とサクソン人で、ともにローマ軍に傭兵として大陸から来ていた種族でした。[DVD 1: Celts (BBC 1986) 第2話]

(034) ローマ軍の支配領域は、ブリタニアからスコットランドまで及びました。スコットランドの高地から北アイルランドは見渡せたのですが、ローマの遠征軍を率いていた有名なアグリコラ将軍 (Gnaeus Julius Agricola, AD 40-93)は、アイルランドを攻略しようとしませんでした。「その気になればいつでも簡単に手に入れられるからべつに急ぐことはない」と彼は考えたと、アグリコラの娘婿である歴史家タキトゥス (Cornelius Tacitus, AD 55-110頃)は伝えております。[波多野 序章 10-11]

(035) ドルイド教は、古代ケルト人の宗教ですが、教説内容は分かっておりません。霊魂の転生の観念を含んでいたことは確かです。キリスト教布教により、衰退しましたが、他のヨーロッパ地域の大陸ケルトとは異なり、アイルランドの島ケルトはキリスト教の中にドルイド教の要素を残しました。かくして、アイルランドのキリスト教文化は独自の発展を遂げるのです。 [波多野 第1章 15-16]

(036) 古代アイルランドは全土が多くの部族国家に分割されていたため、統一的政治権力は存在しておりませんでした。それでも文化的統一が保たれていたのは、土着のドルイド教があったからです。ドルイド教の神官はトゥア (tuath; ケルト語で「人々」)を離れて、全国どこでも自由に行くことができました。5世紀以降、キリスト教が次第に広まるにつれて、ドルイド教は姿を消しましたが、その影響は未だに残っております。それは、キリスト教会が布教にあたり、土着のドルイド教と対決することを避け、ケルト神話も否定せずに認めてきたことと無関係ではないのです。[波多野 序章 15]

(037) アングロ・サクソンの侵攻により、ブリテン島のケルト人はどんどん追い立てられていきます。このときイングランド南西部のコーンウォール (Cornwall)で立ち上がった伝説のケルト王があの有名な聖剣エクスカリバー (Excalibur)を使うアーサー王 (King Arthur, ?5c.-?6c.)です。アーサー王は超人的な力を持った英雄だったといい、さまざまなケルトの呪術的な要素が彼の伝説にはあふれています。それと同時にアーサー王と12人の円卓の騎士が行う、キリストが最後の晩餐に用いた、または十字架上のキリストの血を受けたとされる聖杯 (Holy Grail)を探求する物語も語り伝えられます。これはアーサー王がケルト伝説の要素を多く残しながらも、キリスト教が次第にブリテン島に浸透していく様子を具現化していると考えられます。アーサー王の物語や伝説の多くの要素は無論後世の創作ですが、モデルになった偉大なケルト王はどうも存在したらしいということで歴史学者たちの大多数は一致しております。[DVD 3: Celts (BBC 1986) 第2話]

(038) アイルランドでもキリスト教布教が行われました。タラの丘 (Hill of Tara)で聖パトリック(St. Patrick, ?-?)は象徴的にキリスト教布教のためのかがり火を炊いたといいます。聖パトリックは、このタラの丘で、そこに群生していたシャムロック(Shamrock: シロツメクサ;三つ葉のクローバーのような草)を使って、キリスト教を知らない 人々に、三位一体の神を説明したといわれています。今日でも、シャムロックは、カトリック国アイルランドのシンボルとなっています。 この頃、パトリックは推定45歳ほどでした。 [波多野 序章 18-20]


タラの丘 (アイルランド ミース州)


(039) 聖パトリックは、AD385-389年頃にスコットランドのキルパトリック (Kilpatrick)で生まれたのではないかという説が現在有力ですが、諸説あります。14歳のとき、海賊に捕らえられ、奴隷としてアイルランドへ連れて行かれました。6年もの間、捕らえられていましたが、その間に、彼はアイルラ ンドで当時使われていた言語を学び、同時にドルイド僧たちが行っていた異教徒の習慣なども知りました。それから、神の「海岸へ行き、逃げよ」という声を聞き、苦難の末、ブリテン島の故郷へ戻ることが出来たそうです。ところが、アイルランドへまた来てくださいと懇願する人々が彼の夢に現れ、彼は司祭になるためフランスの修道院で勉強します。ローマ教皇は彼をアイルランドで布教することを命じ、司教に任命しました。そして、さまざまな困難を経て、彼は各地の有力者、そして民衆にキリスト教の教えを説き、ついにアイルランド全土にキリスト教を布教することに成功しました。伝説では、彼は、聖書ではエデンの園からアダムとイブを追い出したとされる蛇を、アイルランドから駆除することに成功したのだそうです。そのせいかどうかはわかりませんが、現在もアイルランドに野生の蛇はいないといいます。かくして、聖パトリックはアイルランドの守護聖人となりました。 [波多野 序章 18-20]

(040) この後、ケルトの修道士は厳しい修行を好んで行います。588年には、修道院ケリー州 (County Kerry)から大西洋沖合16km に位置する面積0.18 sq kmの急峻な岩山スケリグ・マイケル (Skellig Michael, UNESCO世界遺産)が建てられました。次々にアイルランド各地に立派な教会や修道院が建てられ、そこで修行した修道士たちは、ヨーロッパ全域で布教活動を行いました。クロンマクノイス (Clonmacnoise)の修道院などは特に有名です。 [波多野 序章 20-24]


クロンマクノイス修道院跡 (アイルランド オファリー州)


(041) 367年以来、スコットランドウェールズ南西部にケルト人植民地が建設されると、ケルト人ははじめてキリスト教と出会います。のちにアイルランドの修道士たちは海外への布教活動に熱心に出向き、ブリタニア、フランス、ドイツ、スイス、イタリアなどへ足を伸ばします。[波多野 序章 18-24]

(042) 司祭や司教の地位も極めて高く、スコットランド北部で異教徒をキリスト教に改宗させるための活動をしていた聖コロンバ (St Columba/St Colm Cille [聖コルムキル], 521-597) などは有名です。彼は、有名なネス湖の怪獣ネッシー (Nessie or the Loch Ness monster)を一喝して退散させたという伝説が残っているほどです。彼はアイルランド生まれであり、ケルトの宗教(Druid)色が濃いキリスト教 (Celtic Christianity) を布教し、やがてローマ教会と対立します。一方でアイオナ (Iona) の修道院は、8世紀末頃に、世界で一番美しい装飾の本と称えられる、いわゆる四福音書の写本『ケルズの書』(Book of Kells)が製作されたことでも有名です。 [波多野 第1章 31]

[2d. ヴァイキングの侵略と中世のアイルランド]


(043) 8世紀に入り、ブリテン諸島及びアイルランドでは、スカンジナヴィアからやってきたヴァイキングの侵攻の被害に遭います。830年代になるとヴァイキングの侵攻はますます激しくなり、次第に内陸部の奥深くまで侵入するようになり、教会や農場をすっかり荒らしたのです。なぜアイルランドにヴァイキングが侵攻してきたかは必ずしも明らかではありませんが、アイルランド人宣教師の書き残した、アイルランドへの望郷の念がこもったおびただしい文書を読み、アイルランドは素晴らしい国であると思ってやってきたとも言われております。 [波多野 第1章 29]

(044) この頃のアイルランドは、キリスト教が浸透し、全国の修道院を中心に学術が進み、文化的にはヨーロッパ第1級の先進地帯でした。前述した世界で一番美しい装飾の本と称えられる、いわゆる四福音書の写本『ケルズの書』(Book of Kells)も製作されたアイオナ島で未完成のまま略奪され、数奇な運命を辿ります。ヴァイキングたちは、多くの殺戮、略奪を行ったと記録にあり、現在ですら、残虐なイメージが圧倒的ですが、ローマ人に比べて特別残虐だったわけではないようです。要するに、ヴァイキングに関する記録は被害者側のアイルランドやブリテン諸島の各修道院の記録が残っているだけなので、記述が一方的なのだと言われております。当時の北欧陣はまだキリスト教化しておりませんから、当然キリスト教関係の建物や修道士たちにも尊敬の念がなかったというのは想像するのに難くないのです。実際には、ケルト人とは平和的な交易を行い、また大勢が各地に入植し、開拓していきます。アイルランドに入植してきたのは、ノルウェー人が多かったようです。 [波多野 第1章 29-40]

(045) それでは、なぜアイルランドではかくも簡単にヴァイキングの侵攻を許したのかといいますと、それは当時のアイルランドが80-100の国々に分かれていて、群雄割拠の状態であったため、ローマ帝国のときと同様、統率がとれた大規模な軍隊を組織できなかったためと考えられます。 [波多野 第1章 38] そして8世紀終わり頃より、ノルマン人(やはりヴァイキング)が大陸から侵略してきます。[DVD 3: Celts (BBC 1986) 第2話]

(046) アングロ・ケルト (Anglo Celts)と呼ばれる人たちやまたその風習は古代ケルトの面影を現在のイングランドに見ることができます。英国文化の根底にはケルトが根付いていることが理解できます。(「東北」はどうですか?「東北」以前の蝦夷文化はそこかしこに容易に見つかりますか?) [DVD 3: Celts (BBC 1986) 第2話]

(047) 10世紀後半になると、アイルランドのマンスター (Munster)で新興勢力が台頭し、1002年全アイルランドを代表する上王(High King)となったブライアン・ボルー (Brian Boru, 926 or 941-23 April, 1014)が1014年4月 クロンターフ (Clontarf)でヴァイキングを破り、これ以降ヴァイキングの侵入が収束します。しかし多くの武将が戦死し、ブライアン自身も重傷を負い、戦死してしまいます。この戦いは多くの叙事詩やその他の文学作品を生みましたが、ブライアンの死後、その統一体制は弱体化していきます。 [波多野 第1章 42-44]

(048) 1066年、ノルマンディー公ウイリアム (William, the illegitimate son of Robert, Duke of Normandy and Herleva of Falaise, 1027-1087)の一派がイングランドに攻め込んで占領、ノルマン王朝が始まります (Norman Conquest)。 [波多野 第1章 47-55]

(049) 同じケルトですが、ウエールズはあっさりとイングランドに併合されていきます。ウェールズは13世紀に公国(Principality)を形成しましたが、ウェールズ公国は同じ世紀の末にイングランドに併合されます。以来、次期イングランド王(後世にはグレートブリテン王)となるべき皇太子が、プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales, ウェールズ大公)として戴冠するのが慣わしとなっております。1536年の合同法以来、ウェールズは長らく単一の国、イングランド王国あるいはイングランド・ウェールズの一部として扱われ、連合王国の中でもスコットランド、北アイルランドとは事情が異なっています。イギリスの国旗にウェールズの国旗だけが含まれていないのはそういう事情なのです。[DVD 3: Celts (BBC 1986) 第2話]

(050) スコットランドは、1707年の合同法によってグレート・ブリテン王国が形成されるまでは独立した王国でした。紀元前10世紀頃、大陸よりケルト系ピクト人 (Picti: tatooed people or painted people)が到来します。その後、紀元前43年よりローマ軍の侵入に伴い、現在のスターリング (Stirling) に前線司令部を設置。ハドリアヌスの長城 (Hadrian's Wall, UNESCO World Heritage)、アントニウスの長城 (Antonine Wall)及びヴィンドランダ要塞 (Vindolanda Fort)等の拠点が築かれます。ローマ軍は、各地の要塞を拠点としながらブリテン島支配を図り、たびたびピクト人との戦いにも勝利しましたが、スコットランド全域を支配するまでには至りませんでした。407年のローマ軍撤退後、ブリトン人等諸民族が数波にわたり到来する中、隣のアイルランド島より、現在の直接の祖先となるケルト系スコット人が到来します。スコットランド北西部をスコット人、北東部をピクト人、南部をブリトン人が支配し、12世紀頃まで諸民族による勢力均衡・群雄割拠の時代が続きました。1071年、ブリテン島南部イングランドを支配するウィリアム征服王 (William the Conqueror)が、北部のスコットランドへの侵攻を開始します。以降、両王家には婚姻関係も生まれ、しばしば和議が図られますが、イングランドとスコットランドとの争いは終わらず、長期にわたり両国間の緊張が続くこととなりました。("Wikipedia"他参照)

(051) 1603年、スチュワート (Stuart)のジェームズ6世 (James VI)がイングランド王ジェームズ1世 (James I)となり、イングランドと同君連合を結びます。1707年には、イングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となります。さて、名誉革命(the Glorious [Bloodless] Revolution; the English Revolution)で廃位された ジェイムズ2世(James II)の孫 チャールズ・エドワード・スチュワート (Charles Edward Stuart, 1720-1788) は、その父に続いて ステュアート朝復興を狙い、特にハイランドのジャコバイト(Jacobite)と呼ばれる支持者たちを集めて武力蜂起します。ハイランド軍は一時ロンドンの北 200キロ程まで迫ったものの、イングランド(政府)軍にはかなわず、1746年4月16日、カロデンにおける決戦 (the Battle of Culloden; near Inverness)で悲惨な最期を迎えます。そして、反乱を防止するために英国政府が定めた法律は、ハイランド人による武器の所持はもちろん、民族楽器バグパイプの演奏や民族衣装タータン (Eng. tartan; Celt. breacan)の着用をも禁じたのです。また、伝統的なクラン (clan; 氏族集団) の首長支配が廃止され、チャールズに味方した者の土地屋敷は没収されました。ここに、スコットランドのケルト氏族は解体し、ケルトの独自性存続の道を完全に閉ざされてしまったのです。タータン着用が解禁されたのは1782年、没収財産が有償で元の持ち主に戻されたのは、さらに数年後のことでしたが、もはやケルトはアングロ・サクソンの優位性を脅かす存在では到底ありませんでした。("Wikipedia"他参照)

(052) 1999年、スコットランド議会が設置されました。これは、1998年の権限委譲と分権議会の設置を定めたスコットランド法によって決定されたプロセスですが、国連加盟の独立国では勿論ありませし、将来そうなる可能性もまずありません。[DVD 3: Celts (BBC 1986) 第2話]

(053) アイルランドは、ケルトの中でも好戦的な部族が多かったので、長い間イングランドの支配力が及びませんでした。ノルマン人がイングランドを征服した12世紀以後、彼らはアイルランドの豊かな東部地方をも征服し、ペイル (the Pale)と呼ばれる囲いを作って、定住しましたが両者はその囲いの内外で共存しました。1534年にイングランドで宗教改革が始まると、アイルランドにもその波が及びました。[波多野 第3章 97-99: 後述] イングランドは次第に強硬になり、軍隊を送り、カトリック教徒のケルト人を次第に追いつめ、土地の痩せた西部へ、そして太平洋を越えた自由の女神の国アメリカへと向かわせます。ケルトの歴史は、西方への移動の歴史と言えるでしょう。アイルランド人で北米大陸に親戚がいないという人はまず存在しません。[DVD 3: Celts (BBC 1986) 第2話]

(054) 1066年、ノルマン・コンクェストブリタニアはノルマン人の支配下にはいりました。[波多野 第1章 47-48]

(055) ウェールズストロングボウ将軍 (Strongbow Earl of Pembroke, 1130-1176)が登場します。アイルランド征服にイングランドが積極的に動きます。1171年、アイルランドは北西部の一部辺境を除いてイングランド王ヘンリー2世 (Henry II, 1133-1189)の支配下に置かれました。1175年10月にウィンザー条約 (The Treaty of Windsor 1175)が結ばれ、ローリー・オコナー (Rory O'Connor, King of Connacht & High King of Ireland, d.1198)コノート地方 (Connacht)の支配権と引き換えにヘンリー2世の宗主権を確認しました。これがアイルランドのイングランドへの従属の発端です。[波多野 第1章 51-55]


ストロングボウ将軍の墓所 (クライスト・チャーチ・ダブリン)


(056) 13世紀以降、イングランドは、フランスとの戦争に熱中するあまり、アイルランドにそれほど興味を示さなくなってしまい、もともと数の上ではケルト民族に対して圧倒的に少なかったノルマン人の統治力には翳りが見え始めます。このためケルト人諸候たちも隙あらば反抗するようになり、1270年にオート・イン・チップの戦い (Battle of Ath an Kip)でノルマン人に勝利するとノルマン人の軍事的優位はなくなりました。[波多野 第2章 62]

(057) 14世紀になると、イングランドはスコットランドとの戦いやフランスとの百年戦争(The Hundred years War/La Guerre De Cent-Ans, 1337-1453)に突入したため、アイルランド植民地にかまっているゆとりはなくなりました。また、イングランドのバラ戦争 (Wars of the Roses, 1455-1485)におけるヨーク家(the House of York)ランカスター家 (the House of Lancaster)にもアイルランドは大きな影響を与えました。最初ヨーク公に組みしたアイルランドは、1485年以降ランカスター系のテューダー王朝 (Tudor Dynasty)に仕えつつ、一方で脅威を与え続けました。[波多野 第3章 82-95]

(058) 1533年、ヘンリー8世 (Henry XIII, 1491-1547)王妃カサリン (Catherine of Aragon)と離婚してアン・ブーレン (Anne Boleyn, c.1507-1536)と結婚しましたが、ローマ法皇が認めなかったので、カトリック教会と決裂、1534年にはイングランド国教会 (Church of England)を設立して宗教改革に乗り出します。これに対し、カトリック教徒が多数を占めるアイルランドの第10代キルデア伯爵のシルクン・トーマス (Silken Thomas or Thomas FitzGerald, 10th Earl of Kildare)が1534年に反乱を起こしましたが、イングランドからの派遣軍によりまたたく間に鎮圧されました。彼の一族、名門フィッツジェラルド家は爵位と領地を没収されました。[波多野 第3章 95-97]

(059) 1541年、ヘンリー8世は歴代イングランド王の中ではじめてアイルランド王として即位し、名実ともにアイルランドの支配者になりました。彼は、イングランドに絶対王政を確立した人物ですが、アイルランドに対しても絶対服従を要求します。それまでも、名目的にはイングランド王がアイルランドを治めたことになっておりましたが、実際に支配が及んでいた地域(the Pale)はごく一部だったのです。ヘンリー8世が確立したアイルランド支配体制は、チューダー朝の後継者はもちろん、スコットランドのスチュアート家 (Stuart Dynasty)からジェームズ6世 (James VI, 1566-1625; as Scot. K. 1567-1625)がイングランドに迎えられてジェームズ1世 (James I, 1566-1625; as Eng. K. 1603-1625)となっても揺るぎなく継続した支配体制となりました。これ以来、ダブリンには常時イギリス軍が駐留し、アイルランドは1922年の自由国設立まで400年近くもの間イギリス人総督の直接支配を受けることになります。[波多野 第3章 97-99]

(060) 当時イングランドは、ローマ法王を当時相次いで輩出したカトリック国スペインの強大な力を恐れかつ警戒して、これに対抗しうる大帝国の建設を目指していました。しかも四方を海に囲まれた海運国として、海外との貿易を盛んにすることは英国にとって至上命題でした。スペインは、そうした英国の行く手を立ちふさがる大きな障害だったのです。アイルランド統治は、広大な植民地からなる大英帝国建設への第1歩となり、試金石でもあったのです。そして、スペインへの対抗意識は宗教改革にも向かわせたのです。やがて、それはカトリック国アイルランドへも及んできます。 [波多野 第3章 99- 110]

(061) ヘンリー8世以前のアイルランド政策の基本は、英国系移民のアングロ・アイリッシュ (Anglo-Irish)とケルト系 (ゲーリック・)アイリッシュ (Celtic [or Gaelic] Irish)を区別し、前者を通じて英国の利益を図ろうとするものでした。ところが、アングロ・アイリッシュたちは、必ずしも英国の思い通りにはならず、しばしばケルト系アイリッシュと結んで、英国に反抗してきました。前述のキルデア伯シルクン・トーマスの反乱もそうしたものの一つでした。ヘンリー8世は、これまでのこうした間接統治を改め、親政を志し、まずアイルランド議会に対する王の権限を格段に強化しました。イングランドは一切アイルランド的なものを許容せず、イギリスへの完全な同化・吸収を強要したのです。(これは、大和朝廷の「東北」支配と同様です。) [波多野 第3章 99- 100]

(062) ところが、ケルト系アイリッシュたちは英国には同化せず、自分たちの独自の文化と言語を保持し続けました。チューダー朝の新しい方針がケルト民族の独自性を否定し、同化・吸収にあることがはっきりしてくると、ゲール族長たちは以前にも増して英国を敵視するようになりました。ところが、シルクン・トーマスの反乱は、結果的には英国国教会 (Church of England)をアイルランドにも持ち込ませ、そのアイルランド版ともいうべき、アイルランド国教会 (Church of Ireland)をアイルランド唯一の正統宗教とする道を拓いてしまいました。英国から宗教改革派の指導者がアイルランド教会の重要なポストに任命されるようになりました。しかし、民衆レベルでは、人々(カトリック)はアイルランド教会(プロテスタント)に改宗する必要性をほとんど認めておりませんでした。ただ、アルスター (Ulster)と呼ばれるアイルランド東北部においてのみ、後年英国からプロテスタントの入植者が多数入ってきたことで、プロテスタントが多数派を占めていきました。[波多野 第3章 100-101]


シルクン・トーマスが反逆を宣言した聖メアリー修道院 (ダブリン)


(063) フィッツジェラルド家の没落により、アイルランド中央部に政治的空白が生まれ、ゲール族長たちの間に争いが起こり、ペイル(the Pale)の集落まで攻撃を仕掛けてきました。これに危機感を覚えた英国側は数次にわたり、遠征軍を繰り出しましたが。費用がかかるわりに効果はあがりませんでした。すると、英国政府はヨーロッパ大陸に亡命していたフィッツジェラルド家の末裔を呼び寄せ、その地位を回復させ、ゲール族長たちの不満分子を抑えさえるのが実際的であるという考えに変わります。また、駐留守備隊の隊長たちに現地の徴税権を認めさせるというやり方を採用しました。一方では、今恭順の意を示したゲール族長たちには降伏と引き替えに領地保持を許可する方針をとります。こうして、次第にゲール族長たちも英国王室の権威を認めるようになりました。そうして、英国支配はアイルランドの内陸部にまで浸透していきます。英国強調路線を取り始めたゲール族長の子弟は英国留学などを通じて、アイルランド人というよりはむしろ英国紳士として育てられ、教育されていきます。この時期(16世紀後半)を境に、アイルランドが次第にケルト文化色を薄め、やがてケルト語 (ゲール語)も次第に話されなくなるのです。[波多野 第3章 102-103]

(064) エリザベス女王 (Elizabeth I, 1533-1603; r.1558-1603)は、1592年、アイルランドをイギリス化するため、きわめて重要な決定を行います。彼女は、上流階級であるプロテスタント・エスタブリッシュメント (Protestant Establishment)の子弟を教育する大学をアイルランドに建設することを決意し、1592年ケンブリッジ大学 (Cambridge University)を範としてトリニティ・コレッジ (Trinity College Dublin)をダブリンに設立しました。これ以降、アイルランド史に登場する著名人の多くがこの大学から輩出されるようになります。現在では、アイルランド共和国内最難関大学としての地位を保っております。[波多野 第3章 104]


トリニティ・コレッジ・ダブリン正門


(065) 新入植者たちの成功を目のあたりにしたアイルランドの人々も、みずからイギリスに同化し、言葉も次第に英語が普及しました。すなわち、英語を話す者が支配者であり、上流階級と考えられたために、アイルランド語は辺鄙な地方で教育のない者がしゃべる言葉として嫌われていきました。[波多野 第4章 102-114]

[2e. 近代のアイルランドとアイリッシュ・ナショナリズム]


(066) 1649年、清教徒革命を指導したオリヴァー・クロムウェル (Oliver Cromwell, 1599-1658)は、アイルランドの反政府勢力を壊滅させるため、当時のヨーロッパ最強と言われた2万人の新教徒による精鋭部隊を派遣しました。カトリック教徒は宗教的情熱に駆られた新教徒部隊によって情け容赦なく殺戮されました。その無差別殺戮の様子は長くアイルランド人の間で語り継がれ、アイリッシュ・ナショナリズムを育くむことになりました。[波多野 第4章 121-126]

(067) 1690年に、東部アイルランド海岸沿いの古都ドロヘダ (Drogheda) 近くのボイン川の戦い (Battle of the Boyne)で、カトリック対プロテスタントの戦いは、ほぼ決着しました。ボイン川の戦いは1690年7月1日、退位させられたジェームズ2世 (James VII of Scotland and James II of England and Ireland)率いるスコットランド軍ウィリアム3世 (William III; James II's nephew and son-in-law)率いるイングランド・オランダ連合軍との間に行われた戦いです。ウィリアム王側36,000人(ウイリアマイト軍 [Williamite supporters]; イングランド、スコットランド、オランダ、デンマーク、ユグノー及びプロテスタントのアルスター [現在の北アイルランド]部隊)とジェームズ王側25,000人(ジャコバイト軍 [Jacobite supporters]; フランス軍6,000 + アイルランド・カトリック軍19,000)が戦い、ウィリアムが勝利してイングランド王位の保持を決定的なものにしたのです。[波多野 第4章 128]


ボイン川 (ニュー・グレンジからの眺め)


(068) 一方、西部の都市リマリック (Limerick)のカトリック軍は包囲戦を耐え抜き、カトリックの権利を保証する名誉ある降伏条件を勝ち取ります。そのリマリック条約 (The Treaty of Limerick, 1691)の記念碑が「条約の石」(Treaty Stone)で、現在も市内を流れるシャノン川 (River Shannon)の川縁にあります。ところが、イギリス議会は条約の中身を承認せず、カトリックを徹底的に抑圧する内容に改変しました。そこから19世紀半ばの大飢饉に至るアイルランドの悲劇が始まることになるのです。したがってこの石はイギリスの裏切りの象徴と見なされるようになりました。[波多野 第4章 129-131]


「条約の石」 (リマリック条約の記念碑)


(069) 18世紀初頭、アイルランド議会は全員プロテスタントで占められ、アイルランド全人口の3/4を占めていたカトリックは全国土の14%しか所有していませんでした。また、法律上カトリックの商人はギルドに加入することは出来ず、政府職員、軍人などの公務員にもなれず、弁護士、検事にもなれませんでした。[波多野 第4章 131-133]

(070) 18世紀のアイルランドで一般庶民がいかにひどい暮らしをしていたか、『ガリヴァー旅行記』(Gulliver's Travels, 1726; amended 1735)の著者でダブリンの聖パトリック寺院 (St. Patrick's Cathedral)主席司祭ジョナサン・スウィフト (Jonathan Swift, 1667-1745)は、1729年に『穏健なる提案』(A Modest Proposal)というパンフレッドで「いっそのこと子供を殺して食料として食べてしまったらどうだ」と痛烈に皮肉っています。[波多野 第4章 134-135]


ジョナサン・スウィフトの胸像 (聖パトリック寺院)


(071) アルスター (Ulster)では、農地の取得をめぐってカトリックとプロテスタントの間で争いが起こり、その結果1795年9月にオレンジ党 (Orange Society)が創設されました。これはアイルランドのプロテスタントの秘密結社で、新教徒であったオレンジ公ウイリアム3世にちなんで、オレンジ色の李ゴンを党の記章に定め、カトリックとの争いにおいて、プロテスタントの利益を守ることを目的としました。一方、カトリックは、武力闘争を考え、革命(Revolution francaise, 1789-1794)後のフランス共和国の援助、さらにナポレオン (Napoleon Bonaparte, 1769-1821))のアイルランド遠征を期待しました。その頃、大英帝国は、アメリカ独立戦争 (the Revolutionary War; American Revolution, 1775-1783の余波が他の植民地に及ばないように警戒しておりました。[波多野 第5章 148]

(072) 1791年にトリニティ・コレッジ・ダブリンで法律を学んだウルフ・トーン (Theobald Wolfe Tone, 1763-1798)は『アイルランドのカトリックのために』(An Argument on Behalf of the Catholics of Ireland) を刊行し、ユナイテッド・アイリッシュメン協会(The Society of United Irishmen)を設立しました。彼らは1798年、レンスター(Leinster)で反乱を起こします。彼らはナポレオンと提携し、フランス艦隊の精鋭部隊4000人がアイルランドに向けて出発しました。ところが、英国艦隊というより、冬の嵐のため、フランス艦隊は激しい放浪を余儀なくされ、ばらばらになり、ごくわずかのフランス兵士がアイルランドへ向かいましたが、悪天候のため、上陸は出来ませんでした。ウルフ・トーンはフランス軍艦に同乗しておりましたが、英国艦隊に拿捕され、軍法会議にかけられた後、獄中で喉を切って自殺しました。こうして、フランス艦隊のアイルランド侵攻は幻の終わりましたが、恐怖を感じた英国はユナイテッド・アイリッシュメン協会の各地の支部を強制捜査したりと、いよいよアイルランドの抵抗は本格化してきました。[波多野 第5章 150-152]

(073) ロバート・エメット (Robert Emmet, 1778-1803)もトリニティ・コレッジ・ダブリンで法律を学びましたが、彼もまたナショナリズムに目覚め、ユナイテッド・アイリッシュメン協会(The Society of United Irishmen)に入会しました。かくして、仲間とともに1803年7月23日、武装蜂起しました。しかし英国総督府の置かれていたダブリン城 (Dublin Castle)を占拠することに失敗、彼は逃亡しましたが、8月25日に逮捕されます。彼は、逮捕後有名な「獄中からの演説」(the Speech from the Dock)を行い、アイルランド独立を訴えますが、9月20日に絞首刑となりました。[波多野 第5章 154-155]


ロバート・エメットが絞首刑になった場所を示す銘板


(074) このような状況の中で、1801年、ついにアイルランドは大英連合王国の一部となりました。それをナショナリストたちは、「失敗した結婚」(a failed marriage)と表しました。[波多野 第5章 153-156]

(075) 連合王国の下で次第に反英的かつ被害者意識の強いアイルランド・ナショナリズムが育っていきました。それはロバート・エメット (Robert Emmet, 1778-1803)からダニエル・オコンネル (Daniel O'Connell, 1775-1847)を経て「青年アイルランド党 (The Young Ireland)」の運動に受け継がれました。これは当時被選挙権すらなかったカトリック教徒の差別撤廃闘争でした。[波多野 第5章]

(076) オコンネルらの運動の甲斐あって1829年にはカトリック解放法案 (The Emancipation Act)がイギリス議会を通過しました。この法案により依然として数の制限はあったものの、アイルランド人にも官僚や議員になる道が開かれました。オコンネルは更に数回にわたって「モンスター・ミーティング」(Monster Meetings: 怪物集会)と呼ばれた大衆デモを開き、一度に50-75万の人々がオコンネルのもとに集結しました。しかし、1843年にはついにイギリス政府はこの集会を禁止し、オコンネルはその決定に従わざるを得なかったのです。そして1847年オコンネルは失意のうちにこの世を去りました。[波多野 第5章 154-164]


ダブリン中心部のオコンネル通りに立つダニエル・オコンネル像


(077) 1858年にはアメリカでアイルランド系移民を中心にフェニアン協会 (Fenian Brotherhood)が設立され、アイルランドとカナダで何度か武装蜂起をしましたが、その度にイギリス軍によって鎮圧されました。[波多野 第5章 165-166]

(078) 1845年から大飢饉がはじまり、当時のアイルランドの主食であったジャガイモを腐らせる胴枯れ病 (blight)が発生して収穫が激減し、その被害は3年間に及びました。結局、アイルランド人はこの深刻な事態に対処することが出来ず、いたずらに餓死するのを待つか、祖国を離れ移民あるいは難民となって他国へ渡るしかなかったのです。1840年には約800万人以上だったアイルランドの人口は19世紀末には半分以下に激減しました。1994年、アイルランドを代表する女性歌手の一人シニード・オコーナ (Sinead O'Connor, 1966-)は「(大)飢饉」("[The Great] Famine")という歌の中で「あの大飢饉はイギリス政府がひき起こした人災だ」と訴えています。[波多野 第5章 167-170]


ローワン・ギレスピー作「飢饉」("Famine" (1997) by Rowan Gillespie, Custom House Quay)


(079) 大飢饉の後のアイルランドの大きな問題は土地問題と国家としての独立でした。そこに登場したのがイギリスのW.E. グラッドストン (William Ewart Gladstone, 1809-1898)内閣で、彼は一度は下野したものの1868年から1894年に政界を引退するまで一貫してアイルランド自治の実現に向けて努力しました。グラッドストンは1869年に教会法を定め、すべての宗派を平等に扱い、1870年に土地法を成立させてアイルランドの小作農を保護しようとしました。土地法は結局議会の承認が得られず、失敗に終わりました。しかし、二人のアイルランド人政治家、チャールズ・スチュワート・パーネル (Charles Stewart Parnell, 1846-1891)とマイケル・ダヴィット(Michael Davitt, 1846-1906)が、共同戦線を組んだ歴史的意義は大きかったのです。独立を達成しようとする革命家と土地を求める農民が協力して、大規模な大衆動員を呼びかけ、大成功を収めました。[波多野 第6章 171-174]

(080) チャールズ・スチュワート・パーネル (Charles Stewart Parnell, 1846-1891):富裕なプロテスタント地主階級出身で、決して雄弁家ではない彼の得意戦術は議事妨害でしたが、一方では天才的な人心掌握術の持ち主で、巧みに人々の支持を集めていきました。グラッドストン内閣の支持を取り付けたとき、このままパーネルが指導者であればいつかはアイルランドに自治がもたらされるだろうと思われました。[波多野 第6章 179-194]


ダブリン中心部のオコンネル通りに立つパーネル記念碑


(081) ところが1890年11月にパーネルが友人の妻オシェイ夫人 (Katharine O'Shea, 1845-1921)と密通していたというスキャンダルが表ざたになると、グラッドストンを困惑させ、プロテスタント政治家パーネルを失脚させる格好の攻撃材料をカトリック教徒に与えてしまいます。離婚したオシェイ夫人と正式に結婚して再起をはかったものの、結局政治の舞台から引退を余儀なくされて、まもなく彼は失意のうちにこの世を去りました。[波多野 第6章 194]

(082) パーネルの死後、彼のアイルランド議会党が分裂し、政治的な影響力を失い、グレゴリー夫人 (Lady Isabella Augusta Gregory, 1852-1932)ウィリアム・バトラー・イェーツ (William Butler Yeats, 1865-1939)ジョン・ミリントン・シング (Edmund John Millington Synge, 1871-1909)ダグラス・ハイド (Douglas Hyde, 1860-1949)ら詩人、文学者たちによるアイルランド文芸復興運動(The Irish Renaissance Movement)が花開きました。そして、一部の知的エリートのための小さなサークルから一般大衆的レヴェルに広げたのはダグラス・ハイドとオーニン・マクニール (Eoin MacNeill, 1867-1945)が創設したゲール語同盟 (the Gaelic League)でした。[注:ゲール語=アイルランド語]彼らはゲール語がまだ話されている地域でその保存をはかり、次第にその地域を拡大していくことを目標としました。いわばアイルランド語の復権です。[波多野 第6章 194-198]

(083) ハイドはこう主張しています:「母国語と母国の慣習を捨ててしまえば、どうやってわれわれがイギリス人とは違う、別の国の人間だということを世界の人々に認めさせることが出来ようか。だから、今のアイルランドの世代がやらなければならないことは、アイルランドという独自の文化国家を再建することだが、それはまず言葉、文学、音楽、スポーツ、衣服、思想などでイギリス人の模倣をやめ、脱イギリス化することから始まる」。そして、マイケル・キューザック (Michael Cusack, 1847-1906)によってゲール体育協会 (Gaelic Athletic Association)が設立され、ハーリング (Hurling)ゲーリック・フットボール (Gaelic Football; peril ghaelach)のようなイギリスにはないアイルランド独特の競技の普及が奨励されました。[波多野 第6章 205]

(084) ハイド (Douglas Hyde, 1860-1949)やキューザック (Michael Cusack, 1847-1906)は、こうしたスポーツを通じて青少年の間でアイルランド人としての自覚を高めることが独立への一番の近道だと考えました。ナショナリストの中には、僅か数年の間に急速に膨れ上がった組織としてのゲール語同盟の政治的側面を活用しようとする者もいました。当時、独立国の要件と考えられていたのは、明確な独自の文化を持っているかどうかということであり、アイルランドはまさにそうした独特の文化を持つ民族なのであるから当然独立を認められるべきだ、とナショナリストたちは主張しました。[波多野 第7章 205-208]

[2f. 第1次世界大戦とアイルランドの独立]


(085) 1914年に第1次大戦が勃発。イギリス政府は戦争遂行をすべてに優先し、アイルランド自治問題を当分凍結しようとしました。当初、アイルランド人は戦争を静観していましたが、戦争の長期化に伴い、予備役まで含め大量動員がかけられ、カトリックも経済的な理由から多数志願兵として徴兵に応じました。戦争は一時的に好景気をもたらしましたが、すぐに物資が不足し、インフレが人々の暮らしを脅かしました。[波多野 第7章 213-216]

(086) 1916年4月24日、絶望的な情況の中で、ほとんど無謀とも言える「復活祭蜂起 (Easter Rising)」がナショナリスト集団シン・フェイン党 (Sinn Fein)によってなされました。旧式のライフル銃だけで武装し、ろくに軍事訓練を受けていないアイルランド人男女約1,000人がダブリンの中央郵便局など中心部を占拠し、パトリック・ピアース (Patrick Henry Pearse, 1879-1916)を大統領、ジェームズ・コノリー (James Connolly, 1868-1916)を副大統領に選出して共和国の成立を宣言しました。彼らは、機関銃や大砲で武装した圧倒的な大英帝国の正規軍を相手に1週間抗戦しましたが、結果的には数千人の死傷者と市の中心部の破壊をもたらしただけで鎮圧され、完全な失敗に終わりました。この叛乱は当初まったくダブリン市民の支持を得られなかったのですが、大英帝国は一つの決定的な判断ミスを犯しました。共和国宣言に署名した7名の首謀者を含む15人の反乱指導者をろくに詮議も受けさせずに事件後次々に銃殺したのです。この暴挙により、それまでこの蜂起に冷淡だったダブリン市民の感情が急速に逆転しました。[波多野 第7章 217-225]


ダブリン中央郵便局


(087) 1919年には、銃殺事件によって大量の同情票を集め大幅に議席を伸ばしたシン・フェイン党 (Sinn Fein)ドール・エレン (Dail Eireann; アイルランド国民議会))という代表者会議を召集、反乱軍指揮官の一人ながらアメリカ国籍を持っていたため処刑を免れたエーモン・デヴァレラ (Eamonn de Valera, 1882-1875)を議長に選出、副議長にアーサー・グリフィス (Arthur Griffith, 1871-1922)、武装集団の組織者にマイケル・コリンズ (Michael Collins, 1890-1922)がそれぞれ任命されました。[波多野 第7章 225-226]

(088) 1919年、イギリス・アイルランド戦争 (the Anglo-Irish War or the Tan War; the Irish War of Independence)が始まり、1921年7月まで続きました。アイルランド軍を主に指揮していたのはマイケル・コリンズ (Michael Collins)でしたが、それはイギリス軍の兵舎や警察署に対する襲撃、政府要人の待ち伏せ、暗殺と、これに対する報復としてのイギリス軍による民家の焼き討ちや容疑者の処刑といった陰惨な戦いで、いわば近代的ゲリラ戦のはしりとなりました。いわば、古代ケルトの英雄ガリアのアルウェルニ族 (Arvemi/Auvergne)ウェルキンゲトリクス (Vercingetorix, 72 BC - 46 BC)が各部族をまとめ上げ、対ローマ統一部隊を組織してガリア各地でゲリラ戦やローマ軍の兵站線の寸断、焦土作戦を展開したやり方を踏襲したのです。正式な軍隊の行動では、アイルランドは到底大英帝国の巨大で統制の取れた軍事力にはかなわないとコリンズの判断は、極めて効果的でしたが、英国はじめ各国からテロリストと同じやり方である非難を浴びました。エーモン・デヴァレラ (Eamonn de Valera, 1882-1875)は、正式な軍隊として英国軍と戦うようにコリンズに何度も要請しましたが、反英派と親英派が複雑に入り乱れる当時のアイルランド情勢では、統率の取れた大規模な軍隊を組織することは不可能でした。[波多野 第7章 226]

[DVD 4: Michael Collins 1996]

(089) しかし、戦いに疲れた双方から休戦を求める声が強まり、1921年夏に休戦、同年12月妥協の産物としてイギリス・アイルランド条約 (the Anglo - Irish Treaty)が成立しました。実際に交渉したのは、アイルランド代表団のマイケル・コリンズ (Michael Collins)と英国首相のサー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874-1965)たちです。これにより、はじめてアルスター(Ulster; 現在の北アイルランド)を除くアイルランドの26県に自治領という地位が認められました。アイルランド自由国 (the Irish Free State)の誕生です。[波多野 第7章 226-227]

(090) しかし、この自由国とは、政府は樹立できるものの、英国国王への忠誠を誓うというもので、要するにのちに(1931年)発足することになるブリティッシュ・コモンウェルス (the British Commonwealth)の一部としてアイルランドという国家を認めるというものでした*。この決定はアイルランドの内戦 (the Irish Civil War)を招き、コリンズらの条約賛成派と、この条約が共和国(Republic of Ireland)成立への大きな障害となると判断したエーモン・デヴァレラ (Eamonn de Valera)率いる条約反対派の間で激しい争いとなりました。[波多野 第7章 226-227]
  *ブリティッシュ・コモンウェルスは、1931年、イギリス議会におけるウェストミンスター憲章 (Statute of Westminster) において、イギリス国王に対する共通の忠誠によって結ばれた、それぞれが主権をもつ対等な独立国家の自由な連合体と定義され、イギリス、アイルランド自由国、カナダ、ニューファンドランド (のちにカナダの1州となる)、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦をメンバーとして発足した。1971年に、「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった (連邦国家ではない)。アイルランドの正式加盟は1931年で、脱退は1949年であり、現在は、「非加盟国」という扱いである。

(091) シン・フェイン党 (Sinn Fein)内部で、アルスターを除く26県での分離独立を主張する者と、あくまでアイルランド全島での独立を主張する者との間に対立が起こり、内戦に発展します。その内戦中独立の功労者マイケル・コリンズ (Michael Collins)も彼が交渉したイギリス・アイルランド条約(the Anglo - Irish Treaty) 締結から僅か8ヶ月後の1922年8月22日に、故郷のコーク(Cork)に向かう途中に暗殺されました。確かにこの条約はナショナリストにとって決して満足出来るものではなかったのです。また自由国の初代首相グリフィス (Arthur Griffith)も1922年に死亡し、ウイリアム・コスグレイブ (William Thomas Cosgrave, 1880-1965)が彼らの後を継ぎ、アイルランド臨時政府 (the Irish Provisional Government)の議長を1922年8月から12月まで務め、アイルランド自由国の行政府 (Executive Committee of the Irish Free State)の大統領を1922年から1932年まで務めました。[波多野 第7章 227]


献花の絶えないマイケル・コリンズの墓


(092) イギリス・アイルランド条約 (the Anglo - Irish Treaty)は、発効時には賛成者にとっても十分に満足すべきものではありませんでしたが、アイルランドはこの後長い年月をかけて、同じく自治領であったカナダなど他国と協力して、大英帝国をブリティッシュ・コモンウェルス(the British Commonwealth of Nations)という自治権を持つ諸国の自由な連合体に変えていくことに成功します。[波多野 第7章 228]

(093) イギリス・アイルランド条約 (the Anglo - Irish Treaty)にあくまで反対したエーモン・デヴァレラ (Eamonn de Valera, 1882-1875)は、フィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)を組織し、その後労働党 (The Irish Labour Party)の協力を経て1932年第1次内閣を組織し、第2次世界大戦後の1948年まで16年間首相を務め、一旦下野しましたが、1951年再び政権に復帰し1954年までと、1957-1959年まで首相として務めた後、1973年まで(第3代)大統領を2期(1959年6月25日 - 1973年6月24日)務め上げました。一貫して英国と距離を置き、英国王室に対する忠誠義務を憲法から削除し、独立主権国家を目指しました。これを契機に英国とアイルランドの間で互いに関税を掛け合う「対英経済戦争」(the [anti-British] Economic War, 1932-1938)が始まり、英国への土地購入代金の返済を拒否してその代金を国内政策に振り向けるなど、経済の立直しにあたりました。アイルランド国民は世界恐慌後の1930年代の不況の中で大変な暮らしを強いられましたが、国民の大半はデヴァレラの政府を支持し続けました。[波多野 第7章 229]

[2g. アイルランド共和国の成立と第2次世界大戦]


(094) 1937年にはエーモン・デヴァレラ (Eamonn de Valera, 1882-1875)は、憲法を提案して、アイルランド全島を国土とする、主権をもつ独立民主国家と宣言し、議会に採択されました。それによると、アイルランドは、大統領を元首とし、国名をアイルランド語でエール(Eire: 英語でアイルランド)と定めました。ただし、行政の最高権限を持つのは首相で、大統領は国の象徴的な立場で、言うなれば英国や日本の王族 (皇族)の代理ですが、大統領は7年任期で選挙で選出されます。このアイルランド憲法は、前年1936年に英国王エドワード8世 (Edward VIII, Edward Albert Christian George Andrew Patrick David Windsor, 1894年6月23日 - 1972年5月28日; r.1936年1月20日-1936年12月11日)の1931年頃からはじまったアメリカ人女性、ウォリス・シンプソン (Wallis Simpson, 1896-1986; 離婚歴2回)との「王冠をかけた恋」のおかげで退位を余儀なくされ、ウインザー公爵 (Duke of Windsor)*になったこともあり、アイルランドは完全独立へさらに一歩を進めました。[波多野 第7章 229; 231-232]
  *退位後、フランスに暮らし、王族でありながら無視された存在の2人に目をつけたのは、なんとアドルフ・ヒトラー (Adolf Hitler)だった。急速な勢力拡大によりヨーロッパで孤立していたナチス・ドイツは、前英国王を、私的な賓客としてドイツへ招いたのである。夫妻は、ドイツで熱狂的な歓迎を受けた。結婚以来、ウォリスを好意的に受け入れてくれたのはドイツが初めてだった。これに気をよくした夫妻は、ファシスト寄りの発言や行動が目立つようになり、英国政府はエドワードをバハマ総督に慌てて任命して2人をヨーロッパから離したのである。英国王室とは、その後も冷ややかな関係が続いたが、エリザベス2世 (Elizabeth II; Elizabeth Alexandra Mary, 1926-; r.1952-)が1966年に公式に夫妻を招待し、ようやくウォリスはウインザー公夫人 (The Duchess of Winsor)として認められた。

(095) 大統領職は儀式的な職務が主ですが、大統領はいくつかの留保権限を行使することがあります。1938年、新憲法のもとで、アイルランドは共和国 (Republic of Ireland)となり、初代大統領には、ダグラス・ハイド (Douglas Hyde; 在任 1938年6月25日 -1945年6月24日)が選出され、第2代はショーン・T・オケリー (Sean T. O'Kelly; 在任1945年6月25日 - 1959年6月24日)が続き、第3代デヴァレラ大統領へつなぎました。[波多野 第7章 229]

(096) アイルランドは、第2次大戦中、連合国側 (the Allied Powers; 英国、米国、仏国、ソビエト、中華民国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、オランダほか)、枢軸国側 (the Axis Powers; ナチス・ドイツ、大日本帝国、イタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、タイ他)のいずれにも加担せず、スイスやスペイン、ポルトガルなどと共に中立を守り、フィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)が1948年の選挙で敗北、下野するまでは英連邦会議 (the British Commonwealth Summits)にも参加しませんでした。[波多野 第7章 231-232]

(097) 第2次大戦に際しては、反日感情が歴代米大統領の中で恐らく最も強く、日系人の強制収容を推進し、原子爆弾開発のために亡命ユダヤ人を中心としたマンハッタン計画 (the Manhattan Project)を推進したことでも知られるルーズヴェルト第32代米大統領 (Franklin Delano Roosevelt, FDR, 1882-1945; p.1933-1945)の再三の連合国参加要請にも拘わらず、アイルランド共和国は中立を堅持し、戦争終結時にチャーチル (Sir Winston Leonard Spencer-Churchill, 1874-1965)が戦勝演説でアイルランドを非難する場面もありました。それは、エーモン・デヴァレラ (Eamonn de Valera, 1882-1875)が、「我が国の分断に責任のある国 [UK]と一緒になって、自由とか民族自決のために戦列に加わることは自己矛盾である」と主張したからでした。もちろん、アイルランド人の中には義勇兵として英国軍や米国軍に参加する者もおりましたが、歴史上アイルランドが日本の敵国となったことは一度もないのです。大戦中もアイルランドは、ヨーロッパの在留邦人を避難させるための知る人ぞ知る脱出ルートでもあったのです。[波多野 第7章 232]

[2h. 第2次世界大戦後から現代のアイルランド共和国の情勢]


(098) 大戦後1948年の選挙で、アイルランドの有権者は変化を求め、フィネ・ゲール党 (Fine Gael; 統一アイルランド党; 国民党)のジョン・コステロ (John Aloysius Costello, 1891-1976)が連立政権の首相となりましたが、デヴァレラの孤立主義ないしは保護主義的な政策は大きくは変えられなかったのです。[波多野 第7章 232]

(099) 1950年代後半から1960年代初期には、フィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)のショーン・レマス (Sean Lemass, 1899-1971)が首相になり、めざましい経済成長を遂げました。これをショーン・レマス時代(Lemass years)と言います。[波多野 終章 233]

(100) 1966年には、ジャック・リンチ (Jack Lynch, 1917-1999)がフィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)の新党首に選出されました。アイルランドのとっての最大の政治課題は欧州共同体 (EEC:European Economic Community)に加盟するかどうかでした。国全体としては、今後も経済発展が続くであろうとの見通しから、政府はEEC加盟準備を進めました。リンチ首相は1966年から1973年と、1977年から1979年にかけて首相となり、政権を担当して、EEC加盟を準備し、アイルランドは1973年1月1日に正式加盟いたしました。アイルランドの前途は有望なはずでした。[波多野 終章 233-234]

(101) ところが、1969年から1973年にかけて、北アイルランド問題に関係するいくつかの事件が起こります。1968年に北アイルランドのカトリックが始めた公民権運動デモが広がりを見せ始めると、これに反発するプロテスタント の妨害運動も激しさを増し、紛争は次第に拡大していき、当然南のアイルランド共和国でも北のナショナリスト (アイルランド共和国への統合を求める人たち)に呼応した動きが出てきました。[波多野 終章 234]

(102) 1970年に「武器密輸疑惑」(the Arms Crisis) 事件が起こります。当時蔵相のチャールズ・ジェームズ・ホーヒー(Charles James Haughey, 1925-2006;大統領在任1979-1981, 1982.3-1982.12, 1987-1992)が、北のナショナリストに手渡す目的で、武器を海外から密輸する陰謀に関係していた容疑で逮捕されました。裁判の結果、一応、ホーヒーは無関係とされ、法的には決着がつきました。しかし、復権した後もホーヒーに対する疑惑が完全に払拭したわけではありませんでした。[波多野 終章 234-235]

(103) この後、アイルランドは高度経済成長期に入り、急速に国民所得を伸ばしはじめました。16年間政権にあったフィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)は、1973年の総選挙で敗北し、代わってフィネ・ゲール党 (Fine Gael; 統一アイルランド党; 国民党)は勝利し、労働党 (the Irish Labor Party)と連立内閣を組織しました。首相には、フィネ・ゲール党のリアム・コスグレイブ (Liam Cosgrave, 1920-; p.1973-1977)が就任しました。彼もアイルランド自由国初代首相であった父親ウイリアム・コスグレイブ (William Thomas Cosgrave, 1880-1965)のように、国内経済政策に敏腕を奮いました。しかし、1973年に第一次石油危機 (the 1973 Oil Crisis)が起こり、アイルランドは激しいインフレに見舞われ、経済は混乱しました。[波多野 終章 238]

(104) 北アイルランド問題、とくにテロ行為には、リアム・コスグレイブ (Liam Cosgrave, 1920-)は厳しい方針で臨み、英国政府と協力して、サニングデール合意 (the Sunningdale Agreement)を発表し、「ユニオニスト (英国との連合主義者)とナショナリスト (共和国への統合を求める人たち)が共同で参画する北アイルランド政府」を目指しました。しかし、警戒を強めたユニオニストたちの1974年抗議ストによりこの合意の効力がなくなりました。[波多野 終章 240]

(105) 1977年6月の選挙で、フィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)が圧勝しました。そして、前述のチャールズ・ジェームズ・ホーヒー(Charles James Haughey, 1925-2006;大統領在任1979-1981, 1982.3-1982.12, 1987-1992)が首相に就任しましたが、あまり国民に愛されず、保守的政治家のドンと呼ばれました。1981年6月の総選挙で敗れ、ホーヒーは一旦下野しましたが、IRAテロ容疑者のハンガー・ストライキや財政赤字で子供服などへの課税方針を政府が発表すると国民の大反発を招きました。そして、1982年の選挙でフィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)が比較多数を獲得し、ホーヒーは同年2月から首相に再任しました。しかし、相次ぐスキャンダルで、同年12月にホーヒーは政権をまたしても去りました。[波多野 終章 240-244]

(106) 1979年12月から1992年2月まで、フィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)のチャールズ・ジェームズ・ホーヒー(Charles James Haughey, 1925-2006; 大統領在任1979-1981, 1982.3-1982.12, 1987-1992)とフィネ・ゲール党 (Fine Gael; 統一アイルランド党; 国民党)のガレット・フィッツジェラルド (Garret FitzGerald, 1926-; p.1981.6-1982.3, 1982.12-1987.3)が交互に首相に就任しました。ただ、北アイルランド問題や経済停滞もあり、政治的には見るべきものがない時期でした。[波多野 終章 241-248]

(107) 1970年代の不況の後、経済建て直しとアメリカ、ヨーロッパ各国からの投資の増大により1990年代のアイルランド共和国の経済は世界でも有数の成長を記録しました。アイルランドの経済力はケルトの虎 (Celtic Tiger)と称されるようになり、2000年には欧州連合 (European Union)への参加も果たしました。2001年には経済成長は一旦ゆるやかになりましたが、2003年にはまたペースを速め、現在は各国からの移民、とくに中国、ナイジェリア、ポーランドからの労働者を大量に受け入れ、かつては農業と観光産業が主要産業であったアイルランド共和国は現在世界有数のIT産業先進国として経済発展を進めています。かつては英国依存型であった経済は、主要輸出入相手国の多様化とともに、もう完全に英国依存をあらためつつあり、むしろアメリカや他のEU諸国との結びつきが強くなりました。

(108) 1990年、アイルランド労働党 (the Irish Labor Party)に擁立されて当選した、第7代にして初の女性大統領メアリー・ロビンソン (Mary Robinson; 在任1990年12月3日 - 1997年9月12日)の後、フィネ・ゲール党 (Fine Gael; 統一アイルランド党; 国民党)から立候補した、やはり女性の第8代大統領メアリー・マッカリース (Mary McAleese; 在任1997年11月10日 - :2004年11月11日より現在2期目)が現在務めています。メアリー・ロビンソンは、大統領職引退後、国連人権問題担当高等弁務官(在任1997年-2002年)を務めました。この二人の女性大統領はともに大学トリニティー・カレッジ・ダブリン刑法学教授出身です。メアリー・マッカリース大統領は、2005年3月に来日し、3月16日に東京大学駒場キャンパスで「21世紀のアイルランドと日本」("Ireland and Japan at the Beginning of the Twenty-First Century")と題して講演しました。

(109) 一方、歴代首相はすべて男性で、ホーヒー (Charles James Haughey, 1925-2006; 大統領在任1979-1981, 1982.3-1982.12, 1987-1992)首相の3期目が終わると、フィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)のアルバート・レイノルズ (Albert Reynolds, 1932-; p.1992.2-1994.12)、フィネ・ゲール党 (Fine Gael; 統一アイルランド党; 国民党)のジョン・ブルートン (John Gerard Bruton, 1947-; p.1994.12-1997.6)を経て、フィオナ・フォイル(Fianna Fail; アイルランド共和党)のバーティ・アハーン (Bertie Ahern; Patrick Barthlemew Ahern, 1951-)が1997年6月から現在2期目の現職です。


[2i. 北アイルランド問題 (the Troubles)とは?]


(110) 北アイルランドは、アイルランド島北東部アルスター (Ulster)地方の六州から成り、面積は1,4319平方キロです。1922年のアイルランド自由国 (the Irish Free State)誕生の際に、南アイルランドから切り離され、イギリス・アイルランド条約 ((the Anglo - Irish Treaty)によって、正式に英国 (United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)の一部に留まりました。北アイルランドの人口168万5267人(2001年4月現在)の2/3に当たる100万人強がプロテスタントで、残りがカトリックです。首都はベルファスト (Belfast)で人口は約24万人ほどです。[波多野 付録 251]

(111) 北アイルランドで多数派を占めるプロテスタントは歴史的経緯により、政治的・社会的にカトリックよりも優位に立ってきましたので、アイルランドが独立して現状が変わることは望みませんでした。さらに、もし北アイルランドが南のアイルランド共和国に統一されれば、プロテスタントは少数派に転落するので、これまでの特権を失われてしまうことを恐れました。このため、プロテスタントは英国との連合(union)の継続・維持を強く求めました。それで、彼らのことを「ユニオニスト」(the Unionists)または英国王室に忠誠を誓う人々という意味で「ロイヤリスト」(the Royalists)と呼びます。これに対し、英国から分離・独立を目指し、共和国建設を目指すカトリックは民族主義者という意味で「ナショナリスト」(the Nationalists)または共和国主義者「リパブリカン」(the Republicans)と呼ばれます。北アイルランド紛争とはプロテスタント (ユニオニスト/ロイヤリスト)対カトリック(ナショナリスト/リパブリカン)*の争いなのです。英国では、北アイルランド問題のことを、ただ「あのトラブル」(the Troubles)とだけいいます。その呼び方そのものが、どこか侮蔑的でもありますし、問題の根本解決ではなく、敢えて同じケルト系のスコットランドやウエールズ出身者を中心とした駐屯部隊を派遣することで出来るだけ最小の被害で現状維持だけを望んだ英国政府の基本方針を示唆しています。 [波多野 付録 252]
  (*実際には、北アイルランドのプロテスタントの人々すべてがユニオニストやロイヤリストではもちろんないし、カトリックすべてがナショナリストやリパブリカンではない。逆説的であるが、そのようによくステレオタイプ化されて議論されることが問題であるとも言える。ただ、本講義では大まかなところを理解してもらうために、敢えてそれを問題にしないで、講義を進めていく。)


ベルファストのロイヤリスト居住区中心地サンディ・ロウ


(112) 1921年以降、ストーモント城 (Stormont Castle)に北アイルランド議会が設けられましたが、ユニオニストが常に多数党でした。カトリックに対する差別政策はほとんど制度化され、一種のアパルトヘイトが雇用、教育、住宅、地方自治の各分野で強制的に実施されておりました。
1. 就職の差別: 企業によっては、例えば造船業などは圧倒的にプロテスタント中心の雇用採用。カトリックは下働きのみ、中小企業ではカトリックは受け付けない所が多く、公務員もプロテスタント中心。あるカウンティ (County: 郡、県)では、カトリック住民が人口の6割近くなのに、公務員の採用は9割がプロテスタント、たった1割がカトリックでした。
2. 住宅割当の差別: 1969年までに公営住宅1600戸が建設されましたが、プロテスタントには7割が割り当てられ、カトリックはわずか3割でした。
3. 選挙権の差別: プロテスタントに有利なゲリマンダー方式 (the Gerrymandering)と呼ばれる選挙区の設定。ある区は3人区であり、カトリックの人口が多いにもかかわらず奇妙な地域の線引きをし、プロテスタントがわずかの差で多数になるように設定し、プロテスタントを2名、カトリックを1名に選出するようにしていました。またデリーでは、南側カトリック2万人地区から8名選出、北側のプロテスタント1万人地区から16名を市議会に送り、票の重さの差別が市当局によって故意に維持されていました。
  [参考文献: 小野修『アイルランド紛争・民族対立の血と精神』(明石書店, 1991); 鈴木良平『アイルランド問題とは何か・イギリスとの闘争、そして和平へ』(丸善, 2000)] [波多野 付録 252]

(113) 1963年に北アイルランド第四代首相に就任したテレンス・オニール大尉 (Terence O'Neill, 1914-1990)は、比較的穏健な改革派でしたので、当時のアイルランド共和国首相ショーン・レマス (Sean Lemass, 1899-1971)と現状を改善しようと会談しました。ところが、オニールの政策はユニオニストたちから猛烈な反発を招いたのです。1969年にとうとうオニール首相は辞任に追い込まれ、後任には伝統的連合主義者ジェイムズ・チチェスター・クラーク (James Chichester-Clark, 1923-2002)が就任します。[波多野 付録 252-254]

(114) 1960年代に高まったアメリカの黒人公民権運動は、北アイルランドの「二級市民」カトリックたちに大きな影響を与えました。それまでもIRA (the Irish Republican Army)の残党が差別待遇に抗議して、暴力を振るってきましたが、1967年に北アイルランド公民権協会 (The Northern Ireland Civil Rights Association)が結成されました。そのときに彼らが掲げたスローガン「公民権」(Civil Rights)、「宗派主義反対」(Anti-Sectarian)、「一人一票」(One Man One Vote)、「信条に拘わらず仕事を」(Jobs Not Creed)は、民主主義の本家と思われていた英国の一部であっただけに世界中を驚かせました。[波多野 付録 253]

(115) 1970年頃には、ナショナリスト陣営では、IRA (the Irish Republican Army)が、またユニオニスト陣営ではアルスター自由騎士団 (UFF; Ulster Freedom Fighters)やアルスター義勇軍 (UVF; Ulster Vorunteer Forces)が競い合うように隊員を募集し、勢力を増大してきました。[波多野 付録 255]

(116) IRAでは、平和的手段か武力闘争をめぐり組織内部に対立が起こり、多数は合法的手段を主張したのに対し、強硬意見を主張する少数派は分裂し、「暫定派」(the Provisional [IRA] known as "PROVOS")となり、テロ活動を展開しました。[波多野 付録 255]

(117) 1971年には「インターンメント」(Internment: 非常拘禁法:逮捕状なしに容疑者を逮捕し、無実の者まで投獄・不当な拷問をかけること)という法律が出来ました。北アイルランドで350人近くが逮捕され、ますますナショナリストの闘争本能に火をつけます。このおかげで益々IRA支持者が増えました。そんななか、公民権協会(NICRA)がデモ行進を進めました。自身はプロテスタントでありながらもカトリック系住民の公民権実現のために尽力してきたアイヴァン・クーパー (Ivan Averill Cooper, 1944-)という北アイルランド議会下院議員が呼びかけ、 差別撤廃を掲げて行われました。そして1972年1月30日、血の日曜日事件(Bloody Sunday)が起こってしまいます。イギリス領北アイルランドの(ロンドン)デリー市 (Derry/Londonderry)*のボグサイト地区 (the Bogside)で公民権を求めたカトリック系市民に英国軍が発砲して13人の死者を出し、北アイルランド紛争を悪化させました。この事件に関し、同年にジョン・レノン (John Winston Ono Lennon, MBE, 1940-1980)が「血まみれの日曜日」("Sunday Bloody Sunday")、1983年にU2 (1980-)が「ブラディ・サンデー」("Bloody Sunday")を発表しました。おだやかな市民権行進のあと、英国軍パラシュート連隊は自動小銃を発砲し、武装していない市民13人(ほとんど未成年の少年たち)を殺害し、さらに大勢のデモ参加者たちを負傷させました。その数日前に兵士たちは行進で「射殺する」よう英国軍上層部に命ぜられていたことがのちに判明しました。エリザベス女王 (Elizabeth II; Elizabeth Alexandra Mary, 1926-; r.1952-)は、実際に当日軍務に携わった英国兵士たちに勲章を授けたりして、彼らの「勇気ある行動」を賞賛しました。この事件により、それまで活動が沈静傾向にあったIRAに入隊を希望する少年たちが後を絶たず、北アイルランド紛争は急激に激化しました。 [Cf. 波多野 付録 256]
  (*現在でも、(ロンドン)デリー市 (Derry/Londonderry)の呼び方は、明快にその人がどちらの陣営に属するかを示す。アイルランド共和国及び北アイルランドのナショナリストたちはデリー(Derry)と呼び、英国及びユニオニストたちはロンドンデリー (Londonderry)と呼ぶ。なお、デリーは圧倒的にカトリックが多い町である。)

[DVD 5: Bloody Sunday 2002]

(118) 1972年、英国保守党 (The Conservative Party)のウイリアム・ホワイトロー (William Stephen Ian Whitelaw, 1st Viscount Whitelaw, 1918-1999)が初代北アイルランド問題担当相 (the 1st Secretary of State for Northern Ireland)になると、結局長期的な解決方法としては、何らかの斬新的権力移譲方式しかないと思うようになります。そこで、1973年サニングデール合意 (the Sunningdale Agreement)を南のアイルランド共和国政府、SDLP (The Social Democratic and Labour Party)の創始者で初代党首のジェリー・フィット (Gerard "Gerry" Fitt, Baron Fitt, 1926-2005)とユニオニストで元北アイルランド首相ブライアン・フォークナー (Arthur Brian Deane Faulkner, Baron Faulkner of Downpatrick, 1922-1977)と協議して作成しました。これは、北アイルランドに独自の議会を設け、ユニオニスト、ナショナリスト双方の立場をそれぞれ代表する任期四年の議員を選挙して行政府を組織することでした。フォークナーが新政府の首班 (Chief Executive)に選出されました。しかし、この合意には両陣営とも強硬派が反対し、暴力事件が後を絶ちませんでした。ユニオニストの不満は、北アイルランド問題に南のアイルランド共和国が発言権を持ったことでした。設立7ヶ月を経ずして、この政府は麻痺状態になり、英国政府がまた直接統治に戻りました。しかし、サニングデール合意は、北アイルランド問題の実質的解決を目指す試みとしては歴史上評価していいと思います。[波多野 付録 256-257]

(119) サニングデール合意 (the Sunningdale Agreement)が反故になってからは、安全確保を最優先事項とする時期が続きます。死傷者の数は1970年代、どんどん増えていきました。合計数は数万人と言われておりますが、正確な数字は資料によって大きく異なります。[波多野 付録 257]

(120) 1980年から1981年にかけて、IRA服役因によるハンガー・ストライキが始まります。ボビー・サンズ (Bobby Sands, 1954-1981)は獄中にて国会議員に当選しますが、出獄できずに何人かの仲間たちとハンガー・ ストライキを行い、二ヶ月ほどの断食の末に1981年5月5日に死亡してしまいます。この頃からIRAの政治部であるシン・フェイン党 (Sinn Fein)が支持を拡大していきました。1984年にはブライトン (Brighton, England)での保守党大会でマーガレット・サッチャー 首相 (Margaret Hilda Thatcher, 1925-; p.1979-1990)暗殺が計画されましたが、彼女は無事で、代わりに一般市民5名が死亡、30人が重軽傷を負いました。この後双方の数え切れない暗殺、報復、爆弾テロが1980年代には相次ぎ、毎年100-200名以上が死亡したのです。[波多野 付録 258-259]


サンディ・ロウのボビー・サンズ壁画


(121) 幸いなことに、マーガレット・サッチャー 首相 (Margaret Hilda Thatcher, 1925-;p.1979-1990)と当時のアイルランド共和国首相ガレット・フィッツジェラルド (Garret FitzGerald, 1926-; p.1981.6-1982.3, 1982.12-1987.3)の関係は良好で、英国とアイルランド共和国は1985年11月、「アングロ・アイリッシュ協定」(Anglo-Irish Agreement, 15 November 1985)に調印しました。この協定は、北アイルランドのナショナリスト側住民のために、アイルランド共和国政府が北の内政問題についての政府間協議に加わる権利を与えるというものでした。しかし、SDLPだけがこれを認め、ユニオニスト、ナショナリストも共にこれを認めませんでした。[波多野 付録 259-260]

(122) 1993年秋には、アイルランド共和国政府が、北アイルランドの和平プロセスを前進させる六項目からなる和平案を発表し、ジョン・ヒューム (John Hume, 1937-)SDLP党首とシン・フェイン党 (Sinn Fein)のジェリー・アダムズ党首 (Gerry Adams, MP, 1948-)の合意を受けました。[波多野 付録 262-267]

(123) 1994年レパブリカン・ロイヤリスト (Republican Royalists)の中心テロ組織が停戦を宣言します。しかし、1995年 IRAによるロンドン波止場爆破で停戦が中断してしまいました。

(124) 1996年に第2回停戦宣言が出されます。イギリス労働党 (the Labour Party)のブレア首相 (Anthony Charles Lynton Blair, 1953-)の下、シン・フェイン党 (Sinn Fein)のアダムズ党首(Gerry Adams, MP, 1948-) やマクギネス議員 (James Martin Pacelli McGuinness MP, 1950-)がはじめて和平協議の席につきました。

(125) 1997年には、また事態が悪化します。ロイヤリストの殺し屋、ビリー・ライト(Billy Wright, 1967-1997; UVFから追放され、LVF [The Loyalist Volunteer Force]を設立した人物)が獄中で暗殺されたのをきっかけに、LVFのカトリック系一般市民への無差別テロが起こります。

(126) 1998年、未だに未解決のままだった1972年「血の日曜日事件」の再調査が、イギリス首相トニー・ブレア(Anthony Charles Lynton Blair, 1953-)の発表により行われることになります。「イースター合意」(the Easter Agreement)とよばれる合意が各党間でなされました。ナショナリスト、ユニオニスト双方が妥協する形の合意案は、1999年の国民投票により承認されました。8月にはIRAの分派「真のIRA」(Real IRA)によるオマーでの爆弾テロが起こり、28人が死亡しました。10月にはユニオニスト(UUP=Ulster Unionist Party)の党首であり、和平協議の立役者であるデビッド・トリンブル (David Trimble, 1946-)と、ナショナリスト(SDLP=Social Democratic and Labor Party)の党首で、和平協議のナショナリストのまとめ役であるジョン・ヒューム (John Hume, 1937-)がノーベル平和賞を受賞します。今後は北アイルランドの住民が自分たちの未来を決めることになりました。

(127) さらに、1998年4月10日にベルファスト合意 (Belfast Agreement)*を結び、多党間協議の合意条項、特に憲法改正と新制度創設に関わる条項を実行に移すことにして、両政府は問題解決へ向けて模索を続けています。中長期的には北アイルランド政府の自治権拡大とアイルランド、イギリス両政府の欧州連合参加による間接的な関与により課題を解決するものと期待されます。
  *(この日が復活祭の前々日、聖金曜日(グッド・フライデー)であったため、聖金曜日協定(Good Friday Agreement―グッドフライデー合意とも訳される)と呼ばれることが多い。また内容から包括和平合意と呼ばれることもある。)


[2j. 21世紀の北アイルランド]



(128) 現在の北アイルランド政府は、1998年のベルファスト合意(Belfast Agreement)によって設立が決定されましたが、2002年から実質的機能を停止しています。同時に設置された北アイルランド議会(The Northern Ireland Assembly)についても党派間の対立によって一時は機能停止に追い込まれました。2003年の北アイルランド総選挙においては、強硬派のシン・フェイン党 (Sinn Fein)と民主統一党 (Democratic Unionist Party)が穏健派以上の票を獲得するなど、政治的対立が先鋭化する傾向も見られます。2007年3月26日にはシン・フェインと民主統一党の間で自治機能を同年5月8日より再開させることで合意が形成されました。("Wikipedia"「北アイルランド」の項参照; accessed November 1, 2007)

(129) "Wikipedia" (accessed November 1, 2007)の「北アイルランド」の項によれば、北アイルランド議会における主要政党は次のとおりです:
 
 
北アイルランドの主要政党 (2007年3月現在)
政党名
派閥
特徴
議席数
民主統一党 (Democratic Unionist Party)
ユニオニスト強硬派
- - - -
36
シン・フェイン (Sinn Fein)
ナショナリスト強硬派
IRA暫定派に関係する
28
アルスター統一党 (Ulster Unionist Party)
ユニオニスト
保守派
18
社会民主労働党 (The Social Democratic and Labour Party)
ナショナリスト
社会民主主義
16
同盟党 (Alliance Party)
無派閥
リベラル
7
進歩統一党 (The Progressive Unionist Party)
ユニオニスト
私兵組織に関係する
0
英国統一党 (The UK Unionist Party)
ユニオニスト
- - - - -
0
保守党 (The Conservative Party in Northern Ireland)
- - - - -
英国の保守党 (The Conservative Party)の支部
0


  *議席は2007年3月時点のものであり、この他に緑の党 (Green Party)系政党選出議員が1名、無所属議員が1名存在する。英国下院の選挙においては、人口比に従って全646議席中の18議席が北アイルランドに割り当てられている。2005年の総選挙により決定した現在の議席数は民主統一党が9議席、シン・フェインが5議席、社会民主労働党が3議席、アルスター統一党が1議席である。シン・フェインの議員は女王への宣誓の拒否、統一アイルランドを正統政府と見なすなどの信念から議会には参加していない。(Quoted from "Wikipedia," accessed November 1, 2007)




3. ユダヤ民族
キリスト教、ユダヤ教の根幹であり、
さらにイスラム教の成立にも影響を与えたヘブライズム


[3a. ユダヤ民族、ユダヤ文化 (ヘブライズム)概観]


(130) マシュー・アーノルド (Matthew Arnold, 1822-1888)の『教養と無秩序』 (Culture and Anarchy, 1882)によれば、ヘレニズム (Hellenism)ヘブライズム (Hebraism)はヨーロッパ文化の2大源流です。
      1. ヘレニズム (Hellenism)は、アレクサンダー大王 (アレクサンドロス3世; Aleksandros III Megas, BC 356-BC 323)の東方遠征により生じた古代オリエントとギリシア文化の融合です。
      2. ヘブライズム (Hebraism)とは、旧約聖書の思想を意味します。つまり、イスラエルに起源を持つ流浪の民ユダヤ人の思想文化です。イスラムと起源を同じくする古代中東の共通の父祖アブラハムの伝統の一部です。
      *3. 上記の2つにケルティズム (Celtism)を加えることを、本講義では提案しております。(既週講義参照)

(131) 「キリスト教---西洋文化に宿るこの東方的なもの」--- アンリ・フレデリック・アミエル(Henri Frederic Amiel, 1821-1881)著 『アミエルの日記』(Amiel's Journal, 1874-1875)の中のこの言葉は、実に深遠です。たしかにキリスト教はオリエントのユダヤ教から派生していますから、その根は東方に根ざすと言えます。しかし、この事実をありのまま受け入れるには、まず第一にキリスト教がユダヤ教に根ざすこと、第二にユダヤ教は東方(Orient)のものであることを受け入れなければなりません。A. シーグフリードが論じるように、東洋 (Orient)から西洋 (Occident)を永久に分かつものが「ギリシア・ローマの奇蹟」即ちヘレニズム (Hellenism)であるとすれば、東洋 (Orient)と西洋 (Occident)を永久に結びつけるものは「ユダヤの奇蹟」即ちヘブライズム (Hebraism)なのです。オリエントは、多神教のヨーロッパを一神教 (monotheisme)に変え、道徳の法則、預言者への畏敬の念そして不安と恐怖をユダヤから伝えました。[A. シーグフリード著/鈴木一郎訳『ユダヤの民と宗教』岩波新書 1967/1992 「主題と構想」; Andre Siegfried, Les Voies D'Israel, 1959]

(132) ユダヤ人 (Jews/Hebrews)は紀元70年にローマ帝国(the Roman Empire)により、イスラエル(Israel)という王国を失って以来、1948年のイスラエル国 (The State of Israel/ Medinat Yisrael [メディナット・イスラエル])の建国によって、「祖国」に帰るまで、2000年近くにわたって、ナチスによる大量虐殺を頂点とする迫害に耐えながら歴史を生き抜いてきました。これまでの人類の歴史上、シュメール人 (the Sumerians)やアッカド人 (the Akkadians)、ヒッタイト人 (the Hittites)など多くの民族がいつも間にか姿を消してしまいました。ところがユダヤ人は、混血を繰り返しながらも、そのユダヤ人性、ユダヤ文化を保ってきました。イスラエル建国以前、彼らは「国なき民」(a nation without a country)と呼ばれてきました。[上田 プロローグ 6]

(133) ユダヤ人は絶えず非ユダヤ人 (Gentiles)の冷たい反ユダヤ感情 (Anti-Semitism)にさらされてきました。特に大多数のユダヤ人が暮らしたヨーロッパでその傾向は顕著でした。なぜユダヤ人はこれほどまでに嫌われてしまったのでしょうか? [上田 プロローグ 6]

(134) ユダヤ人はロシアや東欧を中心としたヨーロッパ、南米アメリカ、オセアニア、インド、中国など世界中に住んでおりますが、全世界のユダヤ人を合わせてもその数は決して多くはありません。今日では1400万人程度にすぎません。それにもかかわらず、人類の文化、文明に対する彼らの貢献はじつに素晴らしいものです。『朝鮮日報』(2006/10/22付)によれば、これまでノーベル賞を受賞したユダヤ人の数は、生理学・物理学賞が各44名、化学賞が27名、経済学賞が20名、文学賞が12名で、平和賞を除いても、計150名以上になります。この数には、ユダヤ系と推定されても、公式に確認されていない人物は含まれていないのです。つまり、これまでのノーベル賞受賞者*のうち約18%-25%が世界人口比率わずか0.25%ほどのユダヤ系 (両親のどちらかがユダヤ人)**が占めていることになります。これは偶然というにはあまりにも多すぎます。最近、全世界のユダヤ人の秀才たちがエルサレムの「イスラエル芸術科学アカデミー (IASA: The Israel Arts and Science Academy)に集まってきており、近い将来IASAが「ノーベル賞センター」になるのではないかとも言われております。[上田 プロローグ 7]
  *ただ、ノーベル財団 (Nobel Foundation)というのは、ユダヤ金融資本が作り出したものであり、彼らの推し進める計画に貢献した者に贈られる賞である、という反論もあります。文学賞や平和賞の選考基準はとくに問題視されています。2008年現在の受賞者数は、欧米人が圧倒的に多く、多い国籍順に列挙すると、1. アメリカ304名、2. 英国106名、3. ドイツ80名、4. フランス54名、5. スウェーデン30名、6. スイス22名、7. ロシア19名、8. 日本15名 (南部陽一郎はアメリカ国籍のため含めず)、8. オランダ15名、10. イタリア14名、11. デンマーク13名、12. オーストリア12名です。中国はアメリカ在住の物理学賞2名 (ともに1957年)、韓国からは金大中の平和賞(2000)のみ、台湾はアメリカ在住の李遠哲の化学賞 (1986)のみとなります。なお、アイルランドは5名で、4名が文学賞です。ユダヤ系受賞者が一番多いとはいえ、イスラエル国籍の受賞者数は8名にすぎません。
  **伝統に従えば、ユダヤ人は通常母方がユダヤ人であることを重視する。ここでいう「ユダヤ系」とは必ずしも伝統に依らない。

(135) ユダヤ人には世界に名だたる金持ちが多いのです。世界経済を牛耳っているのは、ロスチャイルド (ロートシルト (「赤い楯」の意): Rothschild)、ロックフェラー (Rockefeller)、サッスーン (Sassoon)、 クーンロエブ (Kuhn, Loeb & Co.)、モルガン (Morgan)、ベクテル (Bechtel)、ザハロフ (Zaharoff)の7大ユダヤ系財閥です。この中で、ロスチャイルド財閥とロックフェラー財閥が群を抜いています。石油王のロックフェラー財閥はもともとはユダヤ系財閥ではなく、WASP (White Anglo-Saxon Protestant)だったのですが、ユダヤ系財閥と緊密な関係が出来てしまい、ユダヤ化しました。ユダヤ系財閥の総本家はロスチャイルド財閥(ロンドン、パリ)です。サッスーン財閥は、ロスチャイルドの支家の一つでバグダッド出身でしたが、麻薬売買などを通じて、インド、中国の上海の銀行を牛耳っています。クーン・ロエブ財閥は、ロスチャイルド財閥のアメリカ支店(クーン [Kuhn]、ロエブ [Loeb]、 ウォルフ [Wolf]の三人のユダヤ人が1875年にニューヨークに設立したもので、ロシアに強いつながりがあります。モルガン財閥は、ロンドン・ロスチャイルド家が1871年にジョン・ピアモント・モルガン (John Pierpoint Morgan, 1837-1913)をアメリカ総支配人として送り出して金融業を開始、設立されたもので、アメリカを中心に活動しております。ベクテル財閥、ザハロフ財閥はともに軍需財閥と言われております。 [上田 プロローグ 7]

(136) ユダヤ人は、今日まで迫害に耐え抜き、生き残ってきました。その秘密を一言で言えば、彼らが聖書の民だということにつきます。つまりトーラー (Torah; 「律法」)、すなわち神によって示された生活と行為の原理、特にモーセ五書 (Pentateuch)、旧約聖書の最初の5つの書である『創世記』(Genesis)、『出エジプト記』(The Book of Exodus)、『レビ記』(The Book of Leviticus)、『民数記』(Numbers)、『申命記』(Deuteronomy)の教えを忠実に守ってきたから、またそこに記述されていることがらや出来事を大切に記憶してきた結果だから、と上田和夫は説明しています。 [上田 第1章 10]

[DVD 6: The Bible: In the Beginning ... 1966]



[3b. ユダヤ人の周年祭と受難の歴史]


(137) 過越の祭 (ペサハ [Pesach]) 過越の祭は、ユダヤ教の三大祭の一つで最古かつ最大のもので、この日のために世界中からイスラエルへと多くの人々が集まって来ます。また、世界各地のユダヤ人がこの祭を祝う場合は、最後に参列者一同が「ルシャナ・ハバー・ビルシャライム」("Le-shanah ha-ba-a b'Yerushalayim" ["Next year in Jerusalem"]: 「来年こそはエルサレムで」)と唱和することになっています。2007年の過越の祭は、4月3日の日没から一週間続きました。ペサハとは、紀元前13世紀、『出エジプト記』(The Book of Exodus)の時代に起源があります。当時エジプトに連れていかれて、エジプトのピラミッドや都市建設などに従事していた奴隷であったユダヤ人たちがエジプトを脱出したときに神がなしたわざを記念するための祭です。 レオナルド・ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci, 1452-1519)の絵画で有名な聖餐式の原形になった「最後の晩餐」("Il Cenacolo o L'Ultima Cena": "The Last Supper")は、過越の祭の食事でした。マタイによる福音書 (the Gospel according to St. Matthew)を見ると、次のように記されています:
  除酵祭(酵母の種を入れないパンを食べる祭)の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」(マタイ26:17-18:新共同訳)
  さらに、キリスト教の復活祭はもともとユダヤ教の「過越の祭」から生まれた祝い日でした。 もともとは復活祭はユダヤ教の過越の祭と同じ日に祝われていたと考えられています。 [上田 第1章 12-14]

(138) 七週祭 (シャヴオート/シャヴオット [Shavuot])は、モーセ (Moshe: Moses, ?16th-15th c BC/?13th-12th c BC)が神から十戒を渡されたことを記念する祭です。4月初旬にエジプトからイスラエルの民を率いて脱出し、放浪していたモーセたちが、シナイ (Sinai)の砂漠 (エジプトのシナイ半島)をさまよい、そのどこかの山で(シナイ山 [Mt. Sinai]と一般には伝えられていますが、正確な場所は不明)モーセが神から十戒を渡されたのです。『出エジプト』(The Book of Exodus) の過越の祭から7週目に訪れるので、この祝日が来ると、もうイスラエルもすっかり夏本番となるそうです。 [上田 第1章 14-18]

(139) モーセ (Moshe: Moses, ?16th-15th c BC/?13th-12th c BC)の十戒(The Ten Commandments)は、モーセがイスラエルの神から与えられたとされる十の戒律のことです。『出エジプト記』(The Book of Exodus) 20章3節から17節、『申命記』(Deuteronomy)5章7節から21節に書かれています:
  
   1. あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
   2. あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
   3. あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
   4. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
   5. あなたの父と母を敬え。
   6. あなたは殺してはならない。
   7. あなたは姦淫してはならない。
   8. あなたは盗んではならない。
   9. あなたは隣人について、偽証してはならない。
  10. あなたは隣人の家をむさぼってはならない。 [上田 第1章 15-18]


(140) モーセ (Moshe: Moses, ?16th-15th c BC/?13th-12th c BC)の十戒 (The Ten Commandments)の1から4までは、神と(ユダヤ)人との関係であり、5から10までは人と人に関する項目(同時に刑法の根幹)で、宗教を越えた普遍的な道徳律と言えるでしょう。1には、ヤハヴェ神 (YHWH)の排他的で妬み深い性格がよく示されています。ただし、ユダヤ人がこの神を唯一絶対神として崇めるならば、神はユダヤ人を他民族よりも愛し、保護するという意味なのです。この選民思想が、のちに旧約聖書を共有するキリスト教徒たちやイスラム教徒の妬みを買うことになります。2は偶像を作ることを禁止しておりますが、たしかに宗教絵画・彫刻という分野は意外なほどユダヤ人の不得手なものです。3に関して、聖書の中では神はいろいろな名前で呼ばれていますが、とくに問題になるのはYHWHという6823回登場する四文字です。理屈からすれば、「ヤハヴェ」と読めるのですが、そのように口にすることを神は禁じるというのです。したがって、このYHWHは、音価に関係なく「アドーナイ」(Adonai)という婉曲語で読むことになっております。4に関しては、ユダヤ教の安息日は土曜日ですが、キリスト教会ではイエスの復活の日である日曜日を主の日と呼び、実質的な安息日としております。 [上田 第1章 15-18]

(141) 律法の喜び祭 (シモハット・トーラー [Simchat Torah])。ユダヤ民族の歴史書にして、彼らの生活のすべてを規定する律法 (Torah)は、ユダヤ教会(synagogue)で一年かけて読まれますが、その読了を祝う祭りがこのシモハット・トーラーです。要するに、旧約聖書のモーセ五書 (Pentateuch)、旧約聖書の最初の5つの書である『創世記』(Genesis)、『出エジプト記』(The Book of Exodus)、『レビ記』(The Book of Leviticus)、『民数記』(Numbers)、『申命記』(Deuteronomy)を一年かけて読み、最後の『申命記』(Deuteronomy)の最終章が読み終えられると、すぐに最初の『創世記』(Genesis)の第1章が読み始められ、律法には始めも終わりもないことを示すのです。 [上田 第1章 19-20]


トーラーの巻物 (アイリッシュ・ユダヤ博物館所蔵)


(142) モーセ (Moshe: Moses, ?16th-15th c BC/?13th-12th c BC)がどのように律法 (The Tem Commandments)を授かったのかは、『出エジプト記』(The Book of Exodus)第24章に書かれています:
  律法はモーセが十戒を授かった後、同じくホレブ山で与えられたものである。主は言う。「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう。」 [上田 第1章 20]

(143) モーセ五書(Pentateuch)はモーセ (Moshe: Moses, ?16th-15th c BC/?13th-12th c BC)自身が書いたという伝承がありますが、史実としては正しくありません。もともとはユダヤ民族の伝承として存在したものを、複数の人物が異なる時期にまとめたものだと言われております。律法には4つの文書が入り混じっております。ヤハヴェ 資料 (J material)、エローヒーム資料 (E material)、第二律法と訳される『申命記』(Deuteronomy)、そして紀元前6世紀の祭司資料と続きます。そして、これらの伝承が結び合わされたり書き直されたりした後、エズラ (Ezra)が最終編集者になって紀元前444年に交付されたものです。 [上田 第1章 21]

(144) 律法(Torah)は旧約聖書の一部です。律法(モーセ五書)に預言書 (Neviim)と諸書(Ketuvim)を合わせたものをユダヤ人たちは「タナッハ」(Tanakh)と呼びます。これはもちろんそれぞれの書の頭文字を取ったものです。聖書は全部で39巻から成ります。預言書は前預言書と後預言書の2つに分類され、前半は歴史書、後半は本当の意味での預言書です。諸書の中では『詩篇』(The Book of Psalms)と『ヨブ記』( The Book of Job)が重要であるとされます。聖書は紀元1世紀頃、ラビ(ユダヤ教司祭)会議によって、ユダヤ教の正典と認められました。 [上田 第1章 21-22]

(145) 仮庵の祭(スッコート [Sukkot])。仮庵の祭 (Sukkot, Sukkoth) は一般に太陽暦10月頃に行われるユダヤ教の祭りで、ユダヤ教三大祭*の一つに数えられます。仮庵祭(かりいおさい)ともいいます。Sukkoth とはヘブライ語で「仮庵」のこと。名称は、ユダヤ人の祖先がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は仮設の家(仮庵)を建てて住んだことにちなみます。モーセ (Moshe: Moses, ?16th-15th c BC/?13th-12th c BC)が神から十戒を授かってから、カナンの地 (Canaan)に達するまで40年間荒野を彷徨ったのですが、その間天津湯をしのいだのが仮庵であり、それを記念する祭りです (『レビ記』第23章参照)。 [上田 第1章 22-23]
  *三大祭は他に、過越祭(ペサハ[Pesach])と刈り入れの祭り(シャブオット[Shavuot]、ペンテコステ[Pentecoste])。

[DVD 7: The Ten Commandments 2005]

(146) カナンの地(Canaan)にたどり着くのはモーセ (Moshe: Moses, ?16th-15th c BC/?13th-12th c BC)が死んだ後であり、ヨシュア(Joshua)が民を連れていきます。その地はイスラエルの十二部族に分け与えられることになります。しかし、この地は外敵の海洋民族ペリシテ人(p'lishtim/Philistines; パレスティナ人)に悩まされたために彼らは団結し、ついに紀元前11世紀頃、王位に就いたダビデ (David)によりイスラエルに王国が誕生します。彼はヘブロン (Hebron)からエルサレム (Jerusalem)に首都を移します。これ以後エルサレムはユダヤ民族の象徴となります。紀元前967年王位についたダビデの息子ソロモン (Solomon)は平和外交をし、王国は繁栄します。しかし、紀元前928年、ソロモンの死とともに王国は2つに分裂し、サマリア (Samaria)を首都とする北イスラエル王国 (the Northern Kingdom of Israel, 928 BC-722 BC)とエルサレムを首都とするユダ王国 (the Southern Kingdom of Judah, 928 BC-586 BC)に分かれます。それぞれの王国で預言者たちが活躍しました。その後、北イスラエル王国 (the Northern Kingdom of Israel, 928 BC-722 BC)は紀元前722年、アッシリア帝国 (Neo-Assyrian Empire, 911 BC-612 BC)のサルゴン2世 (Sargon II; r. 722 BC-705 BC)によって滅ぼされ、北イスラエル10部族の民はアッシリア (Assyria)に強制連行されて、歴史から姿を消します。残ったユダ王国 (the Southern Kingdom of Judah, 928 BC-586 BC)もアッシリア (Assyria)に代わって台頭してきたバビロニア (Babylonia) のネブカドネザル (Nebuchadnezzar, r.605 BC-562 BC)によって滅ぼされてしまいます。 [上田 第1章 22-25]

(147) ティシュア・ベ・アーヴ (Tish'ah B' Av; アーヴ[Abh]月の九日)(ユダヤ暦では第5の月/新暦7-8 月)。ティシュア・ベ・アーヴとは、紀元前586年の第一神殿と紀元後70年の第二神殿が破戒された日とされています。ユダヤ暦によれば、2つの神殿は偶然にも同じ日に破壊されてしまいました。これら2度にわたるエルサレムへの攻撃と神殿破壊に関し、4つの断食日があり、これもその一つです。第一神殿は、栄華を誇ったソロモン王 (King Solomon, b. 1000 BC; r.971 BC-931 BC)が民衆の大変な労力をつぎ込んで建設したものでしたが、紀元前586年にユダ王国 (the Southern Kingdom of Judah)がバビロニア (Babylonia) のネブカドネザル (Nebuchadnezzar, r.605 BC-562 BC)によって滅亡されたときに破壊されてしまいました。ネブカドネザルは、このとき神殿の破壊とともにまた町のほぼすべての住民をバビロニアに連れ去りました。これを「バビロニア (バビロン)捕囚」(Babylonian captivity)といいます。しかし、ユダヤ人たちは異郷にあっても故国を決して忘れることはありませんでした。彼らがシオン (Zion= Jerusalem)を偲んでうたった有名な詩の一節は以下の通りです:「われらは/バビロンの川のほとりにすわり、/シオンを思い出して涙を流した (『詩篇』137篇)。 [上田 第1章 25-26]

(148) 最初のユダヤ教会 (シナゴーグ: synagogue)ができたのはこのバビロン捕囚 (Babylonian captivity)の時代です。彼らは神殿のかわりにここで神(YHWH)に祈りを捧げました。この頃からユダヤ教を学ぶアカデミーが充実し、バビロニア (Babylonia)では紀元前499年に、スーラのアカデミー (the Sura Academy)の校長ラヴ・アシュ ( Rav Ashi, pr.375-472 CE)が中心となってタルムード (The Talmud)が編纂されました。また辛い異郷での苦難をともにする同胞との共同生活と宗教組織も充実してきます。[上田 第1章 26]

(149) タルムード (The Talmud)はミシュナー(Mishnah; 歴代律法学者によって社会のさまざまな問題に対するモーセの律法をもとにした解答の判例集)とゲマラ (Gemara; ミシュナーの注釈)から成り、パレスティナとバビロニアのユダヤ人の10世紀にわたる知的・宗教的記録であり、学問研究というよりはむしろ伝説や講話、協議学的議論、学者による注釈、釈義、法学など、一民族全体の知識の驚くべき百科事典であり、実に250万語が費やされているといいます。(A. シーグフリート著/鈴木一郎訳『ユダヤの民と宗教』岩波新書, 1980, 123-124)。紀元前370年にパレスティナでも同様のタルムードが編纂されましたが、バビロニア・タルムードに比べて質的に見劣りします。[上田 第1章 27]

(150) ユダヤ人のバビロニア捕囚 (Babylonian captivity)は、紀元前539年にバビロニア帝国 (The (Babylonian Empire)を倒したペルシア帝国 (Achaemenid Persian Empire)のキュロス王 (Cyrus the Great, c. 600 BC - 529 BC)が寛容にも彼らに帰国を許したために50年で終わりました。エルサレムに帰った者たちは紀元前515年に神殿を再興しました。これを第二神殿と呼びます。この神殿も紀元66年にローマ帝国軍によって破壊されてしまいます。[上田 第1章 27]

(151) 西暦2月下旬または3月初旬に行われるプリム祭 (Purim; くじ祭)とは、ハヌカー(Hanukkah; 宮潔め祭/奉献祭)とともに、モーセ五書に定められている五大祭日よりも後代に成立したものです。エステル (Esther)とモルデカイ(Mordecai)によってペルシャに住むユダヤ人が危機から救われたことを記念するものです。プリムとはプル(くじ)の複数形で、これはペルシア王国のアハシュエロス王 (Ahasuerus I)の大臣ハマン (Haman)が自分を崇めようとしないユダヤ人家臣モルデカイに腹を立て、彼ばかりかユダヤ人全部を虐殺することをもくろみますが、その日をプルを投げてアダルの月の13日と定めたことによります。ところが、モルデカイの養女で王妃であったエステルがその計画の禁止を王に訴えて、ユダヤ人を救い、逆にハマン親子と多くのユダヤ人の敵を倒したという話です。ただ、『エステル記』に記載されたこの話は実際にはなかった、これはただの歴史小説だとするのが定説です。この祭りの二日間(夕べと朝)にシナゴーグではメギッラー(megilkah)と呼ばれる『エステル記』の巻物が読まれます。貧しい人々への施しや、友人との食べ物の交換もあり、ダンスや仮装もあって、子どもたちも楽しめる祭です。[上田 第1章 27-29]

(152) ハヌカー (宮潔め祭/奉献祭)は、クリスマスの頃(大体12月25日から1月2日)に行われる祭です。ハヌカ(英語 Chanukkah, Hanukah, Hanukkah, ヘブライ語 Chanukah, イディッシュ語 chaniko, chanike; ハニカ)とはユダヤ教の年中行事の一つで、マカバイ戦 (争Judas Maccabaeus and the Jewish War of Independence, BC168-BC141)時のエルサレム神殿の奪回を記念します。アンティオコス4世エピファネス (Antiochos IV Epiphanes, ?BC215-BC163)と異教徒によって汚された神殿の浄めの祭です。キスレーウ (Kislew)の25日から8日間祝うのです。奉献の祭 (Feast of Dedication)、光の祭 (Feast of Lights)ともいいます。要するに、キリスト教のクリスマスの時期にユダヤ教徒はハヌカを祝うのです。キリスト教圏の国のようにクリスマス・プレゼントを子供達に贈るといった習慣はかつてはなく、ユダヤ人社会では着るスト教でいうサンタクロースなどの習慣もなかったのでした。しかしながら、近年は日本でもそうですが、「クリスマス」がどんどん世俗化して、キリスト教徒にならい「ハヌカー・プレゼント」を与える家庭もあります。それでも、敬虔なユダヤ教徒 (Orthodox Jews)はクリスマスの真似を嫌うため一般的には受け容れられていません。ドレイドル (Dreidel)と呼ばれる木製の独楽(玩具の「こま」)がユダヤ教の伝統に則りハヌカの日に子供達へ与えられます。[上田 第1章 29-32]


[3c. エルサレム:「嘆きの壁」とディアスポラ]



(153) エルサレムには、有名な「嘆きの壁」 (Wailing Wall/Western Wall, Al-Buraq Wall, HaKothel HaMa'aravi)と呼ばれるものがあります。これは、エルサレム神殿のいわゆるヘロデ神殿(Herod's Temple; 第二神殿)の外壁の一部です。ヘロデ神殿(第二神殿)はユダヤ教で最も神聖な建物でした。「嘆きの壁」は、紀元前20年、ヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿を取り巻いていた外壁の西側の部分であり、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいます。この部分を含め、外壁はその基礎部分がほぼすべて残っております。[上田 第1章 32-33]


Israel Western Wall (Wailing Wall)
(This photo was downloaded from "Wikipedia": the oroginal was taken and uploaded on the "Israel-Western_Wall.jpg":WP the 06/20/2004.)


(154) 「嘆きの壁」の歴史は、紀元20年頃ヘロデ大王 (Herod the Great, r.37 BC-4 BC)が改築した神殿の西壁として始まります。紀元後66年にユダヤ人による反乱(ユダヤ戦争;the First Jewish Revolts 66-70 AD)があり、ローマ行政長官フロールス (Gessius Florus)のユダヤ人に対する残虐行為に対するローマ守備隊への抵抗から始まりましたが、勝敗は最初から明らかで、ティトゥス (Titus Flavius Vespasianus, 39-81 AD; r. 79-81 AD)率いる圧倒的な軍事力を誇るローマ帝国軍により一年後鎮圧されました。この際、ローマ兵によるユダヤ人への涼奪と殺戮が行われ、エルサレムは炎上し、神殿は破壊されて、西壁のみが残りました。かくして、ユダヤ人はまたしても祖国を失い、バビロニア捕囚に次ぐ第二のディアスポラ (Diaspora;ギリシャ語で「離散」の意)がはじまります。これが紀元132-135年のバル・コクバ (Simon Bar Kokhba:「星の子」=メシアの意)の反乱 (The Bar-Kokhba Revolt; the Second Jewish Revolt 132-135 AD)の失敗により決定的なものとなります。かくしてその後ユダヤ人たちはヨーロッパ各地をはじめ、インド、中国にまで離散いたします。[上田 第1章 32-35]

(155) バル・コクバの乱(The Bar-Kokhba Revolt; Second Jewish Revolt 132-135 AD)により、ユダヤ教徒のエルサレムへの立ち入りは禁止されておりました。ミラノ勅令 (Edict of Milan, AD 313)により4世紀以降、1年に1日の立ち入りが許可されるようになりますが、詳細は不明です。1967年の第三次中東戦争 (Third Middle East War, known as "the Six-day War")以降、ユダヤ教徒はエルサレムへの立ち入りが許されるようになります。[上田 第1章 32-35]

(156) このディアスポラはその後2000年近く続くのですが、ユダヤ人たちは民族性と宗教性をよく保ち、どのような困難に遭っても、希望を失いませんでした。その希望とは、いわゆるメシア(救世主)思想です。神がユダヤ人を哀れみ、使わしてくれる救世主の助けを借りて、ユダヤ人は地上に神の国を実現し、パレスチナに復帰出来るという思想です。[上田 第1章 35-36]

(157) このメシア思想はその後のユダヤ人の歴史の中で、彼らが苦しさと絶望に陥ったときに必ず生まれ、そしてそのたびごとに人々の深い失望とともに水泡のごとく消え去っていきました。[上田 第1章 35-36]

(158) ローマ帝国により祖国を離れてディアスポラとなった「神に選ばれた民」ユダヤ民族には二つの定義があります。
      ユダヤ人の2つの定義:
      1. ユダヤ教を信仰する者 (宗教集団)(特に中世以前)
      2. ユダヤ人を親に持つ者 (民族集団) (近世以降)

(159) そして、ディアスポラになったヨーロッパ系ユダヤ人は出身や身体的特徴により、大きく分けて二つに大別されます。

      1. 地中海沿岸系 (特にスペイン系) ユダヤ人スファラディ(Sephardi [単数形])または、 (セファルディム (Sephardim [複数形])。ディアスポラのユダヤ人の内、主にスペイン・ポルトガルなどに1492年のレコンキスタ (Reconquista, 718-1492)完了までイベリア半島に住した者を指します。"Sephardi"とは、ヘブライ語で「スペイン人」または「スペイン語」という意味です。スペイン語とヘブライ語の混合使用から発達したのがジュデズモ (Dzhudezmo)語で、ラディノ (Ladiono/ judeoespanol)とも言われます。
      2. 東欧系 (特にドイツ系) ユダヤ人:「アシュケナジー」(Ashkenazi [単数形]; ) または (アシュケナジムAshkenazim [複数形])。"Ashkenazi"とは、ヘブライ語で「ドイツ人」または「ドイツ語」という意味です。ディアスポラのユダヤ人の内、伝統的にドイツ語圏でその他の東ヨーロッパなどに定住した人々やその子孫のことで、ドイツ語とヘブライ語の混合使用から発達したイディッシュ語 (Yiddish)を話していました。[上田 第4章 98-100]
  さらにこれ以外に、インド系ユダヤ人、中国系ユダヤ人など多様なユダヤ人が世界中に住んでおります。[上田 第2章 61]

(160) イスラエル国 (The State of Israel/ Medinat Yisrael [メディナット・イスラエル])が自国の首都であると主張する人口78万人(2003年3月付)の都市エルサレム (Yerushalayim/Jerusalem)は、前述したように、ユダヤ人にとって整地であり、流浪にあるディアスポラのユダヤ人は常にいつかここに帰ることを夢見てきました。彼らは新年を迎えるとき、そして過越の祭 (ペサハ [Pesach]) のとき、世界各地で同胞に「ルシャナ・ハバー・ビルシャライム」("Le-shanah ha-ba-a b'Yerushalayim" ["Next year in Jerusalem"]: 「来年こそはエルサレムで」)と挨拶を交わします。[上田 第2章 38]

(161) この黄金の都市はイスラム教を信じるアラブ人 (Muslims)にとっても、預言者ムハンマド (ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ; Muhammad ibn 'Abd AllI ibn 'Abd al-Muttalib;「より誉め讃えられるべき人ムハンマド」の意, c.570- 632)が、昇天した場所であり、サウジアラビアの紅海沿岸のムハンマド生誕地マッカ (Makkah al-Mukarramah; Mecca)、そのマッカからほど近くムハンマドの墓のある「預言者のモスク」(al-Masjid an-Nabawi, built by Muhammad in AD 622)を有するマディーナ (madinat an-nabi: "madinat"は「町」の意)に次ぐ第三の聖地になっております。それ故、この都市をめぐってユダヤ人とアラブ人の紛争は絶えることはありません。アラビア語では、エルサレムは「アル=クドゥス」(al-Quds;「神聖、崇拝」)、正式には「ウールシャリーム=ルクドゥス」(Urshalim al-Quds)と呼びます。[上田 第2章 38]

(162) エルサレム (Yerushalayim/Jerusalem) のわずか半径500 m以内 (面積僅か0.9 sq km)の旧市街 (Old City; 1860年までの全市街)には、に3つの宗教の聖地があります。ユダヤ人の聖地としては、前述した第二神殿の城壁跡である「嘆きの壁」(Wailing Wall: Western Wall)があります。キリスト教の聖地としては、聖墳墓教会 (The Church of the Holy Sepulchre, called Church of the Resurrection (Anastasis) by Eastern Christians)がありますが、これは紀元30年頃イエス・キリストが処刑されたとされるゴルゴダの丘 (マタイ27:33など参照)があったところでキリストの墓とされる場所に立つ教会です*。AD 638年にアラブ軍による征服でエルサレムはイスラム勢力の統治下におかれ、7世紀末頃、「岩のドーム」 (Qubba al -akhra/ Dome of the Rock)が建設されました。「岩のドーム」にはムハンマドが旅立ったという伝説があり、地下には最後の審判の日にすべての魂がここに集結してくるとされる「魂の井戸」(Bir el- Arweh; the Well of Souls)があります。このことは、ムハンマド およびイエス・キリストはユダヤ教徒にも信頼されうる預言者であって、イスラム教がユダヤ教やキリスト教の伝統と矛盾せずにかつ両宗教を凌駕しているとの主張を示しているのだそうです。
  *ゴルゴダの丘 (Golgotha; Eng. Calvary)とは、アラム語(Aram)で"gulgulta" (髑髏 [どくろ])の丘の意味です。ユダヤ人追放以後のローマ帝国の再開発により正確な場所は不明ですが、伝えられているところによれば、コンスタンティヌス皇帝(Gaius Flavius Valerius Constantinus, AD 272-337; r.306-337)の母フラウィア・ユリア・ヘレナ (Flavia Iulia Helena; known as Helena of Constantinople, ca. 250-ca. 330)が326年にエルサレムを訪れ、当時はヴィーナス神殿 (a Temple to Venus built by Emperor Hadrian)となっていたこの地をゴルゴタと特定しました。これを取り壊し、建てられたのが現在の聖墳墓教会です。ヘレナは磔刑に使われた聖十字架と聖釘などの聖遺物もこのときに発見したというのですが、勿論現存しません。

(163) 今でこそ、ユダヤ民族とアラブ民族はイスラエル・パレスティナを巡り際限のない争いを展開しておりますが、かつてはお互いに平和的に共存し繁栄していた場所があったのです。それが、中世のイベリア半島 (Peninsula Iberica)でした。[上田 第2章 38-39]


[3d. イベリア半島のユダヤ人: 地中海沿岸系 (特にスペイン系) ユダヤ人スファラディ(Sephardi)または、 (セファルディム (Sephardim)]



(164) ローマ帝国が支配していた頃は、イベリア半島のユダヤ人は、他の住民と同様に市民権を与えられて、土地を所有し、大地を耕し、オリーブや葡萄を栽培し、商業に従事することが出来、さらにユダヤ教を信じることも自由でした。[上田 第2章 38-39]

(165) 5世紀初めに、ゲルマン系のヴァンダル族 (Vandals)とやはりゲルマン系の西ゴート族(Visigoth)がスペインに侵入し、ヴァンダル族(Vandal)はアフリカにまで侵攻しました。それでも、スペインのユダヤ人とカトリック教徒はしばらくの間はローマ法(ローマ市民に適用される「市民法」[Ius Civile] と外国人のための「万民法」 [Ius Gentium])に従い、生活しておりましたが、587年、西ゴート族のレカレド王 (Recared I, ?-601; r.586-601)がカトリックに改宗するときにスペインはキリスト教国になり、ユダヤ人に対する制限もはじまりました。589年トレド (Toledo)の第三回教会会議 (El III Concilio de Toledo de 589 ; the Third Public Conference in Toledo in 589)では、ユダヤ人とキリスト教徒との間に生まれた子供には洗礼を受けさせることを命じました。613年にはシセベルト王 (Sisebut, also Sisebuth, Sisebur or Sisebod; died 620 or 621; r.612-d.)が、スペイン在住の全ユダヤ人に改宗を命じました。それ以後、スペインのユダヤ人は、寛容、改宗、追放の波間に翻弄され続けることになりました。[上田 第2章 39-40]

(166) 694年11月、ユダヤ人が北アフリカの新興イスラム教徒 (Islam;「神への帰依」の意)と秘密の同盟を結んでいるという噂を耳にしたエギカ王 (Egica , Ergica, or Egicca, c. 610-702)はユダヤ人を大逆罪で告発しました。そこで彼らのすべての財産が没収され、スペインの全ユダヤ人は奴隷と宣言され、さらにユダヤ教を信じることも出来なくなりました。子どもたちも7歳で連れ去られ、キリスト教徒として教育されました。多くのユダヤ人が国外退去を選びました。[上田 第2章 40]

(167) 711年、預言者ムハンマド (Muhammad ibn 'Abd AllI ibn 'Abd al-Muttalib, c.570- 632)を祖とするムスリム (モズレム; Muslims;「神に服従する者」の意)の男系親族であるウマイヤ家 (Umayyad) 世襲のウマイヤ朝 (Banu Umayyah [The Umayyad Dynasty]; , 661-750)が北アフリカを征服後、大部分がモーロ人 (Moros)の7千人の部隊でイベリア半島に侵入しました。711年7月19日の戦い(batalha de Gaudalete ; Battle of Gaudalete, near Xeres de la Frontera)でムスリムは西ゴート族 (Visigoth)を殲滅し、ロデリック王 (Roderick, d.711?; r.710-711)を殺し、スペインを手中に収めました。密かに自分たちの宗教を守っていたユダヤ人たちは、この侵入者を奴隷状態からの解放者として歓迎しました。さらに比較的少数者だったモズレムたちはユダヤ人たちを征服した町の守備隊員にしたため、ユダヤ人は同盟者になりました。彼らと残ったキリスト教徒は、モズレムに重税を払わなくてはいけませんでしたが、ユダヤ教は堂々と信ずることが出来るようになりました。 [上田 第2章 40-41]

(168) ムスリム (Muslims;「神に服従する者」の意)による征服は、732年10月、フランス西部のトゥール (Tours)とポワチエ (Poitiers)の間の戦い (トゥール・ポワティエ間の戦い; Bataille de Tours-Poitiers)でイベリア半島を占領した預言者ムハンマド(Muhammad ibn 'Abd AllI ibn 'Abd al-Muttalib, c.570- 632)の子孫ウマイヤ朝 (Umayyad, 661-750)がフランク王国 (Francs)侵入を企みましたが、イスラム側の敗戦に終わりました。この戦いを指揮したメロヴィング朝 (the Merovings)フランク王国 (Francs)の宮宰(major domus from Carolings)シャルル・マルテル(Charles Martel, 686-741)の名声は瞬く間に上がりました。 [上田 第2章 41]

(169) 750年にアッバース朝(al-Dawla al; Abbasiya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(世俗王朝として750年 - 1258年、カリフ位は750年 - 1517年)が興ります。都はバグダード(Baghdad)ですが、1258年のバグダード陥落以降はカイロ (Cairo)に居を構えました。イスラム教の開祖ムハンマドムハンマド(Muhammad ibn 'Abd AllI ibn 'Abd al-Muttalib, c.570- 632)の叔父アッバース (al-'Abbas, r.749-754)の子孫をカリフ (khalifa; Eng. caliph)とし、最盛期にはその支配は西はモロッコから東は中央アジアまで及びました。 [上田 第2章 42]

(170) 756年には、イベリア半島にまた新たなムスリム王朝が興りました。ウマイヤ朝 (Umayyad, 661-750)がアッバース朝al-Dawla al; Abbasiya)に滅ぼされるとウマイヤ朝の王族が756年、コルドバ (Codoba)を都にして独立したのです。これを後ウマイヤ朝 (Umayyad Cordova)、または第8代アミールのアブド・アッラフマーン3世 (Abd ar-Rahman III, 889-961; as amir [アミール;総督、司令官], 912-929; khalifa [カリフ; 「(神の使徒の)代理人」929-961])が初めてカリフを称したことから西カリフ国とも呼びます。アブド・アッラフマーン3世の時代にイスラム・スペインは全盛を迎えました。スペイン・ユダヤ文化がもっとも栄えたのもこの時期で、30万人ほどのユダヤ人がイベリア半島に住んでいたといいます。当時のスペインには、アラブ人を助けて政府の要人や学者、医者として活躍したユダヤ人が多かったのですが、一方で農業や商業などに従事するユダヤ人も多かったのです。彼らはアラブ風の名前を名乗り、アラビア語を日常語としましたが、宗教的な面では敬虔にユダヤ教を信じ続けたのです。 [上田 第2章 42-43]

(171) イスラム・スペインでは、ユダヤ人固有の文化も花開きました。その繁栄はユダヤの歴史上類を見ないといいます。ハスダイ・イブン・シャプルート (Hasdai Ibn Shaprut, 915-970)は宮廷医としてカリフに招かれた医者でしたが、行政官としても有能で、通商大臣と大蔵大臣を務めました。外交面でも、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北で栄えた遊牧国家ハザール (Khazar; 現在のカザフ共和国[Qazaq])と外交を結びました。また、ハスダイ・イブン・シャプルートは、アンダルシアのユダヤ人の指導者でもあり、イタリアからモーセ・ベン・ハノッホ (Moses ben Hanoch, ?-c.965)を招き、ユダヤ・アカデミーの校長及び主席ラビに任命し、彼によりスペインのタルムード学の基礎がおかれることになりました。 [上田 第2章 44-45]

(172) サムエル・ハナギット (本名; Samuel ibn Naghrela or 筆名; Samuel ha-Nagid, 993-1056)は、はじめ八百屋の店主であったが、後に宮廷に召し抱えられ、軍の指揮官になりました。優れた詩を多く残したことでも知られておりますが、多くは英訳されております。 [上田 第2章 45]

(173) イスラム・スペインにおける優れたヘブライ語詩人は、ソロモン・イブン・ガビロール ( rabbi Slomoh ben Yehudhah ibn Gabirol), Solomon ben Yehuda ibn Gabirolc.1021/1022-1058/1070)、モーセ・イブン・エズラ (Moses ben Jacob ha-Sallach ibn Ezra, 1080-1139)、イェフーダ (ユダ)・ハレーヴィ (Yehuda ben Shemuel Ha-Levi, also Judah ha-Levi, 1086-1145)などが挙げられます。
  ソロモン・イブン・ガビロール ( rabbi Slomoh ben Yehudhah ibn Gabirol), Solomon ben Yehuda ibn Gabirolc.1021/1022-1058/1070)はスペインのユダヤ教徒の詩人・新プラトン主義哲学者で、アラビア語の著作は、言語に通じていたユダヤ教徒によってラテン語に訳され、中世ヨーロッパ思想界に大きな影響を与えました。彼の著作ではアラビア語による『生命の源』(Yanbu l-Chayah)などが有名で、1150年以降ラテン語訳されました。
  モーセ・イブン・エズラ (Moses ben Jacob ha-Sallach ibn Ezra, 1080-1139)はグラナダの名門に生まれましたが、そこのユダヤ人社会が破壊され、家族が四散して、キリスト教スペインに逃亡しました。しかし、そこでの生活に彼は馴染めず、多くの詩を残しました。
  イェフーダ (ユダ)・ハレーヴィ(Yehuda Halevi, 1086-1145)はイスラム・スペインのコルドバで勉強し、医学と哲学を修めました。彼の詩には愛や氏、ユダヤ民族の神聖さとその永遠性を繰り返しうたったものが多いのです。彼の著作の中では『クザーリの書』(The Kuzari)という哲学書が特に有名ですが、その題は「軽蔑された信仰を用語する議論と証明の書」("Kitab al-?ujjah wal-Dalil fi Nu?r al-Din al-Dhalil," known in the Hebrew translation of Judah ibn Tibbon by the title "Sefer ha-Kuzari")というのが正式なタイトルです。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教のそれぞれに三人の擁護者をたてて、優劣を論じさせるというもので、クザーリ、即ちハザール (Khazar)の王が最も優れたユダヤ教に改宗するまでの過程をフィクションで描いたものです。 [上田 第2章 45-49]

(174) 中世最大のユダヤ哲学者と呼ばれるモーセ・ベン・マイモン (Rabbenu Moshe ben Maimon, 1135-1204)は、コルドバ (Cordoba)で生まれた、13世紀のアンダルシアとモロッコ、カイロで活躍したタルムーディスト・哲学者・トーラー編纂者です。著書はほとんどアラビア語で書かれましたが、ヘブライ語で書かれた「ミシェネ・トーラー」(The Mishneh Torah (also known as "Sefer Yad ha-Chazaka," 12th c.);『律法の反復』)は、律法の全事項に関して的確な分類をして、事項毎に詳しい注釈をつけました。彼のアラビア語の著作としては、『モーレー・ネヴィーヒーム』(Moreh Nevuchim, Arabic: dalalat al ha'irin;Eng. Guide for the Perplexed;『迷える者の手引き』, 12th c.)が有名です。この『モーレー・ネヴィーヒーム』によって、彼はユダヤ教を正当化し、ギリシアのアリストテレス (Aristotle, 384-322 BC)やその弟子の哲学が律法やユダヤ教の根本的な原理と共存できること、共存すべきことを示しました。 [上田 第2章 50]

(175) イスラム教徒は、711年以来、約300年にわたってイベリア半島を支配してきましたが、その間スペインは統一されていたわけではなく、数多くの小王国に分かれていました。11世紀からキリスト教徒による国土回復運動、いわゆるレコンキスタ (Reconquista, 718-1492)が再び始まります。1212年7月16日、現アンダルシア州北部のラス・ナバス・デ・トロサ (Las Navas de Tolosa)で、カスティーリャ王国 (Reino de Castilla; 後のスペインの中核)のアルフォンソ8世高貴王 (Alfonso VIII, 1155-1214; r.1158-1214)率いるキリスト教連合軍約5万と、ムハンマド・ナースィル (Muhammad al-Nasir, ?-1213)率いるムワッヒド朝 (al-Muwahhidun, 1130-1269)軍約12万が激突しました(双方の兵力は諸説ある)。ラス・ナバス・デ・トロサの戦い (Batalla de Las Navas de Tolosa)はキリスト教連合軍の勝利に終わり、ムワッヒド軍は6万以上(10万以上とも)の死者を出したと伝えられています。これによって、ムワッヒド朝のイベリア半島における軍事力は大きく減退しました。ラス・ナバス・デ・トロサの敗戦の後、ムワッヒド朝はゆるやかに衰退を始めました。1246年、カスティーリャ (Reino de Castilla)はセビーリャ (Sevilla)を攻囲します。セビーリャは2年間にわたる攻囲戦を戦い、1248年11月23日に開城しました。セビリャを制圧したカスティーリャはさらに南下し、1251年までにジブラルタル海峡 (Estrecho de Gibraltar; Eng. Strait of Gibraltar)に達します。この時点で、グラナダ (Granada)のナスル朝 (Banu Nasr; Eng. Nasrid Dynasty,123/12382-1492)を除くムスリム勢力はイベリアから消滅していました。そして、ナスル朝はカスティーリャに臣従を誓っていました。敵対的ムスリム勢力をイベリア半島から排除するのがレコンキスタの目的であるならば、事実上、この時点でレコンキスタは終了していたのです。 [上田 第2章 51]

(176) こうして、13世紀はじめまでに大部分のユダヤ人はキリスト教国スペインに住むことになりましたが、はじめのうちはムスリムに仕えたように、キリスト教徒にも、政治家、財政相談役、医者などとして仕えました。しかし、ユダヤ人が重用されるにつれてキリスト教徒の反感を招き、反ユダヤ感情を持つ者が多くなり、ユダヤ人に対する暴動が時折発生しました。なかでも1391年にセビーリャ (Sevilla)で始まった暴動 (Matanza de judios en 1391 en Sevilla; El pogromo de 1391)はスペイン全土に広がり、「改宗か死か」(death or baptism/conversion) のスローガンのもとに、各地でユダヤ人に対する略奪、虐殺が起こりました*。そのため、ユダヤ人の多くは、改宗者 (Conversos/ Judios conversos en Sevilla)や国外逃亡する者が続出しました。 [上田 第2章 51-52]
  (*多くの場合、イスラム教徒は異教徒に対し「改宗か、死か、国外追放か、さもなくば差別的条件下での残留か」を強いたため、「改宗か死か」を迫る狭義の強制改宗はキリスト教に比べて少なかったといわれる。)

(177) 改宗者 (Conversos)は「新キリスト教徒」 (Nuevo Christiano; New Christians)とも呼ばれました。じつは、この「新キリスト教徒」(Nuevo Christiano)には2種類あり、1. 本当にキリスト教に改宗した元ユダヤ人、2. 表向きはキリスト教徒ながら実際には密かにユダヤ教を信じているユダヤ人はマラーノ(Marano; 「豚」の意味;律法を守るユダヤ人は豚を食べない)と呼ばれました。「新キリスト教徒」の中にはさまざまな分野で功績を挙げた者も多く、中にはスペイン帰属と婚姻関係を結んだ者もいましたが、従来からのキリスト教徒の反感を買いました。一方では、本物の「新キリスト教徒」はマラーノに反感を抱き、激しく非難しました。 [上田 第2章 52-53]

(178) 1492年1月、イベリア半島最後のイスラム教国グラナダ (Reino de Granada,123/12382-1492)がついに陥落しました。スペインを完全にカトリック教国にしようとしたフェルナンド (Fernando II, 1452-1516; r. the Crown of Aragon,1479-1516; r. Reino de Castilla, 1474-1504)とその妻イザベラ (Isabel I de Castilla, 1451-1504; r. Reino de Castilla, 1474-1504)は、共に側近に多くのユダヤ人がいたにもかかわらず、1492年3月31日、すべてのユダヤ人に対し、4ヶ月以内に国外退去を通告しました。同年8月2日、最後のユダヤ人がスペインをあとにしました。この日は、イタリア人(?)クリストファー・コロンブス [英語表記;Christopher Columbus, 1451-1506;イタリア語名; クリストーフォロ・コロンボ (Cristoforo Colombo) 、 スペイン語名; クリストバル・コロン (Cristobal Colon)]が新大陸発見に旅立った日でした。コロンブスもユダヤ人だったと言われている一人です。 [上田 第2章 55]


移住してきたユダヤ人がスペインを偲んで建てたスペイン風ユダヤ教会 (プラハ)


(179) スペインから追放されたユダヤ人の数は、10万から20万人と見積もられています。最初に彼らが向かったのは、隣国ポルトガルでした。ユダヤ人をスペインから追放したことは、国家の発展という観点から見れば決してよいことではありませんでした。後に残ったのは、騎士たちとローマ教皇をこの時代相次いで生み出した熱烈なキリスト教信仰だけでした。ユダヤ人が行っていたような金融業務を引き継ぐ者はおりませんでした。この後しばらくして、スペインの国力は頂点に達します。スペイン艦隊は、1571年にレパントの海戦 (La Batalla de Lepanto)でオスマン・トルコ艦隊を破り、1583年にはアゾレス諸島でフランス艦隊を壊滅させて、世界無敵を誇る艦隊となります。そして1586年3月、レパントの海戦で活躍したサンタ・クルズ侯爵 (Marques de Santa Cruz)が、スペイン王フェリペ2世 (Felipe II, 1527-1598;r.1556-1598)に自信満々でイギリス侵攻計画を提出したのでした。 ところが、イングランド軍艦は速力が早く、操縦が容易な上に砲手が極めて優秀で、1588年7月21日から30日かけてドーバー(Dover)沖またはフランスのカレー(Calais)沖で行われたアルマダ海戦でついに無敵艦隊 (Armada)が敗れると、少しずつ衰えていきました。 [上田 第2章 56]

(180) 1968年12月16日、476年振りにスペインはユダヤ人に対する追放例を正式に解除しました。実際には、19世紀後半からユダヤ人は再びスペインに戻ってきていたそうです。今日、スペインには、約8,500人のユダヤ人が居住しているといいます。 [上田 第2章 56]

(181) 1492年のスペイン追放令でポルトガルへと移住したユダヤ人たちは、またそこでも異端審問に遭いました。それで、彼らはギリシア、トルコ、北アフリカ、イタリア、オランダ等に移住しました。中でもオランダに移住したユダヤ人の数は最大でした。オランダでは、信教の自由が保証され、商業、交易が盛んでしたので、ユダヤ人には都合がよかったのです。ユダヤ人は主にアムステルダムに集まり、そこを中心としてオランダの経済発展に大いに貢献しました。アムステルダムの株式取引所 (Amsterdam Beurs/The Amsterdam Stock Exchange, early 17th c.)と東インド会社 (Dutch East India Company; Vereenigde Oostindische Compagnie or VOC in old-spelling Dutch, literally "United East Indian Company," est.1602)の設立に大いに貢献しました。 [上田 第2章 57]

(182) また、オランダのユダヤ人は学問、とくに哲学、物理、数学、医学等においても活躍しました。メセナ・ベン・イスラエル (Menase ben Israel, 1604-1654)は、「オランダのエルサレム」と呼ばれたアムステルダムのユダヤ人共同体のラビを務めました。ウリエル・ダ・コスタ (Uriel da Costa, 1585-1640)とバルーフ・スピノザ (Baruch Spinoza, 1632-1677)は、厳格なユダヤ教を破門を恐れず、内部から批判し、もっと拓かれた宗教であるべきだとユダヤ教、ユダヤ人を啓蒙しようとしましたが、異端者とされてしまいました。オランダの他のユダヤ人たちは概して律法の教えに忠実に生きたといいます。 [上田 第2章 57-61]

(183) スペインを追われたユダヤ人はセファラディム (Heb. Sephardim; "Spanish")と呼ばれます。彼らのスペイン語系クレオールをジュデズモ (Dzhudezmo)あるいはラディノ (ladino)と言います。ジュデズモ語はイタリア・バルカン半島・中東のスペイン系ユダヤ教徒・セファルディムのスペイン語方言と位置づけられる言語です。それは、東欧のアシュケナージ (Ashkenazi)の話すイデッシュ語 (Yiddish; 後述)と同じような発達過程をとりました。ジュデズモ語は、イスラエル, トルコ, ブラジル, フランス、ギリシャ、ブルガリア、メキシコ、キュラソー島などで使用されておりますが、使用人口は多くはなく、現在イスラエルで10万、トルコで1万人とされますが、正確な数は不明です。 [上田 第2章 61-66]


[3e. (特に西欧における) 中世のユダヤ人 ]



(184) 西欧へのユダヤ人の居住は、ローマ時代に遡ります。彼らは、ローマ帝国の軍隊とともに、第二神殿破壊の紀元70年以降に、捕虜や承認、医者、兵士としてこの地にやってきました。ローマ帝国の市民権を持って、現在のイタリア、スペイン、フランス、ドイツなどローマ帝国全土に住み着きましたが、なかでもドイツのラインマント地方 (Rhein Mein)に住み着くユダヤ人は多かったといいます。 [上田 第3章 68]

(185) 313年、コンスタンチヌス皇帝 (Flavius Valerius Constantinus; Constantine the Great, c.274-337; r.306-337)が、キリスト教に改宗し、コンスタンチノポリス (Constantinopolis; "City of Constantine"; Constantinople; Byzantium; now Istanbul)を首都としました。そして、392年テオドシウス1世皇帝 (Flavius Theodosius, 347-395; r.379-395)が、キリスト教をローマ帝国の国教と定めました。これ以後、キリスト教会は、キリスト教徒とユダヤ人との間に厳しい区別を設けました。ユダヤ人は、キリスト教徒との結婚、キリスト教徒の奴隷の所有も出来なくなりました。6世紀には、ユスチニアヌス法典([Justinian I's] Corpus Juris Civilis [Body of Civil Law], 529-534)が出来、すべてのユダヤ人の生活を規定し、ユダヤ人からすべての既存の権利を奪いました。しかし、それでも8世紀までは、ユダヤ人たちはまだローマ帝国の社会に繰り込まれ続け、手工業者、染色工、金銀細工師、ガラス細工師として働いていました。 [上田 第3章 68-69]

(186) 中世のユダヤ人が、特にその才能を発揮したのは、経済でした。彼らが従事していたのは、主に商業と金融業でした。10世紀には、ユダヤ人は国際商人として活躍しました。ムスリム商人たちはキリスト教国に入りたがらなかったですし、ディアスポラのユダヤ人は、いろいろな国にヘブライ語の分かる同胞や親戚がおりましたし、さらに彼らは外国語習得に長じていたからです。かくして、ユダヤ人は西はフランスから東はインド、中国まで広範囲に国際商人として活躍しました。西洋からは奴隷や絹、毛皮、武器を、東洋からは食料や香辛料を買い付けました。しかし、ユダヤ人の活躍もやがてキリスト教徒やイタリア承認たちの進出に押されるようになります。 [上田 第3章 69]

(187) ユダヤ人の職業として、とくに悪名が高いのは「高利貸し」(usurer/leech, etc.)です。シェイクスピア(William Shakespeare, 1564-1616)の劇で名高い『ヴェニスの商人』(The Merchant of Venice, 1590s)のユダヤ人金貸しシャイロック (Shylock)は1596年のヴェネチアが舞台ですが、当時のユダヤ人に対するキリスト教社会の蔑みや憎しみが巧みに描写されております。
  バッサニオ (Bassanio)は巨額の資産を相続したポーシャ (Portia)に一目惚れし、どうしても求婚したいのですが、結婚資金がありません。彼は親友アントニオ (Antonio)に借りに行きますが、彼もちょうどまとまった金がないので、アントニオ (Antonio)はバッサニオ (Bassanio)のために金貸しユダヤ人シャイロック (Shylock)へ金を借りに行きます。常日頃何かと蔑まれているので、シャイロック(Shylock)はすんなりと貸しません。「万が一返済不能の場合は胸の肉1ポンド切り取らせる」という条件でアントニオ (Antonio)はようやく彼から3,000ダカットの金を借りることが出来ました。
  そして彼はポーシャ (Portia)のところに求婚しに行くと、求婚者が引っ切りなしに押しかけて来ていました。それというのも金、銀、鉛の3つの箱のうち正しい箱を選べば求婚が叶うのですが、もし正しい箱を選べなかった時には生涯独身を守る誓いを立てさせられるのです。何人もの名のある求婚者が失敗し去っていきました。バッサニオ (Bassanio)はもっとも地味な鉛の箱を選び、ポーシャ (Portia)を射止めます。ところが、喜びもつかの間、アントニオ (Antonio)の不幸を告げる手紙が届けられます。アントニオ (Antonio)の船が沈没し、借金の返済ができず、シャイロック (Shylock)から訴えられたのです。
  そのシャイロック(Shylock)はいらだっておりました。彼の愛娘ジェシカ (Jessica)に大金と貴重な宝石を持ち逃げされたのです。その上、駆け落ちした恋人のロレンゾー (Lorenzo)と旅先で浪費の限りを尽くしているというのです。しかし、それでもシャイロック(Shylock)は小踊りしています。小憎らしいアントニオ (Antonio)をやっつける千載一遇のチャンスが訪れたからです。婚約者のおかげで金に不自由しなくなったバッサニオ (Bassanio) はアントニオ (Antonio)の借金返済を申し出ますが、シャイロック (Shylock)は証文を盾に拒否します。
  ポーシャ (Portia)は知り合いの裁判官と相談し、夫の親友の危機を救うため、裁判官に変装して法廷に乗り込むのですが、シャイロック(Shylock)の証文を盾にとった法廷闘争には一点のスキもなく、アントーニオ (Antonio)の命は風前の灯火です。しかし、ポーシャ (Portia)は機転をきかせます。証文を盾に主張を曲げないシャイロック (Shylock)に対して、ポーシャ (Portia)も証文を盾に攻め立てます:「肉を切り取るのはよいが、血は一滴も流してはならない。この証文には肉1ポンドとのみ書いてある。血を流してよいとはどこにも書いてない。」こうして、勝訴したアントニオ (Antonio)のもとに、船の難破はすべて誤報だったという知らせが入り、めでたく幕を閉じます。シャイロック (Shylock)だけは、「全財産の没収とキリスト教への改宗」を宣告されます。ユダヤ人にとってキリスト教への改宗は死にも等しいものでした。
  シャイロックの視点で見れば、決してこの劇は喜劇ではないのです。これほど、劇的ではなくても、ユダヤ人の金貸しはシャイロックと同じようなことを考えて日々を過ごしていたのでしょう。 [上田 第3章 70]

[DVD 8: The Merchant of Venice 2004]



水の都ヴェニスの大運河


(188) ユダヤ人たちも最初から好きこのんで高利貸しになったわけではありません。これは、当時キリスト教会がキリスト教徒に金融業を禁止し、そのかわりにユダヤ人にその空所を埋めることを要求したからなのです。ユダヤ人は土地所有を禁止され、昔からの職業である農業も直接行えずに人を雇って農地を耕してもらいました。彼らはツンフト (Zunft; 同業者組合)にも入会出来ませんでしたが、高い税金を払う義務を課せられました。一方、都市の商業はその発展を信用貸しに頼っていたので、政府は金融業に従事することを条件にユダヤ人の居住を認めたのです。この金融業から古物業と不動産業もまた生まれました。言わば、ユダヤ人は今日の銀行家の役割を果たしたのです。当否は別として、ユダヤ人が資本主義を生み出したと言われる由縁です。「高利貸し」と呼ばれましたが、実際には利子率の決定は教皇や国王が行うので、(闇金融でなければ) ユダヤ人は低金利でお金を貸していたのです。しかし、この金融業にもイタリア商人などキリスト教徒が進出してきて、ユダヤ人は次第に小口の融資を一般市民相手に行うだけになりました。 [上田 第3章 71-73]

(189) 西欧では、ユダヤ人の宗教生活は非常に自由でした。ドイツには1000人以上のユダヤ人社会(居住地)が点在しましたが、それはキリスト教徒もユダヤ人もお互いに自分たちの宗教生活を乱さないための方策でした。ユダヤ人社会では独自の法があり、彼ら自身の学校が設けられ、それぞれバビロニアのアカデミーと活発に交流しておりました。この頃の優れたユダヤ学者には、ラベイヌー・ゲルショム (ゲルショム・ベン・ユダート; Gershom Ben Judah, 960-1040)、ラシ(Rashi; ラビ・ソロモン・ベン・イツハキ; Rabbi Solomon bar Isaac of Troyes, 1040-1105)がおります。 [上田 第3章 73-74]

(190) 中世の西欧におけるユダヤ人の娯楽面に目を向けると、彼らの娯楽さえもユダヤの伝統、宗教の枠組み内だということが分かります。(もっとも、中世はキリスト教徒のほうも同様でしたが。)大部分のユダヤ人たちが読んだのは、宗教文学でした。学者ならば、タルムード(the Tulmud)やその注釈を読みましたし、一般大衆は「ミドラッシュ」(midrash; Heb. 「探し求めるもの」の意)と呼ばれる律法の注解を読みました。人気のある娯楽文学としては、教訓的な寓話や物語がありました。 [上田 第3章 75]

(191) 12-13世紀のドイツには、吟遊詩人 (minnesingers/minstrels/troubadours)が城から城へと渡り歩いて宮廷を楽しませておりましたが、ドイツ語で歌うユダヤ人詩人ジュースキント・フォン・トゥリムベルク (Susskind von Trimberg, ?-?; cf. Friedrich Torberg[ 1098-1979]'s Susskind von Trimberg [1972])がいるそうです。ハイデルベルク大学 (Ruprecht-Karls-Universitat Heidelberg, f.1386)には、彼が作った詩13編が残っております。 [上田 第3章 75-77]

(192) 1095年、ローマ教皇ウルバヌス2世 (Papa Urbanus II [Pope Urban II] ,1042-1099; r.1088-1099)はフランスのクレルモンでの宗教会議 (concile de clermont, 1095; the Council of Clermont, 1095)において、聖地エルサレム (Jerusalem)をムスリムから奪回するように訴えました。当時パレスチナをアル・ハーキーム (al-Hakim, sixth ruler of the Egyptian Shi'ite Fatimid dynasty)をカリフとする狂信的なムスリム・グループが支配しておりました。彼らは、巡礼に向かうキリスト教徒を襲ったり、キリスト教の聖地や聖遺物が破壊し、ローマ教皇としては何らかの対策を講じる必要があったのです。この他に、ローマ教会が、ビザンチン(東方)教会 (Oriental Orthodoxy)を従えたいという気持ちや教皇庁の財政的危機などを乗り切りたいという気持ちもウルバヌス2世 (Urbanus II [Pope Urban II] ,1042-1099; r.1088-1099)の演説からは容易に読み取れます。 [上田 第3章 78]

(193) キリスト教の聖職者たちは、民衆に向かって熱烈に「聖戦」への参加を訴えました。この呼びかけにヨーロッパ全土からさまざまな階層の男たちがかけつけました。貴族もいれば、冒険や自由を求める農奴や百姓もおりました。かくして、十字軍 (Latin. croisade/Eng. Crusade, 1096-1249/1291)は当初からかなり統制を欠いておりました。彼らの攻撃は最初はパレスチナのムスリムへ向かうはずでしたが、それよりも手近な非キリスト教徒で、同胞キリストを裏切って十字架にかけた「神の敵」ユダヤ人に向けられました。ドイツ各地ではユダヤ人コミュニティに対してひどい攻撃・迫害が行われました。この結果、彼らの集落は破壊され、ユダヤ教会シナゴーグは焼き払われ、家屋や店舗は略奪され、何百人もの死者やそれ以上に難民が出ました。洗礼を受けキリスト教徒になったユダヤ人だけがかろうじて難を逃れました。 [上田 第3章 79]

(194) 十字軍 (Latin. croisade/Eng. Crusade, 1096-1249/1291)はその後200年近くも続きました。大規模な十字軍の回数はおおよそ8回と考えられますが、解釈によってその回数には差異があります。第1回から第4回までは多くの歴史記述で共通ですが、たとえば第5回(1217-1221)を数えない説があったり、第6回(the Sixth Crusade, 1228-1229)は破門皇帝による私的な十字軍(フリードリヒ [Friedrich II, 1194-1250; as the Holy Roman Emperor, 1215-1250]十字軍)として数えない学者もいます。1270年の聖王ルイ (Saint-Louis; Louis IX, 1214-1270; r.1226-1270; ブルボン家の祖)の出征 (1248)まで8回(または7回)とすることが多いのですが、学者の意見はさまざまです。 [上田 第3章 79]

(195) 十字軍により、1144年にはフランスの、1189年にはイングランドのユダヤ人が大きな被害を受けました。中世にはゲットー (ghetto)への道も準備されました。1215年、教皇インノケンティウス3世 (Papa Innocentius III, 1161-1216)が第4回ラテラン宗教会議 (Concilio Laterano IV; The Fourth Lateran Council)において、キリスト教徒とユダヤ人との共存が厳しく禁止され、ユダヤ人とムスリムはキリスト教徒とは異なる衣服を着ることが義務づけられました。その理由は、「時に間違いがあって、キリスト教徒がユダヤの、あるいはサラセンの男がキリスト教徒の女と交わることが起こる」からとのことでした。また、ユダヤ人であることを示すパッチ (yellow badge or yellow patch, also referred to as a Jewish badge)という黄色い布きれ着用を義務付けられたのもこの頃でした。ユダヤ人は官職に就くことも、キリスト教徒の使用人を雇ったりすることも出来ず、キリスト教徒の祭日には家でじっとしていなければなりませんでした。かくして、ユダヤ人は完全に孤立化し、これが16世紀からのゲットー (ghetto)設置に繋がりました。[上田 第3章 79-80]

(196) 中世には、ユダヤ教徒に対して、技引き殺人や聖餅冒涜といった中傷もたびたび為されました。儀式殺人とは、ユダヤ人はキリスト教徒の血を儀式用に使っているという誹謗中傷です。この疑いをかけられると、ユダヤ人たちは虐殺され、また財産も没収されました。特に13世紀末にもっとも頻繁に行われました。[上田 第3章 81]

(197) 14世紀半ば、ヨーロッパ各地でユダヤ人は聖餅(wafer; カトリックのミサで使用される薄い軽焼き菓子)を冒涜したという噂が流されました。正餐式(Eucharist)で、神父から信者の口に含められる聖餅は、キリストの身体に変形すると考えられていて、それをユダヤ人が盗み、針を刺したり、熱湯に入れたり、叩きつぶしたりしたというのです。そのようなときには聖餅から血が流れたり奇跡が起こるということです。現代の非キリスト教徒からみれば、あり得ない話なのですが、当時のキリスト教徒たちはまじめにこの作り話を信じ、教皇の警告にさえ耳を貸しませんでした。そして、儀式殺人の場合と同様に、疑いをかけられたユダヤ人は、いくら無実を主張しても聞き入れられずに処刑され、財産は没収されました。[上田 第3章 81-82]

(198) ユダヤ人に対する中傷による暴虐は、14世紀半ばに全ヨーロッパを襲い、2,500万人の命を奪ったペスト (pest; the black plague)で頂点に達しました。このペストは中東から入ったもので、その原因はネズミによるものでしたが、当時のキリスト教徒たちはユダヤ人が井戸に毒を投げ入れたためにペストが起こったのだという噂が広がり、それを見たという証人や自白させられたユダヤ人が現れました。たしかにユダヤ人はペストにかかるものが少なかったのですが、それは彼らの間には衛生学や医学の知識が普及しておりましたし、またゲットー (ghetto)内に隔離されていたことも伝染病予防には効果があったのだと推測されております。[上田 第3章 82-83]

(199) 14世紀中葉以降、何千ものユダヤ人が西欧から逃亡しました。特にドイツから逃亡したユダヤ人が多かったのです。彼らが移住した先は、中欧、そして東欧でした。そこで彼らは後に豊かな文化を開花させることになります。そのとき生まれた言語は、ドイツ語がユダヤ風に変形し、独特のものになったイデッシュ語 (Yiddish)でした。[上田 第3章 83]


[3f. 東欧系 (特にドイツ系) ユダヤ人:「アシュケナジー」(Ashkenazi) または (アシュケナジム (Ashkenazim ))]



(200) 東方のユダヤ人の様子は森繁久弥の劇で御馴染みの『屋根の上のヴァイオリン弾き』によく描写されております。[上田 第4章 86]

(201) 『屋根の上のヴァイオリン弾き』(Fiddler on the Roof)は、1964年のアメリカのミュージカルです。ショーレム・アレイヘム (Sholem Aleichem/ Sholem Aleikhem/ Salom 'alekhem, 1859-1916)の短篇『牛乳屋テヴィエ』("Tevye der milkhiger," 1894)を原作としています。テヴィエ(Tevye)とその家族をはじめとして、帝政ロシア領となったシュテットル (Shtetl)に暮らすユダヤ教徒の生活を描いたものです。この作品には19世紀末のシュテットル(Shtetl)の様子が良く描かれているといいます。[上田 第4章 88]

(202) 『屋根の上のヴァイオリン弾き』(Fiddler on the Roof 1964 Broadway musical)の粗筋は以下の通り:
  テヴィエ (Tevye)はウクライナ地方の小さな村Anatevka (架空の村)で牛乳屋を営むユダヤ人一家の長です。ユダヤの伝統 (tradition)にのっとって、亭主関白を気取ってはいますが、じつは厳しいことを言う妻 (Golde)には頭が上がりません。物語の設定は1905年です。5人の娘 (Tzeitel, Hodel, Chava, Sprintze, and Bielke)に囲まれ、ユダヤ教の戒律を厳格に守ってつつましくも幸せな毎日を送っていました。テヴィエ (Tevye)は娘たちの幸せを願い、それぞれ裕福な結婚相手を見つけようと骨を折っています。ある日、長女のツァイテル (Tzeitel)に金持ちとの結婚話が舞い込みますが、彼女にはすでに仕立屋のモーテル (Motel Kamzoil the tailor)という恋人がいたのでした。「仕立屋は7人で一人前」という諺があり、男性として頼りないイメージがあります。テヴィエ (Tevye)は猛反対しますが、結局紆余曲折を経て二人を認め、結婚を許します。また、次女ホーデル (Hodel)は共産革命を夢見る学生闘士パーチック (Perchik)と恋仲になり、逮捕されたバーチックを追ってシベリアへ発ちます。さらに三女はこともあろうに、テヴィエ (Tevye)が敵視するロシア青年と駆け落ちしてしまうのです。それでも、最後にはテヴィエは彼らの幸せを願うのです。
  テヴィエ (Tevye)はロシア人の警察署長 (Constable)と親しくしておりましたが、彼は比較的ユダヤ人に好意的なものの、ロシア中央政府のユダヤ人弾圧政策には逆らえません。劇中で次第に熾烈になっていくユダヤ人への迫害は、終盤でユダヤ人の国外追放が始まり、テヴィエ (Tevye)たちは着の身着のまま住み慣れた村から3日以内に立ち退きせよとの国家命令を警察署長 (Constable)に伝えられます。テヴィエ (Tevye)たちばかりではなく付近のユダヤ人集落すべてです (the anti-Jewish pogroms of 1881-1882 in Russia)。題名となる屋根の上のバイオリン弾きは、テヴィエ (Tevye)の台詞の中で、危なっかしくもその日を暮らすユダヤ人の例えとして象徴的に登場します。アレイヘム (Sholem Aleichem)の原作ではイスラエルの地へ帰還するのですが、ミュージカルではニューヨーク ("Jew" York)に向かう所で話が終わります。[上田 第4章 91]

[DVD 9: Fiddler on the Roof 1971]


(203) ショーレム・アレイヘム (Sholem Aleichem/ Sholem Aleikhem/ Salom 'alekhem, 1859-1916)は、ウクライナ出身のイディッシュ劇作家、小説家、ジャーナリストです。キエフ (Kiev)近郊ペレヤスラフ (Perejaslav)生まれです。小説家というよりは劇作家と呼んだほうが良いのかもしれません。本名はソロモン・ラビノヴィッツ(Solomon [Shlomoh] Ya'aqobh Rabinowitz/ Solem Jakov Rabonovic)といいます。ショーレム・アレイヘム (Salom 'alekhem)とは、「こんにちわ」、「やあやあ」という日常的挨拶です。(アラビア語の「アッサラーム・アライクム」(asslam elaakum;「あなたに平安を」;朝鮮語の「アニョイ(安寧)セヨウ」)に相当しますが、TPOがやや異なります。) アレイヘム (Sholem Aleikhem)は、少年時代から執筆活動を行い、オデッサ、キエフ等でジャーナリスト生活に入りました。1889年、キエフで雑誌『ユダヤ民衆文庫』(Folksbobliotek)を創設します。これは、自らの伝統の豊かさに源を求め、また周辺の文化と歩調を合わせる文学を提唱することによって、輝きを失ったイディッシュ語文学の再興を試みたものです。はじめ短編で読者の心を捉え、次第に連作形式の小説から長編小説へと手を伸ばしていきました。アレイヘム (Sholem Aleichem)の連作の短編としては『牛乳屋のテヴィエ』("Tevye der milkhiger," 1894)、長編では『ステンペーニュ』(Stampenyu, 1913)や『嵐の中で』(In the Storm, 1905)などが有名です。アレイヘム (Sholem Aleichem)は、1905年アメリカに移住し、のち一時ヨーロッパに戻り、イタリアに住みますが、1914年第一次世界大戦の勃発で再びニューヨークへ移住し、1916年にニューヨークで逝去しました。郷土のシュテットルのユダヤ教徒の生活を描いたユーモラスな作品が多いといわれ、イディッシュ語の口語性をみごとに活かしきっています。「ユダヤ教徒の純情さ」を描いて同志愛の必要性を促したともいわれます。("Wikipedia"参照) [上田 第4章 93-98]

(204) 東欧系 (特にドイツ系) ユダヤ人、即ち「アシュケナジー」(Ashkenazim ; Ashkenaziの複数形) または (アシュケナジム)はイディッシュ語 (Yiddish)を日常語として話していました。つまり、ドイツ語をユダヤ化したわけです。数あるユダヤ系クレオールの中でも、このイディッシュ語 (Yiddish)は一番使用人口が多いとされ、一時は1,000万人を越えておりました。それだけ使用人口が多ければ当然素晴らしい世俗文学が生まれます。イディッシュ語 (Yiddish)は教養のない女性たちの言葉として蔑まれもしました。教養人ショーレム・アレイヘム (Sholem Aleichem/ Sholem Aleikhem/ Salom 'alekhem, 1859-1916)は敢えてエリートの言語であるヘブライ語を使用せず、イディッシュ語で作品を書きました。("Wikipedia"参照) [上田 第4章 95-100]

(205) イディッシュ語 (Yiddish)は、現在世界中で400万人のアシュケナージ系・ユダヤ人によって使用されている言語で、インド・ヨーロッパ語族のうち西ゲルマン語系に属する言語の一つです。これは紛れもないドイツ語の方言であり、崩れた高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えた言語です。高地ドイツ語は標準ドイツ語の母体であるため、イディッシュの単語も八割以上が標準ドイツ語と共通しており、残りはヘブライ語やアラム語、ロマンス諸語、そしてスラブ諸語からの借用語です。書記にはヘブライ文字を伝統的に使用していたが、現在では標準ドイツ語に準じたラテン文字表記も存在しています。イディッシュの"Yid"とはユダヤ人の意味であり、それに鴿(-ish; 「~語」「-的」)という語尾がついている故、イディッシュとはユダヤ語の意味です。9世紀から12世紀の間にラインラント (Rheinland)などで中高ドイツ語を基礎に興り、11世紀以降の大規模なアシュケナージ人口のポーランド・リトアニア地区への移動によりこの地域が文化の中心地となった。ドイツでも引き続きイディッシュは使用されましたが、一般のドイツ人たちからは乱れたドイツ語として蔑まれておりました。しかし後には数多くの文学作品がイディッシュで書かれる様になりました。主にドイツや東欧諸国に住んでいたユダヤ系の人々が使用し、中東欧社会におけるイディッシュ文化を築き上げましたが、第二次世界大戦中、その文化はナチス・ドイツのホロコーストによって激減し、イスラエルへの移住や中東欧社会そのものの共産化、アシュケナージ自体の言語変革・言語同化により基盤を失い、崩壊したとされます。("Wikipedia"参照) [上田 第4章 100]

(206) イディッシュ語 (Yiddish)には、中世にドイツを中心に使用されていた西イディッシュ語 (West Yiddish)と14世紀以降、ペストの「元凶」とされ、迫害されてドイツなど西欧から東欧に逃れたユダヤ人たちが使用した東イディッシュ語 (East Yiddish)があります。この東イディッシュ語(East Yiddish)でハスカラ文学が多く描かれました。ハスカラ (haskalah; Heb. enlightenment; education)またはハスカーラーとは、18世紀から19世紀にかけての、ユダヤ教内部における近代ヨーロッパ文化の影響とそれに対する啓蒙主義、その運動のことです。ハスカーラーの運動家をマスキール (maskilim)といいます。[上田 第4章 101]

(207) 東欧の中でも、ポーランドには、ユダヤ人が大勢住んでおりました。東欧のシュテトゥル (Shtetl ;Shtot; 町 )は大体1,000-2,000人程度のユダヤ人集落ですが、最初に生まれたのは、ポーランドでした。ローマ時代に、ユダヤ人はすでに東欧に移住していましたが、小アジアから黒海沿岸まで達していたのです。14世紀半ばの西欧でのペストの流行とそれに伴うユダヤ人への迫害から逃れるため、西欧から中欧、東欧へと移住していたのです。中でもポーランドへのユダヤ人移住者数は最大でした。その頃のポーランドは農業国で、貴族たちの所有する小宴に分割され、その土地は農奴によって耕されておりましたし、商業もドイツほど発展しておりませんでした。そこで王侯貴族たちはユダヤ人たちを歓迎したのです。ユダヤ人たちは期待に応え、手工業の知識や豊かな商売経験を生かしてポーランドの発展に尽くしました。1569年にポーランドにリトアニアが統合され、ポーランド王国は北はバルト海から南は黒海まで拡がりました。ユダヤ人は、はじめはクラカウ (Krakow; capital of Poland from 1038 to 1596)、ルボフ (Rus. Lvov/Eng.Lviv; now part of Ukraine)、ルブリン (Lublin)など大都市に住んでおりましたが、やがて王国の全域に住みつき、シュテトゥル (Shtetl)に住みました。大部分の者は製靴、製帽、洋服の仕立てなどの手工業、行商、野菜造りなどによって暮らしていました。後のロシアのシュテトゥル (Shtetl)でもこの傾向は変わりませんでした。[上田 第4章 103-105]

(208) シュテトゥル (Shtetl)の生活は、シナゴーグ (synagogues)、家庭、そして市場を中心にして行われました。シナゴーグ (synagogues)でユダヤ人は祈り、勉強し、親交を深めました。家庭では家長を中心にしてまとまり、家族みんなで安息日 (Sabbath)を、過越の祭 (ペサハ [Pesach])を、スッコート (Sukkot)を祝いました。市場はユダヤ人と非ユダヤ人 (Gentiles)との交流の場であり、ユダヤ人たちは自分たちが作った農産物をここで売りました。シュテトゥル (Shtetl)のユダヤ人社会の指導には、ラビ (rabbi; ユダヤ教司祭)があたりましたが、ラビ (rabbi)は学者であり、教師でもあり、あらゆる事柄の相談役でもありました。ラビ (rabbi)は人々の憧れの伝統ある職業でした。[上田 第4章 105-106]

(209) 学問を何よりも重視するユダヤ人社会には必ず学校がありました。なぜ学問を重視するかというと、度重なる迫害と退去命令などで体一つでの突然の移動を強いられてきたユダヤ人にとって、学問や教育は最大の財産だったのです。シュテトゥル (Shtetl)の男の子はまずヘデル (chedher, cheyder;「部屋」の意)と呼ばれるユダヤ教の初等教育施設へ通いました。そこで出来る子たちは、イェシヴァ (Yeshiva(h))と呼ばれる、各地のタルムード(Tulmud)学習のための学院へ通いました。一方、女性が勉強することは不自然だと考えられ、8,9歳までしか教育を受けませんでした。このような男尊女卑傾向は正統派ユダヤ教徒の間では現在もあまり変わっていないそうです。[上田 第4章 106]

(210) 結婚のとりまとめは、両親と仲人によって行われ、明治維新前の日本のように、肝心の本人同士の了解を得る必要はありませんでした。したがって恋愛結婚など、当時のユダヤ人社会では考えられませんでした。『屋根の上のヴァイオリン弾き』(Fiddler on the Roof 1964 Broadway musical)などを参照のこと。この伝統は正統派ユダヤ教徒の間ではまだあるそうです。[上田 第4章 106-107]

(211) 『屋根の上のヴァイオリン弾き』(Fiddler on the Roof: 1964 Broadway musical)は、1905年のロシアのシュテトゥル (Shtetl)が舞台ですが、ロシアにシュテトゥル (Shtetl)が出現したのは1772年のポーランド分割以降でした。ロシアでは法律によりユダヤ人の永住は認められておりませんでした。ポーランド分割後、ロシア政府はその領内にユダヤ人定住許可区域 (the Pale of Settlement)を設けて、ユダヤ人を押し込め、彼らの活動の自由を奪いました。これはいわば大規模なゲットー (ghetto)だと言ってよいのです。支配者の交代は大部分のユダヤ人にとっては状況を悪化させるだけのものでした。唯一の例外はアレクサンダー2世 (Alexander (Aleksandr) II Nikolaevich, 1818-1881)で、4000万人の農奴を解放し、ユダヤ人のインテリ、医者、薬剤師、職人たちには領内のどこでも住める特権が与えられました。ユダヤ人の徴兵期間も5年になり、ユダヤ人たちを使っての産業振興もなされました。とくにサムエル・ポリアコフ (Samuel Poliakov, 1836-1888)による鉄道建設が知られています。[上田 第4章 113-116]

(212) しかし「解放者皇帝」 (Czar Liberator)と呼ばれた慈悲深いアレクサンダー2世 (Alexander (Aleksandr) II Nikolaevich, 1818-1881)は、1881年に爆弾によって暗殺されてしまいます。アレクサンダー3世 (Alexander III Aleksandrovich, 1845-1894)が新しい皇帝として即位すると、先皇帝暗殺の罪を一ユダヤ女性にきせ、ユダヤ人たちを弾圧しました。これがいわゆるポグロム (pogrom; ロシア語で「破滅」「破壊」)のはじまりです。特に19世紀後半に旧リトアニア公国の領域(ベラルーシ・ウクライナ・モルドヴァ)で、ポーランド貴族に頼って生活していたユダヤ人が、ウクライナ人・ベラルーシ人農民、コサックなどの一揆の際に襲撃の巻き添えとなりました。ロシア政府によるスケープゴート化も考えられなければならないのですが、これはシオニズムの契機のうちの一つとされ、パレスチナやアメリカへの人口移動をもたらしました。[上田 第4章 116-120]

(213) 1880年から1920年にかけて新大陸へやってきたユダヤ人の数は200万人にものぼりました。一文無しでアメリカに着いたドイツ系ユダヤ人アシュケナジム (Ashkenazim)は、非ユダヤ人の開拓者のあとを行商して歩きました。開拓地がやがて村、町そして都市になるにつれて、彼らも行商人から身を起こして店を持ち、中企業や大企業を経営する者も出てきました。アシュケナジム (Ashkenazim)は、アメリカの消費経済の発達に貢献しましたが、子どもたちに高等教育を受けさせる余裕はありませんでしたので、政界や学会に進出する者はほとんどありませんでした。しかし、移民第2世代、第3世代になると次第に教育への情熱も復活してきて、熱心に勉強し始めます。授業料無料のニューヨーク市立大学 (New York City University)はユダヤ系の学生で一杯だったそうです。今日のユダヤ系アメリカ人には医者、弁護士、大学教授などについている者が非常に多いのです。ジャーナリズム、映画産業、芸能にもアシュケナジム (Ashkenazim)が多くなりました。[上田 第4章 120-126]

(214) 前述しましたように、アシュケナージ(Ashkenazim)が日常的に用いていたのはイディッシュ語(Yiddish)でした。中村唯史(ロシア文学/山形大学)が述べるように、イディッシュ語で文学作品を書くことは、それ自体が一つの立場表明だったのです。宗教性や思弁性が顕著だったそれまでのユダヤ人の著作とは一線を画し、アシュケナジム (Ashkenazim)の大半を占める民衆を相手に、その現実や「私的な領域」を語ることがイディッシュ語を選択した作家たちに共通する志向でした。ただしイディッシュ文学が開花したのは19世紀後半からだが、その背後には1000年に及ぶアシュケナージ(Ashkenazim)の民間伝承があります。イディッシュ文語は、この豊穣な口語表現の蓄積に立脚しているため、「語り」の色彩が極めて強いようです。 世界的に著名なイディッシュ語(Yiddish)作家としては、さきに紹介したショーレム・アレイヘム (Sholem Aleichem/ Sholem Aleikhem/ Salom 'alekhem, 1859-1916)のほかに、アイザック・シンガー (Isaac Bashevis Singer, 1904-1991)がいます。戦間期のポーランドで自己形成を行なったシンガー (Isaac Bashevis Singer, 1904-1991)は、むしろアメリカに亡命した後で有名になりました。その作風は幻想的、神秘的な短編からリアリステイックな大河小説まで多彩である。代表作『イェシバ学生のイェントル』(Yentl the Yeshiva Boy, 1983)、 『敵、ある愛の物語』(A Young Man in Search of Love, 1978)は映画化され、日本でも好評を博しました。彼は、1978年にノーベル文学賞を受賞しています。 [オンライン版「ロシア文学を読もう」中村唯史(ロシア文学/山形大学)参照] [上田 第4章 123-126]

(215) ロシアにおいて、1905年に第一次ロシア革命 (The Russian Revolution 1905)が、1917年に第二次ロシア革命 (The Russian Revolution 1917; 二月革命;February Revolution [or 三月革命]と十月革命; October Revolution [十一月革命])が起こります。これにより、帝政が廃止され、1917年11月7日には、ソビエト社会主義共和国連邦 (USSR)が誕生し、マルクス・レーニン衆愚に基づく至上初の社会主義国家になりました。この革命や内線には、多くのユダヤ人が活躍しました。トロツキー (Lev Davidovich Trotskii, 1879-1940)、ジノビエフ (Grigorii Evseevich Zinov'ev, 1883-1936)、カーメネフ (Lev Borisovich Kamenev; Rosenfeld, 1883-1936)、ブハーリン (Nikolai Ivanovich Bukharin, 1888-1938)、ウリツキー (Moisei Solomonovich Uritsky, 1873-1918)などがそうです。レーニン (Vladimir Lenin, 1870-1924)の祖母もユダヤ人でした。革命を指導したレーニン (Vladimir Lenin, 1870-1924)は大ロシア民族主義を弾劾し、すべての小国家、少数民族の平等を目指しました。そして、ロシアではイディッシュ(Yiddish)化政策が推進され、イディッシュ語(Yiddish)の本が次々に出版されたり、イディッシュ語(Yiddish)の学校が創立しました。 [上田 第4章 126-128]

(216) しかし、ロシアにおいては、反ユダヤ主義も1905年以降連綿と続きます。その最たるものは1911年3月のキエフのベイリス事件 (the Beiliss Case)で、キリスト教徒の少年(Yushinsky)殺害事件の犯人にメンデレ・ベイリス (Mendel Beiliss)というユダヤ人煉瓦工がでっちあげられ、まるで中世のような儀式殺人の罪で告発され、二年以上投獄されたのでした。この後も、第一次、第二次大戦を経てもなお、反ユダヤ主義は止みませんでした。しかし、1953年3月にスターリン (Joseph Stalin, 1878-1953)が死去すると、ユダヤ文化圧迫政策は一応の終わりを告げます。今日、旧ソビエト連邦(ロシアなど)には、250-300万人のユダヤ人が住んでいると言われ、とくにモスクワとレニングラードに集中して住んでいます。じつはまだ反ユダヤ感情が民衆には残っているそうです。それは、ユダヤ人がヘブライ語など積極的に民族主義的活動を行ったり、優秀なために社会の上層部で活躍する者が多いのがその原因と言われております。ただ、一口にユダヤ人といっても、同化しているユダヤ人や体制に忠実なユダヤ人、反体制を標榜するユダヤ人、さらにイスラエルに移住しようとするユダヤ人もいます。 [上田 第4章 128-132]


[3g. ヨーロッパ近代のユダヤ人]



(217) 中世の封建主義時代が終わると、17, 18世紀に西欧では資本主義、重商主義時代になり、英国、ドイツ、オーストリア、デンマーク等で特権階級のユダヤ人、いわゆる宮廷ユダヤ人が頭角をあらわしてきます。英国エリザベス1世 (Elizabeth I, 1533-1603)のスポンサーはセファルディム (Sephardim)系ユダヤ人でしたし、クロムウェル (Oliver Cromwell, 1599-1658)の軍隊もユダヤ人から資金を得ていました。オーストリアではユダヤ人がハプスブルグ家に信用貸しをしておりましたし、ザムエル・オッペンハイマー (Samuel Oppenheimer, 1635-1703)の死はオーストリア国家と王室を破産直前にしたことなど、枚挙にいとまがありません。 [上田 第5章 135]

(218) モーゼス・メンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)は、ドイツのユダヤ人の哲学者・啓蒙思想家で、ロマン派の作曲家、フェリクス・メンデルスゾーン (Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-1847)の祖父にあたります。感覚と信仰の上にたつ哲学を説き、当時カント(Immanuel Kant, 1724-1804)の批判哲学を論難した人物の一人でもあります。晩年は、友人のレッシング (Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)がスピノザ (Baruch De Spinoza, 1632-1677)主義者か否かで、哲学者ヤコービ (Friedrich Heinrich Jacobi 1743-1819)ら当時の知識人と汎神論論争をおこしました。いわゆる「理性の時代」と呼ばれた18世紀の集大成的な思想家です。メンデルスゾーン (Jakob Ludwig Felix Mendelssohn Bartholdy, 1809-1847)は、貧しいソーフェル(Soyfer;トーラー [Torah]の書き写し職人)の子としてドイツ・デッサウ (Dessau)に生まれました。父親はメンデル・ハイマン (Mendel Heymann) で、「デッサウのメンデル」とよばれていた。後にその息子という意味でメンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)と名乗るようになりました。母語は西方イディッシュ語でした。ユダヤ人の貧困階層のため、就学はできず、父親とラビのダーフィト・フレンケル (David ben Naphtali Frankel, 1704 - 1762)から聖書やマイモニデス (Moses Maimonides, 1135-1204)の哲学、タルムード (Tulmud)などユダヤ的な教育を施されます。このフランケル (David ben Naphtali Frankel, 1704 - 1762)がベルリンへと移住したため、メンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)も同地へ移住し、貧困と戦いながら、ほぼ独学で哲学などを修得しました。その他、ラテン語、英語、フランス語なども修めました。 21歳の時に裕福なユダヤ商人イサーク・ベルンハルト (Isaac Bernhard)から子供達の家庭教師を依頼されて4年務め、その後は彼の絹織物工場の簿記係になり、のちには社員となり、共同経営者になりました。1754年には、ドイツの劇作家レッシング (Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)を知ります。また、カントとも文通で交流を深めました。レッシング (Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)の数々の劇作において、ユダヤ人は非常に高貴な人物として描かれており、メンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)に深い感動を与えるとともに、メンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)を啓蒙思想と信仰の自由の確信へと導いていきます。その後、処女作としてレッシング (Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)を賞賛する著作を書き、レッシング (Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)もメンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)に対する哲学の著作を書き、互いに親交を深めました。その後、メンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)の名声は高まり、1763年にはベルリン・アカデミー懸賞論文で、数学の証明と形而上学に関する論文でカント (Immanuel Kant, 1724-1804)に競り勝ちます。後にカント(Immanuel Kant, 1724-1804)哲学を論難する人物としてみなされるにいたりました。ヤコービ(Friedrich Heinrich Jacobi 1743-1819)らと生涯を通じての親友レッシング (Gotthold Ephraim Lessing, 1729-1781)を巡って汎神論論争もしました。その反論書「レッシングの友人たちへ」("Moses Mendelssohn an die Freunde Lessings")を刊行中、風邪をこじらせて他界しました。メンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)は、当時キリスト教徒によって蔑視されていたユダヤ教徒たちを一人の市民として解放するとともに、自由思想や科学的知識を普及させ、人間としての尊厳を持って生きることの必要性を説きました。そうした目的をかなえるためには、宗教上の差異に反対し、信仰の自由が必要であるとしました。そして、こうした考えを体系的ではない、いわゆる「通俗哲学」として表現しました。一人一人の個人が一市民として自覚すること、またユダヤ教徒の身分的解放という点から、メンデルスゾーン (Moses Mendelssohn, 1729-1786)の果たした役割は大きいのです。 ["Wikipedia"参照] [上田 第5章 137-142]

(219) フランスにおいて西欧でははじめて、ユダヤ人は完全な平等を獲得したと言われます。1789年7月14日フランス革命 (Revolution francise, 1789-1794)が勃発します。これはユダヤ人にも大きな影響を与えました。1790年、ボルドー (Bordeaux)とバヨン (Bayonne)のユダヤ人が完全な権利を獲得し、1791年9月の国民議会でついにフランス全土のユダヤ人4万人に完全な市民権が認められました。しかし、法的には平等になりましたが、実際にはナポレオン (Napoleon I; Napoleon Bonaparte, 1769-1821)が登場するまで依然として偏見と闘っておりました。1806年、ナポレオン(Napoleon I; Napoleon Bonaparte, 1769-1821)はユダヤ人がフランス社会に同化されることを目指し、パリでフランスのユダヤ人社会の代表者112人から成る名士会議を開きます。この会議の席上、ユダヤ人は自らを「ユダヤ教を信ずるフランス人」と宣言しました。かくして、ユダヤ人の運命は名実ともにフランスの運命と一体となったのです。[上田 第5章 142-144]

(220) 2004年にイスラエルのシャロン首相 (Ariel Sharon, 1928-; p.2001-2006)は、「フランスでは反ユダヤ主義が広まっているから、フランスのユダヤ人はイスラエルに帰るべき」との発言し、フランス政府、フランス在住のユダヤ人団体が反発しました。フランスでは反ユダヤ主義が台頭していることを理由にこの首相の発言がでたのですが、フランスのユダヤ人組織まで問題視しているのです。実際フランス国内でのユダヤ人に対する事件は急増しており、今年は去年の倍のペースで発生しています。フランス人口の10%に当たる500万人がイスラム系であり、ユダヤ人も60万人とそれぞれヨーロッパ最大規模となっており、中東の社会情勢がフランス国内に影響することが多いのです。[上田 第5章 145]

(221) ドイツにおいては、ユダヤ人の何十年にもわたる粘り強い戦いの結果、ユダヤ人の地位の改善は1871年になって実現しました。ドイツでは、ユダヤ教が近代キリスト教のプロテスタンティズムに似た信仰告白的宗教として再編成されました。1830年に起こったドイツのユダヤ教改革運動に加わっていた人々は、シオン (Zion =Jerusalem)への聞かんの希望を放棄し、礼拝儀式を短縮化・美化しました。彼らはまた、それぞれの地方の言語による説教を重視し、ユダヤ教の律法や収監の多くを時代遅れのものとして廃止しました。改革派ユダヤ教のラビ (rabbi)たちは、プロテスタント牧師の役割に類似したものを果たすようになりました。[MSN エンカルタ参照] [上田 第5章 146-148]

(222) 1848年は、ヨーロッパ各地で改革や革命が起こり、「諸国民の春」(the waking/spring of the nations, 1848-1849)と言われました。1814-1815年に開催されたナポレオン戦争 (Guerres napoleoniennes/ Napoleonic Wars, 1803-1815)以後のヨーロッパの秩序を定めたウイーン会議 (Wiener Kongress; Eng. Congress of Vienna)で確立したウィーン体制 (Vienna System; Vienna Settlement)の崩壊へと突き進んだのです*。フランスの二月革命 (February Revolution of 1848)により、7月王政 (the July Monarchy, 1830-1848)を終わらせ、第二共和制 (the Second Republic, 1848-1852)をもたらし、そして1851年12月2日にルイ・ナポレオン (Louis-Napoleon Bonaparte, 1808-1873; as Napoleon II, 1852-1870)がクーデター (coup d'etat)を起こして第二共和制を終わらせ、自らの第二帝政 (the Second Empire, 1852-1870)を始めます。ドイツでも、フランスの二月革命(French Revolution of February, 1848)の影響でドイツ革命が起こり、ユダヤ人エドゥアルト・シモン (Eduard Simon)、ガブリエル・リーサー (Gabriel Leasor)が活躍しました。彼らは1849年に、全市民に完全な平等権を与えよとの決議をしました。しかし、その決議が法律となったのは、1869年7月のヴィルヘルム1世 (Wilhelm I, 1797-1888; r.1871-1888) とビスマルク (Otto von Bismarck, 1815-1898)が「寛容法」("Toleranz")に署名してからです。
  (*ウィーン体制の完全崩壊は、クリミア戦争 (Crimean War1853-1856)による。[上田 第5章 148-149]

(223) オーストリア・ハンガリー帝国 (de. Oterreich-Ungarn/hu. Osztrak-Magyar Monarchia/Austro-Hungarian Empire, 1867-1918)では、1867年12月の「基本法」(Staatsburgerschaft; Grundgesetz; Basic Law)により、民族、宗教を問わず完全な市民権が与えられました。イタリアのローマでは1870年にゲットー (ghetto)が廃止され、平等が認められました。英国ではユダヤ人に対する特に厳しい法律はなく、解放は比較的スムースに行われ、議会へも1855年以降に参加出来るようになりました。[上田 第5章 149]

(224) 解放された西欧のユダヤ人たちは、これ以後ほとんどあらゆる分野に進出し、その非凡な実力を発揮することになります。ウイーン出身のユダヤ人ジョージ・スタイナー(George Steiner, 1929-)が『言語と沈黙』(Language and Silence, 1967)の述べる言葉は解放ユダヤ人の活躍を簡潔に示しております:
  「おおざっぱにいって1世紀のあいだに、フランス大革命とナポレオンによるユダヤ人居住地区の開放にはじまり、ヒトラーの時代まで、ユダヤ人は、中産階級のヨーロッパの、倫理的、知的、芸術的な日ざかりに参加したのだ。長期にわたるユダヤ人居住地区の閉鎖、迫害の砥石のうえで研ぎすまされた機知やぬけめない洞察が、大幅な意識のたくわえを蓄積してしまった。解放されて光となったある種のユダヤ人のエリートと、そしてそれより広汎な中流階級の人たちは、その技能にほころと興味をいだいて、西欧の思想のすべての領域を活気づけ、ふくざつにした。あらゆる領土に、この人たちは革新的な想像力のはたらきをもちこんだ。もっと専門的で、もっと才能のあるユダヤ人は、古典的なヨーロッパ文明のある種の重大な要素をもう一度自分のものとし、それをあたらしい、問題をはらむものとしようとした。」 (『言語と沈黙』由良 君美 訳、上巻、セリか書房 313-314) [上田 第5章 150-151]

(225) マルクス、フロイト、アインシュタインもみな東方ユダヤ人 (Ashkenazim)です。
  カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818-1883)は、ユダヤ系ドイツ人で経済学者、哲学者、革命家です。産業革命後の資本主義経済を分析し、フリードリヒ・エンゲルス (Friedrich Engels, 1820-95)とともに、自らの共産主義を打ち立てます。『共産党宣言』(Manifest der Kommunistischen Partei / Das Kommunistische Manifest, 1848)の結語「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」("Proletarier aller Lander, vereinigt Euch!")の言葉はとくに有名です。ナポレオン支配を脱して拡大したプロイセン王国治下のモーゼル河畔 (Moselle R. )、トリーア(Trier) 出身です。父ハインリッヒ・マルクス(Heinrich Marx; 旧名ヒルシェル・ハレヴィ・マルクス)はラビの家系に生まれ、ユダヤ教からキリスト教のプロテスタントに改宗した弁護士で、トリーアの顧問を歴任しました。母はオランダ生れのユダヤ人のアンリエット (Henriette)で、ハインリッヒよりもユダヤ性が強く、日常生活でイディッシュ語を話していました。カール自身もプロテスタントとしての洗礼を6歳で受けますが、のちに無神論者になります。マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818-1883)は、最初ボン大学(Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universitaet Bonn)で学び、後にベルリン大学(Friedrich-Wilhelms-Universitat)に入学、1841年イエナ大学(Friedrich-Schiller-Universitat Jena)への学位請求論文により哲学博士となります。1842年フリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-95)と出会います。ライン新聞 (Die Rheinische Zeitung)の編輯者をしていましたが1843年、対プロイセン政府批判のため受けた3月の「ライン新聞への弾圧」により、失職してしまいます。パリでFranco-German Annals(独仏年誌)を友人とともに出すことで500ターレルの収入を得、1843年6月イエニー・フォン・ヴェストファーレン (Jenny von Westphalen, 1814-1881)と結婚、11月にパリへ出発しました。ほどなく、ハインリッヒ・ハイネ (Christian Johann Heinrich Heine, 1797-1856)と知り合い交際します。Franco-German Annalsは2号で廃刊になり、プロイセン王国枢密顧問官で外交使節としてたびたびパリを訪問していたアレキサンダー・フォン・フンボルト (Friedrich Heinrich Alexander, Baron Von Humboldt, 1769-1859)がフランス政府に働きかけたため、1845年1月ベルギーのブリュッセルへ追放されます。1848年2月のフランス二月革命 (French Revolution of February, 1848)のため、3月3日に警察に夫婦とも抑留され翌日パリにもどります。
  1849年8月末ロンドンに赴き、そこで彼の独自思想を確立します。マルクスの支持者である親友エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-95)の父親が所有する会社に勤め、資金面においてマルクス (Karl Heinrich Marx, 1818-1883)を支えました。ロンドンで結成された第一インターナショナル(First International/ International Workingmen's Association)の存在を知るや、遅ればせながら参加し、バクーニン (Mikhail Aleksandrovich Bakunin, 1814-1876)と主導権争いを演じます。1871年のパリ・コミューン (Commune de Paris; Eng. Paris Commune)に際しては、『フランスの内乱』(The Civil War in France, 1871)を書き、のちにも革命後社会のイメージとして大いに影響されていた。他方で「なぜヴェルサイユに逃げた政府軍を追わないのか」とパリ・コミューン (Commune de Paris; Eng. Paris Commune)を批判しました。パリ・コミューン (Commune de Paris; Eng. Paris Commune)以降は『資本論』(Das Capital/The Capital; A Critique of Political Economy, 1867-1894)の執筆に専念し、数百にも及ぶレポートで書き続けました。1881年12月、最愛の妻が死亡するも、『資本論』(Das Capital/The Capital; A Critique of Political Economy, 1867-1894)第一巻を出版します。1883年3月14日、自宅の肘掛け椅子に座ったまま死去したそうです。あとには、膨大な草稿を残しました。葬儀は家族とエンゲルス(Friedrich Engels, 1820-95)ら友人で計11人で行なわれました。没後に残された草稿に基づいてエンゲルス(Friedrich Engels, 1820-95)が1889年に『資本論』(Das Capital/The Capital; A Critique of Political Economy, 1867-1894)第二巻を編集・出版し、1894年に第三巻を編集・出版しました。["Wikipedia"参照] [上田 第5章 151]

(226) ジークムント・フロイト(Sigmund Freud、1856-1939)は、オーストリア・ハンガリー帝国内の白人系ユダヤ教徒アシュケナジーの家庭に生まれたオーストリアの精神分析学者です。生まれた時の名はジギスムント・シュローモ・フロイト(Sigismund Schlomo Freud)でしたが、21歳の時にSigmundと改めました。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、自由連想法、無意識研究、精神分析の創始を行い、さらに精神力動論を展開しました。彼が心理学者であるか否かは心理学、精神分析をどのように定義するかにより判断が分かれるそうです。少なくとも、彼自身は著作の中で自分を心理学者だと述べています [(Freud 1914/1999, p. 205)、 Freud 1933/1999, p. 13), etc.)]。
  フロイトは、マルクス (Karl Heinrich Marx, 1818-1883)、ニ-チェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)とならんで20世紀の文化と思想に大きな影響を与えた人物の一人です。しかし、彼の理論に対しては生前から批判が絶えず、彼の業績をどの程度評価するかは未だに議論の対象になっているようです。批判という意味ではコペルニクス (Nicolaus Copernicus, 1473-1543)、ダーウィン (Charles Robert Darwin, 1809-1882)とも並び称されます。 更にシュールレアリズム運動 (surrealisme)を率いた作家たちはその美術運動の理論的基礎をフロイト(Sigmund Freud、1856-1939)に求めるなど精神分析の登場は20世紀文化史における一大事件といってもよいでしょう。 しかしながらフロイト(Sigmund Freud、1856-1939)がもっともこだわった点、彼の精神分析理論の科学性については大いに疑問の余地があります。["Wikipedia"参照] [上田 第5章 151]


ジークムント・フロイト博物館 (ウイーン)


(227) アルベルト・アインシュタイン (Albert Einstein, 1879-1955)は、同化ユダヤ人 (Assimilated/non-Jewish Jew)であり、ドイツ出身の理論物理学者です。シオニズム (Zionism)には非常に好意的であったことが知られております。アインシュタイン (Albert Einstein, 1879-1955は、数多くの業績のほか、特異な風貌とユーモアあふれる言動によって、専門分野を超え世界中に広くその存在が認知されており、しばしば天才の例としてひきあいに出されます。20世紀に於ける物理学史上の2大革命として「量子力学」及び「相対性理論」が挙げられますが、相対性理論の基礎をほぼ独力で築き上げたその業績から、20世紀最大の理論物理学者と目されています。光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって、1921年のノーベル物理学賞を受賞します。彼の従弟に音楽学者でモーツァルト研究者のアルフレート・アインシュタイン (Alfred Einstein, 1880-1952)がいます。
  アインシュタイン (Albert Einstein, 1879-1955)は、1905年に特殊相対性理論を発表、ニュートン力学 (Newtonian mechanics)とマクスウェルの方程式 (Maxwell's equations)を基礎とする物理学の体系を根本から再構成しました。特殊相対性理論では、質量、長さ、同時性といった概念は、観測者のいる慣性系によって異なる相対的なものであり、唯一不変なものは光速度cのみであるとしました。特殊相対性理論は重力場のない状態での慣性系を取り扱った理論ですが、1915年-1916年には、加速度運動と重力を取り込んだ一般相対性理論を発表しました。一般相対性理論では重力場による時空の歪みをリーマン幾何学 (Riemannian geometry)を用いて記述しています。さらに後半生では、電磁気力や重力を統合した統一場理論を構築しようと心血を注いだのですが、失敗に終わっています。
  一般相対性理論の解として、宇宙は膨張または収縮をしているという結論が得られます。アインシュタイン (Albert Einstein, 1879-1955)は、重力による影響を相殺するような宇宙項Λを場の方程式に導入することで、静的な宇宙が得られるようにしました。しかし、エドウィン・ハッブル (Edwin Powell Hubble, 1889-1953)によって、宇宙の膨張が発見されたため、アインシュタイン (Albert Einstein, 1879-1955)は宇宙項を撤回します。後に宇宙項の導入を「生涯最大の失敗」と述べています。しかし、宇宙望遠鏡による超新星の赤方偏移の観測結果などから、宇宙の膨張が加速しているという結論が得られており、この加速の要因として、宇宙項の存在が再び注目されています。["Wikipedia"参照] [上田 第5章 152]

(228) ロスチャイルド家 (Rothschilds)は有名なユダヤ富豪です。初代のマイヤー・アムシェル(Mayer Amschel Rothschild, 1743-1812)がフランクフルト・アム・マイン市 (Frankfurt am Main)で開いた古銭商・両替商に端を発し、ヘッセン選帝侯 (Wilhelm I, 1743-1821; r.1803-1821)との結びつきで経営の基礎を築きました。ヨーロッパに支店網を築き、彼の5人の息子がフランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店を担当、相互に助け合いながら現在のロスチャイルド(Rothschilds)の基盤を築いたのです。
  特にロンドンのネイサン(Nathan Mayer Rothschild, 1777-1836)とパリのジェームス (Baron James Mayer Rothschild, 1792-1868)が成功を収めました。ネイサン(Nathan Mayer Rothschild, 1777-1836)はナポレオン (Napoleon Bonaparte, 1769-1821; as Napoleon I, 1804-1814;1815)が欧州を蹂躙する中で金融取引で活躍し、各国に戦争の資金を融通しました。また、ワーテルローの戦い (Battle of Waterloo, 1815)でナポレオン (Napoleon Bonaparte, 1769-1821; as Napoleon I, 1804-1814;1815)敗退の報をいち早く知ると、株取引で巨額の利益を得ました。一方、ジェームスは当時の成長産業だった鉄道に着目し、パリ/ブリュッセル間の北東鉄道を基盤に事業を拡大していきました。
  パリのロスチャイルドは、1870年に資金難にあえぐバチカンに資金援助を行うなどして取り入り、その後ロスチャイルド銀行は、ロスチャイルドの肝いりで設立されたヴァチカン銀行(正式名称は「宗教活動協会」; Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の投資業務と資金管理を行う主力銀行となっています。ロンドンのロスチャイルドは、政府にスエズ運河 (the Suez Canal)買収の資金を提供したり、第1次世界大戦の際にユダヤ人国家の建国を約束させる(後のイスラエル建国につながる)など、政治にも多大な影響力を持ちました。日本は、日露戦争 (Russo-Japanese War, 1904-1905)の際、膨大な戦費をまかなうため外貨建て国債を発行しましたが、日本の国力に疑問を持つ投資家たちが多かったのです。そうした中で、ニューヨークの銀行家でユダヤ人のジェイコブ・シフ (Henry Jacob Schiff, 1847-1920)が支援を申し出たため、外債募集に成功しました。シフ (Henry Jacob Schiff, 1847-1920)の働きはロンドンのロスチャイルド家の意向を受けてのものでした。
  日本は日露戦争に勝ちましたが、ロシアから賠償金を獲得できず、ロスチャイルド家に金利を払い続けました。この為に、「日露戦争で最も利益を得たのはロスチャイルド家」とも言われます。その一方、ロスチャイルド家はロシアの石油開発にも巨額の投資を行っていましたが、ロシア革命が起こると撤退を余儀なくされました。
  第二次世界大戦後、その勢力は衰え、かつてほどの影響力は失ったとされますが、金融をはじめ石油、鉱業、マスコミ、軍需産業、製薬など依然として多くの企業を傘下に置いています。そのためアメリカのロックフェラー財団 (Rockefeller Foundation)と共にしばしば世界を影から操っているとも言われています。
  現在、ロンドンのロスチャイルドは数少ないイギリス資本の金融サービス機関の一つです。 ロンドン・ロスチャイルド家の現当主ジェイコブ・ロスチャイルド (Jacob Rothschild, 4th Baron Rothschild, 1936-)はロックフェラー財団の持つ資金に匹敵する個人資産1000兆円以上を持っているという推測もあります*。
  *[日本の年間国家予算は70兆円ほどで、あのビル・ゲイツ (William "Bill" H. Gates III, 1955-)でさえ2007年現在の資産総額は590億ドル (約6兆7800億円)ですので、いかにすごい数字か分かりますね。] ["Wikipedia"参照] [上田 第5章 153-154]

(229) ユダヤ人の英知の秘密を、ハンガリー系ユダヤ人出身でアメリカで活躍した文化人類学者ラファエル・パタイ (Raphael Patai, 1910-1996)は以下のように挙げております。
  (1) 異教徒 (即ち非ユダヤ人)の迫害、あるいは差別。
  (2) 最も優秀な学者同士の交配、生殖。
  (3) 学問に高い価値があるとするユダヤの宗教的、文化的伝統。
  (4) 家庭環境における極度に刺激的な性格。
  (5) 何世代にもわたる都市志向、および実際上も都市や町へ集中していること。
  (6) 異教徒の、商業の強制により知性が磨かれたこと。
  (7) 異教徒の文化的雰囲気の挑戦。
        [上田 第5章 154-159]


[3h. シオニズムとホロコースト]



(230) 「ユダヤ人はなぜ嫌われるのか」という疑問に、上田和夫は以下の4つを挙げています:
  (1) 宗教的理由。
  (2) 社会的・経済的理由。
  (3) 競争によって生じたもの。
  (4) 人種理論によるもの。
    これらはすべて、非ユダヤ人によるユダヤ人に対してひきおこされたものです。[上田 第6章 162-163/169]

(231) 「ユダヤ人はなぜ嫌われるのか」(1) 「宗教的理由」をさらに上田和夫は2つ分けて説明します:
    1a)「選民」への羨望と嫉妬。聖書の記述から分かるように、ヤハヴェ(YHWH)はユダヤ人と契約を結び、彼らが絶対服従することの代償として、とくに恵みを与えることを約束しました。これがユダヤ人が神の「選民」(The Chosen People)であることの根拠です。
    1b)ユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけたことに対するキリスト教徒の敵意と憎悪*。マタイによる福音書 (the Gospel according to St. Matthew)を参照のこと。[上田 第6章 -163-166]
    *上田は、故ローマ法王ヨハネ・パウロ2世 (Lat. Ioannes Paulus II; Eng. John Paul II; Ita. Giovanni Paulo II, r.1978-2005; sec. Karol Jozef Wojtyka, 1920-2005)が1986年4月13日ローマのシナゴーグ (the Synagogue of Rome)を訪問し、1000人のユダヤ教徒(the Hebrew Community of Rome)を前にして、「数世紀にわたるキリスト教徒による、ユダヤ教徒への憎悪、迫害、反ユダヤ的行動」について遺憾の意を表明したこと(『朝日新聞』1986年4月15日付)を記している[上田 第6章 -165-166]。さらに2005年1月18日、全世界からやってきた160名のユダヤ司祭 (rabbis)をヴァチカン(Vatican)に迎えた。ユダヤ司祭たちは、法王にユダヤ人やユダヤ教の支持してくれたことに感謝の意を述べた。それから3ヶ月も経たない2005年4月2日、ヨハネ・パウロ2世は崩御した。岩手県東磐井郡藤沢町の大籠キリシタン殉教公園には、江戸時代初期に全国規模で行われたキリシタン弾圧の一環で伊達藩により処刑された殉教者たちに寄せたヨハネ・パウロ2世 (Ioannes Paulus II)のメッセージ (1995年9月18日付)の入った記念碑が立っている。


ヨハネ・パウロ2世からの教皇掩祝記念碑 (岩手県一関市藤沢町大籠キリシタン殉教公園)


(232) (2) 「ユダヤ人はなぜ嫌われるのか」「社会的・経済的理由」に関して。中世に金貸しをしていたユダヤ人たちの何人かが、近代になると、大資本家になりました。すると、今度はユダヤ人は世界を支配しようとしているという非難がなされました。その典型としてロスチャイルド家 (Rothschilds)が挙げられます。ユダヤ人の世界支配に関しては、『シオンの長老の議定書』(Protocols of the [Leaned] Elders of Zion, 1903)と言われるいかがわしい本があります。この原文はフランス語とされていますが、現存しておりません。原書は1897年に書かれたもので、24回にわたるユダヤの長老とフリーメイソンたちの密会の内容を記録したものとの触れ込みです。彼らは、西洋文明を打倒し、世界征服を仕組んだのだそうです。1905年セルゲイ・ニールス (Sergei Alexandruvich Nilus, 1862-1929)によってロシア語訳され、出版されました(大英博物館 [The British Museum]蔵)。この本は、いかにユダヤ人とフリーメイソン (Freemason)がキリスト教世界を支配しようとたくらんでいるかが述べられています。1917年のロシア革命の成功にユダヤ人たちが大きく拘わっていたので、この本が急に注目され、最初の英訳は1920年ボストンから出版されました。初邦訳も大正8年-9年 (1919-1920)久保田栄吉によってなされ、大正末期から昭和初期にかけて一部の日本人に熱心に読まれました。2007年現在でも、これを「真面目に論じる人たち」が大勢います。インターネット検索すれば、日本語サイトのヒット数だけでも驚くべきものです。よく20世紀初頭の反ユダヤ主義の事例として、ナチス(Nazis)などによるホロコースト (Holocaust)につながる反ユダヤ主義者たちの弁明としてよく言及される書物ですが、セルゲイ・ニールス (Sergei Alexandruvich Nilus, 1862-1929)のロシア語訳は本当に薄いパンフレットです。[上田 第6章 -167-168]

(233) (3) 「ユダヤ人はなぜ嫌われるのか」「競争によって生じたもの」に関して。セバスチャン・ハフナー (Sebastian Haffner, 1907-1999)によれば、これはユダヤ人解放後に見られるものだそうです:
  「解放後、つまりおおざっぱにいって十九世紀なかば以降、ユダヤ人が一部は天分により、一部は、否定できないことだが、彼らの強い結びつきにより、多くの国々で多くの分野で指導的地位を占めるようになったのが顕著に認められた。とくに文化のあらゆる領域で、それにまた医術、弁護士業、新聞、産業、科学および政治の分野でもそうであった。彼らは必ずしも地の塩ではなかったが、多くの国々でスープに味つけする塩ではあった。彼らは一種のエリートとなった。ヴァイマル共和国 (Weimarer Republik)、少なくともヴァイマル共和国 (Weimarer Republik)のベルリンでは、第二の貴族階級のようなものさえ形成した。こうしたことにより彼らが賞賛されたのは当然のこととして、嫉妬と反感も買った。この理由から反ユダヤ主義者になった者は、ユダヤ人になにかと文句をつけた。少しばかりユダヤ人をやりこめてやろうと思ったのだ。」(『ヒトラーとは何か』[Anmerkungen zu Hitler, 1978] 赤羽 龍夫 訳、 草思社、1979、111) [上田 第6章 -168-169]

(234) 「ユダヤ人はなぜ嫌われるのか」(4) 「人種論に基づくもの」に関して。これは近代の陰惨な人種論に基づくものであり、ユダヤ人の存在そのものが悪いということであり、その最悪かつ酷い具体化がヒトラー (Adolf Hitler, 1889-1945のユダヤ人大虐殺です。 [上田 第6章 169]

(235) 「ユダヤ人の自己嫌悪」(Jewish Self-hatred)---ピーター・ゲイ (Peter Gay/Peter Joachim Frolich, 1923-)*によれば、「ユダヤ教を放棄するただけでなく、非難することによって、自分のユダヤ性の重荷から逃れたい激しい欲求」です。[上田 第6章 169-170]
  *ピーター・ゲイ (Peter Gay/Peter Joachim Frolich, 1923-)は、ベルリン出身のユダヤ人(Ashkenazi)で1939年にユダヤ人迫害が激しくなったナチス・ドイツ (Nazi Germany)を離れ、1941年にアメリカへ渡り、1946年市民権を得、1946年にデンヴァー大学 (University of Denver)で学士号(BA)、1947年にコロンビア大学 (Columbia University )で修士号(MA)を取り、1951年博士号 (PhD)を取得する一方、同大学で政治学 (political science)を 1948-1955年、歴史 (history)を 1955-1969年まで教えた。1969年にイェール大学 (Yale University))のヨーロッパ比較思想史教授となり、1993年で退職するまでその地位にいた。肩書きは歴史家であるが、ゲイはフロイト (Sigmund Freud)の信奉者で、彼の主要な著作は心理学的アプローチを多用している。

(236) 「ユダヤ人の自己嫌悪」(Jewish Self-hatred)という用語自体は、ユダヤ系ドイツ人のテオドール・レッシング (Theodore Lessing, 1872-1933)により、1930年に発売された同名の本 Der Judische Selbsthass (1930 bzw. Matthes & Seitz, Munchen 2004)により流布したものだそうです。本の中では、彼は自己嫌悪に屈したユダヤ人インテリたちの分析研究を行いましたが、次第にシオニスト (Zionist)になり。そのためにナチス(Nazi)につけねらわれ、チェコで暗殺されたそうです。[上田 第6章 170]

(237) 指揮者ヘルマン・レーヴィ (Hermann Levi, 1839 -1900)は、ギーセン (Giesen)のユダヤ司祭 (rabbi)を祖父に持ちながら、反ユダヤ主義者ワーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)の熱烈な崇拝者であり、1882年にはワーグナー自身の設計で名高いバイロイト祝祭劇場(Bayreuth Festspielhaus)でワーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)の「パルツィファル」("Parzival")の初演を指揮、そのときキリスト教の洗礼を受けることを決断したとされます。[上田 第6章 170]

(238) ウイーン出身の思想家・心理学者オットー・ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)も、フロイト (Sigmund Freud, 1856-1935)の信奉者です。彼の著作『性と性格』はルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインに強い感銘を与えました。後年、ナチスが拠り所とすることになった人種の理念に対してヴァイニンガーの思想は基本的に批判的なものでしたが、ナチスは反ユダヤ主義プロパガンダの一環として、ヴァイニンガーの言葉を前後の文脈から切り離して手前勝手に利用しました。アドルフ・ヒトラー (Adolf Hitler, 1882-1945)は、ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)を指して「ヂートリッヒ・エックハルト(Dietrich Eckart)が私に言ったことがある、人生の中でただ一人よいユダヤ人を知っていると、オットー・ヴァイニンガーといって、ユダヤ人が諸民族の腐敗を糧に生きているのを知った日に自殺したんだと」(sein vaterlicher Freund Dietrich Eckart habe ihm versichert es gebe "einen anstandigen Juden..., den Otto Weininger, der sich das Leben genommen hat, als er erkannte, dass der Jude von der Zersetzung anderen Volkstums lebt")という発言をしたと伝えられています。それでも、ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)の著書は結局ナチス (Nazis)によって弾劾されております。それはおそらくヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)が女性たちに対して自分の頭で考えて行動することを促したためだと言われております。これは、ナチス(Nazis)の女性観とはまさに正反対の考え方であったのです。
  オットー・ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)は、1898年7月、ウイーン大学(Universitat Wien)に入学し、哲学と心理学を専攻する傍ら、自然科学や医学をも学びました。彼は言語習得に長けており、18歳の時には古典ギリシア語とラテン語、フランス語、英語、のちにはスペイン語やイタリア語をも流暢に操ったと言われております。1901年秋、彼は論文『エロスとプシュケ』(Eros und Psyche: Eine biologisch-psychologische Studie)を出版しようと試みました。結局この論文は、1902年に学位論文として提出することになりました。それは、ジークムント・フロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)に会ってこの論文を見せたところ、フロイトはこの論文を出版社に推薦しようとしなかったからです。それでも、ウイーン大学(Universitat Wien)の教授たちは天才的な閃きで見事な論理を展開するこの論文を学位論文として受理し、ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)は哲学博士の学位を受けました。その博士号を授与されたその日、彼はプロテスタントの洗礼を受けました。
  1902年夏、彼も旅先のバイロイト祝祭劇場(Bayreuth Festspielhaus)でリヒャルト・ヴァーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)の「パルジファル」("Parzival")を鑑賞し、深い感銘を受けました。その頃から彼は鬱病の兆候を見せ始めます。1903年6月、ウイーンのブラウミュラー出版社 (Wilhelm Braumuler)が彼の主著『性と性格─或る基礎的研究』(Geschlecht und Charakter/ Sex and Chracter, 1903)を刊行しました。ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)によれば、この書物は「性にまつわる諸問題に新しい光を当てる」試みでした。この本は話題にはなりましたが、彼が予期していたような波紋は呼ばなかったのです。同年10月3日、彼はシュヴァルツシュパーニアー通り15番地の、ベートーヴェン終焉の館(Beethovens Sterbehaus in der Schwarzspanierstrasse 15)に部屋を借りました。ベートーヴェンこそはヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)があらゆる天才の中で最も偉大と目していた人物でした。翌朝、彼は盛装した姿で床に倒れているところを発見されました。急遽病院に運ばれましたが、彼は搬送先で死去しました。ピストル自殺と診断されました。23歳でした。そして、皮肉なことに、彼の自殺が知れ渡ると、『性と性格』(Geschlecht und Charakter/ Sex and Chracter, 1903)はどんどん売れ始め、ヨーロッパ各国語に翻訳されて大反響を呼んだのでした。
  『性と性格─或る基礎的研究』(Geschlecht und Charakter/ Sex and Chracter, 1903)において、オットー・ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)は、人類が男性的形質と女性的形質を併せ持っていると主張し、この自説を科学的に立証しようと試みました。彼によると、男性的形質とは能動的・生産的・意識的・倫理的・論理的な性質であり、女性的形質とは受動的・非生産的・無意識的・非倫理的・非論理的な性質です。女性解放とはレズビアンのような「男性的女性」のためのものであり、女性の人生は行動(たとえば娼婦)と生産(たとえば母)の両面において、もっぱら性機能のために費やされますと彼は論じます。一方、男性(あるいは人間の中の男性的側面)の役割とは天才になるために生き延びることであり、自身の中に見出すところの絶対者(すなわち神)に対する抽象的な愛のために性を超越することであるといいます。この本の相当部分は天才論に費やされます。「新キリスト教徒」ヴァイニンガー (Otto Weininger, 1880-1903)は別の章において、原初ユダヤ人を女性的な存在、本来非宗教的な存在、真に個人主義的な魂を持たぬ存在、善悪の感覚を持たぬ存在と分析します。彼によれば、キリスト教とは「最も高き信仰の最も高き表現」ですが、ユダヤ教は「卑劣さの極致」だそうです。ヴァイニンガー(Otto Weininger, 1880-1903)は現代という時代の腐敗を弾劾し、その腐敗の本質を女性的なもの、ユダヤ的なものと規定します。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 170]

(239) 1870年代から1880年代にかけて、「反ユダヤ主義」(Anti-Semitism)がドイツの改宗ユダヤ人(新キリスト教徒)ヴィルヘルム・マル (Wilhelm Marr, 1819-1904)によって生まれます。これはユダヤ人憎悪とは異なり、ユダヤ人であること自体が犯罪であるとするもので、『ドイツ主義に対するユダヤ主義の勝利』(Der Weg zum Siege des Germanentums uber das Judentum [The Way to Victory of Germanicism over Judaism, 1879)の中で初めて用いられました。"Anti-Judaism"としなかったところがポイントです。つまりあくまでもユダヤ民族であることに嫌悪感を抱いて用いられているのです。 [上田 第6章 171-172] )

(240) 反ユダヤ主義の起源はドイツではなく、19世紀初頭の英国、フランスなどの人種論にさかのぼると言われ、ゲルマン人の人種的優秀性と、非ゲルマン人、とくにユダヤ人の人種的劣等性を「証明」することにありました。人種論の祖はフランスの貴族ジョセフ・ゴビノー (Joseph Arthur Comte de Gobineau, 1816-1882)が 『人種の不平等についてのエッセイ』(Essai sur l'inegalite des races humaines [An Essay on the Inequality of the Human Races]1853-1855)の中で、すべての文明はアーリア人 (Aryan)*に始まると言い出し、また世界は碧眼、ブロンドのアーリア人種 (Aryan)によって支配されなければならない、と主張しました。[上田 第6章 172]
  *(アーリア人(Aryan)はユーラシア中央部を出自とし、主にインド・ヨーロッパ語族のアーリア語派に属する言語を話す人々。 民族的にはアーリア民族、人種的にはコーカソイド(Caucasoid: 白人)である。「日本人」を含む東アジア諸国民の大多数はモンゴロイド[Mongoloid]に属する。ナチス・ドイツ (Nazis)においては、作曲家ワーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)がその半世紀前に信じていたように、アーリアン学説 (the Aryan doctrine)に則ってドイツ人が最も純粋なアーリア人とされ、世界を支配する理由として用いられた。更にこれはユダヤ人弾圧ホロコースト (Holocaust)につながった。ナチス人種学者のハンス・ギュンター(Hans F. K. Gunther, 1891-1968)の『北方人種』(Nordic Race, 1934)によれば、日本人もアーリア人であり、遥かなる太古においては、ドイツ人と日本人は同族だったとされているが、これは現在、当時の日独同盟政策との整合性を持たせるためのこじつけであると考えられている。そもそもヒトラーは日本人について人種差別的発言をしており、ナチスが親日的であったとするのは幻想に過ぎない。現在ではアーリア人学説は疑似科学の典型として捉えられている。)

(241) ジョセフ・ゴビノー (Joseph Arthur Comte de Gobineau,1816-1882)の説に真っ先に飛びついたのはドイツでした。ジョセフ・ゴビノー (Joseph Arthur Comte de Gobineau,1816-1882)の説に力を得て、1850年にリヒャルト・ワーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)は「音楽の中のユダヤ人」("Das Judenthum in der Musik" ["Judaism in Music"], 1850)という論文の中で、ユダヤ人を「金力のみを志向する劣等人種」として激しく攻撃しました。彼は個人的にユダヤ人と親しく付き合っていたにもかかわらず、彼らの才能を妬んで、ユダヤ人全般の音楽的才能を否定しました。ワーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)の楽劇には、アーリア人種の優越性が必要以上に誇示されており、後にナチス (Nazis)によって広く活用されました。イスラエルではまだワーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)に対する拒否反応が強いといいます。[上田 第6章 172-173]

(242) 英国人でありながらドイツに定住した自然科学者ヒューストン・スチュワート・チェンバレン (Houston Stewart Chamberlain, 1855-1927)も悪名高い反ユダヤ主義者であり、ワーグナー (Wilhelm Richard Wagner, 1813-1883)の末娘(Eva von Bulow, 1867-1942)と結婚し、ドイツ語で『19世紀の基礎』(Die Grundlagen des Neunzehnten Jahrhunderts [The Foundations of the Nineteenth Century], 1899)と題する本を書き、恐ろしいことに、そのなかでゲルマン人のみが人類の指導者であり、文明におけるすべての価値を作り出したのだと言い出しました。彼によれば、ユダヤ人であるはずのダビデやイエスさえもゲルマン人なのでした。[上田 第6章 173]

(243) こうしたドイツの反ユダヤ主義は、1873年の株式市場の大暴落と、それに続く経済危機や住宅難、社会的困窮が原因となって特に激しくなりましたが、不当なことに、これらの責任はすべてユダヤ人に押しつけられました。保守主義者たちが次々と反ユダヤ論を唱えました。反ユダヤ主義は同じドイツ語圏のオーストリア・ハンガリー帝国 (Osterreichisch-Ungarische Monarchie/Austor-Hungarian Empire, 1867-1918)にまで拡がりました。ウイーンでは、有名な反ユダヤ主義者カール・リューガー(Karl Lueger, 1844-1910)が市長に選ばれ、14年間務めました。その間にウイーンは反ユダヤ主義の中心となりました。ヒトラー (Adolf Hitler, 1889-1945)は、このような反ユダヤ主義の蔓延するウイーンで青春期を過ごしたのです。[上田 第6章 173]

(244) 第三共和制下の不安定なフランスでは、1894年12月に名高いドレフュス事件 (Affaire Dreyfus)が起こりました。当時フランス陸軍参謀本部勤務の同化ユダヤ人大尉であったアルフレッド・ドレフュス (Alfred Dreyfus, 1859-1935)に対する冤罪事件です。1894年9月、フランス陸軍情報部は、パリのドイツ駐在武官邸からフランス軍関係者内に対独通牒者がいることを示すメモを入手しました。フランス陸軍参謀本部は漏洩した情報を知りうる立場にいた人物達の調査を行い、筆跡が似ているとして、参謀本部付きのユダヤ人砲兵大尉アルフレッド・ドレフュス(Alfred Dreyfus, 1859-1935)を逮捕しました。しかし具体的な証拠どころか、ドレフュスが金銭問題を抱えている、もしくは急に金回りが良くなったなどといった状況証拠すら欠いていたため、スパイ事件及びドレフュス逮捕の事実はすぐには公表されませんでした。この事実を、反ユダヤ系の新聞「自由言論」が独占的に大きく報じ、ユダヤ人は祖国を裏切る売国奴であり、その売国奴を軍部が庇っていると論じて、軍部の優柔不断を糾弾しました。慌てた軍上層部は、証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュス「有罪」の判決を下し、南米のフランス領ギアナ(Guiana)沖のデビルズ島(悪魔島; Ile du Diable)に終身城塞禁錮としました。ドレフュスは初めから無罪を主張しており、彼の誠実な人柄から無実を確信した妻のリュシー (Lucie Dreyfus)と兄のマテュー(Mathieu Dreyfus)らは、再審を強く求めるとともに、真犯人の発見を試みました。1896年、情報部長に着任したピカール中佐(lieutenant-colonel Georges Picquart)は、真犯人はハンガリー生まれのフェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐 (Le commandant Marie Charles Ferdinand Walsin Esterhazy, 1847-1923)であることを突き止めました。しかし軍上層部は、軍の権威の失墜を恐れてもみ消しを謀り、ピカールを脅して左遷、形式的な裁判でエステルアジを「無罪」とし釈放しました。その翌々日の1898年1月13日号の新聞「オーロール(曙)」(L'Aurore)は、一面に「私は弾劾する」("J'accuse...!")という大見出しで、作家エミール・ゾラ (Emile Zola, 1840-1902)によるフェリックス・フォール大統領(President Felix Faure, 1841-1899; p.1895-1999)宛ての公開質問状 (Lettre au President de la Republique)を掲載しました。その中でゾラは、軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾したのです。
  世論は沸騰し、それまで細々と続けられてきたドレフュス支持の運動が一挙に盛り上がる一方、各地でユダヤ人迫害事件が頻発しました。ゾラも名誉毀損で告発されて有罪判決を受け、一時イギリスへ亡命を余儀なくされます。ドレフュスらの再審を求める勢力は「人権擁護同盟」を結成して、正義と真理、自由と平等を唱え、軍国主義批判を展開しました。反対派は「フランス祖国同盟」(Ligue de. la patrie francaise)を結成して国家の尊厳、軍部の威信を力説しました。こうして事態はドレフュス個人の問題から、自由と民主主義・共和制擁護か否かの一大政治闘争の色彩を帯び始め、フランス世論を二分して展開されました。その後、ドレフュスの無実を明らかにする事件(彼の有罪の証拠となったものが、偽造されたものであることが判明)が続いたため、軍部は世論に押されてやむなく再審軍法会議を開きます。しかし、ドレフュスの有罪はすぐには覆りませんでした。
  ドレフュス(Alfred Dreyfus, 1859-1935)は時の首相により特赦で釈放されましたが、その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取って名誉を回復することができました。この事件は軍の威信を傷つけ、軍部と保守派の力を大きく後退させ、その後のフランス軍の弱体化を招くひとつの大きな要因となったと考えられており、事実、事件後のフランス軍は、植民地関連を除き単独での軍事的勝利を収めた経験を持ちません。その一方で、ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派が、その後のフランス政治の主導権を握り、第3共和政はようやく相対的安定を確保することができたのです。常々「愛国者」を自称していた軍首脳及び右派でしたが、自己の保身とユダヤ人排撃のために、本来売国奴として糾弾すべき真犯人のエステルアジ (Le commandant Marie Charles Ferdinand Walsin Esterhazy, 1847-1923)を庇護しつづけたのです。この事件を新聞記者として取材していたテオドール・ヘルツル (Theodor Herzl, 1860-1904)は、社会のユダヤ人に対する差別・偏見を目の当たりにしたことから、ユダヤ人国家建設を目的とするシオニズム思想を提唱し、この思想及びそれに基づく諸運動がのちのイスラエル建国へと繋がっていくこととなるのです。 ("Wikipedia"参照) [上田 第6章 175-178]

(245) シオニズム (Zionism)の名の由来は旧約聖書のこの言葉からきています:
  主はこう仰せられる。「わたしはシオン (Zion)に帰り、エルサレム (Jerusalem)のただ中に住もう。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は聖なる山と呼ばれよう。」(ゼカリヤ書 [The Book of Zechariah] 8章3節)

(246) レオン・ピンスケル (Leon Pinsker, 1821-1891)は、ユダヤ人医師でしたが、19世紀末のロシア帝国において、シオニズム運動を展開しました。当時のロシアではユダヤ系住民に対するポグロムが横行しておりました。彼は、匿名で『自力解放』(Antoemanzipation, 1881)をドイツ語で出版します。ユダヤ人問題が存在するのは、ユダヤ人は同化されえず、別個の民族的単一体として存在し続けるからだと彼は主張しました。この唯一の解決策は彼ら自身の国をつくって隷属状態から解放することである、と彼は主張しました。しかし、「同化」(assimilation)が最善策と考えるユダヤ人指導者たちの態度を変えることはできませんでした。 [上田 第6章 178-179]

(247) テオドール・ヘルツル (Theodor Herzl, 1860-1904)は、そのような状況のときに登場し、失われた祖国イスラエルを回復するためにシオニズム運動を起こしました。へルツル (Theodor Herzl, 1860-1904)は、1860年ハンガリー(当時はオーストリア・ハンガリー帝国)のブダペストで生まれました。高校卒業後、ウィーン大学で、法律・ジャーナリズム・文学を学んだユダヤ人作家でした。当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人でしたが、1894年新聞記者としてフランスのドレフュス事件の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、またモーゼス・ヘス (Moses Hess, 1812-1875)の影響も受け、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こしました。同じ頃の東ヨーロッパでのユダヤ人迫害(ポグロム)、また、当時のオーストリアにおけるゲオルク・フォン・シェーネラー (Georg von Schonere, 1842-1921)やカール・ルエーガー (Karl Lueger, 1844-1910)による反ユダヤ主義的大衆運動に接することによって、彼の態度が鮮明になったといわれます。1896年、シオニズム運動のさきがけをなす著作『ユダヤ人国家』(Der Judenstaat [The Jewish State])を出版しました。これには、ユダヤ人国家像と国家建設のプログラムを詳細に記されています。1897年、スイスのバーゼル (Basel)において最初のシオニスト会議 (First Zionist Congress)を開かれます。第1回シオニスト会議では、各国のユダヤ評議会によって選出された代表200人が参加しましたが、ヘルツルの威厳のある立居振舞いは「ユダヤ人の王」とさえ呼ばれるほどであったといいます。また、かれは小説『古く新しい国』(Altneuland [The Old New Land], 1902)の冒頭に「もしあなたが望むなら、それは夢ではない」("If you will it, it is no dream")と書いて、ユダヤ人国家の建設を訴えています。無理に無理を重ねて各地でイスラエルの再建を訴えたので、体調を崩し、1904年に44歳の若さで亡くなりましたが、その遺志は多くのユダヤ人に受けつがれることとなるのです。 [上田 第6章 180-182]


テオドール・ヘルツル生誕地 (ブダペスト)


(248) アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)は、国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei; NSDAP)党首として民族主義と反ユダヤ主義を掲げ、1933年首相となり、1934年に国家元首に就任。正式の称号は「指導者兼国首相」(Der Fuhrer und Reichskanzler)であり、これは通例、総統と邦訳されています。軍事力による領土拡張を進め、第二次世界大戦を引き起こしましたが、敗色が濃くなると自殺しました。「指導者原理」(Fuehrerprinzip)を唱えて民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、独裁者の典型とされます。ウイーンでの青春時代、画家を志していた彼は、リヒャルト・ワーグナー (Wilhelm Richard Wagner (1813-1883)に心酔し、図書館から借りた本でゴビノー (Joseph Arthur Comte de Gobineau,1816-1882)やチェンバレン(Houston Stewart Chamberlain, 1855-1927) らの提起した人種理論や反ユダヤ主義などを身につけました。また、キリスト教社会党を指導していたカール・リューガー(Karl Lueger, 1844-1910; 後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義 (Pangermanismus/ Pan-Germanism)に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラー (Georg von Schonerer, 1842-1921)などにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えたといいます。第一次大戦ではオーストリア国籍のまま、西部戦線のバイエルン後備第16歩兵連隊に配属され、伝令として活躍し、1918年にユダヤ人上官の推薦を受けて一級鉄十字章を授与されました。階級は伍長(Gefreiter)止まりであったようです。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 183-184]

(249) 1936年には国の威信をかけたベルリン・オリンピック大会を成功させるため、ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)は一時的にユダヤ人迫害政策を緩和するものの、国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持のもと、「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化していきます。1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグ (Synagogues)などを襲撃、放火した水晶の夜事件(Kristallnacht)が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策が本格化していきます。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 183-184]

(250) 日本軍によるイギリス領マレー半島侵攻と、それに続くアメリカ、ハワイの真珠湾攻撃の直後の1941年12月11日ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)の演説では、「我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と日本を賞賛し、日本に続いてアメリカに宣戦を布告しました。また、1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示し、ドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所 内での大量虐殺などの、いわゆるホロコースト (Holocaust)を本格化させました。しかし、実際にヒトラーがユダヤ人絶滅を命じた証拠のような書類は存在して無い為、その時期や命令方法については、研究者によって見解が違っています。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 183-184]

(251) ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)の父アロイス・ヒトラー(born Aloys Schicklgruber; later Alois Hitler, 1837-1903)の出生には不明な点があり、ヒトラー=ユダヤ人血統説の根拠となっていました。異母兄アロイス2世 (Alois Hitler, Jr.)の子であったパトリック・ヒトラー(William Patrick Hitler [later Stuart-Houston] (1911 in Liverpool, Lancashire, England-died1987 in USA)が英米のマスコミに「アロイスの父親がユダヤ人である可能性がある」と吹聴したことが原因であるという向きもありますが、ヒトラー生存中からそれは根強く存在しました。ただ、そこには生存中はヒトラー政権へのダメージ、死後は ヒトラーの犯罪性の緩和に利用する政治的意図があった可能性があります。実は、ヒトラー自身もこのことをかなり気にして、当時ヒトラーの顧問弁護士であったハンス・フランク(Hans Frank, 1900?-1946; 後のポーランド総督)に調査を命じています。ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人ではないかと案じたせいか、調査はヒトラーの命令で途中で中止されたといいます。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 183-184]

(252) ナチス政権下で、名誉アーリア人としてドイツ空軍大将(最終階級は空軍元帥)になったユダヤ人のエアハルト・ミルヒ (Erhard Milch, 1892-1972)などの例が数多くあり、ナチス党員にもユダヤ人が多数おりました。このような事実からヒトラー (Adolf Hitler, 1889-1945)自身はユダヤ人に対して特別な憎悪を持っていなかったとする説もあるほどです。第二次世界大戦中にある貴婦人が、ドイツの占領下に住むユダヤ人が次々と逮捕されて列車に詰め込まれていることについて、ヒトラーが知らないところで行われていると信じ、ヒトラーに善処を訴えたところ、ヒトラーは激怒して「その問題にあなたが口を挟む権限はない」と言い、その貴婦人は二度とヒトラーから招待を受けることはなかったという逸話が残っております。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 183-184]

(253) 上記のような不可思議な状況の中でも、ナチスが1933年4月、ユダヤ人の店からの不買運動や、官庁、法曹界からのユダヤ人追放が始まり、1935年にはニュルンベルグ法 (Nurnberger Gesetze)が施行されました。これはドイツの市民たるにはアーリア人種でなければならないとする法律です。明らかにドイツ在住のユダヤ人追放を目的とした法律でした。これにより、ユダヤ人の自殺者は増大し、パレスチナや南北アメリカなどへの移住者が激増しました。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 184]

(254) 1938年11月9日夜から10日未明にかけて「水晶の夜」(Kristallnacht)と呼ばれる、ナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店地域、シナゴーグ(synagogues)などを襲撃、放火した事件が起こりました。事件のきっかけは、ユダヤ人青年が三等書記官のエルンスト・フォン・ラート (Ernst vom Rath, 1909-1938)を狙撃し殺害したことによるものとされます。この書記官は皮肉にも、ナチス体制に疑問を持つ人物だったということです。この事件を煽動し計画したのはナチ宣伝相のヨーゼフ・ゲッベルス (Paul Joseph Goebbels, 1897-1945)だといわれています。事件後も警察・消防はドイツ当局から介入を禁じられたため無法状態となり、ナチに賛同した非ユダヤ系国民によるユダヤ人商店・住宅の打ち壊し・強奪にも発展しました。破壊され砕け散った窓ガラスが月明かりに照らされて水晶のように輝いたことから水晶の夜(クリスタルナハト)と言われていますが、実際には殺害されたユダヤ人のおびただしい血や遺体、壊された建造物の瓦礫等で、現場は悲惨なものだったといいます。これがホロコースト (Holocaust)のはじまりでした。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 185]

(255) 第二次世界大戦の戦局の悪化に伴い、ナチス政権は絶滅収容所の導入など、殺害の手段を次第にエスカレートさせていったとされます。ナチス党はとくにユダヤ人の殲滅政策 (die Endlosung der Judenfrage 「ユダヤ人問題の根本解決」; die Reinigung, 「民族浄化」) を重要視して、約500万から700万人のユダヤ人を虐殺したとされます。その一方で、「劣等民族」または「不穏分子」としてシンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人 (300万人のキリスト教徒と300万人のユダヤ人)、セルビア人(50万から120万人)、ロシア人、スラブ人、知的障害者、精神病者、同性愛者、黒人、エホバの証人 (Jehovah's Witnesses)、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされます。一部の研究者の中には、ユダヤ人の虐殺のみをもってホロコースト (Holocaust)と呼ぶこともありますが、実際にナチスによって殺害されたこれら少数民族の合計は、900万人とも1100 万人ともいわれます。ドイツは産業、技術、科学、教育などの各分野において、世界で最も進んだ国の一つでもあり、ホロコースト (Holocaust)の最大の特徴は、これら最高の産業技術と組織力を駆使して、系統的かつ迅速に大勢の人を収容して殺害した点なのです。また、西ヨーロッパ諸国における「ユダヤ人狩り」は現地の治安機関によっても実施され、多数の民間協力者が存在したことも否定し得ない事実で、ヨーロッパ諸国に広く根付く反ユダヤ主義がホロコースト (Holocaust)をこれだけ大規模にしたと言えます。ホロコースト (Holocaust)は、言わば、ヨーロッパ全体の責任です。当時、ドイツの同盟国であった日本政府もナチスの暴虐を事実上黙認していたことは大変遺憾なことです。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 185-189]


ラファエル・ホワイトヘッド作ホロコーストの犠牲者のための記念碑
(Rachel Whitereads Mahnmal fur die Opfel der Schoah) (ウイーン)



上記の記念碑に刻まれたアウシュヴィッツ、ベウゼツ、ベルゲン・ベルゼン強制収容所名
(アルファベット順リストの一部)


(256) ナチス政権は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所 (Das KZ Bergen-Belsen)をはじめとするドイツ国内の強制収容所(Konzentrationslager; concentration camp)の他に、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所 (Das Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau)をはじめとする(絶滅収容所(Vernichtungslager; extermination camp or death camp)をポーランド領内に建設し、ユダヤ人をこれらの強制収容所及び「絶滅収容所」に収容しました。とりわけ「絶滅収容所」には、ユダヤ人の大量殺人を目的とする「ガス室」が設けられました。「ガス室」では、「ツィクロンB」(Zyklon B)と呼ばれる毒ガスを使って、約600万人(正確な数は不明)ものユダヤ人が殺害されたとされます。ユダヤ人の遺体は焼却炉をフル稼働して焼却処分され、それに伴う死体運搬等の労働はユダヤ人が命ぜられた。遺体は全て焼却し残っていないとされます。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 185-189]

(257) 反ユダヤ主義は、戦後のドイツに依然として残っております。ユダヤ人たちもドイツ人に対する強烈な憎しみをまだもっているのです。 [上田 第6章 190-191]

(258) 杉原 千畝("Sempo" Chiune Sugihara, 1900-1986)という岐阜県出身の官僚、外交官をご存じでしょうか?早稲田大学を中退後、国費留学して外務省勤務となり、第二次世界大戦中の1940年当時リトアニアの日本領事館に勤務していた杉原は、外務省の命令に反して独断でトランジットビザ(Transit visa.通過査証; 通過ビザ)を発給することでナチス・ドイツによる迫害を逃れるため主にポーランドからリトアニアに避難していた約6000人ものユダヤ人を救ったのです。その後、国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道からウラジオストク経由で(幾度も難民を受け入れて人道の港と呼ばれた)敦賀港へ上陸し、ユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸に辿り着きます。そのうち、1000人ほどはアメリカやパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まりました。上海にもユダヤ人難民の大きなコミュニティがあり、そこでユダヤ人たちは日本が降伏する1945年まで過ごすことになりました。すぐに太平洋戦争の勃発したので、日本からアメリカへの渡航が不可能になり、滞在期限が切れたユダヤ人たちは当時ビザが必要なかった上海租界に移動せざるを得ませんでした。
  1947年に杉原は日本へ帰国、神奈川県藤沢市に居を構えるも、外務省からリストラに伴う解雇通告を受けます。実は、リストラは名目上で、実際はビザ発給の責任を負わされた形になります。家族の不幸に見舞われましたが、杉原は得意の語学を活かして海外を転々と勤務します。1969年、イスラエル宗教大臣より勲章を受けます。1975年、国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国しました。1985年1月18日、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で日本人では初で唯一の「諸国民の中の正義の人」(Khasidei Umot HaOlam/Justice of peoples)として「ヤド・バシェム賞」(Yad Vashem; "Holocaust Martyrs' and Heroes' Remembrance Authority")を受賞しました。2005年10月11日、終戦60周年記念ドラマ「日本のシンドラー杉原千畝物語 六千人の命のビザ」(出演: 反町隆史,飯島直子,吹石一恵 他)として読売テレビで製作され、日本テレビ系列で放送されました。("Wikipedia"参照)


[3i. イスラエルの建国とパレスチナ問題]



(259) バルフォア宣言 (Balfour Declaration)とは、第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリスの外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォア(Arthur James Balfour, 1st Earl of Balfour, 1848-1930)が、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーであるライオネル・ウォルター・ロスチャイルド卿 (Lionel Walter Rothschild, 1868-1937)に対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム対処方針です。バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人国家の建設に賛意を示し、その支援を約束しています。しかし、この方針は、1915年10月に、イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホン (Sir Arthur Henry McMahon, 1862-1949)が、アラブ人の領袖であるメッカ太守フサイン・イブン・アリー (Hussein ibn Ali)と結んだフサイン=マクマホン協定(The Hussein-McMahon Correspondence)と矛盾しているように見えたことが問題になります。すなわち、この協定でイギリス政府は、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国 (Devlet-i Aliye-yi Osmaniyye)の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していた。フサインは、このイギリス政府の支援約束を受けて、ヒジャーズ王国(Hiyaz)を建国したのです。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 191-193]

(260)第一次世界大戦において、ユダヤ軍・アラブ軍は共にイギリス軍の一員としてオスマン帝国(Devlet-i Aliye-yi Osmaniyye)と対決し、現在のヨルダンを含む「パレスチナ」はイギリスの委任統治領となっておりました。現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かったのです。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、 アラブ人とともに衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていました。しかし1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王らの推進していたイフード運動(Yichud [=unity?]; 民族性・宗教性を表に出さない平和統合国家案)は非現実的な様相を呈し、イギリスは遂に 国際連合にこの問題の仲介を委ねます。("Wikipedia"参照) [上田 第6章 194]

(261) イスラエル (State of Israel)は、この国連決議181(United Nations General Assembly Resolution 181; パレスチナ分割決議: The United Nations Partition Plan for Palestine)、1947年11月29日採択)に基づき、1948年5月14日に独立宣言し、誕生しました。この決議は人口の三分の一に満たないユダヤ人に、国土の三分の二以上を与える内容でした。 [上田 第6章 195]

(262) 1948年5月14日に英国軍撤退の後、イスラエル(State of Israel)が独立を宣言します。すると、アラブ5カ国 (エジプト、ヨルダン、イラク、シリア、レバノン)が一斉にイスラエルを攻撃してきて、第一次中東戦争(The First Middle East War, 1948; イスラエル独立戦争[Israeli War of Independence])が始まりました。二千年のディアスポラ (Diaspora)とホロコースト (Holocaust)の苦しみを乗り越えたユダヤ人が勝利を収めました。イスラエルの国土は第一次中東戦争の結果、国連決議よりも大幅に広いものとなります。[上田 第6章 195]

(263) その後、第二次中東戦争 (The Second Middle East War; 1956年11月1日-5日)、第三次中東戦争(The Third Middle East War; 1967年6月5日-10日)、第四次中東戦争 (The Fourth Middle East War; 1973年10月6日1973年10月6日-26日)を経て、今日に至っています。なお、第四次中東戦争 で西側諸国がイスラエルを支援したことに対して、アラブ諸国が石油戦略を発動し、オイルショック (the Oil Shock; 1973 Oil Crisis)を引き起こしました。その後、西側諸国とイスラエルの連携に対抗するため、旧ソビエトと関係強化を図り、中東諸国で連合などの動きがありましたが、産油国と非産油国の思惑が異なることなどから足並みが揃わず、いずれも失敗しております。[上田 第6章 196]

(264) イスラエル (State of Israel)が1982年に行ったレバノン侵攻 (Israel Invasion of Lebanon in 1982)と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「第五次中東戦争」(?The Fifth Middle East War)と認識されています。イラン・イラク戦争(he Iran-Iraq War, 1980-1988)後の1990年、イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争 (the Gulf War, 1990-1991)に突入しました。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ人同士が殺しあう結果となりました。アラブの敵はイスラエルからシーア派急進派のイランへと移り、アメリカの思惑でイラクへとすりかえられました。アラブ諸国は否応無くアメリカに取り込まれ、イスラエルに反抗するだけの力を失ったのです。その一方で、自治権を認められたものの、現在でも領域の多くがイスラエルの占領下にあるパレスチナは、イスラエルとアメリカの圧倒的武力・国際的影響力を前に、一方的に抑圧され続けています。("Wikipedia"参照)

(265) 1993年、中東和平を重視した民主党のビル・クリントン ("Bill" [William] Jefferson Clinton, 1946-)が第42代アメリカ合衆国大統領に就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビン (Yitzhak Rabin, 1922-1995)とともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出しました。9月、PLO(Palestine Liberation Organization; パレスチナ解放機構)とイスラエルが相互承認したうえでパレスチナの暫定自治協定に調印しました。これによってヨルダン川西岸(West Bank of Nahr al-Urdunn)とガザ地区 (Ghazzah)はパレスチナ・アラブ人の自治を承認したことになります。協定は1994年5月に発効しましたが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれました。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出たのです。1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダン (Jordan)との戦争状態終結を宣言し、10月に平和条約を結び、その直前にラビンはPLOのヤセル・アラファト議長 (Yasser Arafat, 1929-2004)とともにノーベル平和賞を受賞しました。1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原(Golan Heights; the former Syria Heights)は国連の監視下に入りました。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が築かれました。1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺されました。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げました。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望みました。9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧しました。1997年、 イスラエルはパレスチナのヘブロン (Hebron/chebhron)から撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止 を決議するに至りました。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪します。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見ました。1999年、PLOはパレスチナ独立宣言 (The Palestinian Declaration of Independence)を延期します。イスラエルはシリアと和平交渉に就きました。("Wikipedia"参照)

(266) 2000年にイスラエルはパレスチナ村の完全自治移行を決定しました。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂しました。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロン (Ariel Sharon, 1928-;p.2001-2006)はエルサレムの「神殿の丘」(the Temple Mound)を訪れ、パレスチナ人の感情を逆なでする行動をとりました。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり、中東和平はここに崩壊しました。2001年3月、イスラエル首相に右派シャロンが就き、シャロン政権が自爆テロを引き起こし国内を混乱させているPLOや武装勢力ハマースの幹部殺害をはじめました。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招きました。その結果パレスチナ側は自爆テロでエスカレートさせ、中東和平は一層難しいものとなりました。2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難しました。アラブ諸国との対立の激化が懸念されています。「アルジャジーラ」(Al Jazeera; 中東のCNN)などアラブのメディアは、この戦争を「第六次中東戦争」(?The Sixth Middle East War)と報じたといいます。("Wikipedia"参照)

(267) 現在のイスラエルは、国際的には非公認の首都エルサレム(71.9万人)を中心に繁栄しております。現大統領は第9代大統領シモン・ペレス (Shimon Peres, 1923-)で、首相は第12代エフード・オルメルト (Ehud Olmert, 1945-)です。面積20,770 sq. kmに7,026,000人 (2006年統計)が住んでおり、人口密度は388人/ sq. kmです。国民総所得1,180億ドル、一人当たり国民総所得17,360ドルながら、国防支出は97億ドル (一人当たり1,562ドル)で、兵員は16.8万人(陸軍12.5万人/海軍0.8万人/空軍3.5万人)です。日系見地法人数は7で、在留邦人数は総数650人です。(Date Book of the World 2007, vol.19)

[DVD 10: Days That Shook the World, Vol. 6, BBC 2002]

[DVD 11: The Great Days of the Century: Exodus - Birth Of Israel, Vision 7- Gaumont- ECPA 1987]




4.「東北」の歴史:「日本」に組み込まれる経緯

[4a. 「東北」という地域の意味:「東北」の形成]

(268) 「東北」:もともと、この地は中央(近畿地方)の勢力が行き届かず、野蛮な人々が住む地域という意味で「蝦夷地」と名付けられ、政治の中心が関東に移った近世からは「みちのく」(道の奥)または「奥州」と呼ばれていました。「東北」というのは、無論、京都からみた、この地の方向を示しています。陰陽道では、「北東」または「東北」という言葉は、不吉なものがいる方角を示します。ゆえに、奥州市水沢区に坂上田村麻呂が建設した鎮守府胆沢城の東北に八幡宮が建立され、また、京都の東北の方向には、邪悪なものが都に入って来ないように、比叡山延暦寺が建立されました。東北地方という呼称が定着したのは、明治以降であるようです。

(269) 難波信雄(東北学院大学文学部)によれば、現在、自明のように日本の歴史のはじめから使用されている「東北」という地域概念は、じつは明治維新の過程で生まれたきわめて新しいものであり、したがって、それ自体、近代日本の歴史過程によって成立し、確立していった歴史用語として理解されるべき概念なのだそうです。要するに「東北」とは「東夷北狄」を縮めたものだと言えます。これは中国東北部の広大な諸民族が暮らしている地域の呼称に倣ったものです。明治維新期の為政者には、「東北」を後進地ゆえに開化と殖産の最強の成果をあげうる指導的対象地とする観念が共通に存在していたと難波は論じます。[難波信雄、「日本近代史における『東北』の形成」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998]

(270)高橋富雄 (1921-; 東北大学名誉教授)は、東北の風土と歴史を次のように素描します:
  「東北地方。北緯36度47分から同41度37分まで。東経は139度25分から142度05分に及ぶ。総面積はおおよそ67,000平方キロメートル、人口はおおよそ1,000万。その全国比。面積にしておおよそ18%、人口において10%。 .....おそろしく南北に長い。 .....寒冷の国。 .....人口比の少ないこと。 .....寒くて広くて人が少ないこと ..... "東北的"ということの自然的規定性は、まず、そのようなところにあるのである。 .....歴史的に東北的なるもの、ということになれば、それを「みちのおく」と表現すること以上にぴったりなことばをわれわれは知らない。 .....そこは政治も及ばず、したがって国にもなりえない地帯である。 .....未開・野蛮の荒涼の世界 ..... そのためにそこの人たちは「蝦夷」と名づけられた。「あらぶる人たち」「まつろわぬ人たち」----そういうことだった。 .....東北ということ、みちのおくということの本質を、多少とも歴史学的に掘り下げてみるならば、それは「日本史上の辺境」という理解に落ちつくであろう。[高橋富雄『東北の風土と歴史』山川出版社、1976]

(271) 近年、「東北」の歴史の見直しがはじまっております。「中央」の視点からではなく、地元の視点から、あるいは「北日本」の視点から蝦夷やアイヌを再検証、再評価しようとしているのです。それも、本州の北端としての位置づけではなく、広く東アジア、環太平洋地域との関係の中で、「東北」の実像を把握しようとしております。[河西英通、『東北--つくられた異境』i-ii]

(272) 『季刊 東北学』(2004-,柏書房)を発刊している赤坂憲雄 (1953-; 東北芸術工科大学 東北文化研究センター所長)は、東北学を提唱し、確立した民族学者です。彼は、自らが創刊した『東北学』1/2巻 (作品社)において、「東北」を「ひとつの可能性の大地」として位置づけ、「ルネッサンスの拠点」として「東北」を展望しております。2004年より第2期季刊『東北学』(柏書房)の刊行が開始されています。[河西英通、『東北--つくられた異境』ii]

(273) 日本海側のいわゆる「裏日本」[これは蔑称です!]の地域から近代日本史像を再検討した古厩忠夫* (新潟大学人文学部)は、東北は「固有の歴史と文化体系を有する、別世界性をもった地域」であり、近代日本においても「別世界的アイデンティティ」は消え去らず、今や「新しい世界観・価値観の拠りどころ」「近代批判、経済合理性批判の拠りどころ」であると評価しています。[『裏日本―近代日本を問いなおす―』岩波新書、1997)[河西英通、『東北--つくられた異境』iii]
  *韓国のマスコミに「日本海」は不適切なので「緑海」という新呼称を提案したことで有名。韓国では、我々が「日本海」と呼んでいる海域は「東海」と呼ばれる。なお、2002年9月20日刊の『週刊 新潮』にて、その提案により古厩忠夫教授が脅迫を受けていたという記事が掲載された。なお、古厩教授は2003年2月に61歳で病没された。

(274) こうした学研的動向に呼応して、2007年12月現在、『津軽学』、『盛岡学』、『村山学』、『会津学』、『仙台学』の5誌が、それぞれの地域の編集社より刊行されています。さらに、「東北」各県に新潟県を入れた7県の八新聞社による「東北ラウンドテーブル」が1995年から開催され、2001年まで続きました。残念ながら、この企画は現在休止状態なようです。[河西英通、『東北--つくられた異境』ii-iv]

(275) 現在、「東北地方」を構成する青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の6県の合計面積63,983 平方キロメートルは、日本全土の約17%、北海道を除けば、その約22%、本州に限ればその約27%を占めます。
  北海道は、日本の総面積の約5分の1の面積を持つ最も広い都道府県(77,981.87平方キロメートル)で、東北6県+新潟県とほぼ同じ面積(日本全土の22%)を有します。北海道の平均人口密度は約70人/平方km (北方四島を除く)となっており、岩手県の89.97人/平方キロメートルより少なくなっている。なお、アイルランド島(the Irish Isle)は南北アイルランド合わせても、総面積70,282平方キロメートルで、北海道より少し小さいのです。イスラエルは27,800平方キロメートルです。岩手県の面積は15,274平方キロメートルで、秋田県の面積が11,612平方キロメートルで、2県の合計面積はイスラエルより少しだけ小さいくらいなのです。[河西英通、『東北--つくられた異境』iv-vi]

(276) 「東北」は広大な面積に比して、「東北五大祭り」、「東北弁」、「東北本線」など、一体的なイメージを保持しています。「中部を旅してきた」とか「西日本を旅してきた」とはあまり言いませんが、「東北を旅してきた」とは言えるのです。[河西英通、『東北--つくられた異境』vi]

(277) この広大さの感覚には、人口密度の低さも影響しています。2005年度国勢調査によれば、全国での人口順位/人口密度における「東北」各県は、第15位宮城県235万9991人(人口密度第20位323.24人/平方km)、第18位福島県209万1223人(人口密度第39位/150.93平方km)、第28位青森県143万6628人(人口密度第41位148.17人/平方km)、第30位岩手県138万5037人(人口密度第46位89.97人/平方km)、第42位山形県121万6116人(人口密度第20位129.51人/平方km)、第37位秋田県114万5471人(口密度第45位97.66人/平方km)でした。なお、1920年度国勢調査では、宮城県96万1768人、福島県136万2750人、青森県75万6454、岩手県84万5540人、山形県96万8925人、秋田県89万8537人でした。さらに過去においては東京からの時間的な距離(特に鉄道利用時)という問題もありました。依然として、東京駅から青森駅までと博多駅までの所用時間の差はほとんどないのです。そうした広大さにもかかわらず、「東北」は一体的な空間として把握され、歴史的世界の共通性が強調されてきました。[河西英通、『東北--つくられた異境』vi-vii]

(278) そうした広大さにもかかわらず、東北は一体的な空間として把握され、歴史世界の共通性が強調されてきました。戦後歴史学の中心的存在であった古代史家の石母田正(札幌生まれで石巻育ち: 1912-1986)の著書に『歴史と民族の発見』(正が1952年、続が1953年刊行)があります。戦後歴史学において、同書ほど時代と人々に影響をあたえた書はないと言われていますが、このなかで石母田はつぎのように東北の歴史を語っています:
  「東北は『もっとも古い型の封建制が支配する後進的な辺境』であり、縄文時代をのぞけば『歴史を通じて中央の文化の植民地』であった、『天皇制絶対主義による封建的東北の征服と支配がいかに苛酷なものであったにせよ〔中略〕維新以後、東北が封建的孤立を脱して、統一的な日本国民の形成という大きな進歩的な運動にまきこまれた」ことは高く評価すべきである、『東京方言が東北地方の方言を駆逐してゆく過程』もまた『歴史の発展の無慈悲さ』なのである。(続「言語の問題についての感想」)
  近年の研究成果からしても、明治維新による国民国家の形成という理解それ自体は残念ながら誤解であると言えません。問題はそうした理解の基底にある東北観、すなわち、「遅れた東北」という認識なのです。[河西英通、『東北--つくられた異境』vii-viii]

(279) では、「東北」という呼称はいつ頃から用いられたのでしょうか?近世では戦国争乱を通観した戸部一かん斎の『奥羽永慶軍記』や、河村瑞賢による東廻・西廻両航路事業を記した新井白石の『奥羽海運記』(別名『奥州海運記』)などに見られるように「奥羽」という呼称が一般的でした。史料上に「東北」が出てくるのは、1868年正月に秋田藩主佐竹義尭に下賜された内勅が最初であり、「東北」は東海・東山・北陸三道を指し、広く東日本一帯を意味する地域概念として用いられました。これを広義の「東北」とするならば、明治10年代(1877-1886)に近世以来の「奥羽」である陸奥・陸中・陸前・羽後・羽前・磐城・岩代の各地域(現在の青森・岩手・宮城・秋田・山形・福島の各県)で自己認識としての「東北」の呼称が積極的に用いられ、「奥羽」と「東北」は同意語になりました。「東北」は東日本一帯を指す概念から「奥羽」のみを指す概念に縮小したのです。つまり、狭義の「東北」です。明治20年代(1887-1896)にはいまだ現東北6県に対する一般的な呼称は「奥羽」でしたが、明治30年代(1897-1906)に入ると全国的に現東北6県が「東北」と呼ばれるようになります。つまり、当初は広域概念であった「東北」は「奥羽」にのみ適用される狭域概念に変化し、「奥羽」が20世紀初頭にあいつぐ大冷害・大凶作に直面することで、「東北」は国土の北東隅に位置する寒冷な後進地というイメージに転化したのです。[河西英通、『東北--つくられた異境』x-xii]

[4b. 蝦夷(アイヌ)の地「東北」への近畿王権の侵略:
アテルイと坂上田村麻呂]



(280) 蝦夷についての最も古い言及は、『日本書紀』にありますが、伝説の域を出ない記事が多いのです。アテルイの住んだ日高見国 (ひたかみのくに)* は、『日本書紀』に登場する、現在の東北地方(岩手県内の北上川流域)にあった蝦夷の国です。西暦97年(景行天皇27年)、武内宿禰が東国を巡視し、「東に日高見国がある。蝦夷が住んでおり、土地は肥沃で広大である。征服すべきである」と報告しました。日本武尊(たまとたける)が派遣され、平定されたとしています。北上川流域に比定されており、北上川という名前は「ヒタカミ」に由来するとしています。祝詞の一つである「大祓詞」の中では「大倭日高見国(おほやまとひたかみのくに)」が日本の別名として登場します。これについては神話学者の松村武雄が、「日高見」は「日の上」のことであり、天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼んだものだとする説を唱えています。その説によれば、神武東征によって大和国に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指すようになり、最後には北上川流域を指すようになったということになります。日本武尊以降、上毛野氏の複数の人物が蝦夷を征討したとされていますが、これは毛野氏が古くから蝦夷に対して影響力を持っていたことを示していると推定されています。例えば俘囚の多くが吉弥侯部氏を名乗っていますが、吉弥侯部、君子部、公子部は毛野氏の部民に多い姓です。
  *(旧国名の常陸国(ひたち)は、ひたかみのくにへの道(ひたかみみち)の転訛といわれる。) ("Wikipedia"参照)

(281) 「東北」の旧石器時代終末段階にあたる細石刃を主体とする石器群は、北海道との関連が深いことはよく知られております。縄文時代を通じて「東北」北部と北海道南部がしばしば同じ文化圏に属することはもはや周知の事実です。旧石器時代から縄文時代にいたるまで、「東北」地方は列島内の多様な地域性の一部を構成する地域であり、なかでも「東北」北部は縄文時代には豊かな食料資源を背景に、縄文文化を担う中心的な地域でした。現在も残る広大な森林、山地、豊富な推量を誇る川や海の幸によって「東北」北部の人々は豊かに暮らしておりました。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 15]

(282) 1981年の青森県田舎館村垂柳遺跡における水田の検出と本来九州地方のものであるはずの遠賀川(おんががわ)式系土器が東北各地から発見されたことは近年の考古学上の大きな発見でした。つまり、これら二つの発見は、「東北」に弥生時代(紀元前10世紀頃から紀元3世紀頃)前期のうちに稲作農耕に代表される弥生文化が伝えられたことを示しているのです。稲作農耕の受容後、弥生時代中期までは「東北」地方の稲作の広がりは順調でした。仙台平野や会津地方にも同時期に稲作が拡がっていたと思われます [辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 15-16]

(283) しかし、一方では、「東北」の弥生社会の歩みには、西日本の弥生社会と違う様相も多く見られます。広瀬和雄 (大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立歴史民俗博物館研究部教授)によれば、ト骨・銅鐸などに代表される稲作に関わる信仰、鉄器の鍛造、青銅器の鋳造技術、高床式倉庫、鏡、王墓、青銅製武器、環濠(かんごう)集落などです。これらの欠落した要素が意味することは、「東北」の弥生社会には列島外から直接の新来文化の受容がなく、稲作に関わる祭祀の根本を受容せずに、王墓の出現に象徴される階級分化と闘争が認められないということです。この時代の「東北」には、墓制からみるかぎり、有力な支配者層の出現あるいはその萌芽を見ることは困難です。西日本と異なり、米作りがそのまま富の占有や蓄積、階級分化の方向にはむかっていないようなのです。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 16-17]

(284) 「東北」の弥生時代後期の姿には不明な点が多いのです。この時代の土器には天王山式土器 (東北、とくに岩手に多く出土した、形状が縄文式土器に類似した土器)と関東北部系の十王台式土器(茨城県那珂川・久慈川流域及び県北の海沿いの地域を中心に分布する弥生時代後期の土器)に属するものがあります。総体的には、弥生後期の寒冷化に対応して食料生産における稲作農耕の比重が減少し、狩猟、漁業、採集の比重が増加したことが想定されます。「東北」の弥生社会は後期に大きく変質した可能性が高いのです。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 18]

(285) 1989年の調査で、会津盆地の亀ヶ森古墳(全長126mの大型前方後円墳;東北第二位)西側の3つの遺跡の発掘調査が行われ、明らかに3世紀後半に能登の文化が入ってきたことが判明しました。恐らく、能登から会津に人々の大移動があったものと推定されます。どの程度の規模かは現段階では判明しておりません。仙台地方などはあまり資料が発見されておりませんが、どうやらこの時期の「東北」南部では大きな変換を遂げたと考えられております。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 20-24]

(286) 同じ頃、3世紀後半には、「東北」北部でも変化が見られます。北海道では縄文文化に後続して、続縄文文化が展開しました。この狩猟と採集を生業とする続縄文文化の要素が「東北」北部に分布し始めるのです。このことは、秋田県寒風II遺跡 (米代川沿い寒風山)や青森県森ヶ沢 遺跡 (七戸町)で確認できます。多数の土坑墓が発掘されました。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 24-25]

(287) 「東北」北部社会では、いわゆる末期古墳が出現する時期(7世紀初頭)に大きな変革が起きております。この時期に、土師器*をともなう竪穴式住居跡で構成される集落が広く出現するのです。岩手県北上市猫谷地遺跡(和賀川北岸)は、代表的な末期古墳群のある古代の集落跡で、7世紀初頭の集落と考えられております。大型の竪穴式住居跡を中心として、周囲に中小の竪穴式住居跡が配置される集落跡で、東北南部の古墳時代(3世紀中葉から6/7世紀末)社会の集落と類似しております。「東北」北部社会は、7世紀を境として、狩猟・採集に多くを依存する社会から、稲作を基盤とする社会(「東北」北部社会後期)へと変貌したのです。とはいえ、それが「東北」南部の古墳時代社会と同化したわけではありません。その例は、墳墓群の違いで見ることができます。すなわち、「東北」北部社会で新たに建設される墳墓は一般に末期古墳、あるいは変形終末期古墳といわれるもので、仏教導入による火葬の普及の跡も築かれ続けた得意な古墳として、明治時代以降の研究者の興味をひいてきたのです。つまり、稲作を中心とした社会に移行した後も、西日本とは異質な部分(北海道の続縄文文化に関係の深い狩猟・採集に比重の大きな社会の風習)を多く残していた事実を反映しております。アイヌ語起源の地名の存在も同様です。それはさながら、アイルランドでケルト人がキリスト教を受容しながらドルイド教の要素を多く残し、かつ多くのケルト語起源の地名が欧州各地に散在するのに比較できます。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 28-34]
  *土師器(はじき)とは、弥生式土器の流れを汲み、古墳時代から奈良・平安時代まで生産され、中世・近世のかわらけに取って代わられるまで生産された素焼きの土器。埴輪も土師器である。

(288) 弥生時代後期の寒冷化した気候と、その後の全国的な動乱や北社会の動きへの対応の違いにより、古墳時代(3世紀中葉から6/7世紀末)以降、「東北」の北部と南部に異質な社会が共存しておりました。古墳時代に入っても、「東北」北部は北海道の続縄文時代の影響を受けておりましたが、稲作農耕を受容します。同じ「東北」でも、南部は畿内の大和朝廷の、あるいは律令国家の一員として、西日本の東端でしたが、北部は稲作こそ同じでも、畿内政権の支配の及ばない地域でした。当然、両者の関係は対立してきます。古代における「東北」には、西社会と北社会の境界があり、双方の社会の境界をめぐるさまざまな現象が時代状況の変化とともに継起する地域だったのです。古代において、「東北」が列島内の他の地域(大和朝廷の支配圏)と本質的に区別される指標はここにあるのです。もちろん、境界の内と外との関係は一定不変ではありませんでした。しかしながら、南部と北部の境界はおおよそ宮城県北部、仙台平野北端あたりであったと推定されます。そして、現在の仙台あたりが南部と北部『東北」の交易の中心地でした。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 35-38]

(289) 8世紀後半の、三十八年戦争(774-811)においては、「東北」南部社会も直接の当事者になりました。多賀城跡出土の木簡は、会津郡の兵士が多賀城に常番していたことや、白川軍団から多賀城へ射手が送られてきたことを伝えております。また、福島県新地町の武井地区製鉄遺跡群では7世紀後半が製鉄が開始され、9世紀初頭には盛期を迎えていたことを伝えています。同じ福島県の原町市金沢製鉄遺跡群など、福島県浜通り北部では8-9世紀には、製鉄、鍛冶、鋳鉄がさかんに行われました。8世紀後半の争乱時には、これらの生産は当然戦争への軍事物資の供給を主たる目的としたはずです。つまり、「東北」南部は、「東北」北部の阿弖流為(アテルイ)ら胆沢の蝦夷たちとの長引く戦いに人と物資を供給する地域と位置づけられたのです。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 38]

(290) 古代に成立した「東北」南部と北部の境界は、古代を通じて「東北」を北上し、中世のはじめには津軽海峡に達します。7世紀に始まり、8世紀に明確化する畿内政権による政治的野心と膨張は、その境界に緊張をもたらします。関東系住民の移住、畿内政権が蝦夷征伐と呼ぶ境界領域における戦乱により、その境界は北上します。これは、アジア社会でみれば、中国・朝鮮半島南部の農耕社会と北方社会との境界とも共通します。双方の社会がもつ矛盾が列島に現れた具体的な姿が古代「東北」世界の歴史的な動向でした。[辻秀人『列島における東北世界の成立」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 39]

(291) 「蝦夷地」(奈良・平安時代には北海道ではなく、東北地方のこと): 蝦夷(エミシ)という言葉は、英語ではバーバリアン(barbarian)とでも訳せるでしょう。この英単語はギリシャ語の語源(barbarous)を持ち、「ギリシャと言語習慣の異なるあらゆる外国人」を指しました。つまり、ギリシャ語を話せない者はすべてバーバリアン、即ち野蛮人でした。この呼称は極めて傲慢ではないでしょうか。蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、日本列島の東方、北方に住み、日本人によって異族視されていた人々に対する呼称です。時代によりその範囲が変化していることに注意してください。平安時代後期以降になると、蝦夷は「えみし」ではなく、「えぞ」と読むようになり、「東北人」ではなくアイヌ人を指すようになりました。

(292) 蝦夷という呼称は中世に「日本」の中心であった京都から見て、この地には「日本」とは明らかに異質な、かつその侵略を阻止しようとした文化が確かに存在していたことを示しています。蝦夷の「夷」の字は東方の異民族(東夷)に対する蔑称です。また、『続日本紀』文武天皇元年(697年)12月庚辰条には、越後国(後の出羽国を含む)に住む蝦夷を「蝦狄」(「えてき」)と称しています。これは、東夷と同じく北方の異民族(北狄)に対する蔑称に由来していると考えられています。古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下(中華思想における「天下」)に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指しました。統一した政治勢力をなさず、次第に日本により征服・吸収されました。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は日本人につながったと考えられています。 ("Wikipedia"参照)

(293) 蝦夷「えみし」とは朝廷側からの差別的呼称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はありません。蝦夷に統一アイデンティティーは無かったと解するか、日本との交渉の中で民族意識が形成されたのだと判断するのかは、研究者の間で意見が分かれています。しかし、既に文字文化を持っていた英国諸島のケルト人と異なり、文字文化を持たない民族集団(例えば、北米先住民族や高砂族)が統一したアイデンティティーを有することは困難であるため、時代とともに遺恨も薄まり日本人に混血化していった事実が、近年のDNA解析からも判明しています。関西、四国、九州にいま住んでいる人たちのDNA鑑定をすれば、蝦夷のあるいはアイヌのDNAがまったく入っていない「日本人」を探すのは容易ではない、とはアイヌ語研究で知られる金田一京助の意見です。蝦夷についての形式上最も古い言及は『日本書紀』にあり、神武天皇の東征軍を大和地方で迎え撃ったのが蝦夷であったとされます。しかし神武天皇の実在や東征の信憑性が低いため、これを蝦夷についての最古の記録と言うことはできません。『日本書紀』に従えばヤマト王権と敵対する東方の集団が蝦夷なのですが、『日本書紀』には7世紀から8世紀頃の歴史家(藤原氏)の歴史認識が反映された部分があるとみられており、古い時代の蝦夷の民族的性格と居住範囲については諸説あります。ただ、8世紀以降の蝦夷の訳語 (通訳)の存在や、「東北」北部におけるアイヌ語地名の濃密な残存などからみて、彼らの話す言葉がアイヌ語系の言語であったことはまずまちがいありません。 ("Wikipedia"参照)

(294) 古来より、「東北」には列島南北との交易が盛んに行われてきました。しかし、「東北」において、列島南部と列島北部との交流・接触は両地域の住民同士の自由な交流を中心としたものではありませんでした。交易の主体でいえば、北側がエミシ、エゾの族長クラスでしたが、南側が律令国家ないし国司、王臣家、欧州藤原氏、安東氏、松前藩というエミシ、エゾの支配者であり、交易の場所もエミシ、エゾの支配者の拠点かその出先機関の置かれた場所でした。交易品目でいえば、北からは毛皮、鮭、昆布など商品価値の高い水産物が中心で、南からは繊維製品、鉄器、陶磁器、漆器、食料品などの生活必需品でした。その結果、交易は南からの流入品がエミシ、エゾの生活形態・社会構造に大きな変化を引き起こしましたが、北からの流入品は「東北」ではあまり消費されず、支配者階級に莫大な利益をもたらしながら、彼らを介して他地方に流出してしまったので、「東北」の社会に及ぼした影響は大きくはなかったのです。もちろん、一般庶民も出来るだけ交易の恩恵にあずかろうとはしたのでしょうが、787年の「無知な百姓」による「国家の貨を売りて、彼の夷俘の者を買う」交易が明るみになり、国家レベルで民間経済交流を禁じていくのです。[熊谷公男『蝦夷論と東北論」『歴史のなかの東北:日本の東北・アジアの東北』(東北学院大学史学科編 河出書房新社、1998) 55-56]

(295) 7世紀頃には、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の「東北」地方と、北海道の大部分に広く住んでいたと推察されていますが、大化年間ころから国際環境の緊張を背景とした蝦夷開拓が図られ、大化3年(647年)の渟足柵設置を皮切りに現在の新潟県・宮城県以北に城柵が次々と建設されました。しかし、個別の衝突はあったものの蝦夷と朝廷との間には全面的な戦闘状態はありませんでした。陸奥国牡鹿郡の出身でありながら、中央官僚として正四位上に進み、国守を歴任した道嶋嶋足 (生年不詳-783)のように朝廷において出世する蝦夷(俘囚)もおり、総じて平和であったと推定されています。 ("Wikipedia"参照)

(296) 名高い阿倍 比羅夫(あべ の ひらふ、生没年不詳)は7世紀中期の日本の将軍です。越国守で、阿倍氏一族の内、引田臣と呼ばれる集団を率いていました。『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげたとあります。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指すのですが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明です。「粛慎」はオホーツク文化人とも取れ、沿海州にまで渡ったとも推測されます。翌年には再び蝦夷を討って、後方羊蹄(しりべし)に至り、郡領を任命して都に帰還しました。後方羊蹄は、北海道の羊蹄山のこととも津軽とも解釈されております。 阿倍 比羅夫は、662年、中大兄皇子(後の天智天皇)の命により百済救援の水軍の将として半島に向かいますが、663年、新羅と唐の連合軍に白村江の戦いで大敗しました。この敗北により百済再興の夢は潰えたのです。しかし阿倍 比羅夫は、敗戦の責任を問われることはなく、後に北九州の大宰府の長官に任命されました。ちなみに遣唐使で留学生として派遣された事で有名な阿倍仲麻呂の父である阿倍船守は、比羅夫の息子とも弟ともいわれており、事実なら比羅夫と仲麻呂は祖父と孫(あるいは伯父と甥)の関係ということになるようです。("Wikipedia"参照)

(297) 多賀城(たがじょう、たがのき)は、日本の律令時代に、陸奥国の国府(宮城県多賀城市)に設置された古代城柵です。奈良の畿内政権が、「蝦夷」と呼び異民族視していた東国住人を制圧する為、軍事的拠点として設置しました。創建は724年(神亀1年)大野東人が築城したとする説があります。国府と鎮守府が置かれ、政庁や寺院、食料を貯蔵するための蔵などが造営され*、城柵で囲み櫓で周囲を監視していたと考えられます。周辺環境として後背地に「加瀬沼」を配し、陸奥国内100社を合祀する「陸奥総社宮」を奉じました。陸奥国一ノ宮塩竈神社を精神的支柱として、千賀ノ浦(塩竈湊)を国府津としました。都人憧憬の地となり、歌枕が数多く存在します。陸奥国府にあたる施設は何度か移転をしていたと見られています。文献上の出現は『日本後紀』の839年(承和6年)の記事で、780年の伊治呰麻呂の乱で一時焼失した後に再建された事が書かれています。802年に坂上田村麻呂が蝦夷への討伐を行い、戦線の移動に伴って鎮守府も胆沢城(岩手県奥州市水沢区)へ移されて、兵站的機能に移ったと考えられます。中世の前九年の役や後三年の役においても軍事的拠点として機能し、1097年にも陸奥国府が焼失しています。南北朝時代には、後醍醐天皇の建武の新政において陸奥守に任じられた北畠顕家、父の北畠親房らが義良親王(後村上天皇)を奉じて「東北」へ赴き、多賀城を拠点に「東北」経営を行いました。
  (*近年では、曲水宴遺構が出土し、その編年の再検討も含めて注目されている。現在は特別史跡に指定され、政庁跡や城碑、復元された塀などが残されている。)

(298) 770年(宝亀元年)には蝦夷の首長が賊地に逃げ帰り、翌771年の渤海使が出羽野代(現在の秋田県能代市)に来着したとき野代が賊地であったことなどから、宝亀年代初期には奥羽北部の蝦夷が蜂起していたとうかがえるとする研究者もいますが、光仁天皇以降、蝦夷に対する敵視政策が始まります。774年(宝亀5年)には按察使大伴駿河麻呂が蝦狄征討を命じられ、811年(弘仁2年)まで特に「三十八年戦争」とも呼ばれる蝦夷征討の時代となるのです。("Wikipedia"参照)

(299) 宝亀の乱(ほうきのらん)は奈良時代に東北地方で蝦夷が起こした反乱です。首謀者の名から、伊治呰麻呂の乱(これはりのあざまろのらん)とも呼ばれます。
  伊治公呰麻呂(これはり[これはる]のきみあざまろ)は、陸奥国府に仕える夷俘の指導者で、上治郡(此治郡の誤記として「これはりぐん」、「これはるぐん」とする見解が有力)大領となり、蝦夷征討の功により宝亀9年6月25日 (旧暦)(778年7月24日)には外従五位下に叙されていました。『続日本紀』には、陸奥按察使紀広純は、はじめ呰麻呂を嫌ったのですが、後にはなはだ信用するようになったこと、しかし同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は呰麻呂を見下して夷俘として侮り、呰麻呂は内心深く恨んでいたことが記載されています。このことから乱の原因については一般に怨恨説が取られています。
  780年5月1日(旧暦; 宝亀11年3月22日)、紀広純が覚ナセ城建設を建議し伊治城を訪れた機会をとらえた呰麻呂は、俘囚の軍(俘軍)を動かして反乱を起こし、まず大盾を殺し、次に広純を多勢で囲んで殺害しました。陸奥介大伴真綱だけは囲みを開いて多賀城に護送されましたが、城下の住民が多賀城の中に入って城を守ろうとしたのに対し、真綱と掾の石川浄足はともに後門から隠れて逃げ、住民もやむなく散り散りになりました。数日後に俘囚軍は多賀城で略奪放火をして去ったといいます。当時多賀城の倉庫には 「兵器粮蓄、勝げて計うるべからず」(『続日本紀』)とあります。 残念ながら、正史の記録は以後の経過を記しておりません。多賀城の略奪についても、その指揮官は不明であり、征東大使藤原継縄の投入後も戦闘は拡大したと見られています。
  記録がないために戦闘の終了時期は不明ですが、9月には藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌天応元年(781年)には「征伐事畢入朝」と『続日本紀』に見えることから乱は終結に向かったと推察されています。しかし「遺衆猶多」と残党が多くいたことが記録されております。("Wikipedia"参照)

(300) 三十八年戦争(774-811)は、一般的には4期に分けられます。
    第1期
  桃生城に侵攻した蝦夷を征討するなど、鎮守将軍による局地戦が行われました。蝦夷の蜂起は日本海側にも及び、当時出羽国管轄であった志波村の蝦夷も反逆、胆沢地方が蝦夷の拠点として意識され始めました。後半は主に出羽において戦闘が継続しましたが、伊治呰麻呂らの協力もあり、778年(宝亀9年)までには反乱は一旦収束したと考えられています。
    第2期
  780年(宝亀11年)から781年(天応元年)まで。伊治呰麻呂の乱(宝亀の乱)とも呼ばれます。780年5月1日(宝亀11年3月22日)、呰麻呂は伊治城において紀広純らを殺害、俘囚軍は多賀城を襲撃し略奪放火をしました。正史の記録には以後の経過が記されていないのですが、出羽国雄勝平鹿2郡郡家の焼亡、由理柵の孤立、大室塞の奪取及び秋田城の一時放棄と関連づける見解もあります。藤原小黒麻呂が征東大使となり、翌781年(天応元年)には乱は一旦終結に向かったと推察されています。
    第3期
  789年(延暦8年)に、前年征東大使となった紀古佐美らによる大規模な蝦夷征討が開始されました。紀古佐美は5月末まで衣川に軍を留め進軍せずにいましたが、桓武天皇からの叱責を受けたため、蝦夷の拠点と目されていた胆沢に向けて約5万人の軍勢を発しました。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4,000名が川を渡って東岸を進みました。この主力軍は、「賊帥夷、阿弖流爲(アテルイ)居」(『続日本紀』)のあたりで前方に蝦夷軍約300名を確認して交戦し、当初は朝廷軍が優勢でした。この蝦夷軍を追って巣伏村に至り、そこで前軍と合流しようと考えたのですが、前軍は対岸の蝦夷軍に阻まれて渡河できませんでした。その時、蝦夷側に約800名の加勢が現れ反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400名が現れて後方を塞いだのです。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25名、矢にあたる者245名、川で溺死した者1,036名、裸身で泳ぎ来る者1,257名の損害を出し、紀古佐美の遠征は失敗に終わったといいます。5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、これほど鮮やかな例は日本古代史に類を見ません。これが現在の奥州市水沢区の北上川河畔でおこなわれた、名高い「巣伏の戦い」(すぶせ [すぶし]のたたかい)です。
  現在の京都市中京区の平安京に遷都が行われた794年(延暦13年)には、再度の征討軍として征夷大使大伴弟麻呂、征夷副使坂上田村麻呂による蝦夷征伐が行われました。この戦役については「征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『類聚国史』)と記録されていますが、他の史料がないため詳細は不明です。しかし、田村麻呂は四人の副使(副将軍)の一人にすぎないにもかかわらず唯一史料に残っているので、中心的な役割を果たしたようです。
  801年(延暦20年)には坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、夷賊(蝦夷)を討伏しました。このとき蝦夷の指導者アテルイは生存していたのですが、いったん帰京してから翌年、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻っていることから、優勢な戦況を背景に停戦したものと推察されます。『日本紀略』には、同年の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)が五百余人を率いて降伏したこと、田村麻呂が2人を助命し仲間を降伏させるよう提言したこと、群臣が反対しアテルイとモレが河内国で処刑されたことが記録されています。また、このとき閉伊村まで平定されたことが『日本後紀』に記されています。第3期の蝦夷征討は、803年(延暦22年)に志波城を築城したことで終了しました。
    第4期
  811年(弘仁2年)の文室綿麻呂による幣伊村征討が行われ、和賀郡、稗貫郡、斯波郡設置に至ります。爾薩体・幣伊2村を征したと『日本後紀』にあることから征討軍が本州北端に達したという説もあります。翌年には徳丹城が建造され、9世紀半ばまでは使用されていましたが、このとき建郡された3郡については後に放棄されています。
  以後、組織だった蝦夷征討は停止し、朝廷の支配下に入った夷俘、俘囚の反乱が記録されるのみとなりましたが、津軽や渡島の住民は依然蝦夷(えみし)と呼ばれました。("Wikipedia"参照)

(301) 三十八年戦争(774-811)のハイライトはなんと言っても、巣伏の戦い(すぶせ [すぶし]のたたかい)です。788年(延暦7年)、紀古佐美が征東将軍に任じられ、翌789年(延暦8年)、5万人の朝廷軍を率いて蝦夷征討へ赴きます。陸奥へ達した朝廷軍は、蝦夷側の首領阿弖利爲(アテルイ)の根拠地である胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていましたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こしました。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだのです。この主力軍は、阿弖流爲の居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦しました。当初は優勢で、朝廷軍は敵を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至りました。そこで前軍と合流しようと考えましたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できませんでした。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだのです。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出しました。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わりました。5月末か6月初めに起こったこの戦いは、寡兵をもって大兵を破ること著しいもので、鮮やかに決まった戦術は日本古代史に類例がありません。再度の征討軍として、大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍が編成されましたが、その交戦については詳細不明です。("Wikipedia"参照)


巣伏古戦場記念碑 (岩手県奥州市水沢区)


(302) 阿弖利爲(アテルイ, ?-802)は史料で2回現れます。1つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の報告で『続日本紀』です。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にあります。史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではありません。802年の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」(たものきみ)と呼びます。「大墓」は地名である可能性が高いのですが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まりません(一説に現在の岩手県奥州市水沢区田茂山[たもやま])。また、「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいますが、推測の域を出ないのです。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけです。征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として、伊佐西古、諸絞、八十島、乙代を挙げていますが、アテルイの名は言及されません。


アテルイ記念碑 (岩手県奥州市水沢区跡呂井)


(303) この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていました。 アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及されます。巣伏の戦いの敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わりました。その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細不明ですが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたようです。田村麻呂は、802年(延暦21年)に、胆沢の地に胆沢城を築きます。
  『日本紀略』は、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母禮(モレ)が五百余人を率いて降伏したことを記録しています。二人は田村麻呂に従って7月10日に平安京に入りました。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるようと提言しました。しかし、朝廷高官たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対し、処刑を決めてしまいます。アテルイとモレは、8月13日に河内国で処刑されました。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるのですが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しません。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したものであり、比定地とみなす説がありました(『大日本地名辞書』吉田東吾)が、発掘調査の結果、宇山にあったマウンドは古墳であったことが判明し、「植山」=宇山説はかなり信憑性がなくなりました。("Wikipedia"参照)


献花やお供えの絶えないアテルイとモレの首塚 (大阪府枚方市牧野公園)


[DVD 12: 『アテルイ aterui』(劇団☆新感線 2002)]

(304) 現在の岩手県奥州市水沢区の胆沢川と北上川の合流点付近にある胆沢城は、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に胆沢(現在の岩手県奥州市水沢区)に造った城柵です。後三年の役のあたりまで鎮守府として機能しました。今は跡地としてのみ残り、当時の様子をうかがうことは石碑などでしかできません。総面積はおよそ46万平方メートルで、外側から幅3-5メートルで深さ1-1.5メートルの堀、築地(ついじ)と呼ばれる高さ3.9メートルの土で固めた塀、築地塀の内側にまた堀、という外郭線を持ちました。その内部には、中央あたりに90メートル四方の政庁がありました。またこれも外壁があったようです。また、正門の外郭南門(がいかくなんもん)から北に伸び、政庁前門と政庁南門の2つの門がありました。
  文献上の初見は『日本紀略』にあり、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝えています。征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任しました。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4000人を胆沢城に配する勅が出されました。おそらくまだ建設中の4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者アテルイの降伏を報じたのです。


胆沢城政庁正殿復元図 (岩手県奥州市水沢区)


(305)   新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれました。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されています。しかしまもなく民への負担が重すぎ、また平安京周辺の整備などの事業で財政が圧迫されているとの箴言を受け、嵯峨天皇の勅命で征討は中止され、志波城はたびたびの水害により812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城**へと移転しました。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになりました。

(306) 志波城は、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢地方において蝦夷の首長アテルイを滅ぼした翌年の803年に城柵として北上川・雫石川合流地近くに造営されました。これにより、朝廷は北上川北部まで律令制の支配を及ぼすことが可能となりました。その後、雫石川氾濫による水害のため、南方(現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田)に徳丹城(とくたんじょう)が造営され、志波城は約10年でその役割を終えました。
  「徳丹城」は、もともとあった志波城(盛岡市)を、水害を理由に811年(弘仁2年)、文室綿麻呂の建議により南10kmに移転・造営したものです。しかし志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなります。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられています。("Wikipedia"参照)

(307) 9世紀初めに鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転しました。その正確な年は不明ですが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年と推定されます。『日本後紀』の808年(大同3年)7月4日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知られますが、それが志波か胆沢かまでは判然としません。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となりました。815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健児(こんでい)の健士(あるいは「選士」)300人、計700人が駐屯することになりました。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持しました。これ以前には他国から派遣された鎮兵500人が常駐していました。9世紀後半になると、その権威は形骸化していきました。("Wikipedia"参照)
(308) 高橋克彦の「東北」を舞台にした歴史小説に頻繁に登場する「俘囚(ふしゅう)」という用語は、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったものをいいます。このうち隷属の度合いが低いものを夷俘(いふ)といいます。日本の領土拡大によって俘囚となったもの、捕虜となって国内に移配されたものの二種の起源があります。移配された俘囚は、7世紀から9世紀まで断続的に続いた日本と蝦夷の戦争で、日本へ帰服した蝦夷男女が集団で強制移住させられたものです。移住先は九州までの全国におよびます。朝廷は国司に「俘囚専当」を兼任させ、俘囚の監督と教化・保護養育に当たらせました。
  俘囚は、定住先で生計が立てられるようになるまで、俘囚料という名目で国司から食糧を支給され、庸・調の税が免除されました。しかし実際に移配俘囚が定住先で自活することはなく、俘囚料の給付を受け続けました。俘囚は、一般の公民百姓らとは大きく異なる生活様式を有しており、狩猟および武芸訓練が俘囚生活の特徴でありました。俘囚と公民百姓の差異に対応するため、812年(弘仁3)、朝廷は国司に対し、俘囚の中から優れた者を夷俘長に専任し、俘囚社会における刑罰権を夷俘長に与える旨の命令を発出しています。9世紀、移配俘囚は国内の治安維持のための主要な軍事力として位置づけられていました。俘囚が有していた狩猟技術・武芸技術は、乗馬と騎射を中心とするものであり、俘囚の戦闘技術は当時登場しつつあった武士たちへ大きな影響を与えました。例えば俘囚が使用していた蕨手刀は、武士が使用することとなる毛抜形太刀へと発展しています。このように、俘囚の戦闘技術は揺籃期の武士へと継承されていったのです。しかし、813年頃の出雲国「荒橿の乱」、875年の「下総俘囚の乱」、883年の「上総俘囚の乱」などのように、俘囚による騒乱が次第に発生するようになりました。これらの原因は、俘囚らによる処遇改善要求であったと考えられていますが、こうした事態に頭を悩ませた朝廷は、897年(寛平9年)、移配俘囚を奥羽へ送還する政策を打ち出します。これにより全国へ移配されていた俘囚のほとんどは奥羽へ還住することとなりました。
  陸奥・出羽にとどまった俘囚は、同じ地域の朝廷派の人々と異なり、租税を免除されていたと考えられています。彼らは陸奥・出羽の国衙から食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいました。俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作ったものですが、俘囚たちは無税の条件を基盤に、前記の事実上の交易をも利用して、大きな力を得るようになります。これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながりました。しかし、奥州藤原氏の時代には、俘囚は文化的に他の日本人と大差ないものになっていたと考えられます。奥州藤原氏の滅亡後、鎌倉幕府は関東の武士を送り込んで陸奥・出羽を支配しました。俘囚の地位を特別視するようなことは次第になくなり、歴史に記されることもなくなりました。なお、海保嶺夫(1943- )は中世津軽地方の豪族安東氏を俘囚長と同様の存在としています。("Wikipedia"参照)

[4c. 前九年の役と後三年の役]


(309) 平安時代の西暦1069年から1074年までの延久年間に、陸奥守源頼俊が清原貞衡(清原真衡と同一人物との有力説がある)と共に兵を率い蝦夷を攻略したとされる延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん; 延久二年合戦、延久合戦とも言う)が起こります。後三条天皇は即位後、延久新政とも言われる政治改革を断行しました。後三条天皇は桓武天皇を意識し、大内裏の再建と征夷の完遂を政策として打ち立てます。これを請け、陸奥守源頼俊は1070年(延久2年)に軍を編成し、国府を発ち、北上しました。遠征途上、藤原基通が国司の印と国正倉の鍵を奪い逃走する事件が発生します。都に下野守源義家から、基通が印と鍵を持参して投降して来たので逮捕したとの報がはいります。朝廷は同年8月1日に頼俊を召還する宣旨を発しました。同年12月26日付けで頼俊から朝廷へ大戦果を挙げたとの弁明が届けられます。翌年5月5日、朝廷は頼俊に陸奥での謹慎を言い渡しました。戦後の論功として、清原貞衡は鎮守府将軍に任ぜられますが、源頼俊に対する行賞は何もありませんでした。("Wikipedia"参照)

(310) 延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん,1069-1074; 延久二年合戦、延久合戦とも言う)に対する評価は二分しています。一つは、頼俊の遠征はその主張のように大成功し、津軽半島と下北半島までの本州全土を朝廷の支配下に置いたとするものです。遠征軍の主力が清原氏によると見られることから、実質上の総大将は清原貞衡で、源頼俊の失脚はそれほど影響が無かったと思われます。これにより、桓武・嵯峨朝以来の大遠征で、支配下に入った地域で建郡が行われ、久慈郡、糠部郡などが置かれ、これ以降近代(江戸時代後期)に至るまで津軽海峡までが日本の北端(当時の感覚では東端)となりました。
  もうひとつは、合戦は総大将頼俊が遠征途中で失脚したため、事実上遠征は中止され、成果は中途半端に終わったことです。この説では冬季に行軍が困難であることや源頼俊の報告は自分の不祥事の穴埋めをするための誇大報告と判断されています。津軽半島、下北半島までが朝廷の支配化に入ったのは、その後の清原氏や奥州藤原氏によるものと見なされます。("Wikipedia"参照)

(311) 延久蝦夷合戦(えんきゅうえぞかっせん,1069-1074; 延久二年合戦、延久合戦とも言う)の影響は多大でした。1051年から1062年の前九年の役(奥州十二年合戦)で陸奥の安倍氏が滅亡し、出羽の清原氏が陸奥をも支配することになり、それと同時に、陸奥鎮守府と出羽秋田城に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化されるのです。この延久蝦夷合戦では朝廷軍の主力は清原軍であったとみられます。また出兵中に陸奥国印が盗難されるという不祥事もありました。この不祥事は頼俊が陸奥に勢力を植えつけることを恐れた源義家の陰謀によるとの説があります。結果として清原貞衡だけが軍功を認められて鎮守府将軍に叙せられ、奥羽における清原氏の勢力は益々盛んになりました。しかし、この合戦での軋轢や当主真衡への一族の不満などから、前九年の役当時には一枚岩であった清原氏内部には次第に不協和音が生まれ始め、最終的には後三年の役を招いたとの評価があります。
  なお、この合戦で「衣曾別嶋」まで遠征を行ったと源頼俊が報告しているのですが、この「衣曾別嶋」が蝦夷(北海道)であるという説と本州北部であるという説、頼俊が戦果を誇大報告したという説などがあるなど、この合戦については史料は少なく、まだまだ未詳な点が多くあり、まだ文科省検定教科書には登場していないのです。今後の研究の進展が期待されます。("Wikipedia"参照)

(312) 前九年の役(ぜんくねんのえき)は、平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした戦役です。この戦役は、源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までに要した年数から奥州十二年合戦と呼ばれていましたが、後に、「後三年の役(1083年-1087年)と合わせた名称」と誤解されるため、前九年の役と呼ばれるようになったものです。源頼義の嫡子義家が敗走する官軍を助け活躍した戦いとしても知られます。
  東北地方から北海道にかけて存在した蝦夷のうち朝廷に帰服した陸奥俘囚の長であった安倍氏は、陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築いて独立的な族長勢力を形成していましたが、安倍頼良が陸奥国司藤原登任と玉造郡鬼切部で対立し戦闘が始まりました。秋田城介平重成も国司軍に応援をしましたが、安倍軍を鎮圧できませんでした。朝廷は源氏の一族の源頼義を陸奥守として赴任させ、事態の収拾を図るのですが、1051年には朝廷は後冷泉天皇生母(藤原道長息女中宮藤原彰子)の病気祈願のために安倍氏に対しても恩赦を出しました。安倍頼良は頼義と同音を遠慮して名を頼時と改めるなど従順な態度をとり帰服します。源頼義方の武将である藤原経清、平永衡は安倍頼時の女婿となりました。
  1053年に鎮守府将軍となった源頼義は安倍氏に対して挑発を行い、1056年に安倍頼時の子である貞任(さだとう)が源頼義方の陣営を襲撃したとの容疑(阿久利川事件)をかけ、その引渡しを要求しましたが安倍頼時は応ぜず、兵を構え蜂起しました、直ちに源頼義は朝廷に対し安倍氏追討の宣旨を申請して戦端を開きます。このとき自軍配下の将平永衡(伊具十郎)を敵将安倍頼時の女婿であり、いつ裏切るかも知れないと、内応の嫌疑をかけて誅殺しました。同じ女婿という立場で将軍に従っていた藤原経清(亘理権大夫)は累が自分に及ぶと考え偽情報を発し、頼義軍が多賀城に急行している間に安倍軍に帰属しました。源頼義は一進一退の戦況打開のために、安倍氏挟撃策を講じ、配下の気仙郡司金為時を使者として、安倍富忠ら津軽の俘囚を調略し、味方に引き入れることに成功します。これに慌てた安倍頼時は、安倍富忠らを思いとどまらせようと自ら津軽に向かうのですが、安倍富忠の伏兵に攻撃を受け、深手を負い本営の衣川へ退却目前に鳥海柵にて横死してしまうのでした。頼義は1057年(天喜5年)9月朝廷に安倍頼時戦死を報告するも、論功行賞を受ける事が出来ませんでした。しかし、この機会に一気に安倍氏を滅ぼそうと1057年(天喜5年)11月、黄海(きのみ)で決戦を挑みますが、逆に頼時の遺児で跡を継いだ貞任らに大敗してしまいます。またこの時、長男義家を含むわずか七騎でからくも戦線を離脱する、という有様でした(黄海の戦い)。この敗戦で頼義の股肱の臣佐伯経範、藤原景季、和気致輔、紀為清らを失う打撃を受けました。頼義が自軍の勢力回復を待つ間、1059年(康平2年)ごろには安倍氏は衣川の南に勢力を伸ばし、朝廷の赤札の徴税符に対抗し藤原経清の白札で税金を徴するほどであり、その勢いは衰えませんでした。
  1062年(康平5年)春に至り、苦戦を強いられていた源頼義は中立を保っていた出羽国仙北(秋田県)の俘囚の豪族清原氏の族長清原光頼に奇珍の贈り物を続け、参戦を依頼しました。これを聞き入れた清原光頼が7月に弟清原武則を総大将とした大軍を派遣しました。陣は七陣であり、構成は、第一陣、武則の子である荒川太郎武貞率いる総大将軍; 第二陣、武則の甥で秋田郡男鹿(現男鹿市)(山本郡島、現大仙市強首との説もある)の豪族志万太郎橘貞頼率いる軍; 第三陣、武則の甥で娘婿である山本郡荒川(現大仙市協和)の豪族荒川太郎吉彦秀武率いる軍; 第四陣、貞頼の弟新方次郎橘頼貞率いる軍; 第五陣、将軍頼義率いる軍、陸奥官人率いる軍、総大将武則率いる軍; 第六陣、吉彦秀武の弟といわれる斑目四郎吉美候武忠率いる軍; 第七陣、雄勝郡貝沢(現羽後町)の豪族貝沢三郎清原武道率いる軍。以上1万人で、うち源頼義率いる朝廷軍は3千人でした。形勢は逆転し、緒戦の小松柵の戦いから頼義軍の優勢は続き安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落。貞任は深手で捕らえられ巨体を楯に乗せられて頼義の面前に引き出されましたが、彼は一瞥しただけで息を引き取り、藤原経清は苦痛を長引かせるため錆び刀で鋸引きで斬首されました。安倍氏は滅亡し同年9月17日に戦役は終結しました。
  1062年(康平5年)12月17日、源頼義は騒乱鎮定を上奏します。『陸奥話記』は数々の挿話を交えて本合戦の様子を記していますが、中央政権側の史料であるにもかかわらず、衆口の観点より謙虚に史実を書き、戦後処理の康平6年2月7日の叙目で頼義が意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予の守となったことを伝えています。源氏が真に奥州の覇者となるには、1189年 (文治5年9月)の源頼朝の奥州平定まで待たねばなりませんでした。
  前九年の役後、安倍貞任の弟安倍宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流され、このことは『平家物語』にも記述があります。清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となりました。藤原経清の妻であった安倍頼時の息女は敵の清原武貞の妻となり、藤原経清の遺児 (亘理権太郎後の藤原清衡; 奥州藤原氏の祖)共々清原氏に引き取られましたが、このことが、後の後三年の役の伏線となります。("Wikipedia"参照)

(313) 後三年の役(ごさんねんのえき、後三年合戦, 1083年-1087年)は、平安時代後期の陸奥・出羽(東北地方)を舞台とした戦役です。清原氏の当主清原武貞には、嫡子清原真衡がいましたが、清原武貞は前九年の役後、処刑された藤原経清の未亡人(安倍頼時の女)を妻とし、その連れ子(後の清衡)を養いました。その後、清原家衡が生まれました。清原武貞の死後、清原氏は清原真衡が嗣いだのですが、清原真衡には子がなかったため海道平氏(岩城氏)から養子を迎えます。これが清原成衡です。この成衡に源氏から嫁を迎えることとなり、その婚礼の際、陸奥の真衡の館に出羽から前九年の役の功労者で清原一族長老である吉彦秀武が大杯の砂金を持って祝いに駆けつけます。しかし、清原真衡は碁に夢中になっており、吉彦秀武を無視し、長い間待たされた吉彦秀武は普段より一族衆をないがしろにする清原真衡へ不満が爆発し、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまった。吉彦真衡はこれを聞いて直ちに吉彦秀武討伐の軍を起こしますが、吉彦秀武は同じく清原真衡と不仲であった清衡と家衡を誘い、二人に清原真衡の館を襲わせました。しかし、清原真衡の応援に陸奥守源義家が来ると知った二人は降伏し、残るは吉彦秀武だけとなった。ところが清原真衡は秀武討伐の途中で急死し、いったん戦役は終了しました。清原真衡と吉彦秀武の確執の原因は、清原真衡が、源氏や平氏のような武士団として、棟梁の権限を強めようとする当時の流れ[中央集権]に乗ろうとしたのに対し、吉彦秀武が、前九年の役の頃のように一族共同運営を理想とする考えを持っていたからだともいわれます。
  清原真衡の死後、陸奥守源義家が、清衡と家衡に奥六郡を3郡ずつ分与する裁定をしました(清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡。家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡との説が有力; 清衡の割り当てられた3郡の方が条件が良い)が、家衡はこの裁定を不満とし、清衡を攻撃しました。清衡の妻子一族はすべて殺されたのですが、清衡自身は生き残り、源義家の協力を得て家衡に反撃しました。沼の柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡がこれを退けると、原武貞の弟である清原武衡がこの報を聞いて家衡側に駆けつけ、家衡が義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移ることを勧めました。金沢柵に入った家衡・武衡軍と義家・清衡軍は再び戦闘を開始し、途中に「雁行の乱れ」、「鎌倉権五郎景正の奮戦」などのエピソードが生まれ、義家のもとに弟源義光が援軍に来るなどの動きがありましたが(後年、源平合戦の際、義家の玄孫に当たる源頼朝は、弟義経が援軍に来たときに、この故事になぞらえて喜んだ)、戦況は一進一退でした。そこで、義家方に加わっていた吉彦秀武は兵糧攻めを提案し(記録に残る日本最古の兵糧攻め)、これを実行したところ効果が次第に現れ、兵糧の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走しました。原武衡は近くの蛭藻沼(横手市杉沢)に潜んでいるところを捕らえられて斬首され、家衡は下人に身をやつして逃亡を図ったが討ち取られ、清原氏は滅亡しました。1087年(寛治元年)12月でした。 清原真衡の吉彦秀武討伐から清原氏の滅亡までが後世「後三年の役」と呼ばれるようになりました。("Wikipedia"参照)

(314) 朝廷は、後三年の役(ごさんねんのえき、後三年合戦, 1083年-1087年)を源義家の私戦と裁定し、これに対する勧賞はもとより戦費の支弁も拒否し、戦後処理もあまり行われないまま、陸奥守解任としました。更に源義家が役の間、決められた黄金などの貢納を行わず戦費に廻していた事や官物から兵糧を支給した事から、その間の官物未納が咎められ、なかなか受領功過定を通過出来ず、そのため新たな官職に就くことも出来ずに、10年後の1098年(承徳2年)に白河法皇の意向で受領功過定が下りるまでその未納を請求され続けました。後世では、このため源義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なくなりましたが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後の頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったといわれます。戦役後、清衡は清原氏の旧領すべてを治めることとなり、奥州の覇者となりました。清衡は、実父である藤原経清の姓藤原に復し、奥州藤原氏初代となりました。("Wikipedia"参照)

 

[4d. 奥州平泉の盛衰]

(315) 平安時代末期、一つの独立国家と言ってもよい平泉奥州藤原氏によって花開きます。現在もほぼそのままの形で残る中尊寺の金色堂に代表される華やかな黄金文化が栄えた平泉は、往時には人口4万(一説には10万)をこえる、当時の京都に次ぐ列島第2の大都市となりました。この平泉こそがマルコ・ポーロジパング黄金伝説のもとになったと主張する学者も多いようです。「東北学」の権威、赤坂憲雄も指摘するように、12世紀の平泉の勢力範囲は現在の「東北地方」の範囲と見事に重なります。すなわち、12世紀の平泉は、現在の「東北地方」の原型を築いたのです。

(316) この時代の平泉は、平安京の影響を受けつつも、独自に中国その他のアジア諸地域さらには黒竜江など現在のロシア領との交易を行い、「日本」とは異なる文化的多様性を保持しておりました。確かに藤原秀衡が建立した無量光院は宇治の平等院鳳凰堂をモデルにしていたのですが、中尊寺毛越寺などの大伽藍や金鶏山を含めた平泉全景は、戦いに疲れた初代藤原清衡が目指した「戦争のない極楽浄土」を強く意識したものでした。平安京には表面上恭順の姿勢を保ち、幾度となく黄金など他の「日本」のどの地域よりも豊富な貢ぎ物をしておりましたが、他方では中央政権の直接介入を拒み、「奥州藤原氏自治領」として大いなる発展をしていたのです。


無量光院復元図 (岩手県平泉町)


(317) 奥州藤原氏は、前九年の役・後三年の役後の1087年(寛治元年)から源頼朝に滅ぼされる1189年(文治5年)までの間、平泉を中心に陸奥・出羽に勢力を張った一族で、天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族です。奥州藤原氏の始祖である藤原頼遠は諸系図によると「太郎太夫下総国住人」であったと記され、陸奥国に移住した経緯はよく分かっていないのですが、父親の藤原正頼が従五位下であったことと比較し頼遠が無官であることから、平忠常の乱において忠常側についた頼遠が罪を得て陸奥国に左遷され、多賀国府の官人となったものと考えられます。ただしこの見解には、平忠常の乱では忠常の息子たちも罪を得ていないので、頼遠連座はあり得ないとの反論があります。頼遠の子藤原経清(亘理権大夫)に至り、亘理地方に荘園を経営し、勢力を伸張し陸奥奥六郡の司安倍頼時の女を娶り自己の勢力をひろげ安倍勢力圏の南方の固めとなっていました。〔1040年(長久元年)より国府の推挙により、数ヵ年修理太夫として在京し、陸奥守藤原登任の下向に同行し帰省したとの説がある。〕
  なお、奥州藤原氏が実際に藤原氏の係累であるかについて長年疑問符がつけられていましたが、近年の研究では、藤原経清について、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した「造興福寺記」(大部分焼失してしまった藤原氏の氏寺興福寺の再建の記録)に名前が見えており、同時期に陸奥国在住で後に権守となった藤原説貞と同格に扱われていることから、実際に藤原氏の一族であったかはともかく、少なくとも当時の藤原摂関家から一族の係累に連なる者と認められていたことは確認されています。確たる史料はないものの亘理郡の有力者で五位に叙せられ、陸奥の在庁官人として権守候補であった可能性は高いと見られています。また、そこから時代は下って藤原秀衡の時代に、西行法師が東大寺の塗金料勧進のため、奥州平泉に赴きますが、これも西行と秀衡が一族であるという理由も大きかったとされています。その帰り道、西行は、鎌倉で源頼朝の館に招かれ、平泉の様子をいろいろと頼朝が聞いたという記述が『吾妻鏡』にあります。("Wikipedia"参照)

(318) 藤原清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を欠かしませんでした。その為、朝廷は奥州藤原氏を信頼し、彼らの事実上の奥州支配を容認しました。その後、朝廷内部で、源氏と平氏の間で政争が起きたために奥州にかかわっている余裕が無かったと言う事情も有りましたが、それより大きいのは奥州藤原氏が当時の中央政府の地方支配原理にあわせた奥州支配を進めたことだと思われます。中央から来る国司を拒まず受け入れ、奥州第一の有力者としてそれに協力するという姿勢を崩さなかったことが中央政府からの介入がなかった理由だと思われます。そのため、奥州は朝廷における政争と無縁な地帯になり、奥州藤原氏は奥州十七万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に、源平合戦の最中も平穏の中で独自の政権と文化を確立する事になりました。また、基衡は白河院の近臣で陸奥守として下向してきた藤原基成(藤原北家道隆流大蔵卿藤原忠隆の子; 異母兄に平治の乱の首魁であった藤原信頼らがいる)と親交を結び、基成の娘を秀衡に嫁がせ、白河院へも影響を及ぼしました。その後下向する国司は殆どが基成の近親者で、基成と基衡が院へ強い運動を仕掛けたことが推測されます。
  なお、藤原基成の父の従兄弟に一条長成がいます。長成の妻は源義朝の愛妾であった常磐御前です。義朝と常磐の間の子源義経が奥州に来たのも一条長成から藤原基成に働きかけがあったものと推測されています。("Wikipedia"参照)

(319) 奥州藤原氏が築いた独自政権の仕組みは鎌倉幕府に影響を与えたとする見方もあります。奥州藤原氏初代清衡は陸奥押領司に、基衡は奥六郡押領司、出羽押領司に、秀衡は鎮守府将軍に、泰衡は出羽、陸奥押領司であり、押領司を世襲することで軍事指揮権を公的に行使することが認められ、それが奥州藤原氏の支配原理となっていました。また、奥州の摂関家荘園の管理も奥州藤原氏に任されていたようです。奥州藤原氏滅亡時、平泉には陸奥、出羽の省帳、田文などの行政文書の写しが多数あったということです。本来これらは国衙にあるもので、平泉が国衙に準ずる行政都市でもあったことがうかがえます。("Wikipedia"参照)

(320) 一方で出羽国に奥州合戦後も御家人として在地支配を許された豪族が多いことから、在地領主の家人化が進んだ陸奥国と押領司としての軍事指揮権に留まった出羽国の差を指摘する見解もあります。特に出羽北部には荘園が存在せず、公領制一色の世界であったため、どの程度まで奥州藤原氏の支配が及んだかは疑問であるとする説もあります。("Wikipedia"参照)

(321) 奥州藤原氏の政権の基盤は奥州各地で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、北宋や沿海州などとも独自の交易を行っていました。マルコ・ポーロ (Marco Polo)の『東方見聞録』に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏(後に安東氏)による十三湊大陸貿易によってもたらされたと考える研究者もいます。("Wikipedia"参照)


中尊寺金色堂 (岩手県平泉町)


(322) 平泉町は、東北地方の中央部、岩手県南部の西磐井郡にある、人口8,642人 (2007年11月1日現在)の小さな町ですが、平安時代末期に奥州藤原氏の根拠地となった中世の大都市であり、2011年にUNESCO世界遺産への登録が期待されています。奥州藤原氏の時代には、平泉の人口は10万-15万人と推定され、当時の日本(推定総人口1000万人)において、京都(16万-30万人)に次ぐ大都市として栄えました。現在でも、中尊寺や毛越寺などの遺跡から、当時の繁栄を偲ぶ事ができます。平泉は古来からの「東北」の玄関口である「白河の関」(福島県白河市)から古来から北方交易から中国・朝鮮半島との交易が盛んに行われた中世の貿易都市十三湊までの旧奥州街道のほぼ真ん中に位置します。また、石巻港へと続く北上川の海運を活用でき、岩手県南部の多かった金山へも便がよいことなどから、それまで江刺区岩谷堂(北上川沿いで25kmほど北上した位置)に居住していた初代藤原清衡の新拠点に選ばれたのだと推定されます。また、現在の「東北」の領域がすでにこの頃の奥州藤原氏の勢力範囲と一致していたことは特筆すべきことです。("Wikipedia"参照)

(323) 平泉は、衣川と磐井川に挟まれた比較的開けた丘陵地帯にあり、またすぐ東を北上川が流れているために、水運にも優れた地域でした。奈良時代から平安時代にかけて、ここの支配権をめぐって各勢力がしばしば激しく争いが起こりました。古代期から、平泉は軍事の要衝地帯として重要視されていました。8世紀には大和政権と蝦夷勢力の衝突が胆沢盆地を中心に行われ、そのもっとも大きなものである789年(延暦8年)の巣伏の戦いは紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為(アテルイ)の率いる蝦夷軍に大敗したものですが、平泉中心部から20kmほどしか離れておりません。その後、蝦夷勢力の衰退と802年(延暦21年)の胆沢城(現岩手県奥州市水沢区)の築城とともに大和政権の支配下に入るようになりました。("Wikipedia"参照)

(324) 間もなく近辺で黄金が産出されることが判明し、水運の拠点として平泉の重要性はいよいよ高まりました。平安時代後期には地元の豪族であった安倍氏が俘囚長として奥六郡を支配し、近辺では国司よりもはるかに強力な勢力を持つようになりますが、前九年の役で源頼義・義家親子に滅ぼされました。平泉はその際に源氏に味方した清原氏の支配下に置かれましたが、清原氏の内紛である後三年の役を経て勝ち残った清原清衡(藤原清衡)が前九年の役で安倍氏に味方して滅ぼされた実父の姓に復して藤原氏を名乗り、根拠地を江刺郡豊田館(奥州市)から磐井郡平泉(平泉町域)に移して居館を建設しました。そして以後、清衡から藤原泰衡の4代にわたっての奥州藤原氏の本拠地として栄華を極めます。("Wikipedia"参照)

(325) 1105年(長治2年)に奥州藤原氏初代清衡は、本拠地を奥州市江刺区岩谷堂の豊田館から平泉へと移し、天台宗の高僧、慈覚大師円仁によって850年(嘉祥3年)に開基された弘台寿院を復興、多くの堂塔伽藍が建立し、寺号を中尊寺と改めました。1117年(永久5年)に二代基衡が、毛越寺(もうつうじ)を再興しました。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われています。毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師雲慶に発注したところ、あまりにも見事なため、鳥羽上皇が横取りして自分が建立した寺院の本尊に使用せんとしたほどだったといいます。1124年(天治元年)に、清衡によって中尊寺金色堂が建立されました。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われます。
  奥州藤原氏は、清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となりました。戦乱の続く京を尻目に平泉は当時日本全体の90%の産出量を誇った黄金をもとに日本の他の地方、諸外国とも石巻/北上川の水運などを活用してめざましい発展を続けました。("Wikipedia"参照)

(326) さらに第3代当主・藤原秀衡は名馬や黄金を朝廷にたびたび献上して、その経緯から京都の文化を取り入れるまでに至りました。また、アイヌを通して大陸(沿海州)などとも交易をしていたことも知られています。中尊寺の金色堂は、世界各国から集められた様々な貴重な品を当時最高の技術で造営されたのです。仏教都市平泉には、度重なる戦乱を多くの犠牲を目の当たりにしながら生き抜いた初代藤原清衡の仏教によってこの世に戦乱のない「浄土」を造ろうとした思いが込められております。しかし、一方で、後の三方を山に、もう一方を海に囲まれた堅固な要塞都市鎌倉と比較すると、あまりにも無防備な都市でもありました。

(327) しかし、平泉の文字通り黄金時代を築いた三代秀衡没後、政治的影響力の落ちた四代泰衡は、鎌倉の源頼朝の執拗な催促と強迫に屈し、せっかく匿ったいた源義経を襲い自害に追い込み、軍事的統率力に欠いた平泉は、ついに1189年、頼朝率いる鎌倉軍の前に滅亡しました。


源義経最後の地と伝わる高舘義経堂から見た北上川 (岩手県平泉町)


(328) 清衡の四男藤原清綱(亘理権十郎)* は当初亘理郡中嶋舘に居城し、以後平泉へ移りその子の代には紫波郡日詰の樋爪(比爪)館に居を構え樋爪氏を名乗り太郎俊衡と称しています。奥州合戦では平泉陥落後、樋爪氏は居館に火を放ち地下に潜伏しましたが、当主樋爪俊衡らは陣ケ岡の頼朝の陣に出頭し降伏しました。頼朝の尋問に対して樋爪俊衡は法華経を一心に唱え、一言も発せず命を差し出したので、老齢のことでもありその態度を是とした頼朝は樋爪氏の所領を安堵しました。しかしながら、その後、樋爪氏は歴史の表舞台から消えてしまいます。その子や弟も、相模国他へ配流されました。藤原秀衡の四男高衡も投降後相模国に流罪となり、樋爪一族と行動をともにしました。これにより奥州藤原氏のすべてが処分されたことになります。一方、藤原経清(亘理権大夫)以来代々の所領地曰理郷(亘理郡)も清綱(亘理権十郎)の没落とともに頼朝の幕僚千葉胤盛の支配する所となりました。
  (藤原清綱の息女の乙和子姫は、信夫荘司佐藤基治に嫁し佐藤継信・佐藤忠信兄弟(源義経の臣)の母親として信夫郡大鳥城(福島市飯坂温泉付近・現在舘の山公園)に居城しました。これが、全国佐藤姓のみなもとのひとつとなりました。("Wikipedia"参照)

(329) その後、平泉は奥州総奉行として赴任した葛西氏の本拠となりましたが、鎌倉時代の平泉は産金量の低下や御家人の領地細分化などで次第に栄華を極めた都市としての力を失い、鎌倉時代末期には奥州藤原氏による華やかな建造物の大半が失われてしまい、都市としての力もなくなってしまいました。

(330) 約500年後に松尾芭蕉がこの地を訪ねたとき、「三代の栄耀は一睡の中」にあり、かつての平泉は田野になっていました(『奥の細道』)。平泉の栄えたのは、12世紀末までの約100年間でしたが、この時代こそが「東北」がもっとも輝いていたときであり、蝦夷時代の独自の文化を保っていた時代でした。「黄金」を採掘するには、多くの山人(やまびと)すなわち、山伏マタギ果てはこの地に落ち延びていた物部氏の子孫たちの協力が不可欠でした。残念ながら、彼らがどのように平泉に関わっていたのかは現存資料が乏しく、まだ明らかになっておりませんが、白山信仰との関係についてはある程度研究が進んでいるようです。

[DVD 13: 「NHK特集平泉」 2005]


[4e. 鎌倉時代から江戸時代の東北]


(331) 鎌倉時代には、安東氏が北「東北」で勢力を伸ばしました。安東氏は、安倍貞任第2子の高星丸を始祖とする系譜を伝え、津軽地方を中心に西は出羽国秋田郡から東は下北半島までを領した豪族です。その実際の家系については確かなことは分かっておりません。安東氏の後裔を名乗る旧子爵秋田家(江戸期の陸奥三春五万石領主)には、長髄彦の兄である安日の子孫という伝承が残っていますが、これは蝦夷の祖を安日に求めた室町期成立の『曽我物語』の影響を受けている可能性が高いため、信憑性は低いと考えられています。ただし、自らを蝦夷の子孫と伝承してきたことは確かであり、「朝敵」の子孫であるとする系図を伝えてきたことが、北奥地方に独特の系譜認識を示すものとされています。『保暦間記』によると、北条義時の頃、安藤五郎が東夷地の支配として置かれたとされ、『諏訪大明神絵詞』では安藤太が蝦夷管領となったとされています。これらの史料から安東氏は、鎌倉中期頃から陸奥に広範囲の所領を有した北条氏得宗家の被官(御内人)として蝦夷の統括者(蝦夷沙汰代官職)に任ぜられ、北条氏を通じて鎌倉幕府の支配下に組み込まれていったものと考えられています。室町時代に入ると、下国(しものくに)と上国(かみのくに)の二家に分かれ対立したと見られています。上国安東氏は出羽小鹿島や出羽湊(現秋田県秋田市)を領し、後に秋田郡を制して秋田城介を称しました。次第に、新興勢力の南部氏に押され、北部へと追いつめられていく下国安東氏の所領は稲作には必ずしも適さない土地に広がっており、その内陸部から得る利益は少ないものの、日本海に大きな交易網を形成することにより多大な経済的利益を得ることが可能な沿岸部の良港を押さえていたことから、海の豪族とする見方がされています。("Wikipedia"参照)

(332) 奥州管領(おうしゅうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代における幕府の地方官制です。守護に代わって設置されました。建武政権が創設した陸奥将軍府に対抗するために設置された奥州総大将が前身です。1345年(貞和6年)畠山国氏と吉良貞家が奥州管領に任命され、奥州総大将は廃止されました。当時幕府内は観応の擾乱前夜で、畠山国氏は尊氏・師直派で、吉良貞家は直義派でした。二人の共同統治で軍事と民政などの分掌は行われませんでした。軍事指揮権を主に職掌とした奥州総大将より職権が拡大し、寺社興行権の保障と棟別銭の賦課、庶務・検断・雑務沙汰の審理も行えるようになりました。また、軍事指揮権も奥羽の武士へ管領府への勤番を発動するなど強化されています。それに伴い、それまで有力武士に認めていた各郡での使節遵行権を管領府が徐々に行うようになりました。

(333) 1351年(観応2年)、前年足利尊氏派とその同母弟足利直義派の武力衝突で勃発した観応の擾乱が奥州まで飛火し、吉良貞家は畠山国氏が篭る岩切城を攻め、敗れた国氏とその父高国、弟直泰は自害しました。国氏の子国詮は二本松に移り、奥州管領として執務をしています。その子孫は土着し、二本松氏を称するようになります。畠山国氏の敗死により、尊氏派の諸氏は失脚しました。また、その混乱に付け込み、南朝の北畠顕信が国府を攻撃して奪取しました。吉良貞家は反撃して国府を奪回したのですが、文和2年(1353年)に死亡します。子の吉良満家が奥州管領職を世襲しました。そこに先の奥州総大将石塔義房の子義憲(義元)が奥州管領を自称し、活動を開始しました。また、斯波家兼も奥州管領に任命されて下向します。これにより、同時に奥州管領を称する吉良満家、畠山国詮、石塔義憲、斯波家兼の4人が並立することとなりました。さらに吉良満家の弟、吉良治家を討つために石橋棟義も下向し、血みどろの抗争を繰り広げることになります。その抗争の中、次第に斯波家兼が優位に立ち、その他の4氏は逼塞していきました。この騒乱の結果、各管領は各地の有力武士の支持を取り付けるため、郡地頭に検断権や使節遵行権を認めました。これにより各有力武士は各郡に強力な支配権を持つことになり、「分郡」と呼ばれる支配領域を持つようになります。そして奥州では国人の力が非常に強くなり、戦国大名へと発展していくのです。逆に奥州管領はその権限を再吸収できないうちに1392年(明徳3年)廃止され、奥羽は鎌倉府の管国に編入されました。("Wikipedia"参照)

(334) 南北朝時代には斯波氏と戸沢氏が現在の岩手県岩手郡雫石町で覇権を争います。その際、北畠顕信 (きたばたけ あきのぶ、?-1380?)が御所を置いたことが語源となり、現在の盛岡市御所地区(御所湖周辺)があります。北畠 顕信は、南北朝時代の武将で、北畠親房の次男、長兄に北畠顕家、弟に北畠顕能。母は春日局(江戸時代の春日局とは別人)といわれます。左近衛少将に任ぜられ、春日少将と称しました。1336年(延元元年/建武3年)に伊勢において挙兵し、後醍醐天皇の遷幸を援助、1338年(延元3年/暦応元年)兄の死後、代わって鎮守府将軍として陸奥国に赴こうとしましたが、途中で暴風にあって吉野に戻ります。翌年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の功略を試みます。一時占領するのですが、結局武家方の反撃を受けて失敗しました。霊山城を拠点に活動します。1347年(正平2年/貞和3年)霊山城が落城すると、宇津峰城に移りますが、これ以後は消息が曖昧です。吉野に帰還して右大臣を務めたとも九州に下向し、懐良親王を補佐したとも言われます。("Wikipedia"参照)

(335) 奥州探題(おうしゅうたんだい)とは、室町時代から戦国時代における幕府の地方官制です。守護に代わって設置されました。この時代の奥州とは一般的には陸奥(青森、岩手、宮城、福島)を指しました。出羽(秋田、山形)は羽州と呼ぶのが一般的で、現東北地方である両国をまとめて指す場合は奥羽と呼ぶのが常でした。奥州探題は、奥州総大将、奥州管領などが前身です。1392年(明徳3年)、3代将軍足利義満は鎌倉公方足利氏満と和解し、陸奥、出羽両国が鎌倉府の管国に加えられ、奥州管領職は廃止されました。陸奥、出羽の国人も鎌倉府への伺候を義務付けられます。1399年 (応永6年)、鎌倉公方足利満兼は満貞、満直の二人の弟を稲村御所、笹川御所として下向させました。しかし、この頃から将軍と鎌倉公方の関係はかなり悪化しており、幕府は関東や奥州で鎌倉府時代と対立している有力国人を京都扶持衆として直臣化して鎌倉公方に対抗しました。また、1400年 (応永7年)には大崎詮持を奥州探題に任命したといいます。以降大崎氏が世襲します。("Wikipedia"参照)

(336) しかし、もともと奥州では有力国人が各郡の軍勢催促、軍忠状証判・注進、使節遵行など守護並みに強い権限持っている上に、南半は鎌倉府の分身である笹川・稲村御所に押さえられ、内にも伊達氏や葦名氏などは京都扶持衆として幕府と直接結びつき、強力な支配は事実上不可能でした。それらの有力国人は、自己が支配する各郡を領国化し、次第に戦国大名化します。それに対抗するために大崎氏も自己の直接支配領域を領国化し、一有力国人へと零落していきました。

(337) 1514年(大永11年)、伊達稙宗が陸奥国守護職に任ぜられます。これにより、大崎氏が世襲する奥州探題制は事実上終焉します。その後伊達氏は大崎氏を圧倒して支配下に置くようになります。1555年(弘治元年)には稙宗の子・伊達晴宗が奥州探題に任じられて以後は伊達氏の世襲となり、室町幕府滅亡後に当主となった伊達政宗(晴宗の孫)も奥州探題を自称しました。1590年(天正18年)、政宗は豊臣政権に臣従して奥州探題の称号を返上し、一方臣従を表明しなかった大崎氏は豊臣秀吉によって攻め滅ぼされました(奥州仕置)。これによって奥州探題制は名実ともに終焉しました。("Wikipedia"参照)

(338) また、斯波家兼の子斯波兼頼は延文年間(1356-60)に出羽国按察使として出羽に下向したということです。後に羽州探題と呼ばれ、子孫は最上氏と称しました。

(339) 奥州仕置(おうしゅうしおき)とは、1590年(天正18年)7月から8月にかけて行なわれた豊臣秀吉による東北地方に対する仕置のことです。 秀吉は下野の宇都宮国綱、常陸の佐竹義重とともに小田原征伐を行い、1590年 (天正18年) 7月11日、小田原城は開城し、北条氏政・北条氏照兄弟が切腹、北条氏直ら北条一門の多くが高野山に配流となりました。これにより後北条氏は滅亡しました。秀吉は7月17日、国綱や参陣した伊達政宗とともに宇都宮城に向かい、7月26日、宇都宮城に入場しここで奥州大名に対する仕置を行いました(宇都宮仕置)。この翌日には陸奥北部の南部信直に対して陸奥北部7郡の所領を安堵しました。8月1日には佐竹義重に対して常陸54万石の所領を安堵しています。この仕置で政宗から召し上げた会津を与えられた蒲生氏郷を筆頭とする奥州仕置軍は、政宗の案内により8月6日に白河に到着、その後抵抗した葛西氏を退けながら8月9日には会津黒川(現在の会津若松)に入り、秀吉の天下平定の総仕上げが完了しました。
  
  奥州仕置の内容は次の通り:
  改易→大崎義隆、葛西晴信、和賀忠親、田村宗顕、石川昭光,白河義親ら。(理由は小田原征伐において参陣しなかったため)。
  減封→伊達政宗。(前年に摺上原の戦いで蘆名盛重を破って、奥州に150万石近い大領国を築いていましたが、その経緯が秀吉が出した惣無事令に違反していたこと、政宗自身が小田原征伐に遅参したことなどから、会津3郡を没収され、陸奥南部の13郡、およそ60万石に減封されました。)
  所領安堵→最上義光、秋田実季、津軽為信、南部信直、戸沢盛安ら(小田原征伐に参陣したため。またはかねてから秀吉と親交があったため。ただし、南部信直の津軽為信を謀反人とする訴えは却下)。
  新大名の誕生→蒲生氏郷(豊臣氏の家臣。会津黒川42万石を与えられる)。木村吉清(登米城を中心とした30万石を与えられる。元は明智光秀家臣だったのですが、光秀没後に豊臣氏の家臣となっていました)。("Wikipedia"参照)

(340) 奥州仕置のハイライトは、なんといっても「九戸政実の乱」(1591年1月)です。陸奥九戸城主九戸 政実(1536-1591)は、現在の岩手県二戸市二戸市福岡城ノ内の九戸城(乱平定後に「福岡城」と改称)を本拠とする南部氏の重臣であり、九戸氏はもともと南部氏の一族です。九戸政実は武将としての器量に優れており、九戸氏は政実の代に勢力を大幅に広げ、南部氏宗家に匹敵する勢力を築きました。その立場は南部氏宗家から自立した大名ではなく、三戸南部氏の家臣であったと一般には認識されていますが、中央の室町幕府の認識では九戸氏はあくまでも独立した大名であり、南部氏と共同歩調を取っている勢力として九戸氏を見ていました。事実1563年に足利義輝が室町幕府諸役人の名前を書き出た資料の中にも南部晴政と並んで九戸政実が記入されていたのです。1569年、南部晴政の要請により、安東愛季が侵略した鹿角郡の奪取などに協力し、その勢力を拡大しています。そして斯波氏の侵攻に際しても石川高信の支援を行い、講和に貢献しました。
  1582年、南部晴政が病死すると南部氏は晴政の養子・信直と実子・晴継の後継者を巡る激しい家督争いが始まります。晴政の跡は、実子の晴継が継いだのですが、父の葬儀の終了後、三戸城に帰城する際に暗殺されてしまいます(病死説有り)。急遽南部一族や重臣が一堂に会し大評定が行われました。後継者としては、南部晴政の養嗣子でもあった南部信直と、一族で最有力勢力の九戸政実の弟で、南部晴政の娘婿である九戸実親が候補に挙げられました。評定では九戸実親を推す空気が強かったのですが、北信愛が事前に八戸政栄を調略し、結局は南部信直が後継者に決定します。政実としては、恩有る南部宗家を晴継暗殺の容疑者である南部信直が継いだことに大きな不満を抱き、自領へと帰還します。
  1586年には信直に対して政実自身が南部家の当主であると公然と自称するようになります。 このような政実の姿勢は1590年の豊臣秀吉の「奥州仕置」後も変化はなく、ついには1591年1月、南部氏の正月参賀を拒絶し、同年3月に5千人の兵力をもって挙兵しました。もともと南部家の精鋭であった九戸勢は強く、更に南部信直は、家中の争いでは勝利しても恩賞はないと考える家臣の日和見もあり苦戦します。そしてとうとう自力での九戸政実討伐を諦め、豊臣秀吉に使者を送り、九戸討伐を要請するに至ります。 秀吉の命令に従い豊臣秀次を総大将とし蒲生氏郷や浅野長政、石田三成を主力とする九戸討伐軍が奥州への進軍を開始し、出羽国から小野寺義道・戸沢政盛・秋田実季、さらに津軽からは大浦為信が参陣し、九戸討伐軍の兵力は6万人を上回ります。同年9月1日、九戸討伐軍は九戸氏所領への攻撃を開始します。怒涛の勢いで迫る討伐軍は翌9月2日に九戸政実・実親の籠る九戸城も包囲攻撃を開始。善戦した九戸政実でしたが、勝てないと悟り抗戦を諦めると、4日に出家姿で九戸討伐軍に降伏しました。豊臣秀次の陣へと引き出された九戸政実・実親兄弟らは死を覚悟しており、斬首されました。そして女子供を含む九戸一族もことごとく斬殺され、九戸氏は滅亡したのでした。ここに日本の戦国時代は終わりを遂げたのでした。("Wikipedia"及び高橋克彦『天を衝く』参照)


九戸城復元図 (岩手県二戸市)


(341) 奥州仕置の余波として、1590(天正18)年11月に葛西大崎一揆(かさいおおさきいっき)が起こりました。豊臣秀吉の奥州仕置により領地を失った、葛西氏・大崎氏らの旧臣による反乱です。葛西氏・大崎氏は陸奥国の中部(宮城県北部-岩手県南部)に勢力を持った豪族でした。両氏は、1590(天正18)年の豊臣秀吉による奥州仕置の結果、小田原に参陣しなかった事を理由に、領地を没収されたのです。
  1590(天正18)年10月、新領主として木村吉清・清久親子が来ました。木村清久は名生城(大崎市古川大崎)、木村吉清は登米寺池城(登米市登米町)に拠点を置きます。しかし、木村親子の統治が機能する前に、葛西氏・大崎氏らの旧臣が蜂起しました。木村親子はそれぞれの居城を放棄し、1590(天正18)年11月24日佐沼城(登米市迫町佐沼)に立てこもります。揆勢は46,000人、佐沼城内の木村勢はわずか200人あまりであったといいます。白河に滞陣していた浅野長政はこの知らせを得て、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じました。蒲生氏郷は3,000-6,000の軍勢を率いて会津を出発。伊達政宗は10,000-15,000の軍勢を率いて米沢を出発します。氏郷と政宗は黒川(大和町)に置かれた政宗の陣において会談し、地勢や一揆側の城について情報確認を行いました。蒲生氏郷は北進して中新田城(加美町中新田)を落とし、翌日は高清水城(栗原市高清水)を攻略すると政宗に通知しました。政宗は氏郷に使いを送り、陣中に不都合があり翌日の戦は延期してほしいと求めましたが、氏郷は単独で高清水攻略は可能と判断して北進しました。しかし、中新田と高清水の間には旧大崎氏の拠点である名生城があり、氏郷らの軍勢は奇襲を受けました。氏郷は名生城を占領したものの疑心暗鬼の状態となり、城に立てこもることになりました。名生城に立てこもる蒲生氏郷の陣を、伊達政宗の臣の須田伯耆が密かに訪ねました。その後曾根四郎助が「政宗が一揆に与えた密書」を持参し、この一揆の背後に政宗の扇動が有ること、一揆と政宗が内通していることを暴露しました。政宗の軍勢が撃っている鉄砲が空鉄砲であるとの知らせもありました。伊達政宗は蒲生氏郷が動かないため、単独で行動することになりました。一揆勢は攻め落とされるか自散し、政宗は木村親子を救出し、蒲生氏郷の居る名生城へ送り届けました。蒲生氏郷は名生城にて年を越しました。
  この葛西大崎一揆は、伊達政宗本人による陰謀であったという説が有力です。これは政宗の重臣伊達成実が遺した日記「伊達成実日記(通称:亘理日記)」の中に、この一揆に関する後年の憶書として、葛西大崎一揆に関する記述があり、その記述の中で「一揆達は騙された」「騙して、一揆参加者達を皆殺にした」と暗に政宗の陰謀だったと匂わせる記述があるからです。また、『佐久間軍記』には政宗が氏郷を酒席に招き暗殺を図ったのですが失敗したという話が記されています。大崎氏、葛西氏両氏は当時(政宗の小田原参陣時)、戦国大名としての体はほぼ成しておらず、伊達氏の与騎(半属国化)状態であり、独自に兵を小田原に派遣できる状態ではなく、また余目文書にも「奥州の仕置きは太閤殿下から、政宗が一任されている」と当時の政宗が一地域の有力大名から南奥州全域の旗頭として振舞っていた事が見てとれる記述があります。これらを総合して、小田原仕置きで領土の大半を削られた政宗が、失地回復の手段としてこれらの旧領に対して煽動工作をかけ新領主を追落とす工作を、新領主の中で一番暗愚とされた木村親子を第一の標的として行ったのではないかという説なのです。
  豊臣秀吉は、葛西大崎一揆の知らせを受けて、石田三成を派遣しました。天正19(1591)年1月10日三成は相馬に到着、蒲生氏郷、木村吉清らと合流し引き上げました。豊臣秀吉は伊達政宗に上洛して弁明するよう求めました。伊達政宗は上洛し、政宗が一揆を扇動し内通した証拠となっている「政宗が一揆に与えた密書」についてクビにした元祐筆が勝手に書いた物と断じ、本物の自分の書状は、鶺鴒(せきれい)の花押の目の部分に針で穴を開けていると主張しました。豊臣秀吉はこの主張を認めて、政宗を形式的には無罪としましたが、政宗に一揆が起きた旧葛西・大崎領の十二郡を与えて国替とし、政宗の旧領六郡は没収して蒲生氏郷に与えました。形式的には政宗の領土は加増されたのですが、彼の面目はつぶされた形となりました。なお、一揆関係者は「恩賞を与える」とおびき出された所を、政宗の軍勢により殺害されたとの説があります。1591(天正19)年9月23日旧葛西・大崎領の検地を行っていた徳川家康は岩手沢城を改修して政宗に引き渡し、政宗は岩出山城(大崎市岩出山)と改名して1601(慶長6)年仙台に移るまでの間居城としました。 ("Wikipedia"参照)

(342) 奥州仕置により、豊臣秀吉の天下統一は遂に完成しました。しかし、この仕置は後に悪影響を与えました。例えば、秀吉が新たに大名とした木村吉清は支配体制の強化を進める過程で、後に改易された葛西氏・大崎氏の旧臣が中心となって起こした葛西大崎一揆の一因を成したのです。さらに、大幅に所領を減らされ、その上一揆後は転封された伊達政宗は、秀吉と、秀吉の臣として伊達政宗を詰問した石田三成に対して大いに不満を抱くこととなり、後に起こった関ヶ原の戦いで豊臣氏(西軍)から離反し、東軍につかせる一因を成したと言えるのです。

(343) 伊達政宗は独自に南蛮貿易の道を模索しておりました。家臣支倉常長(1571-1622)は正宗の命により、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられました。常長は山口常成の子で支倉時正の養子となりました。幼名は与市・六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコです。時正に実子が生まれたため家禄1200石を二分し、600石取りとなりました。文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍しました。また大崎・葛西一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されています。1609年(慶長14年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行がヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破しました。地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船を贈りヌエバ・エスパーニャへ送還しました。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まりました。
  そして伊達政宗の命を受け、支倉常長はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れローマに赴くことになりました。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で1613年10月28日(慶長18年9月15日)に月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ太平洋岸のアカプルコへ向かいました。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡りエスパーニャ経由でローマに至りました。1615年1月30日(慶長20年1月2日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に、同11月3日(元和元年9月12日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見しますが通商交渉は成功せず元和6年8月24日(1620年9月20日)、常長は帰国しました。("Wikipedia"参照)

(344) 伊達政宗の期待のもと出国した支倉常長でしたが、出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化しました。常長の帰国後の扱いを危ぶむ内容の政宗直筆の手紙が残されています。常長の帰国時には日本ではすでに禁教令が出されており、彼は失意のうちに亡くなりました。1640年(寛永17年)に、常長の息子常頼が、自分の召使がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され、支倉家は断絶してしまいます。しかしながら、1668年(寛文8年)、常頼の子の常信の代にて赦され、支倉家の家名を再興することが出来ました。(仙台藩においては主命により引き起こされた事態であるため、やむを得ないことと仕儀であるとの同情論が大勢を占めておりました。) ("Wikipedia"参照)

(345) 後藤 寿庵 (1577? - 1638?)は安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタン領主でした。葛西氏の旧臣であった陸中磐井郡藤沢城主岩淵秀信の三男又五郎として生まれましたが、のちに伊達政宗の家臣に仕えました。天正年間(1573-1591)、豊臣秀吉による奥州仕置により、主家葛西氏と共に岩渕家は滅びました。 1596年(慶長初年)、岩渕又五郎は長崎に住みキリシタンとなりますが、迫害によって五島列島宇久島に逃れ、ここで洗礼を受け、寿庵と名乗り五島氏に改名します。 1611年(慶長16年)、京都の商人田中勝介と知り合い、その推薦によって、支倉常長を通じて伊達政宗に仕えはじめました。1612年(慶長17年)、後藤信康の義弟として、見分村(岩手県奥州市)1200石を給されることになりました。寿庵は原野だった見分村を開墾しようと、宣教師やキリシタン仲間から習得した優れた西洋式土木技術で大規模な用水路を造りました。これが「寿庵堰」であり、現在もその跡が残ります。大坂冬の陣・夏の陣では、伊達政宗の配下として鉄砲隊の隊長を務めました。 寿庵は熱心なキリシタン領主であり、領地を「福原」と名付け、天主堂・マリア堂などを建てました。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒がその地に訪れ、福原は東北におけるキリスト教布教の拠点になりました。 1621年(元和7年)、奥羽信徒17名の筆頭として署名し、前年のローマ教皇パウルス5世 (Paulus V, 1552-1621; r.1605-1621)の教書への返事を送りました。 ところが、徳川家光の代になってキリスト教の禁止が厳しくなり、伊達政宗も取り締まりを命ぜられます。政宗は、有能な家臣である寿庵を惜しみ、布教をしない・宣教師を近づけないことを条件に信仰を許そうとしました。しかし寿庵はこの条件を拒み、比較的禁制の緩かった隣国の南部藩領に逃亡したと伝えられます。 1923年(大正3年)、治水の功により従五位が贈られました。1931年(昭和6年)には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年9月11日に寿庵祭が行なわれています。 1951年(昭和26年)、宮城県登米市で後藤寿庵の墓が発見されました。("Wikipedia"参照)


後藤寿庵廟堂 (岩手県奥州市水沢区福原)



寿庵の墓 (宮城県登米市東和町)


(346) 大籠キリシタンの壮絶な殉教はヨハネ・パウロ2世のお言葉を賜ったことでも知られております。江戸時代、大籠の一帯は仙台藩の領内であり、たたら製鉄を行う地として栄えていました。たたら製鉄を行う製鉄所は「炯屋(どうや)」と呼ばれており、この炯屋を経営していた千葉土佐が、製鉄の技術指導のために備中国(現在の岡山県)から千松大八郎・小八郎という兄弟を大籠に招きました。この千松大八郎・小八郎兄弟がキリシタンであり、この地で布教を始めました。また、フランシスコ・バラヤス神父がこの地を訪れ布教にあたり、大籠のキリシタンはさらに増加しました。しかし、キリシタンの迫害はこの地にも迫り、キリシタン改めを行う台転場がもうけられ、そこで踏み絵などが行われました。キリシタンであることが判明すると、打ち首や磔などにより処刑されたのです。1639年(寛永16年)から数年間で300人以上の信者が処刑されたと言われています。 ("Wikipedia"参照)


隠れキリシタン礼拝のための大柄沢洞窟(使用期間推定1621年-1639年) (岩手県一関市藤沢町大籠)


(347) 江戸時代の「東北」の有力な大名としては、上越市から会津若松、更に米沢に移った上杉氏 (表石高15万石)、徳川二代将軍秀忠の四男 保科正之を家祖とする会津松平氏 (表石高23万石)、米沢から仙台へ移った伊達氏 (表石高62万石)、秋田の佐竹氏 (表石高20万石)、盛岡の南部氏(表石高10万石後20万石に再申請)などがあります。(清和源氏系斯波氏*の流れを汲む山形の名門最上氏 [伊達政宗の伯父最上義光のときに最高石高57万石]はお家騒動で後に改易されたもののその家名を惜しまれ、近江で五千石の旗本となりました。) ("Wikipedia"参照)
  (*斯波氏は、13世紀前半、本来足利宗家となるはずだったが母親が北条名越家出身だったことで廃嫡されて分家した足利家氏が陸奥の斯波郡(現在の岩手県紫波郡紫波町)を領したことから彼の子孫が斯波氏を称したことに由来する。家氏の家系はとりわけ足利氏はおろか清和源氏にとってゆかりが深い(前九年の役以来の古戦場)斯波郡一帯に勢力を持った。家氏の家系は尾張守に任じたことから、尾張家、尾張足利家ともいったが、所領の斯波郡にちなみ斯波氏を称するようになった。)

(348) 江戸時代になると、日本の中心地が京から江戸に東遷して地政学が変化します。奥州街道の整備によって陸上交通は江戸へ向いた形に再編され、奥州街道につながる街道が集約する南東北の太平洋側(宮城県、福島県中通りなど)が、陸上交通の経済において優勢になりました。参勤交代によって江戸に人口が集中して大消費地となると、関東のみの生産力では食料や日用品が賄えなくなり、江戸への物流ルートとして東回り航路(太平洋沿岸ルート)が開かれました。この航路は、親潮域の三陸海岸から太平洋岸を南下し、銚子から利根川水系(利根運河)に入って江戸に到るもので、寄港地はそれまで漁港レベルだったものから港町へと大いに発展しました。特に、1626年の北上川改修完成以降は、北上川河口の石巻に北上盆地からも川船で米が集まるようになり、石巻は太平洋側の重要拠点港となりました。奥州街道と東回り航路によって、東北地方内陸部は江戸の貨幣経済圏に組み込まれました。 ("Wikipedia"参照)

(349) 仙台に拠点を移した伊達氏は、江戸に最も近い外様の大大名として幕府との間に緊張関係が続きましたが、仙台藩は、62万石 (実質100万石以上)の藩内経済、藩校である養賢堂の開設による智の集積、出版業などの産業の奨励によって、城下町仙台は日本で十指に入る大都市となりました。

(350) 江戸初期には各藩が新田開発を行い、余剰米が発生するようになったため、それらを各藩は江戸や大阪の蔵屋敷に送って商売を行うようになりました。他方、米中心の経済体制から離れて、特産物(国内市場向け)の創出、つまり「商品」開発を中心とした経済改革を行った上杉鷹山の米沢藩 (15万石)、長崎俵物(国際市場向け)の産地であった仙台藩や盛岡藩 (10-20万石)なども現れ、経済が広域化しました。

(351) 町人文化が花開く元禄時代に松尾芭蕉 (1644-1694)が著した紀行本『奥の細道』(原文の題名は「おくのほそ道」)は1702年 (元禄15年)刊です。日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、松尾芭蕉の著書の中でも最も有名な作品です。作品中には多数の俳句が読み込まれています。芭蕉が弟子の河合曾良を伴って、新暦1689年5月16日(旧暦 元禄2年3月27日)に江戸深川の採荼庵を出発し(「行く春や/ 鳥啼魚の/目は泪」)、全行程約600里(2400キロメートル)、日数約150日間(約半年)中に東北・北陸を巡って1691年(元禄4年)に江戸に帰りました。『奥の細道』では、旧暦8月21日頃大垣に到着するまでが書かれています(「蛤の/ふたみにわかれ/ 行秋ぞ」)。以下、代表的な東北の風景を詠んだ句を幾つか並べます。
  
  [白河の関 4月20日] 福島県白河市
  「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」
  
  [松島5月9日] 歌枕松島(宮城県宮城郡松島町)芭蕉は「いづれの人か筆をふるひ詞(ことば)を尽くさむ」とここでは句を残しませんでした。あの有名な「松島や/ ああ松島や/ 松島や」という句は芭蕉のものではないでしょう。
  
  [平泉 5月13日] 藤原三代の跡を尋ねて:
  「三代の栄耀一睡のうちにして、大門の跡は一里こなたにあり」
  「国破れて山河あり/ 城春にして草青みたり」という杜甫の詩「春望」を踏まえて詠んだものです。
  「夏草や/ 兵(つはもの)どもが/ 夢のあと」
  「五月雨の/ 降り残してや/ 光堂」
  
  [山形領 立石寺 5月27日] 立石寺(山形市山寺)にて。
  「閑さや/ 岩にしみ入/ 蝉の声」
  
  [新庄 5月29日] 最上川の河港大石田での発句を改めたものです。
  「五月雨を/ あつめて早し/ 最上川」
  
  [象潟 きさがた:秋田県にかほ市象潟町)6月16日] 松島と並ぶ風光明媚な歌枕として名高いものでした。象潟を芭蕉は「俤(おもかげ)松島に通ひて、また異なり。松島は笑ふが如く、象潟は憾む(うらむ)が如し。寂しさに悲しみを加へて、地勢 魂を悩ますに似たり」と形容しました。
  「象潟や/ 雨に西施(せいし)*が/ ねぶの花 」
    (*西施[西子; 本名は施夷光で紀元前5世紀頃の女性]は中国春秋時代末期の美女の名です。) ("Wikipedia"参照)

(352) 「菅江真澄遊覧記」で有名な菅江真澄(すがえ ますみ; 1754-1829)は、江戸時代後期の旅行家、博物学者です。生まれは、三河国渥美郡吉田付近と伝えられます。本名は白井秀雄、幼名は英二といいました。1783年故郷を出奔以来、信州、東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねます。旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残しています。1811年以後、秋田藩の久保田城下に住み、以後藩主の佐竹氏とも親交を持ち、秋田藩の地誌の作成に携わり、その後は藩内から外に出ることはなかったといいます。彼の記録は、今日で言う文化人類学者のフィールドノート(野帳)のようなものですが、特にそれに付された彼の写実的で、学術的な記録としての価値も高いスケッチ画が注目に値します。彩色が施されているものもあります。彼は、専門の本草学を基にして、多少の漢方の心得もあったといいます。著述は約200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されています。この名前で、東洋文庫に収録され、2000年以降、平凡社ライブラリーから5巻本として刊行されています。 ("Wikipedia"参照)

(353) 安藤昌益(1703-1762)は、江戸時代中期の医者・思想家。秋田藩出身で、確龍堂良中という号を持っておりました。陸奥国八戸で開業医となりましたが、宝暦の頃、出羽国大館に帰郷しました。安藤は、身分・階級差別を否定して、全ての者が労働に携わるべきであると主張しました。江戸幕府が奨励した朱子学を否定し、徹底した平等思想を唱えたのです。 特に著書『自然真営道』の内容は、共産主義や農本主義、エコロジーに通じる考えとされていますが、無政府主義(アナキズム)の思想にも関連性があるという、間口の広さが見受けられます。またこの書の中で安藤は日本の権力が封建体制を維持し民衆を搾取するために儒教を利用してきたとみなし、孔子と儒教を徹底的に批判しました。発見者・狩野亨吉をして「狂人の書」と言わしめ、レーニン (Vladimir Lenin, 1870-1924)をもうならせたといいます。後に在日カナダ大使であるハーバート・ノーマン (Edgerton Herbert Norman, 1909-1957)の手により、Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism (1949)(『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』大窪 愿二 訳 岩波新書 上下巻 1950)が記されることで周知の人物となりました。("Wikipedia"参照)

(354) 東北地方、特に太平洋側では、やませによる冷夏が度々起きて農産物の収穫が下がる年が発生しましたが、それを契機に大阪で米の先物が高騰したり現物取引での買占めが起きました。その際、藩内に農産物を留めて困窮した庶民に配給すれば食糧難は回避されるのに、大阪での米投機に便乗して米を大阪に運んだため、食糧難が加速して飢饉となりました。特に天保の大飢饉と天明の大飢饉が「東北」に大打撃を与えました。("Wikipedia"参照)

(355) 江戸時代後期の天明年間の地球的な気象変動などにより起こった天明の大飢饉(1782年-1788年 (天明2年-天明8年))は江戸四大飢饉*の1つで、日本の近世史上では最大の飢饉であり、10万人以上の餓死者、疫病者を出し、多くが無宿者となり江戸へ流入しました。東北地方は、1770年代より天候不良や冷害により農作物の収穫が激減しており、既に農村部を中心に疲弊していた状況にあったのです。こうした中、1783年(天明3年)3月12日には岩木山が、更に7月6日には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせました。火山噴火は直接的な被害ばかりではなく、日射量低下による冷害傾向が顕著となり農作物に壊滅的な被害が生じ、翌年度から深刻な飢饉状態となりました。当時は、田沼意次時代で重商主義政策が取られており、米価の上昇に歯止めが掛からず、結果的に飢饉は全国規模に拡大しました。被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定で約2万人)が餓死したと、杉田玄白の著書『後見草』が伝えておりますが、諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にしないようにしていたため実数は1ケタ多いと推定されております。弘前藩の例を取れば、8万人とも13万人とも伝えられる死者を出しており、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況となりました。飢餓と共に疫病も流行し、最終的な死者数は全国的で30万人とも50万人とも推定されています。農村部から逃げ出した農民は、各都市部へ流入し、治安の悪化が進行しました。1787年(天明7年)5月、江戸・大阪で米屋の打ち壊し事件が起こり、その後全国各地へ打ち壊しが広がったのです。
  1783年、浅間山に先立ちアイスランドのラキ火山 (Laki)が噴火 (The Laki Eruption)がありました。この噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスが放出され、成層圏まで上昇した霧は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ低温化・冷害を生起し、フランス革命の遠因となったと言われております。影響は日本にも及び、東北地方で天明の大飢饉を引き起こしたのです。 ("Wikipedia"参照)
  [*江戸四大飢饉とは次の4つを指します: 1. 1642年 (寛永19年)-1643年 (寛永20年) 寛永の大飢饉 ; 2. 1732年 (享保17年) 享保の大飢饉; 3. 1782年 (天明2年)-1787年 (天明7年) 天明の大飢饉 ; 4. 1833年 (天保4年)-1839年 (天保10年) 天保の大飢饉]

(356) 天保の大飢饉は、江戸時代後期の天保4年(1833年)に始まり、35年から37年にかけて最大規模化した飢饉です。1839年 (天保10年)まで続きました。1836年 (天保7年)までと定義する説もあります。寛永・享保・天明に続く江戸四大飢饉の一つで、寛永の飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つでもあります。東日本では陸奥国・出羽国の被害が最も大きく、その主な原因は洪水や冷害でした。各地で餓死者を多数出し、徳川幕府は救済のため、江戸では市中21ヶ所に御救小屋 (5800人収容)を設置したのですが、救済者は70万人を越えました。米価急騰も引き起こしたので、各地で百姓一揆や打ちこわしが多発したのです。1837年2月に大阪で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなりました。また、田原藩 (現 愛知県東部渥美半島)では、家老の渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想を基にした「凶荒心得書」を著して藩主に提出し、役人の綱紀粛正と倹約、民衆の救済を最優先とすべき事を説いて実行して成果をあげました。 ("Wikipedia"参照)

(357) その中で、米沢藩第9代藩主上杉鷹山 (上杉治憲, 1751-1822)などは藩財政の改革を行って飢饉に抗しました。新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱 (たけまた まさつな, 1719-1793)や財政に明るい莅戸善政(のぞきよしまさ)を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行いました。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していましたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めました。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせました。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済したのです。鷹山の有名な「生せは生る/ 成さねは生らぬ/ 何事も/ 生らぬは人の/ 生さぬ生けり」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられました。
  英文で発表された内村鑑三のRepresentative Men of Japan (『代表的日本人』1908)により、欧米でも上杉鷹山の名前はよく知られるところとなり、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディ (John F. Kennedy, 1917-1963; p.1961-1963)や第42代ビル・クリントン (William Jefferson "Bill" Clinton, 1946-; p.1993-2001) が、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げています。ケネディが鷹山について発言した際には、日本人記者から「Yozanとは誰か」と質問が出たほどで、現在の鷹山の知名度の高さには、ケネディのエピソードが背景にあるのです。また、2007年に讀賣新聞が日本の自治体首長に対して行ったアンケートでも理想のリーダーとして上杉鷹山が1位に挙げられています。 ("Wikipedia"参照)

(358) 江戸時代は鎖国をしており、唯一の海外への窓口であった長崎ははるか彼方でしたが、北方には国境線が明確ではありませんでしたので、「東北」の知識人たちは早くから海外に、ことにロシアに目が向いておりました。その代表的な人が仙台藩医 工藤平助 (1734-1801)です。若き日の林子平に影響を与えた人物で、「球卿」と号しました。工藤は『解体新書』を訳出した前野良沢と親交がありました。良沢の弟子である大槻玄沢(仙台支藩一関藩出身)が学業半ばで国元に帰らなければなくなったとき、工藤平助の口利きによって再び江戸へ出ることができたといいます。鎖国化の日本において、入ってくる帝政ロシアの情報をまとめ『赤蝦夷風説考』を著しました。「赤蝦夷」とは当時日本側が使っていたロシアの通称です。ロシアの南下を警告し、開港交易と蝦夷地経営を説きました。また、林子平の『海国兵談』の序文を書いたことでも知られます。("Wikipedia"参照)

(359) 林 子平(1738-1793)は、江戸時代後期の経世論家です。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人と呼ばれました。名は友直。のちに六無齋主人と号しました。江戸生まれの江戸育ちですが、姉が仙台藩主の側室に上がった縁で兄とともに仙台藩の禄を受けます。 仙台藩で教育や経済政策を進言するも聞き入れられず、禄を返上して藩医であった兄の部屋住みとなり、全国を行脚しました。長崎や江戸で学び、大槻玄沢、宇田川玄随(げんすい)、桂川甫周(ほしゅう)、工藤平助らと交友します。ロシアの脅威を説き、『三国通覧図説』(1786)、『海国兵談』(1787-1891)などの著作を著す。また『富国策』では藩の家老、佐藤伊賀にあていかにして藩財政を立て直すかを説いたといいます。残念ながら採用はされませんでしたが、もしこれを仙台藩が採用されれば江戸時代末期の「東北の悲劇」は大分変わったものになったであろうと言われております。
  『三国通覧図説』(さんごくつうらんずせつ)は、林子平により書かれた江戸時代の地理書・経世書です。日本に隣接する三国、朝鮮・琉球・蝦夷と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書物とその地図5枚(「三国通覧輿地路程全図」)からなります。1786年(天明6年)の刊ですが、「三国通覧輿地路程全図」の地図の正確性は乏しく、特に本州・四国・九州以外の測量の難しい地域はかなり杜撰に描かれています (現在、欧米の本屋では1832年初版の仏訳が何冊か流通しておりますが、その杜撰な地図付きだと15万円以上が相場です)。日本地図のみでは当時既に長久保赤水による経緯度線が入ったかなり正確な地図『改正日本輿地路程全図』が普及しており、三国通覧輿地路程全図は地図の正確性より近隣の国などについて知ることに重点が置かれています。残念ながら、松平定信の寛政の改革により、発禁になりました。同じ林子平の著書『海国兵談』が軍備の必要性を説いた本であったため、松平定信に疎まれ、発禁・版木没収の処分となりましたが、その巻き添えとなり、『三国通覧図説』も発禁になったのです。しかし、この『三国通覧図説』は、その後桂川甫周によって長崎よりオランダ、ドイツへと渡り、ロシアでヨーロッパ各国語版に翻訳されました。そのフランス語版は、ペリー提督との小笠原諸島領有における日米交渉において同地の日本国領有権保持を示す確たる証拠として効力を発揮しました。現在では竹島や尖閣諸島の領有権において、韓国や中国から自国の領土である証拠として取り上げられていますが、実際にはこの図説に表記されている「竹島」は「鬱陵島」を示しているとされます。
  『海国兵談』( 1787-1891)は、江戸時代中期に林子平によって書かれた全16巻・3分冊の海防の必要性を説く軍事書・政論書です。ロシアの南下に危機感を抱いた林が海防の充実を唱えるために書いたものですが、勢い江戸幕府批判となることから出版におうじる書店もありませんでした。このため、1787年(天明7年)に自ら版木を作成して第1巻を刊行し、1791年(寛政3年)に全巻刊行を終えたのです。日本の地理的特徴を海国(=島国)として捉え、外国勢力を撃退するには強力な海軍の充実と全国的な砲台の備えが無ければ不可能であると説いています。特に政治の中枢である江戸が海上を経由して直接攻撃を受ける可能性を指摘して、場合によっては江戸湾の入口に信頼のおける有力諸侯を配置すべきであると論じています。また、強力な海軍を有するためには幕府権力と経済力の強化の必要性も併せて唱えています。概論に留まった部分もあるものの、19世紀に入ると実際に江戸湾海防強化政策が幕府によって採用されているなど、幕末海防論の起点となった事は確かです。ペリー来航以来、多くの幕府高官に読まれました。
  老中松平定信の寛政の改革がはじまると、完成した『海国兵談』は、政治への口出しを嫌う幕府に危険書として目を付けられ、『三国通覧図説』も幕府から睨まれ、双方共に発禁処分を下される事になったばかりか、「海国兵談』に至っては版木没収の処分を受けることになりました。しかしその後も自ら書写本を作り、それがさらに書写本を生むなどして、後につたえられました。最終的に、仙台の兄の下へと強制的に帰郷させられた上に禁固刑(蟄居)に処され、そのまま死去したのです。蟄居中、その心境を「親も無し/ 妻無し子無し版木無し/ 金も無けれど死にたくも無し」と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号しました。("Wikipedia"参照)

(360) 大槻 玄沢(1757-1827)は、一関藩(田村藩)出身の江戸時代後期の蘭学者です。名は茂質(しげかた)、磐水と号しました。『解体新書』の翻訳で有名な、杉田玄白・前野良沢の弟子で、「玄沢」とは、師である二人から一文字ずつもらってつけた通り名です。同じ郷里の医師、建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示しました。後に、建部清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の私塾・天真楼に学びます。1788年(天明8年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立しました。後年には、師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、『重訂解体新書』を記しています。江戸に、私塾・芝蘭堂をひらき、多くの人材育成に当たりました。玄沢の弟子としては、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と呼ばれました。また、毎年芝蘭堂で「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いており、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待されました。玄沢以後、大槻氏からは優秀な学者が多く輩出し、「西の頼家、東の大槻家」(頼家は頼山陽で有名)ともいわれました。玄沢の息子に漢学者の大槻磐渓、孫に国語学者の大槻文彦がおり、郷里の一関では、この3人を「大槻三賢人」と称します(JR一関駅前に胸像あり)。養賢堂学頭の大槻平泉も同じ一族の出身です。彼もまた、対ロシア政策など、北方警備に心を砕いた一人で、仙台藩の依頼でロシア船で送り返された同藩の漂流民に事情聴取した際の記録『環海異聞』なども残されています。("Wikipedia"参照)

(361) 最上徳内(1754-1836)は、出羽国楯岡村(現在の山形県村山市楯岡)の農家の子ですが、江戸時代中後期の特に蝦夷地の探検家で、工藤平助や林子平が夢見た蝦夷地を幕府役人として調査しました。当時、幕府ではロシアの北方進出や、蝦夷地交易などを目的に老中の田沼意次らが蝦夷地(北海道)開発を企画し、北方探索が行われていました。85年には徳内の師の本多利明が蝦夷地調査団の東蝦夷地検分隊への随行を許されますが、利明は病のため徳内を代役に推薦し、山口鉄五郎隊に人夫として属します。蝦夷地では青島俊蔵らとともに釧路から厚岸、根室まで探索、地理やアイヌの生活や風俗などを調査しました。千島、樺太あたりまで探検、アイヌに案内されてクナシリ(国後島)へも渡りました。徳内は蝦夷地での活躍を認められ、越冬して翌1786年には単身で再びクナシリへ渡り、エトロフ(択捉島)、ウルップ(得撫島)へも渡りました。択捉島では交易のため滞在していたロシア人とも接触、ロシア人のエトロフ在住を確認し、アイヌを仲介に彼らと交友してロシア事情を学びます。北方探索の功労者として賞賛される一方、場所請負制などを行っていた松前藩には危険人物として警戒されました。同1786年に江戸城では10代将軍徳川家治が死去し、反田沼派が台頭して田沼意次は失脚、田沼派は排斥されます。松平定信が老中となり寛政の改革をはじめ、蝦夷地開発は中止となりました。徳内と青島は江戸へ帰還します。
  1787年に徳内は再び蝦夷へ渡り、松前藩菩提寺の法憧寺に住み込みで入門しますが、正体が発覚して蝦夷地を追放されてしまいます。徳内は野辺地(現青森県)で知り合った船頭の新七を頼り再び渡海を試みるのですが失敗、新七に招かれて野辺地に住み、1788年には酒造や廻船業を営む商家の島谷屋(徳内の遠縁)の婿となりました。1789年、蝦夷地において、和人に虐待されていたアイヌが蜂起する事件が起こり、事態を知った徳内は江戸の青島へ知らせます。真相調査のため派遣された青島は徳内を同行させ、徳内4度目の蝦夷地上陸となりました。蝦夷地ではアイヌの騒動は収まっており、徳内らは宗谷など西蝦夷方面から東蝦夷方面を廻り調査します。江戸へ戻った青島は調査書を提出しますが、幕府は青島らの蝦夷地における職務を離れた行動やアイヌとの交流を問題視し、青島は背任を疑われ、徳内とともに入牢しました。青島は牢内で病死、徳内も病に冒されますが、師の利明らの運動で釈放され、1790年には無罪となりました。同1790年には普請役となり、幕府が松前藩に命じていたアイヌの待遇改善が行われているか実情を探るため、蝦夷地へ派遣されます。5度目の蝦夷上陸では、クナシリ、エトロフからウルップ北端まで行き、各地を調査します。交易状況を視察し、量秤の統一などを指示、アイヌに対して作物の栽培法などを指導し、厚岸に神明社を奉納して教化も試みます。また、ロシアが日本人漂流民を送還するために渡航するという噂を得るのです。1792年には樺太調査を命じられ、6度目の蝦夷上陸となりました。カラフトの地理的調査や、和人やロシア人の居住状況を調査し、鎖国の国法に接する松前藩のロシア、満州との密貿易や、アイヌへの弾圧も察知します。10月には松前へ戻るのですが、この年に、伊勢の船頭大黒屋光太夫ら日本人漂流民一行の返還のため、ロシア使節のアダム・ラクスマン (Adam Laxman, 1766-1806?)が根室へ来航し、滞在を延期して越冬します。翌年には江戸へ戻り、しばらく蝦夷地と関係なく、河川を通行する川船に対して課税する深川の川船役所への出仕を命じられます。徳内は関東地方の河川を調査して水系地図を作成して効率化に務め、のちに山林御用に命じられます。1798年には老中の戸田氏教が大規模な蝦夷調査を立案し、徳内は7度目の蝦夷上陸となります。幕臣の近藤重蔵の配下として、択捉島に領有宣言を意味する「大日本恵登呂府」の標柱を立てます。道路掛に任じられ、日高山脈を切り開く新道を普請。このときに見分隊の総裁松平忠明と意見が衝突し、免職される。江戸へ戻った徳内は忠明の失策を意見書として提出、忠明に対して辞表を提出しますが、忠明はこれを受け取らず公職のままとなるのです。1804年まで再び山林御用を務め、この間に著述活動も行います。1805年には遠山景晋のもとで8度目の蝦夷上陸をします。
  1823年に長崎へ来日したドイツ人医師シーボルト (Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は1826年に江戸へ参府します。徳内はシーボルトを訪問し、何度か会見して意見交換しました。学術や北方事情などを話題に対談し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えたほか、アイヌ語辞典の編纂をはじめ日本研究に熱心なシーボルトに協力します。1828年にシーボルトが帰国する際に国禁の日本地図持ち出しが発覚し、シーボルト事件(Siebold Incident)に至りますが、徳内は追求を免れています。晩年は江戸の浅草に住み、1836年に死去しました (享年82)。著作に『蝦夷草紙』、アイヌの生活を記した『渡島筆記』、アイヌ語集『蝦夷方言藻汐草』などがあります。("Wikipedia"参照)

(362) 伊達藩の水沢(現岩手県奥州市水沢区)出身の開国論者 高野 長英(1804-1850)は、江戸時代後期の医者・蘭学者でした。江戸幕府の異国船打払令を批判し、開国を説きましたが、弾圧を受け、それを見ることなく亡くなりました。1820年(文政3年)、家出同然で江戸に赴き、杉田伯元や吉田長淑に師事します。この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗るようになりました。 その後長崎に留学してシーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となります。1828年 (文政11年)、シーボルト事件(Siebold Incident)が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れています。1830年(天保元年)江戸に戻り、町医者と蘭学塾を開業しました。まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たりました。1832(天保3年年)、紀州藩儒官遠藤勝助らによって天保の大飢饉の対策会として作られた学問サークルである尚歯会に入り、崋山らとともに中心的役割を担いました。長英の『救荒二物考』(じゃがいもの栽培の仕方などを解説)などの著作はこの成果です。
  1837年(天保8年)、日本人漂流民(音吉ら7 人)を乗せたアメリカ商船を日本側砲台が砲撃したモリソン号事件(Morrison Incident)が起き、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍のモリソン号が打ち払われました。この際長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判しています。長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』(1838)を著し、内輪で回覧しましたが、予想外の多くの人々がこれを読むことになりました。1839年(天保10年)、蛮社の獄が勃発します。長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下されました。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えました。これらの行動と親分肌の気性から、長英は牢名主として祭り上げられるようになりました。
  1844年(弘化元年)6月30日、牢の火災に乗じて長英は脱獄します。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力です。その後の経路は詳しくは不明ながらも薬品で顔を変えて逃亡生活を送り、一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死してしまいます。その後シーボルト時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事しました。主な半翻訳本に砲家必読11冊があり、どれも高水準の翻訳です。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は当時としては最高の技術を結集したものとされます。 しかしこの生活も長く続かず、しばらくして江戸に戻って、沢三伯の偽名を使って町医者を開業しました(江戸では人相書きが出回っていたため、薬品で顔を焼いて人相を変えたと言われます)。この頃、江戸において勝海舟と会談した、或いは勝に匿ってもらっていたという話も伝えられています。しかし1850年(嘉永3年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の東京都港区南青山)に潜伏していたところを町奉行所に踏み込まれて捕縛されました。自殺しようとしたのですがその場では死ねず、護送中にその傷が元で絶命したとされます。("Wikipedia"参照)


高野長英墓 (岩手県奥州市水沢区大安寺)


(363) 江戸時代の「東北」では、クレオール文化の奇蹟として、ごく短期間でしたが、秋田蘭画(あきたらんが)が花開きました。秋田蘭画とは、江戸時代における絵画のジャンルのひとつで、久保田藩(秋田藩)主や藩士を担い手とした、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画で、秋田派ともいいます。安永年間(1772-1781)に久保田藩で成立しましたが、後継者もないまま天明年間(1781-1789)には廃れてしまいました。しかし、その極端な遠近法は後代の浮世絵にも大きな影響を与えたとされます。代表的な画家に、仙北市角館町出身の下級藩士小田野直武(1750-1780)、藩主佐竹曙山(1748-1785)、その一族佐竹義躬(1749-1800)がいます。秋田蘭画の多くは、絹本着色で掛幅という東洋画の伝統的な形態をとりながらも、画題のうえでは洋風の風景画や静物画を、技法のうえでは陰影法や大気遠近法など西洋絵画の手法を多く採り入れており、近景に濃彩の花鳥や静物を描き、遠景には水辺などの風景、あるいは何も描かずに淡い色彩で距離感を示している場合が多く、縦長構図の作品が多いのです。また、舶載顔料であるプルシアンブルーが取り入れられているのが特徴です。
  久保田藩は財政再建のための方策として鉱山開発に着目しており、安永2年(1773年)7月、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)出身の平賀源内 (1728-1780)を鉱山技術者として藩に招聘しました。言い伝えでは、源内が阿仁に向かうため角館城下の酒造業者五井家に泊まった際、宿の屏風絵に感心した源内がその絵の作者だという小田野直武を呼び、「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせてみせたところ、二重丸を描いた直武に「それではお盆なのか餅なのか分からない」と言い、即座に陰影法を教えたということです。このとき直武は24歳、それに対し源内は満45歳であったといいます。源内が阿仁や大館の検分を終えて藩主佐竹曙山(義敦)に拝謁したのち、同年10月29日に久保田を出発、江戸へもどると、後を追うようなかたちで直武は藩の「源内手、産物他所取次役」ないし「銅山方産物取立役(吟味役)」に抜擢され、12月1日に角館より江戸へ出立して源内のところに寄寓しました。それまで直武は佐竹北家の家臣(陪臣)でしたので、この抜擢により本藩直臣へと立身したことになります。江戸寄寓中の1774年、直武は前野良沢・中川淳庵・杉田玄白訳出の『解体新書』(1774)の挿画を描き、また、ヨーン・ヨンストン (John Jonston, 1603-1675)著『動物図譜』(Magni Hippocratis,... Coacae praenotiones, graece et latine... cum versione D. Anutii Foesii,... et notis Joh. Jonstoni,... [Elsevir, Amsterdam, 1660]; 銅板, 2 vols.)などの洋書を模写することによって、従来の東洋画では定型化されていた獅子や蛇、馬などの動物表現についても、陰影をつけて立体感をあらわす方法を学び、「東叡山不忍池図」(重要文化財)、「唐太宗・花鳥山水図」(重要文化財、秋田県立近代美術館所蔵)、「唐太宗図」(秋田市立千秋美術館所蔵)、「江ノ島図」(大和文華館所蔵)などを描くとともに、司馬江漢にも技法を伝授していたほか、後の蘭画家にも影響を与えました。秋田蘭画は、君臣間の一種のサロン的雰囲気のなかで広まっていきます。
  特に佐竹曙山は平賀源内や薩摩藩主島津重豪から絶賛されるほどの画才にめぐまれ、「松に唐鳥図」(重要文化財、個人蔵)、「燕子花にハサミ図」(神戸市立博物館所蔵)、「竹に文鳥図」(秋田市立千秋美術館所蔵)、「湖山風景図」などの絵画のほかに1778年9月『画法綱領』、『画図理解』という日本最初の西洋画論ともいえる理論書を執筆しており、これは秋田蘭画の理論的支柱となっています。また、膨大な数のスケッチを『佐竹曙山写生帖』(秋田市立千秋美術館所蔵)に収めました。ところが、安永8年(1779年)の末に、小田野直武は突然謹慎を申し渡され、翌年5月には死去してしまいます。平賀源内の刃傷事件との関係を指摘する説もありますが、詳細は今後の研究が待たれるところです。それから5年後に佐竹曙山も亡くなると、秋田蘭画は下火となり、しだいに廃れましたが、同画の系統・画流は司馬江漢に受けつがれ、さらに洋風化して須賀川の亜欧堂田善にも影響をおよぼしています。後世、秋田蘭画を広く世に紹介した人物として、小田野直武と同郷の日本画家で明治末年頃から昭和初期にかけて活躍した平福百穂がいます。1930年(昭和5年)、百穂は『日本洋画曙光』という大型版画集のなかで秋田蘭画を紹介しています。
  [*『解体新書』(1774)の原書は、ドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus 1689-1745)の著した解剖学書Anatomische Tabellen (Gdansk [Ger. Danzig], 1722)である。前野らが訳した『ターヘル・アナトミア』は、オランダ人医師ディクテン(Gerardus Dicten 1696?-1770)によるオランダ語訳でOntleedkundige Tafelen (Amsterdam, 1734)である。この蘭語訳を前野は1770年 (明和7年)に長崎で入手し、1771年 (明和8年)に杉田も中川の仲立ちで入手していた。) ("Wikipedia"参照)

(364) 明治維新のとき、戊辰戦争に破れた東北、新潟諸藩は、鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩を救済するため奥羽越列藩同盟をつくり、薩長新政府が抱く明治天皇に対し、輪王寺宮公現法親王を擁立し、会議所を仙台におき、アメリカ帰りの玉虫左太夫(仙台藩)が采配を揮って東日本政府樹立を企てました。もっともこれは歴史が証明する通り、たちまちの うちに失敗に終わりました。これを以下に詳しく説明します。

(365) 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、会津藩、庄内藩の赦免嘆願を目的として結んだ同盟です。上記の通り会津藩、庄内藩の赦免嘆願を目的として結ばれたため、両藩は同盟には署名していません。
  会津藩は藩主松平容保が京都守護職に任ぜられ、尊皇攘夷運動が活発であった京都を警備、禁門の変では薩摩藩と結び、長州と交戦、鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍の先頭に立って戦ったため「朝敵」とみなされました。一方、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ、幕府の命令により薩摩藩邸を焼き討ちしたために「朝敵」とされました。この情勢下、奥羽での戦闘回避の工作を仙台藩と米沢藩は話し合い、会津藩と庄内藩に密使を送り、降伏するよう説得し、条件をまとめていきました。1868年(慶応4年)、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じました。3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入りました。鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したのですが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていました。一方、4月10日九条総督は庄内藩討伐を発表して秋田久保田藩等に応援を命じると共に、4月14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かいました。24日、清川口で東北最初の戦闘がありましたが、各藩とも消極的で戦争の引き延ばしを図っていました。こうした中、閏4月4日米沢藩・仙台藩4家老の名前で、東北諸藩に対して列藩会議召集の回状が回されました。閏4月11日、奥羽14藩は仙台藩領の白石城において列藩会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出しました。しかしこれが却下されたため、閏4月19日諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言したのです。
  奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵は4月12日に仙台を出発して白河方面に赴き、各地で会津藩への進攻を督促していましたが、閏4月19日に福島に入り旅宿金沢屋に投宿していました。ここで、同じく下参謀であった薩摩藩大山格之助に密書を書いたのです。内容は、鎮撫使の兵力が不足しており奥羽鎮撫の実効が上がらないため、奥羽の実情を総督府や京都に報告して増援を願うものでしたが、この密書が仙台藩士瀬上主膳や姉歯武之進らの手に渡ってしまいました。姉歯らは以前から世良修蔵の動向を警戒していましたが、密書の中にある「奥羽皆敵」の文面を見て激昂した彼らは、翌日金沢屋において世良修蔵を襲撃しました。世良はピストルで応戦するものの不発で、あえなく捕らえられ、阿武隈川の河原にて斬首されました。("Wikipedia"参照)

(366) 会津赦免の嘆願の拒絶と世良の暗殺によって、奥羽諸藩は朝廷へ直接建白を行う方針に変更することとなります。そのためには東北諸藩の結束を強める必要があることから、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印されました。その後、白石盟約書における大国強権の項の修正や同盟諸藩の相互協力関係を規定して、5月3日に25藩による奥羽列藩盟約書が調印され、同時に会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成されました。 翌4日には、新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩が加盟、6日には新発田藩等の越後5藩が加入し、計31藩による同盟が成立しました。なお、同盟成立の月日については諸説ありますが、白河盟約書を加筆修正し、太政官建白書の合意がなった5月3日とするのが主流のようです。("Wikipedia"参照)

(367) 副総督 沢為量 (さわ ためかず, 1812-1889)率いる新政府軍は庄内討伐のため秋田に滞在しており、世良が暗殺された後は、九条は仙台藩において軟禁状態になっていました。5月1日、松島に新政府軍の佐賀藩、小倉藩の兵が上陸し、 九条の護衛のため仙台城下に入りました。九条は、奥羽諸藩の実情を報告するために副総督沢と合流して上京する旨を仙台藩側に伝えました。翌15日列藩会議が開かれてこの問題が討議され、九条の解放に反対する意見も出たのですが、結局九条の転陣が内定し、18日仙台を発って盛岡に向かいました。
  一方、寛永寺に立て篭もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、その敗北により、6月6日に会津に入っていた輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやこうげんほっしんのう; のちの北白川宮能久親王 [きたしらかわよしひさしんのう], 1847-1895)を奥羽同盟の盟主に戴こうとする構想が浮上しました。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたのですが、結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席しました。また、旧幕府の閣老である板倉勝静、小笠原長行にも協力を仰ぎ、次のような組織構造が成立したのです。
  
  盟主: 輪王寺宮
  総督: 仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲
  参謀: 小笠原長行、板倉勝静
  また、白石城内には公議府が設けられ、諸藩代表による評議が行われました。プロシア領事、アメリカ公使に使者を派遣し貿易を行うことを要請しています。輪王寺宮の「東武皇帝」への推戴も構想にあったとされ、形式的には京都新政府に対抗する権力構造が整えられたとする評価もあるのですが、これらが実際に機能する前に同盟が崩壊してしまったとする説もあり、奥羽政権としての評価は定まっていません。しかしながら、もし政権が誕生していれば、日本列島は二つに分裂してしまっていたかもしれません。
  
   奥羽越列藩同盟参加藩
  
  白石列藩会議から参加した14藩
  仙台藩、米沢藩、二本松藩、湯長谷藩、棚倉藩、亀田藩、相馬中村藩、山形藩、福島藩、上山藩、一関藩、矢島藩、盛岡藩、[三春藩]
  
  新たに奥羽同盟に参加した11藩
  [久保田藩 (秋田藩)], [弘前藩]、守山藩、[新庄藩]、八戸藩、平藩、[松前藩]、[本荘藩]、泉藩、下手渡藩、天童藩
  
  奥羽越列藩同盟に参加した北越6藩
  長岡藩、[新発田藩]、村上藩、村松藩、三根山藩、黒川藩
  その他
  請西藩(上総;現在の千葉県木更津市)
  
  注)[ ]は新政府軍に寝返った藩(進退窮まっての降伏は除く)("Wikipedia"参照)

(368) 奥羽越列藩同盟の戦闘
  日本海側
  1868年 (慶応4年)、7月1日、九条一行は秋田に沢副総督と再会し新政府軍が秋田に集結することになりました。本来同藩出身である平田篤胤の影響で尊王論の強かった秋田藩では会議の決着がなかなかつかなかったのですが、平田の影響を強く受けた若い武士が暴走し仙台藩からの使者11名を斬り(新政府側の世良修蔵惨殺への報復という名目はあった)、なし崩し的に同盟の離反と庄内藩への進攻を決定しました。仙台藩はこれに怒り、秋田領内に侵攻し、庄内藩と共同作戦をとりつつ横手城を陥落させ、秋田城へ迫りました。 庄内藩は新政府側についた新庄藩、本荘藩、久保田藩へと侵攻します。南部藩も久保田藩の北部から南部藩の家老楢山佐渡の指揮のもと、津軽藩を牽制するかのように侵攻し、大館城を陥落させ、さらに久保田城の方向に攻め入りました。 秋田南部での戦いでは、薩長兵や新庄兵が守る新庄城を数で劣る庄内藩が激戦の末に撃破し、秋田に入った後も、列藩同盟側は極めて優勢に戦いを進めていきました。特に、庄内藩の鬼玄蕃と呼ばれた家老酒井吉之丞は二番大隊を率い奮戦しました。彼は、最初から最後まで負け戦らしい戦闘を経験せず、同盟側の多くが降伏し、庄内領内にも敵が出没するという情勢を受けて、現在の秋田空港の近くから庄内藩領まで無事撤退を完了させて、その手腕を評価されました。秋田北部の戦いでは大館城を攻略した後、きみまち坂付近まで接近するものの、新政府側の最新兵器を持った兵が応援に駆けつけると形勢は逆転し、多くの戦闘を繰り返しながら元の藩境まで押されてしまいます。 これらの情勢により、9月中旬には奥羽列藩同盟側は全て新政府側に降伏しました。
  また、北越においても新政府軍と米沢藩・長岡藩が交戦、長岡城では河井継之助率いる長岡藩兵が強力な火力戦により善戦しますが、7月末には長岡城が陥落しました。その後長岡城が長岡藩兵により一時的に奪還されますが、この際河井継之助が負傷。結局長岡城が新政府軍に奪われ、会津へ敗走していました。米沢藩を中心に守りを固めていた新潟においても、7月25日新発田藩の裏切りによって新政府軍が上陸し、29日には制圧され、米沢藩は敗走したのです。
  
  太平洋側
  1868年 (慶応4年)、5月1日仙台藩・会津藩等の連合軍は2500以上の大兵を擁しながら白河口の戦いで新政府軍700に大敗し白河城も陥落します。6月12日には仙台藩・会津藩・二本松藩連合軍が、白河城を攻撃したものの、失敗します。磐城方面では6月24日には棚倉城が陥落、6月26日には奥羽連合軍が白河から撤退し須賀川へ逃れます。7月26日三春藩が降伏し、二本松方面へ攻撃準備を始めました。8月6日に相馬中村藩の降伏により磐城方面は完全に新政府軍が制圧しました。更に弘前藩が新政府軍側につき、突如南部領内へ侵攻。太平洋側でも戦線が崩壊を始めました。
  この同盟の瓦解は1868年 (慶応4年)7月26日は以下の通りでした。まず三春藩が降伏し、29日に二本松城が落城しました。次いで8月6日相馬中村藩が降伏します。日本海側の戦線では、新政府軍は新潟に上陸した後、8月いっぱいは下越を戦場に米沢藩と戦っていましたが、遂に羽越の国境に迫られた米沢藩は9月4日に降伏、そして12日には仙台藩と、盟主格の二藩が相次いで降伏しました。その後、15日福島藩、上山藩、17日山形藩、18日天童藩、19日会津藩、20日盛岡藩、23日庄内藩と主だった藩が続々と降伏し、奥羽越列藩同盟は完全に崩壊しました。("Wikipedia"参照)

(369) 東北や北陸東部の諸藩は奥羽越列藩同盟という軍事同盟を結んで新政府軍より身を守ろうとしましたが、結局敗れたのです。この報復として、同盟に参加した藩は所領を大幅に減らされ、その経済は壊滅同然にまで追い詰められました。その結果、北海道(蝦夷地)へと口減らしも同然に家臣団(武士階級、知識階級)などを移住させざるを得ず、東北発展に取り返しのつかない打撃を与えたのです。新政府側につき、奥羽越列藩同盟を離脱した秋田藩・弘前藩などもまた、戊辰戦争で多くの犠牲者を出しかつ莫大な出費をしたため、困窮は避けられませんでした。 ("Wikipedia"参照)

(370) この時代の「東北」の庶民の暮らしは度重なる飢饉と幕末の混乱で貧窮の度合いを増していきました。戊辰戦争のときに「白河以北一山百文」と薩長を中心とした官軍兵士たちに揶揄されたのもある程度は当たっていると言わざるを得ませんでした。その「東北」の悲哀を巧みに描いて話題となったのが淺田次郎原作の『壬生義士伝』(『週刊文春』連載1998-2000;単行本出版2000)でした。南部盛岡藩の脱藩浪士・吉村貫一郎という実在した新選組隊士の生涯を描いた時代小説で、新選組で守銭奴と呼ばれ蔑まされた吉村貫一郎の義理と愛を貫く姿を描いた作品であり、2000年に第13回柴田錬三郎賞を受賞しました。渡辺謙主演のテレビ東京系10時間ドラマ『壬生義士伝 -新選組でいちばん強かった男-』(2002年1月2日on air)と滝田洋二郎監督・中井貴一主演の映画『壬生義士伝』 (2003)は共に時代劇ものとしては大ヒットしました。
  小説では、明治維新から半世紀を経た、初の平民宰相原敬が誕生した頃に、一人の新聞記者が、 主人公の南部藩士・吉村貫一郎を知る人たちを訪ね、聞き書きをするという構成がとられています。吉村貫一郎を知る人たちの回想の間に、貫一郎の独白が南部方言ではさまれ、 愛してやまない故郷盛岡の情景が語られます。浅田次郎は四季に分けて盛岡に取材に来たとのことで、綿密な考証のもと、方言や町の雰囲気など、 実際に盛岡に住んでいる人間が思わず感心してしまうほど、生き生きと描かれています。主人公吉村貫一郎は、尊王譲位に邁進すると称して南部藩を脱藩、新撰組隊士となるですが、 内実は生活苦によるものでした。貫一郎の願いは少しでも多くのお金を、 故郷に残してきた妻しづと子どもたちのもとへ送り届けることでした。 しかし、貫一郎は、鳥羽伏見の戦いの中、皮肉にもかつての幼馴染で大阪屋敷の差配である大野次郎右衛門の命で、 切腹させられることになります。その50年後、一人の新聞記者が貫一郎を知る人たちを訪ね、「壬生浪(みぶろ)」と呼ばれた新撰組にあってただひとり「義」 をつらぬいた知られざる貫一郎の姿を浮き彫りにしていくというものです。(映画やドラマとは少し構成が異なります。)
  この小説、ドラマ、映画のヒットは岩手人として、あるいは盛岡の住民としては嬉しいものでした。これを機に少しでも盛岡に興味を持ってもらえると思うからです。しかしながら、この作品に描かれる貫一郎の姿と彼が愛してやまない家族、盛岡を棄てるというくだりにはやはり「東北」の固定化された悲哀のイメージにもどかしさを覚えざるをえません。下級武士とはいえ、藩校である明義堂(作人館跡)で生徒達を指導する立場でありながら、自らの教えに反するがごとく脱藩して、新選組に入隊する、それも義によってというよりはまず「家族のために金を稼ぐ」ことを目的としてなのです。「南部の武士だれば石ば割って咲げ」と藩校で教える貫一郎の姿は、まさに南部武士の模範なのでしょう。実在の吉村菅一郎はあまり記録が残っていないのでどのような人物かは分かりませんが、「脱藩して新選組に入り、家族に仕送りしていた」というのは、「東北出身者」という設定でさらに切実なものとしてとらえられているのです。 ("Wikipedia"等参照)

[DVD 14: 『壬生義士伝』 2002]


[4f. 明治から昭和の「東北」]


(371) 1868年(明治元年)旧暦12月7日、陸奥国は、磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥に、出羽国は、羽前・羽後に分割されました。この分割によってできた新区分「陸前・陸中・陸奥」は「三陸」とも呼ばれ、リアス式海岸の「三陸海岸」や、世界三大漁場の一つ「三陸沖」などの語に用いられています。1871年8月29日の廃藩置県などを経て、現在の東北6県が作られました。この時期、戊辰戦争の敗北によって収入(秩禄)を失った家臣団や、秩禄処分によって経済的に困窮した武士階級の北海道移住(経済難民)が進みました。知識階級でもあった武士階級を大量に失った「東北」地方では、知識階級の層が薄くなり、後の経済発展の遅れを生みました。知識階級の流出は、現在にも尾を引いており、奥羽越列藩同盟の勢力圏に相当する「東北」6県と新潟県下越地方・中越地方の「大学進学率」や「高学歴住民の割合」は、平成に年号が改まってからも、他の地方に比べて低いのです。 ("Wikipedia"参照)

(372) 一方で、明治以降の富国強兵・殖産興業の時代には、「東北」地方にも大規模な投資や開発が実施されました。郡山盆地における安積疎水、宮城県の野蒜築港、東北本線等の鉄道開発、東北帝国大学などがあります。しかし、折角開発した「東北」地方の拠点港の野蒜築港も、台風によって破壊されて2年で廃止されてしまいました。("Wikipedia"参照)

(373) 明治初期に「東北」を旅した欧米人の記録が面白いです。明治初期に日本奥地紀行をした青年がいました。アメリカの大詩人ヘンリー・ロングフェロー (Henry Wadsworth Longfellow, 1807-1882)の息子チャーリー (Charles Appleton Longfellow, 1844-1893)は、明治4年から6年にかけて蝦夷から長崎まで旅をし、あげくは東京に邸を造ってしまいました。闊達な性格の青年は、近代ニッポンの夜明けを興味深く観察しました。貴重な初公開の古写真200点余もあります。「東北」から「蝦夷地」への旅行記の部分は第1章から第4章までですが、岩手県のくだりがとくに面白いです。原著はCharles Appleton Longfellow: Twenty Months in Japan, 1871-1873ですが、幸い翻訳されました:『ロングフェロー日本滞在記: 明治初年、アメリカ青年の見たニッポン』(山田久美子 訳, 平凡社 2004)。

(374) 英国籍の女性旅行家イザベラ・バード (Isabella Lucy Bird, 1831-1904)は、1878年(明治11年)6月から9月にかけて、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅行しました。山形県の赤湯温泉の湯治風景に強い関心を示し、置賜地方の風景を「東洋のアルカディア」と評したのです。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねています。これらの体験を1880年Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior, Including Visits to the Aborigines of Yezo, and the Shrines of Nikko and Ise (2 Vols., 1880) にまとめました。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録です。普及版の邦訳が『日本奥地紀行』(高梨健吉訳、平凡社、2000年2月)で出版され、さらに普及版で省略された部分が、『バード 日本紀行』(楠家重敏他訳、雄松堂出版、2002年8月)として出版されました。外国人の視点を通した明治期の日本を知る貴重な文献です。 特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献でと言えるでしょう。また1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、Korea and Her Neighbours. A Narrative of Travel, with an Account of the Recent Vicissitudes and Present Position of the Country ( 2 Vols., 1898) (『朝鮮紀行』)を書いています。("Wikipedia"参照)

(375) 大蔵卿・松方正義 (1835-1924)による松方デフレの影響は、農産物の価格を下落させ、全国的に小作農の比率が上昇(小作農率の全国平均38%→47%)して大地主所有が進む一方、産業化(生糸産業・造船業など)が進んでいた関東の都市部などは経済が好調となり、東北地方からも女工として働きに出る者も多く出ました。昭和になってからは、過剰労働力である農家の次男・三男などが旧満州国へ集団移民をしました。戦後の高度経済成長時代は、東京に出稼ぎに出たり、「金の卵」 ともてはやされて集団就職がさかんに行われました。そのため、現在の東京都区部の4割の人は、東北地方出身者といわれています。("Wikipedia"参照)

(376) やがて大正7年(1918)に岩手県出身の原敬 (はら たかし, 1856-1921)が奥羽越初の第19代総理大臣(在任期間1918年9月29日- 1921年11月4日)に就任しました。原 敬は、郵便報知新聞記者時代を経て外務省に入省、後に農商務省に移って陸奥宗光や井上馨からの信頼を得ました。陸奥外務大臣時代には外務官僚として重用されましたが、陸奥の死後退官します。その後、発足時から立憲政友会に参加、政界に進出し、1918年(大正7)内閣総理大臣に就任したのです。爵位を固辞し続けた「平民宰相」として名高いですが、実際には貴族院議員になろうとしたこともあったようです。1921年(大正10)享年65、東京駅駅頭にて暗殺されました。原敬は、1856(安政3)年2月9日、盛岡藩盛岡城外「本宮村」(現在の盛岡市本宮)で盛岡藩士 原直治の次男として生まれました。後に「平民宰相」と呼ばれた原は、実は祖父・直記が家老職にあったほどの上級士族の家柄でしたが、20歳のときに分家して戸主となり、平民籍に編入されました。後年、号を「一山」あるいは「逸山」と称したのですが、それは原の薩長藩閥への根深い対抗心を窺わせます。戊辰戦争で「朝敵」となった東北諸藩の出身者が、「白河以北一山百文」と薩長出身者から嘲笑、侮蔑されたことへの反発に基づいているからです。(白河とは福島県白河市のことで、古来より「白河関」がみちのくへの入り口でした。)
  原内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化をその特徴とします。原は政権につくと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図りました。まず、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものでした。そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策)を組閣後早々に打ち切りました。さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4ヶ国による新4国借款団(日本の支那への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を、対英米協調の観点から決定しました。第一次世界大戦の後始末をするパリ講和会議が開かれたのも、原内閣の時代でした。この会議では、アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンの提唱によって国際連盟の設置が決められ、日本は常任理事国となりました。しかし、シベリア出兵についてはなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の1922(大正11)年、加藤友三郎内閣時代のこととなりました。
  内政については、かねてから政友会の掲げていた積極政策、すなわち、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進しました。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心でした。また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れました。1918年 (大正7) 原敬内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決されました。その計画では官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現されました。これらの官立高等教育機関の大半は、地方都市に分散設置されました。また私立大学では1920年(大正9)年に大学令の厳しい要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大学・同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格したのです。この高等教育拡張政策は第一次世界大戦後の好景気を背景とした高等教育への、求人需要、志願需要の激増に応えたものでした。そして高等教育拡散は皇室への危険思想につながるとしてこれを反対した山縣有朋を説得して実現したものでした。
  また原は、地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養する一方で、同党の支持層に見合った規模での選挙権拡張を行っています。1919(大正8)年には衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制を導入すると同時に、それまで直接国税10円以上が選挙人の資格要件だったのを3円以上に引き下げました。 1920年(大正9)年の第42帝国議会で、憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めました。 首相就任前の民衆の原への期待は大きいものでしたが、就任後の積極政策とされるもののうちのほとんどが政商、財閥向けのものでした。さらには民衆の大望である普通選挙法の施行に否定的であるなど、就任前後の評価は少なからず差があります。普通選挙法の実現は憲政会を率いた加藤高明内閣を待つこととなります。
   さらに、原は政友会の政治的支配力を強化するために、官僚派の拠点であった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派である「研究会」を与党化させたのです。このほか、高級官僚の自由任用制の拡大や、官僚派の拠点であった郡制の廃止、植民地官制の改正による武官総督制の廃止などを実施し、反政党勢力の基盤を次第に切り崩していきました。しかし、一方で原は反政党勢力の頂点に立つ山県有朋との正面衝突は注意深く避け、彼らへの根回しも忘れませんでした。このように、原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家でした。その原は、1921(大正10)年11月4日、国鉄大塚駅職員中岡艮一によって東京駅で刺殺されてしまいました(原敬暗殺事件)。65歳の生涯でした。彼の政治力が余りに卓抜していたために、原亡き後の政党政治は間もなくバランスを失ってしまうことになるのです。("Wikipedia"参照)


原敬胸像、岩手県盛岡市内丸


(377) 総理大臣にこそなりませんでしたが、高野長英を大叔父に持つ後藤新平 (1857-1929)もまた卓越した政治家でした。計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されましたが、帝國主義日本の有能な植民地経営者で都市設計者でした。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道の整備に貢献したのです。また、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案したことでも有名で、現在の都心にも後藤新平の描いた都市景観の跡が残っております。昭和天皇をして、戦後の焼け野原の東京を見て、「もしあのとき後藤の計画通りに東京を変えていたら、こんなことにはならなかっただろうに」と言わしめたほどでした。台湾総督府民政長官、満鉄初代総裁のほか、逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長、東京放送局(のちのNHK)初代総裁などを歴任いたしました。
   1898年(明治31)3月、台湾総督となった兒玉源太郎の抜擢により、後藤は台湾総督府民政長官となります。そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で、経済改革とインフラ建設を進めました。こういった手法を、後藤は自ら「生物学の原則」に則ったものであると説明しています。社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招のです。よって、現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきであるというものでした。まず、台湾における調査事業として臨時台湾旧慣調査会を発足させ、京都大学教授で法学者の岡松参太郎を招聘し、同時に自ら同会の会長に就任しました。また同じく京都大学教授で法学者の織田萬をリーダーとして、当時まだ研究生であった中国哲学研究者の狩野直喜、中国史家の加藤繁などを加えて、清朝の法制度の研究をさせました。これらの研究の成果が『清国行政法』であり、その網羅的な研究内容は近世・近代中国史研究に欠かせない資料となっています。開発と同時に人材の招聘にも力を注ぐのが後藤の手法でした。アメリカから新渡戸稲造 (岩手県盛岡市出身)をスカウトする際には、病弱を理由に一度は断られますが、執務室にベッドを持ち込む事などの特別な条件を提示して承知させています。スカウトされた新渡戸は、殖産局長として台湾でのサトウキビやサツマイモの普及と改良に大きな成果を残しています。また、生涯の腹心となった中村是公と出会ったのも台湾総督府時代でした。当時、中国本土同様に台湾でもアヘンの吸引が庶民の間で常習となっており、大きな社会問題となっていました。また、「日本人はアヘンを禁止しようとしている」という危機感が抗日運動の意義のひとつでした。これに対し後藤は、アヘンを性急に禁止する方法はとりませんでした。まずアヘンに高率の税をかけて購入しにくくさせるとともに、吸引を免許制として次第に吸引者を減らしていく方法を採用しました。この方法は成功し、アヘン患者は徐々に減少しました。総督府によると、1900年(明治33年)には16万9千人であったアヘン中毒者は、1917年(大正6)には6万2千人となり、1928年(昭和3)には2万6千人となりました。なお、台湾は1945年(昭和20)にアヘン吸引免許の発行を全面停止しました。これにより後藤の施策実行から50年近くかけて、台湾はアヘンの根絶に成功したのです(阿片漸禁策)。
   1906年(明治39年)、後藤は南満洲鉄道初代総裁に就任し、大連を拠点に満洲経営に活躍した。ここでも後藤は中村是公や岡松参太郎ら、台湾時代の人材を多く起用するとともに30代、40代の若手の優秀な人材を招聘し、満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充、大連などの都市の建設に当たりました。また、満洲でも「生物学的開発」のために調査事業が不可欠と考え、満鉄内に調査部を発足させています。当時、清朝の官僚の中で満州に大きな関心を持っていたのは、袁世凱を中心とする北洋軍閥であり、1907年(明治40年)4月の東三省建置に当たっては、彼の腹心である人物が多く要職に配置されました。彼らは日本の満州における権益独占を好まず、アメリカを盛んに引き込もうとし、その経済力を以って満鉄に並行する路線を建設しようとしました。これは大連を中心に満鉄経営を推し進めていた日本にとって大きな脅威でした。そこで後藤は袁世凱に直接書簡を送って、これが条約違反であることを主張し、この計画を頓挫させました。ただし、満鉄への連絡線の建設の援助、清国人の満鉄株式所有・重役就任などを承認し、反日勢力の懐柔を図ろうとしています。また、北満州に勢力を未だ確保していたロシアとの関係修復にも尽力し、満鉄のレールをロシアから輸入したり、伊藤博文とロシア側要路者との会談も企図しましたが、この会談は伊藤がハルピンで暗殺されたために実現しませんでした。当時の日本政府では、満州における日本の優先的な権益確保を唱える声が主流でしたが、後藤はむしろ日清露三国が協調して互いに利益を得る方法を考えていたのです。
  関東大震災の直後に組閣された第2次山本内閣では、内務大臣兼帝都復興院総裁として震災復興計画を立案しました。それは大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、30億円という当時としては巨額の予算(国家予算の約2年分)のために財界などからの猛反対にあい、当初の計画を縮小せざるを得なくなり、議会に承認された予算は結局3億4000万円でした。それでも現在の東京の都市骨格を形作り、公園や公共施設の整備に力を尽くした後藤の治績は概ね評価されています。特に道路建設に当たっては、東京から放射状に伸びる道路と、環状道路の双方の必要性を強く主張し、計画縮小されながらも実際に建設されました。当初の案では、その幅員は広い歩道を含め70mから90m (今日でも都市計画道路は15mから50mが一般的)で、中央または車・歩間に緑地帯を持つと言う壮大なもので、自動車が普及する以前の時代では受け入れられなかったのも無理はないのです。現在、それに近い形で建設された姿を和田倉門、馬場先門など皇居外苑付近に見ることができます。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っているといっていいでしょう。昭和通りの地下部増線に際し、拡幅や立ち退きを伴わず工事を行なえた事で、その先見性が改めて評価された事例もあり、もし彼が靖国通りや明治通り・山手通りの建設を行っていなければ、東京で頻繁に起こる大渋滞はどうなっていたか想像もつきません。その反面、江戸の情緒を完膚なきまでに打ち壊し、結果として東京を都市機能は備えているが無機質な町に変質させてしまったとの批判もあります。
  晩年は政治の倫理化を唱えて全国各地を遊説しました。1929年(昭和4年)、遊説で岡山に向かう途中列車内で脳溢血で倒れ、京都の病院で4月13日死去しました。("Wikipedia"参照)


後藤新平銅像 (岩手県奥州市水沢区水沢公園)


(378) 新渡戸 稲造(1862-1933)は、現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として生まれ、著名な農学者・教育者でした。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』1900)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われています。新渡戸は札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として学び、のちに農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任しました、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士 (Dr. William Smith Clark, 1826-1886)はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いでした。東京帝国大学進学後、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカのジョンズ・ホプキンス大学 (Johns Hopkin's University)に入学します。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派(the Religious Society of Friends [Quakers])の集会に通い始めて正式に会員となりました。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントン (Mary Elkinton, 1857-1938)と出会いました。
  その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学 (Johns Hopkin's University)を中途退学して官費でドイツへ留学します。ボン大学などで聴講した後ハレ大学 ( Univeristy of Halle)より博士号を得て帰国し、教授として札幌農学校に赴任します。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学 (Johns Hopkin's University)から出版され、同校より名誉学士号を得ました。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニア州で転地療養します。この間に名著『武士道』を英文で書きあげました。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなりました。その後、第一高等学校校長、東京殖民貿易学校長、東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任します。1920年の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれました。事務次長としてバルト海のオーランド諸島帰属問題などに尽力しました。
  敬虔なキリスト教徒(Quakers; クエーカー)として知られ、一高の教職にある時、自分の学生達に札幌農学校の同期生内村鑑三の聖書研究会を紹介したエピソードもあります。その時のメンバーから矢内原忠雄、高木八尺、南原繁、宇佐美毅、前田多門、藤井武、塚本虎二などの著名な教育者、政治家、聖書学者らが輩出しました。エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同しました。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しませんでした。
  晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国主義思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去ってしまいます。一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるですが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々でした。1933年(昭和8年)秋、カナダのバンフで開かれた太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加します。会議終了後、当時国際港のあった西岸ヴィクトリアで倒れ、永眠しました。("Wikipedia"参照)


新渡戸稲造生誕地の銅像、岩手県盛岡市下の橋


(379) 齋藤 実(齋藤 實, 1858-1936)は岩手県奥州市水沢区の海軍軍人で政治家です。第30代内閣総理大臣(在任1932年 - 1934年)で官位は海軍大将従一位大勲位子爵、同じ奥州市水沢区出身の後藤新平の後、ボーイスカウト日本連盟第2代総長にもなりました。斎藤に首相就任の白羽の矢が立ったのは、軍人とはいえ海軍の条約派に属する良識人で、英語も堪能な国際派であったこと、また、東北人特有の粘り強さ、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されたからだと言われております。
  1932 (昭和7)年五・一五事件でショックを受けた昭和天皇は、「ファッショに近い者は絶対に不可」との強い気持ちでした。一方、軍部や立憲政友会右派の森恪らは、右翼に近い平沼騏一郎を担ごうとしていました。元老・西園寺公望は当初、政友会総裁の鈴木喜三郎を推し、政党内閣を続けるつもりだったといいます。しかし、軍内部の状況を知るに及んで、政党内閣ではもたないと判断しました。天皇の意向に応え、しかも、軍部も正面切って反対できない候補としては斎藤ぐらいしかいなかったのです。首相退任の後内大臣に就任しましたが、それ以前にも内大臣候補にあげられたことがありました。斎藤は、経済恐慌に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げましたが、外交問題では軍部の要求通り満州国を承認しました。国内政治の安定を最大の眼目に置き、軍部との決定的対立は避けたのです。それでも、軍部は斎藤のリベラル臭を嫌い、嫌がらせを続け、閣僚のスキャンダル暴きに狂奔しました。その犠牲になって辞任する閣僚も出ましたが、斎藤は手際よく迅速に後任人事を決め、何とかしのいだのです。
  しかしながら、帝人事件で大蔵次官らが逮捕されるに及んで、ついに内閣総辞職に追い込まれました。百十数人が収監されながら、公判では全員無罪という奇怪な事件でした。検察の平沼閥、軍、政友会右派らが仕組んだ「空中楼閣」説さえあります。戦前の制度では、前任者が後継首相を選ぶことは至難の業でしたが、斎藤は同質・同型の岡田啓介内閣をつくる布石を打ち、成功させました。斎藤のしたたかさを示す一例です。斎藤内閣は部分的には抵抗しつつも、総体としては日本の軍国主義化の流れを止めることはできませんでした。各方面の妥協で生まれた「挙国一致内閣」の限界といえるでしょう。
  1936年(昭和11年)2月26日-29日に、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こした未曾有のクーデター未遂事件 (二・二六事件)の際、天皇の側近たる内大臣の地位にあったことから襲撃を受け、斎藤は青年将校に殺害されました。享年77歳でした。("Wikipedia"参照)


斉藤実座像 (岩手県奥州市水沢区水沢公園)


(380) 岩手は次第に軍人王国になっていきます。貧しい小作農などは、こぞって兵隊に志願し、米の飯にありつけると喜びました。岩手公園 (旧盛岡城址)の台座だけの騎馬像があります。それは、 南部利祥(なんぶとしなが)伯爵・中尉の日露戦争での戦死を悼み、1908年に建立されたものでした。幕末以来朝敵の汚名を着せられた南部藩の名誉回復のシンボルでもあり、次第に右翼化していく岩手の象徴でもあったのです。この銅像は幼い日の石川啄木も宮沢賢治も慣れ親しんだものでした。しかし、1944年4月、金属特別回収で取り払われ、軍需資材として供出されて以来台座だけが残ってしまい、現在に至ります。
  南部中尉こと利祥公は1882年1月、利恭(としゆき)公の長男として東京で生まれました。幼少のころから乗馬に親しみその才に優れていたといいます。学習院初等科に入学し、皇太子明宮(はるのみや; のちの大正天皇,1879-1926;r.1912-1926)のご学友に選ばれました。1903年、南部宗家の家督を継ぎ第42代当主となりました。利祥公は1902年に陸軍士官学校を卒業し、翌年には近衛師団騎兵連隊第1中隊に配属されます。利祥公が軍人の道を選んだのには国のために尽くそうという意志の表れでもあったとみられ、また当時南部家の相談役であった原敬の勧めもあったといいます。1904年に日露戦争が開戦となり、近衛師団も外地に出征します。1905年、井口嶺の戦いで敵弾に倒れてわずか24歳で戦死しました。『盛岡タイムス』2007年 7月1日 (日)の記事によれば、この騎馬像の胸像部の鋳型の原型が、非公開ながら、岩手公園内の桜山神社境内に眠っているとのことです。つい最近までこの鋳型の存在はごく一部の関係者しか知られておりませんでしたので、岩手の軍国主義時代の象徴でもあるこの騎馬像を復元するかまたは台座ごと撤去するかどうかは今後議論を呼びそうです。


南部利祥中尉騎馬像台座、岩手県盛岡市岩手公園


(381) 岩手県盛岡市出身の米内 光政(1880-1948)は日本の海軍軍人です。連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任、その後最後の海軍大臣として日本を終戦に導くことに貢献しました。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようです。この頃、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラー (Adolf Hitler, 1889-1945)はヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国同盟締結を待望する空気が強まりました。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べています。米内は当時の軍人としては珍しく、広い視野を持っていたようです。第一次世界大戦後のロシアとポーランドに駐在し、革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していました。ロシア革命に関する論文もあります。また、大戦後のドイツの首府ベルリンで情報収集の任に当たっています。また、将官昇進後は中国勤務も多く、国際的視野を持った国家指導者といえます。日本の国力や国際情勢を見極め、英米と協調する現実的な政治姿勢を終始貫きました。
  そんな米内は陸軍とうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれます。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求してきます。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」と言って拒否すると、陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込みました。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあったことを明らかにしたのです。
  終戦に際して、米内本人は戦犯として拘束されるのを予期し、巣鴨拘置所へ収監される場合に備えていました。終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自害し、戦争責任を示した阿南惟幾とは異なり、軍人として法廷で裁かれる道を米内は選んだのですが、結局彼自身は容疑者に指定されませんでした。小磯・鈴木両内閣に海相として入閣した米内は戦争終結の道を探りました。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、1945年5月末の会議では阿南惟幾陸相と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切ったのです。当時において、戦争への流れに抵抗する軍人であったことは特記されるべきです。終戦直前の1945年8月12日、主戦派の大西瀧治郎中将(軍令部次長)が豊田副武軍令部総長を通じ終戦反対の意を勝手に帷幄上奏し、激怒した米内は大臣室に大西・豊田の両名を呼びつけ叱責しました。当然大西と豊田も抗弁しました。しかし、普段寡黙な米内は、このときばかりは大声で両名を叱りつけ、その声はドアごしに筒抜けになるほどであったといいます。
  戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、幣原内閣の組閣時には健康不安から(血圧は最高250、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた)辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向でしばらく現職に留まりました。このことからも米国政府はじめ欧米各国から米内は新来されていたことがわかります。("Wikipedia"参照)

(382) 両親が盛岡出身という、東條 英機(東条 英機、1884-1948; 出身は東京ですが、本籍地は岩手県)は、陸軍軍人、政治家です。現役軍人のまま第40代内閣総理大臣(1941年10月18日 - 1944年7月18日)に就任しました。階級位階勲等功級は陸軍大将・従二位・勲一等・功二級です。永田鉄山の死後、統制派の第一人者として陸軍を主導します。首相在任中にイギリスやアメリカとの間に太平洋戦争を開戦しました。また権力の強化を志向し複数の大臣を兼任し、慣例を破って陸軍大臣と参謀総長を兼任しました。敗戦後に行われた東京裁判にてA級戦犯とされ、軍国主義の代表人物として処刑されました。一方では、平和を望んで群舞を説得し続けたとも言われる彼の評価についてはまだ定まっていない部分が多いので、今後の研究が待たれるところです。("Wikipedia"参照)

(383) 日本の「戦後」はまだ終わっていないのです。極東国際軍事裁判所でA級戦犯とされた14名のうち東條 英機元総理大臣 (1884-1948; p.1941.10.18-1944.7.18)と板垣 征四郎元陸軍大臣(1885-1948; 岩手県盛岡出身)の2名が岩手県関係者です。彼らも2009年1月現在、靖国神社に「英霊」として合祀されており、中国、韓国政府から再三批判されております。その他にも靖国神社には岩手県人の「英霊」が「東北」各県出身者とともに数多く祀られ、靖国神社には毎日「東北」からの多くの参拝者が絶えることなくお参りしています。

(384) 2004年9月12日より南部家第45代当主の南部利昭氏 (学習院大学政経学部卒; 1935-2009.1.7)が東京都千代田区九段北にある靖国神社第9代に就任されました。護国の英霊 246万6532柱を祀る靖国神社の宮司は、本来「華族」が就任するものでしたが、第8代宮司湯澤貞(75歳定年退職)は旧華族出身ではなかったので、第8代自らが次代はぜひ旧華族出身者に復してほしいと願い出たのです。旧華族出身者の社団法人霞会舘(旧華族会館)は同神社に推薦を求められて、理事会で南部氏が推薦されたというものです。推薦を受け、同神社の宮司推薦会議、総代会が満場一致で内定したとのことです。実系(男系)で先祖をたどると後陽成天皇の皇胤となる南部利昭氏は、宮司就任以来、「首相が8月15日に参拝するのは当然です。中国の反発は、『余計なお世話』で済ませればいい。そう言えないのは弱腰外交です。外地で亡くなられた方も、戦犯で処刑された方も、同じ戦死者だと、厚生省が認めているのです」(『週刊朝日』2004/12/03号)とか「分祀について「A級戦犯の御霊だけ除くことはできないし、ありえない」などという発言をして、物議を醸し出しました。2009年1月7日、彼は虚血性心不全で死去しました。享年75(満73歳)でした。その日の朝、妻から出勤前に病院に寄ることを勧められたものの、今日は特に大事な日だからとそれを断り、昭和天皇20度目の命日祭を終えた後に倒れたということです。このように、南部利昭氏は靖国神社宮司としての責務を全うしたのですが、皆さんのご意見をお伺いしたいところです。

(385) 他にも「東北」及び新潟県出身者には軍人が多いのです。中でも天才的な戦略家と名高かった石原莞爾 (1889-1949;最終階級は陸軍中将)は、大変興味深い人です。自身が山形県鶴岡市出身だったため、経済的に恵まれない「東北」の新兵たちに配慮し、彼らを軍務一筋に努力させるために、東北貧農救済対策を徹底的に実行しました。その内容は、兵の家庭調査、冷害凶作に対する施策、除隊みやげの全廃、戦友会の開催、演習による農作物被害の防止など多岐にわたりました。ただ、石原莞爾という人を評価するのはある意味東條英機以上に難しいのです。満州国立案者でもありながら、1936年の二・二六事件の際には戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧に当たっています。昭和天皇をして、「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐しているのです。1937年9月に関東軍参謀副長を任命されて10月には新京に着任します。翌年の春から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、1938年に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに1939年には留守第16師団に着任して師団長に補せられます。しかし太平洋戦争開戦前の1941年3月に現役を退いて予備役へ編入されてしまい、その後は立命館大学講師をしましたが、そこでも軍事学の講座などを行い、さらに国防学研究所を設置したことで、東條の監視が強まり、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告され、ついには大学を辞して帰郷してしまいます。
  太平洋戦争に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対反対であると説きましたが、ついに受け入れられることはありませんでした。中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探るのですが、重光葵や米内光政の反対にあい失敗します。『世界最終戦論』(後「最終戦争論」と改題)を唱え東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与えます。
  熱心な日蓮主義者でもあり、宮沢賢治と同じく田中智学主宰の国柱会に所属し、賢治の遺言により、石原にも『法華経』が贈られました。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説です。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していました。これは1910年ごろの着想ですから恐らく世界で一番早くその結論に至っていたのではないかと推察されます。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしているのも現在考えてももっともな意見です。
  東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れましたが、それからも石原自らが重大な戦犯であることを主張し続けました。戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサー元帥 (Douglas MacArthur, 1880-1964)やトルーマン(Harry S. Truman, 1884-1972; 33rd USA President.1884-1972)らを批判しました。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張しました。総じて石原は奇人・変人と言われ、彼の奇妙な行動を伝える多くのエピソードが伝えられています。元衆議院議員の加藤精三、その息子で現衆議院議員の加藤紘一は親戚にあたるようです。("Wikipedia"参照)

(386) 不思議なことに「東北」および北海道出身者のうち、2010年1月現在、岩手県からしか首相を輩出しておりません。岩手県からは、第10代内閣総理大臣原敬、第19代斎藤 実、第26代米内光政、第27代東條英機 (本籍地岩手;出身は東京都)、第44代鈴木善幸です。こうしてみると戦前に多いのが特徴ですし、3人が軍人政治家です。ちなみに2007年9月に第57代内閣総理大臣になった福田康夫まで、一番首相を輩出してきたのは明治維新功労者の多い山口県8人(戦前5名;戦後3名で最近では第56代首相阿倍晋三)、ついで岩手5名(東條英機含む)、東京4名(東條英機含む)、群馬4名(すべて戦後で最近では第57代福田康夫)でした。戦後になって、群馬県出身者が多いのは興味深いですね。

(387) さて、経済にも目を向けてみましょう。明治以降、富国強兵政策が軌道に乗って来ると、商品経済の波が「東北」地方にも及び、現金収入(商品作物・余剰米)の少なかった農村では余剰労働力が増加しました。「東北」地方では、福島県の工業、秋田県の鉱業は発展していたのですが、全般的に産業発展が後れており、また、城下町や港町の経済近代化が後れたため、それら余剰労働力の全てを吸収することが出来ずに労働力流出を招きました。そのため、関東などの工業地帯に移住したり(第一次産業→第二次産業)、満州国やハワイに集団移住したり(第一次産業→第一次産業)する者が現れました。戦後の高度経済成長時代になると、第一次産業の余剰労働力は、京浜工業地帯(第二次産業)に「金の卵」として集団就職しました。このように、戊辰戦争敗戦から(太平洋ベルトの)高度経済成長期まで、「東北」地方では、「移住」(集団移住)による労働力大量流出の時代が続きました。("Wikipedia"参照)

(388) 1970年代前半に起きたニクソン・ショック (Nixon shock 1971)*とオイル・ショック (the Oil Crisis 1972)によって高度経済成長が終わると、東京の成長が鈍り始め、「東北」地方から東京への労働力供給は、「移住」から「出稼ぎ」のような季節労働が主体となります。この時期には、田中角栄が「日本列島改造論」を掲げて、地方への富の再分配(地方への公共投資による太平洋ベルト地帯との格差縮小)を進めたため、「東北」地方も基盤整備が進みました。地方における公共投資の窓口は県庁や市役所、町村役場であるので、資金はこれらの地方自治体の役所を経由することになり、役所は地域における最大の 「企業」として肥大化していきました。国から潤沢に公金が入る「県庁」が 「巨大企業」として君臨することとなり、その企業城下町である県庁所在地の拠点化が進みました。現在でも、「岩手県庁」は「岩手県最大の企業」と揶揄されますし、宮城県を除く「東北」各県庁も同様です。それだけ他の地元産業が振るわないということでもあります。("Wikipedia"参照)
  [*1971年(昭和46)8月、アメリカ大統領ニクソン(Richard Milhous Nixon, 1913-1994;第37代大統領, 1969-1974;Water Gate事件で辞任)によって発表された金・ドル交換停止などを内容とする新経済政策(後にNixonomicsと呼ばれた)により世界経済が深刻な衝撃を受けた事件;「ドル防衛策」により変動為替相場制へと移行し、それまで1ドル=360円であった円相場が急上昇したため、「日本」の輸出産業が大打撃を受けた。]

(389) すると、社会的流出の鈍化が起き、更に、第二次ベビーブームの影響もあって、「東北」地方は人口増の時代に入りました。一方で消費経済も始まって第三次産業が大きく伸びたため、仙台を始めとした県庁所在地や、郡山を始めとした地方中核都市への人の移動が進み、各々が大きく人口を増やしました。このような都市化の進展は、経済の面では県域や地域区分よりも都市自体に意味を持たせたのですが、一方、政治の面では、巨大化した県庁が、己の支配権が及ぶ県域のみに執着したため、「東北」地方全体の連携や「北東北」・「南東北」という地域区分の意味は薄れました。しかし、結果として「東北」各県それぞれの自立を助けたのです。("Wikipedia"参照)

(390) 1970年代は東北自動車道が建設された時代であり、「東北」地方の流通が、鉄道からトラックなどの自動車に大きく変化した時代でもありました。仙台には、国道4号・仙台バイパスが1966年に供用開始となると同時に広大な流通団地が形成され、1970年代以降、「東北」地方全体に商品を供給する「卸売り・流通の中心地」となりました。ただし、現在のように「東北」地方各都市から集客する「小売の中心地」ではありませんでした。長距離流通に適する鉄道から中・短距離流通に適するトラック流通への変化によって、それぞれの県庁所在地や地方中核都市の隣接地にも流通地区が設けられ、都市基盤が整備されました。流通地区を有する都市は商品であふれ、商業が発展して人口も増加しました。時代が進むにつれ、トラックの燃費が向上し、東北道(南北軸)以外の高速道路(東西軸)も整備されていったため、トラック流通は長距離流通にも対応していきました。そのため、県庁所在地ごと、地方中核都市ごとに流通拠点がある必要がなくなり、次の時代以降、北上市・仙台市・郡山市などの交通の要衝に陸上流通の拠点は集約していったのです。("Wikipedia"参照)

(391) 高度経済成長以後、「東北」地方では第三次産業への産業転換が進んで人口が増加し、一家に1台のモータリゼーション(motorization)時代となりました。各拠点都市では郊外化が進んだのですが、おのおのが、中心業務地区・中心商店街を中心とした都市圏を形成しました。バブル経済期に入ると、東北地方では一家に自動車が2台以上あるのが普通になります。同時に、消費行動の変化により「少品種多生産」から「多品種少生産」に工業・流通も変化したため、小口のトラック流通が主流になりました。それらの商品はそれぞれの都市圏に運ばれ、中心商店街やデパートでは、高級品まで取り揃えた商品が並び、都市圏の時代を謳歌することになります。「東北」地方のバブル経済は、東京都のバブルが弾けた後の1990年代初頭に頂点があり、東京都とは時差がありました。これは、東京都で土地売買の総量規制が施行され、動かなくなった資金が大阪市や福岡市や札幌市など地方の大都市に流れ、最終的に仙台市などの「東北」地方に回って来たためでした。("Wikipedia"参照)

[4g. 平成の「東北」]


(392) バブル経済の破綻は、国や地方自治体の負債の増大を招き、次第に地方交付税交付金や公共事業(補助金)の削減を招きました。そのため、田中角栄政権の時代から続いた「地方の最大の“企業”は地方自治体(県庁、市町村役所)」という図式が崩壊し始めたのです。現在も県庁および仙台市役所は、「東北」地方における「巨大企業」の地位にあり、かつ、地域経済のメイン・プレイヤーとなっています。しかし、宮城県庁は、歳出が最も多かった時から1500億円以上も歳出を削減し(地方の大企業1社の倒産に匹敵する額)、他の県庁も、借金(県債)の返済や人件費などの義務的経費に歳出が消えて、投資に回る財源が減ってきています。このような県庁や市役所という「大企業」(地方自治体)の経営不振は、その「企業」が立地している県庁所在地や地方中核都市の経済力低下を招きました。("Wikipedia"参照)

(393) 小規模な市町村の「役所」という「企業」も県庁と同様な経営不振の状況にあり、「平成の大合併」や「アウトソーシング」(outsourcing; 外注、外製;企業や行政の業務のうち専門的なものについて、それをより得意とする外部の企業等に委託すること)によって「コスト削減」をして、なんとか倒産を防ぐ試みが行われています。しかし、少子化による人口減、高齢化による社会福祉費の増大などにより、税収(売上)は少なく支出(経費)が多い状況が見え、「企業」としての先細りの感は否めません。従来、町村の有力"企業"は、1)役場、2)農協(流通・金融)、3)学校、4)工場、5)建設業、6)病院であり、若い労働力の就職先としても機能してきました。しかし、バブル期の金融で失敗した農協が、再編・広域合併などで財政執行権のない支店格化したり、平成不況で工場が閉鎖されたり、小泉政権下の公共事業の削減によって建設業が倒産して、有力「企業」は、役場・学校・病院になりました。近年、少子化のために学校が廃校になって地域から失われ、「平成の大合併」によって役場がなくなった地域も出てきました。現在は、高齢化によって「顧客(患者様)」が増加傾向にある病院のみが有力企業として生き残り、町村の形が「病院城下町」化した地域が多くなっています。ただし、医療費削減・医師不足・医療の機能分担などにより、病院も整理統合される可能性があります。("Wikipedia"参照)

(394) 平成の不況時代においては、ベンチャー企業の育成、あるいは域外からの投資によって地方経済は生き残らざるを得ません。域外からの投資によって成長をしている北上都市圏、地場の企業育成によって成長を見ている山形県の米沢都市圏や村山地方などの例はあるのですが、大半の地域では産業の育成が滞っています。そのため、「東北」地方全体でみると近年の人口減少は著しく、小学生以下の子を連れて東京に移住する例が多く見られ、合計特殊出生率の値云々よりも、実質的に生産年齢世代と子供がいない「限界集落」が続出し、実際に廃村となる地区も見られ、シャッター通りと並んで大きな問題になっています。("Wikipedia"参照)

[4h. 映画、ドラマ、文学の「東北」]


(395) 「東北」は「歌枕の国」とも呼ばれ、古くから『万葉集』や『古今和歌集』、『新古今和歌集』などに歌枕などに言及されてきました。白河の関周辺や大和朝廷に早くから服属した「日本海」側の新潟、山形、秋田南部の各地域はもとより、多賀城が設置された関係で多賀城や仙台周辺の地名(宮城野、名取川など)が多く登場します。このことに関しては、『高橋富雄東北学論集 第一部 東北論 東北学 地方からの日本学・第三集 奥ゆかし』(歴史春秋出版, 2003)などに詳しいです。

(396) 青森県を舞台にした映画は、『乱れ雲』(新田次郎原作; 1967 成瀬巳喜男監督作品; 司葉子, 加山雄三、森光子他出演)、『八甲田山』(1977 森谷司郎監督作品; 高倉健、北大路欣也、三國連太郎、加山雄三他出演)、『飢餓海峡』(水上勉原作; 1964 内田吐夢監督作品; 三國連太郎 、左幸子、伴淳三郎、高倉健他出演)などがあります。("Wikipedia"参照)

(397) 青森出身小説家では、なんといっても五所川原市出身の太宰治が有名です。『走れメロス』(1940)や『人間失格』(1948)などの有名作品の他、青森を舞台にした小説『津軽』(1944)が有名です。粗筋は、「私(津島修治)は、久しぶりに故郷・金木町(旧・金木村)に帰ることになった。そのついでに、津軽各地を見て回ることにして、懐かしい人々と再会する。そして、かつて自らの子守りをしてもらった、越野タケを探し当てる」というものです。東京を出て、竜飛岬、太宰の故郷五所川原市などへ行く行程もなかなか変化に富んでいるので、映画化もしくはドラマ化してほしい作品の一つです。また、弘前市紺屋町出身の鬼才寺山修司(1935-1983)も詩、小説、評論、映画監督など、各方面で膨大な量の興味深い作品を残しました。

(398) 青森県出身の作家には、太宰治 (五所川原市)の他に、今官一 (直木賞作家; 『壁の花』、弘前市)、葛西善蔵 (弘前市)、佐藤紅緑(俳人、小説家、作詞家、詩人サトウハチロー、作家佐藤愛子の父)、石坂洋次郎 (弘前市)、高木彬光 (推理小説家、『名探偵神津恭介』シリーズ、青森市)、北畠八穂 (女流作家)、三浦哲郎 (芥川賞作家「忍ぶ川」、八戸市)、寺山修司 (詩人、歌人、作家、映画監督、劇作家、競馬評論家、三沢市)、長部日出雄 (直木賞作家: 『津軽世去れ節』、『津軽じょんから節』、弘前市)、室井佑月 (八戸市)、川上健一 (小説家、『雨鱒の川』、十和田市)、西崎憲 (作家、翻訳家)、舟浩 (歴史作家、『臆病野州』)、佐々木俊介 (推理作家、青森市出身、『繭の夏』『模像殺人事件』)などがいます。("Wikipedia"参照)

(399) 秋田県を舞台にした映画はじつに多彩です。列挙すると、『馬』(1941)、『若い先生』(1941)、『そよかぜ』(1945; 主題歌は「リンゴの唄」「山と川のある町」(1956) )、『人間の条件』(1956)、『若い豹のむれ』(1959)、『男が命を賭ける時』(1959)、『雪の降る町に』(1962)、『民謡の旅 秋田おばこ』(1963)、『十七才は一度だけ』(1964)、『フランケンシュタイン対地底怪獣』 (1965)、『少年』(1969)、『砂の器』 (1974)、『思えば遠くへ来たもんだ』 (1980; 村田雄浩監督作品; 武田鉄矢主演でオススメ!)、『マタギ』 (1982)、『男はつらいよ寅次郎恋愛塾』 (1985;ロケ地は鹿角市)、『ひとひらの雪』(1985)、『君は裸足の神を見たか』(1986)、『イタズ 熊』 (1987)、『ハチ公物語』(1987神山征二郎監督作品)、『オーロラの下で』(1990)、『大往生』(1998)、『アカシアの町』(2000)、『釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?』(2004; マドンナ役江角マキコ)、『好きだ』(2006 石川寛監督作品; 主演 宮崎あおい、瑛太、永作博美 、西島秀俊他出演; ロケ地は大館市)、『デコトラの鷲 愛と涙の男鹿半島』(2007)などがありますね。("Wikipedia"参照)

(400) 秋田県出身の作家には、小野小町 (伝 現湯沢市出身)、 小林多喜二 (大館市)、石川達三 (横手市)、金子洋文 (秋田市)、矢田津世子 (五城目町)、後藤宙外 (大仙市)、内舘牧子 (秋田市)、西木正明 (仙北市)らがいます。("Wikipedia"参照)

(401) 岩手県関連の映画には、『情熱の詩人啄木』(1936)、『風の又三郎』(1940)、『馬』 (1941)、『花くれないに』 (1957)、『大怪獣バラン』 (1958)、『大いなる旅路』(1960)、『北上夜曲』(1961)、『北上川の初恋』(1961)、『われ一粒の麦なれど』(1964)、『家族』(1970)、『愛と死』(1971)、『同胞』(1975)、『八つ墓村』(1977)、『イーハトーブの赤い屋根』(1978)、『トラック野郎 一番星北へ帰る』(1978)、 『子育てごっこ』(三好京三原作; 1979)、『時代屋の女房』(1983)、『男はつらいよ 夜霧にむせぶ寅次郎』(1984)、『風の又三郎 ガラスのマント』(1989)、『息子』(1991 山田洋次監督作品)『あふれる熱い涙』 (田代廣孝監督作品 1992)、『釣りバカ日誌6』 (1993; ロケ地釜石市)、 『(ハル)』(1996)、『わが心の銀河鉄道 宮澤賢治物語』(1996)、『宮沢賢治 その愛』(1996)、『私の骨』(2001)、『壬生義士伝』(2003) 、『待合室』(2005)、『河童のクゥと夏休み』(2007)などがあります。やはり宮沢賢治関連の作品が多いのが特徴です。NHKドラマですと、『炎立つ』(1993)、『義経』(2005)、連続テレビ小説『どんど晴れ』(2007)などがあります。岩手県関連の時代劇というと、『壬生義士伝』以前には源義経関連の平泉ものが多かったのです。("Wikipedia"参照)

(402) 岩手県関連の文芸作品には、『陸奥甲冑記』(澤田ふじ子)、『あこがれ』 (石川啄木)、『遠野物語』 (柳田國男)、『炎立つ』(高橋克彦)、『ポラーノの広場』 (宮沢賢治)、『壬生義士伝』 (浅田次郎)、『吉里吉里人』(井上ひさし)、『無医村に花は微笑む』(将基面誠)、『球形の季節』(恩田陸)などがあります。("Wikipedia"参照)

(403) 宮城県関連の映画には、『磯川兵助功名噺』(1942)、『第五列の恐怖』(1942)、『出征前十二時間』(1943)、『三尺三五平』(1944)、『真珠母』(1953)、『大地の侍』(1956)、『新日本珍道中』(1958)、『キングコング対ゴジラ』(1962)、『青葉城の鬼』(1962)、『惜別の歌』(1963;ロケ地仙台市と松島町)、『影を斬る』(1963)、『赤い殺意』(1964)、『ほんだら剣法』(1965)、『青葉繁れる』(井上ひさし原作; 1974)、『ゴジラvsメカゴジラ』(1993)、『国会へ行こう!』(1993)、『ガメラ2 レギオン襲来』(1996)、『緑の街』(1997)、『非・バランス』(魚住直子原作; 2000)、『千の風になって』(2004)、『小春小町』(2004)、『日本沈没』(2006)、『アヒルと鴨のコインロッカー』(2006)などがあります。ドラマには、NHK連続テレビ小説『はね駒』(1986)、NHK連続テレビ小説『天花』(2004)、NHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』(山本周五郎原作; 1970)、『西部警察 PART-III』(テレビ朝日 1983-1984)、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』(1987)、『ずっとあなたが好きだった』(TBS 1992)、『杜の都恋物語』(東日本放送制作 1997-1999)、『しあわせギフトお届け人シリーズ』(フジテレビ 2003, 2004)、『ざこ検事 潮貞志の事件簿シリーズ』(TBS 2002-2005)、などがあります。("Wikipedia"参照)

(404) 宮城県出身の作家では、蒼井里紗(放送作家)、大池唯雄、大久秀憲、奥山貴宏、小山歩、恩田陸、木村和久、草川俊、熊谷達也、佐伯一麦、佐左木俊郎、志賀直哉、庄司浅水、高任和夫、永沢光雄、藤原作弥、辺見庸、星亮一、真山青果、三浦明博、山田野理夫、若合春侑などがいます。("Wikipedia"参照)

(405) 山形県関連の映画といえば、まず思い出すのは一連の藤沢周平作品の映画です:『たそがれ清兵衛』(2002 山田洋次監督作品)、『隠し剣 鬼の爪』(2004 山田洋次監督作品)、『蝉しぐれ』(2005 黒土三男監督作品;ドラマのほうがオススメ)、『武士の一分』(2006 山田洋次監督作品)。以上4作品(藤沢周平原作)の舞台となっている海坂藩は庄内藩(現在の鶴岡市)をモデルにしており、ロケの多くも庄内地方で行われたそうです。他には、『湯殿山麓呪い村』(1984)、『ゴジラvsスペースゴジラ』 (1994; スペースゴジラが山形駅周辺を襲撃!)、『おもひでぽろぽろ』 (1991 高畑勲監督作品ジブリ・アニメ; 山形市高瀬地区が舞台)、『おにぎり ARCADIA物語』(2004; 南陽市が舞台)、『スウィングガールズ』(2004 矢口史靖監督作品; 置賜地方が舞台で、ロケも置賜地方;オススメ)、『ユビサキから世界を』(2006; ロックバンド アンダーグラフの同名シングルより)などがあります。("Wikipedia"参照)

(406) 山形県関連のドラマといえば何といってもNHK連続テレビ小説『おしん』(1983-1984)が山形県のイメージを日本のみならず世界各国で決定づけています。特に中東諸国での『おしん』人気はすさまじいものがあります。『いちばん星』((1977 NHK連続テレビ小説; 天童市出身の歌手佐藤千夜子 (1897-1968)をモデルに描く;ロケ地も天童市)。『西部警察 PART-III』、『走る炎!! 酒田大追跡ー山形篇ー』、『誘拐! 山形・蔵王ルートー山形篇ー』でもそれぞれ酒田市、上山市がロケ地になりました。("Wikipedia"参照)

(407) 山形県出身の作家には、高山樗牛、藤沢周平、井上ひさし、佐藤賢一、浜田廣介、丸谷才一、阿部和重、奥泉光、羽田奈緒子、荒井良二、中村晃、相澤嘉久治(放送作家)、鈴木淳史(音楽評論家)などがいます。俳人・詩人・歌人には、斎藤茂吉、鷹羽狩行、吉野弘、真壁仁などがいます。("Wikipedia"参照) *

(408) 福島県関連の映画は、いわき市の常磐ハワイアン・センターの創生期を描いた『フラガール』(2006)が有名です。他には、『白虎隊』(テレビ朝日 2007)では勿論会津若松市がロケ地になりました。ドラマ『演歌の女王』NTV 2007)では、会津芦ノ牧温泉が登場しました。『花より男子2』(TBS 2007)で道明寺司の回帰祝いが行われたスキー場は会津芦ノ牧温泉です。

(409) 福島県出身の作家には、愛川晶、青山南、古川日出男、水野仙子、中山義秀、東野辺薫、玄侑宗久、永岡慶之助、横光利一、室井光広、西川満、杉本蓮、鐸木能光、山川惣治などがいます。詩人には、長田弘、草野心平、田中冬二、服部躬治、宮沢せな、などがいます。("Wikipedia"参照)

[4i. 岩手の三人の作家・詩人]


(410) 石川 啄木(1886-1912)は明治時代の歌人・詩人・評論家で、本名は、石川 一(はじめ)です。岩手県南岩手郡日戸村(現在の盛岡市玉山区日戸)の曹洞宗日照山常光寺の住職であった石川一禎の長子として生まれました。1887年(明治20年)3月に、父が渋民村(現在の盛岡市玉山区渋民)にある宝徳寺住職に転任したのにともなって一家で渋民村へ移住しました。渋民尋常小学校、盛岡高等小学校、岩手県盛岡尋常中学校(啄木入学の翌年、岩手県盛岡中学と改名、現盛岡一高)で学び、小学校からは盛岡市内に居住しました。中学時代に、のちに妻となる堀合節子や、親友の岡山不衣、金田一京助らと知り合います。『明星』を読んで与謝野晶子らの短歌に傾倒し、また上級生の野村長一(のちの野村胡堂)及川古志郎らの影響を受け文学への志を抱く。短歌会白羊会を結成したのもこの頃でした。1901年(明治34年)12月から翌年にかけて友人とともに『岩手日報』に短歌を発表し、啄木の作品も「翠江」の筆名で掲載されます。これが初めて活字となった啄木の短歌でした。テスト中のカンニング発覚(同級の船越金五郎の日記に記載)・欠席の多さ・成績の悪さなどの理由から退学勧告を受け、1902年(明治35年)10月27日に中学校を退学し、文学で身を立てる決意をもって上京し、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に通いました。11月9日、雑誌『明星』への投稿でつながりがあった新詩社の集まりに参加、翌10日は与謝野夫妻を訪ねます。出版社への就職もうまく行かず、発病もあり、翌1903年(明治36年)2月父に迎えられ故郷に帰りました。5月から6月にかけ『岩手日報』に評論を連載、11月には『明星』に再び短歌を発表、新詩社同人となります。執筆に啄木のペンネームを使い始め、12月には啄木名で『明星』に長詩「愁調」を掲載、歌壇で注目されます。
  1904年(明治37年)1月8日、盛岡にて恋愛が続いていた堀合節子と将来の話をし、6日後に堀合家から婚約に関して同意を得られました(啄木19歳)。1905年(明治38年)1月5日、新詩社の新年会に参加します。故郷では3月になり父親が宗費滞納のため渋民村宝徳寺を一家で退去するという事態が起きていました。5月3日、出版費用を自分でも集め小田島書房より第一詩集『あこがれ』を刊行します。上田敏による序詩、与謝野鉄幹の跋文付きでした。5月12日、啄木は不在でしたが堀合節子の婚姻届を父親が盛岡市役所に提出します。啄木は親戚が集まった形式的な結婚式には欠席しましたが、6月4日盛岡に帰り、父母、妹光子との同居で新婚生活を送ります(この啄木新婚の家は公開しています)。一家の扶養も啄木が負うようになります。同月、『岩手日報』にエッセイ他を「閑天地」と題して連載します。1906年(明治39年)2月17日、函館駅長の義兄を訪問し一家の窮状打開を相談するも解決できなかった。4月14日、渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務します(この建物は玉山区の啄木記念館脇に移築されて公開されております)。啄木は自らを「日本一の代用教員」とうそぶきました。21日には徴兵検査で筋骨薄弱にて徴集が免除されます。落ち着いた生活が続いたのですが、翌1907年(明治40年)4月1日、新生活を北海道で開かんとし、教職を離れる決意、辞表を出したところ、引き留められました。しかしストライキ騒ぎで結局退職してしまいます。
  1907年(明治40年)5月5日、函館に移るのですが妻子は盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託しました。6月、弥生尋常小学校の代用教員となり、そこで片想いの女性・橘智恵子と知り合います。8月には『函館日日新聞』遊軍記者も兼ねます。ところが、函館大火に遭遇し、9月、札幌で『北門新報』の校正係となります。9月末、さらに小樽に移り、近く創刊される『小樽日報』の記者となるのですが、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社します。『小樽日報』では野口雨情が同僚でした。1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義演説会」で当時の社会主義者、西川光次郎の講演を聞き、西川と面識を得る。家族を小樽に残し、旧釧路新聞社に勤務するのですが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動にあこがれ釧路を離れる決意をします。
  1908年(明治41年)4月28日より東京、千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在します。5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席しました。5月4日、中学で一学年上であった金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むのですが成功せず。逼迫した生活の中、6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など後に知れ渡る歌を含め、続けて246首作り、翌月の『明星』に発表します。啄木は金田一が結婚するまで借金を含め友人として支援を受けます。1909年(明治42年)1月1日、当用日記に「今日から24歳(数え年)」と記します。就職活動がみのり、3月1日『東京朝日新聞』の校正係となりました。6月16日、函館から家族(妻子と母)が到着、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移ります。10月、妻節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かうのですが、金田一の尽力で暫く後に戻ります。12月になり父も同居します。1910年(明治43年)、3月下旬、『二葉亭全集』の校正を終えるのですが、引き続き刊行事務全般も受け持ちました。5月下旬から6月上旬にかけて小説『我等の一団と彼』を執筆しました。9月15日、『朝日新聞』紙上に朝日歌壇がつくられ選者となりました。10月4日、長男真一が誕生、しかし27日には病死してしまいます。12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂より刊行します(満24歳)。1911年(明治44年)1月、友人の平出修弁護士と会い幸徳秋水の弁護士宛「意見書」を借用します。啄木は、「大逆事件」の拘引以前から社会主義思想にひかれていたのですが、幸徳の「陳弁書」を読み、より深く研究し始めます。1月10日、アメリカで秘密出版され日本国内に送付されたクロポトキン著の小冊子『青年に訴ふ』(大杉栄訳か?)の寄贈を歌人谷静湖より受け愛読します。1月13日、土岐哀果と会い、雑誌『樹木と果実』刊行計画を相談しますが、実現はしませんでした。
  1911年(明治44年)7月28日、自身に続いて、妻も肺尖カタルと診断されます。8月7日、病気回復を願い、環境が少しよい小石川区久堅町へ移ります(現・文京区小石川5-11-7宇津木マンション)。9月3日、父が家出をします。12月、啄木は腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続きました。1912年(明治45年)3月7日、啄木の生母が死去します。4月9日、土岐は第二歌集刊行の話を啄木に伝えました。4月13日、啄木は、小石川区久堅町にて、肺結核で死去しました。妻、父、友人の若山牧水にみとられました。享年26でした。("Wikipedia"参照)

[DVD [VHS] 15: 『啄木歌ごよみ』 NHK 1996]



少年石川啄木銅像、岩手県盛岡市大通り


(411) 宮沢賢治(宮澤賢治)(1896-1933)は、日本の詩人・童話作家・農業指導家・教育者。 郷土岩手の地を深く愛し、作品中に登場する架空の地名、理想郷を「岩手(いはて)」をエスペラント風にしたイーハトヴ(Ihatov)(イーハトーブあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等)と名づけました。その空前・独特の魅力にあふれた作品群によって没後世評が急速に高まり国民的作家とされるようになったのです。生前に刊行された唯一の詩集として『春と修羅』(1924)、同じく童話集として『注文の多い料理店』(1924)がある。また、生前に雑誌や新聞に投稿・寄稿した作品、たとえば『やまなし』『グスコーブドリの伝記』なども少ないながら存在します。ただし、賢治が受け取った原稿料は、雑誌『愛国婦人』に投稿した童話『雪わたり』で得た5円だけであったといわれております。 しかし生前から注目されていた経緯もあり、死の直後から多数の作品が発表され続け、何度も全集が刊行されました。
  広く作品世界を覆っているのは、作者みずからの裕福な出自と、郷土の農民の悲惨な境遇との対比が生んだ贖罪感や自己犠牲精神です。また、作者の芸術の根底には幼い頃から親しんだ仏教、とくに「法華経」の強い影響もあります。その主な契機としては浄土真宗の暁烏敏らの講話・説教が挙げられますが、特に18歳の時に同宗の学僧島地大等編訳の法華経を読んで深い感銘を受けたと言われています。この法華経信仰の高まりにより賢治は後に国粋主義の法華宗教団国柱会に入信しますが、法華宗は当時の宮沢家とは宗派違いでしたので、父親との対立を深めることとなりました。弱者に対する献身的精神、強者への嫌悪などの要素はこれらの経緯と深い関わりがあると思われます。また、良き理解者としての妹トシの死が与えた喪失感は以後の作品に特有の陰影を加えました。特筆すべきは作者の特異で旺盛な自然との交感力です。それは作品に極めて個性的な魅力を与えました。賢治作品の持つ圧倒的魅力はこの天性を抜きには説明できません。
  賢治の作品にはコスモポリタン的な雰囲気があり、軍国的要素やナショナリズム的な要素を直接反映した作品はほとんどみられないのですが、賢治は24歳に国柱会に入信してから、時期によって活動・傾倒の度合いに差はあるものの生涯その一員であり続けたので、その社会的活動や自己犠牲的な思想について、当時のファシズム的風潮や国柱会、ユートピア思想(「新しき村(武者小路実篤)」、「有島共生農場」(有島武郎)、トルストイ・徳富蘆花、「満州・王道楽土」(農本主義者・加藤完治)など)の影響を考えるべきであるという見解もあります。 戦後は賢治の生き方や作品にみられるヒューマニズムや平和主義的側面が注目され、特に近年はエコロジー思想とも関連づけられて高く評価されることが多いようです。
  賢治は、いったん完成した作品でも徹底して手を加えて他の作品に改作することが珍しくありませんでした。この点から賢治は「最終的な完成」がない特異な創作概念を持っていたという見方があり、自身が書き残した『農民芸術概論綱要』においても「永久の未完成これ完成である」という記述があります。多くの作品が死後に未定稿のまま残されたこともあり、作品によっては何度もの修正の跡が残されて全集の編集者が判読に苦労するケースも少なくありませんでした。そうした背景から、原稿の徹底した調査に基づき逐次形態をすべて明らかにする『校本 宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973-77年)が刊行され、作品内容の整理が図られました。("Wikipedia"参照)

[DVD 16: 『種山ヶ原の夜』 2006]



なめとこ山登頂成功!: 賢治の童話「なめとこ山の熊」の舞台 (岩手県花巻市豊沢)


(412) 高橋 克彦(1947- )は、岩手県釜石市生まれで、盛岡市在住の小説家です。岩手高等学校を卒業した後、早稲田大学商学部で学びました。南部藩の御殿医の家系で開業医の家庭に育ち、医学部受験の経験があります。エッセイストの高橋喜平と、「どろ亀さん」の愛称で親しまれた東大名誉教授の高橋延清は伯父にあたるそうです。また、和賀郡西和賀町の博物館で有名な碧祥寺の第14第住職はやはり彼の伯父にあたるそうです。高橋克彦は高校生時代にヨーロッパに長期旅行して、ビートルズに会った最初の日本人となったということです(『幻日』2003参照)。また、その旅行中に交通事故を起こして旅費の大半を失うという経験をしています。そのときの経験を小説化して『小説現代』のコンテストに応募。当時の編集長に「十年間何も書くな」と言われ(婉曲的に作家は向いていないと言われた)、忠実にそれを守ったそうです。大学卒業後浮世絵の研究者となり、久慈市のアレン短期大学(2006年廃止)専任講師となります。1983年に『写楽殺人事件』で江戸川乱歩賞を受賞してデビューしました。 『総門谷』、『竜の柩』などのアクション伝奇小説(広意のSF)、『炎立つ』、『火怨』などの歴史小説のほか、ホラー、ミステリー、時代小説など、幅広いジャンルで活躍する作家です。高橋はサブカルチャーに造詣が深く、民族的マイノリティーの視点や軽音楽、オカルト、UFO、などにしばしば言及します。 対談集の『1999年』(絶版)は、あまりのビリーバーぶりが「と学会」で取り上げられているようです。
  高橋の小説は、「東北」地方を舞台とすることが多いのです。NHK大河ドラマでも、1993年の『炎立つ』(第1部、第2部のみ)、2001年の『北条時宗』の原作を担当しました。他にも『火城』(1992)、『炎立つ』(1992-1994)、『火怨』(1999)、『時宗』(2000-2001)、『天を衝く』(2001)、『風の陣』(1994-)などが「東北」とくに岩手県を舞台にすることが多いのです。『火怨』によってアテルイやモレや蝦夷側から見た「東北」史の再考が巷でもブームになりましたし、『天を衝く』によってそれまでほとんど忘れ去られていた九戸政実の乱の歴史的意義が脚光を浴びるなど、彼の歴史小説が「東北学」を盛り上げているのです。("Wikipedia"参照)

(413) 以上、見てきたように、「東北」地方は何度も「日本」に対し戦いを挑み、その度に敗れ、結果として現在のように「日本国」に組み込まれました。九州南部や沖縄、北海道やいわゆる「裏日本」と言われる地域についても、同様に歴史的に論じ、また証明することが重要です。我々の住む「日本国」は実は列島諸地域に本来存在した多様性をすべて「日本」や「日本語」によっ て覆い隠した結果現在の姿となった国家です。

(414) 「東北」という場所が、古来、異文化接触の場所であったことは言うまでもありません。それだけならば、べつに「東北」にかぎったことではないのですが、「東北」は、「日本」の漢字文化が確立してから後、つまり有史時代以降の歴史のなかにその異文化接触の痕跡を深く刻み込んでいます。

(415) 坂上田村麻呂源義経をめぐる伝承文学、さらに『奥の細道』などの「日本語文学」は、古代・中世・近世の東北を舞台にした「日本」の植民地文学としての共通するひとつの系譜の上に位置づけられます。しかも近世以降、「日本」の経済システムの一部に組みこまれてから後もまだまだ日本の奥として辺境の位置にあった「東 北」は、近代以降は北海道以北の植民地主義にさまざまな意味で加担することになり、たとえば樺太(サハリン)への植民政策に人材その他の供給の面で貢献するなど、「東北」の歴史は、コロンブスによるアメリカ発見以降の西洋植民地主義がもたらしたものと歴史的にかなり近いものでした。

*西成彦天沢退二郎編、『宮沢賢治ハンドブック』「クレオール」69.






5. 「東北」と「アイルランド」、「ユダヤ」の類似点・相違点


(416) 共通点:
   1. 文化的ルーツ:蝦夷 (アイヌ) vs.ケルト vs. ユダヤ
   2. 侵略と文化的同化の脅威:大和朝廷 (日本) vs.ローマ帝国 vs. 大英帝国
   3. 侵略に対する数度にわたる民族的抵抗と敗戦

(417) 相違点:
  1. 近代「日本国」は、(各地に部落民などへの差別はありましたが)「日本国」の範囲内であれば一応日本人と認め、日本語と日本文化を普及させ、「同化」に成功しました。ただ、この政策方針は各地方に独自の文化を認めず、「日本国」を全国どこでも同じような没個性的「金太郎飴のような日本文化の国」にしてしまいました。
  2. アイルランドには依然としてケルト文化が残っていますが、「東北」には地名を除いてほとんど蝦夷(アイヌ)文化の痕跡がありません。
   3.結果として、「東北」には古来の文化がわずかしか残っていないのです。これはよい面、悪い面があります。
   4. ユダヤ民族は各地に分散し、各地で同じ信仰と文化を子孫に伝えましたが、厳密に言えば、細部は大分異なります。

(418) ただ、アイルランドに古来のケルト文化が根強く残っているとはいえ、ケルト本来の言語(Gaelic)を話せる人たちはごく一部です。最近(とくにポーランド、ナイジェリアと中国から)急速に増加傾向にある移民を除き、アイルランド人のうち95%以上は英語を母国語として話し、残りの5%も英語を支障なく使います。英語を話すことは、英米への移民の際、またビジネス上、断然有利ですし、英語を用いて自分たちのケルト的ルーツを表現することで、偉大な芸術家に成り得た例も数多くあります。ただ、やはり本来のケルト語をきちんと話せないということは、アイルランドにとってジレンマです。ということで、本来のケルト語を保護しようと、アイルランド語の国歌を意味のよく理解出来ない小学生たちに暗唱させたり、道路標識なども敢えてケルト語表記を上部に記すなど、いろいろとケルト文化保護政策がとられております。





6. これからの「東北」:日本の東北から世界の「東北」へ


(419) 中沢新一は、『哲学の東北』(青土社 1995)という本の中でこう述べます:
  「東北はどこの世界にもある、というのが僕の考えです。日本の東北だけではなしに、ヨーロッパの東北、世界の東北というのが存在しています。...それに、地理の上のことだけではなく、映画の東北、音楽の東北、料理の東北、政治の東北、そして、哲学の東北というものがあります。...しかし、日本の場合、そのヴァーチャルな東北は、偶然にも、地理上の東北として、出現したわけです。」(『哲学の東北』所収「過ぎ越しの賢治」111-112)

(420) 中沢新一は続けます:
  「たとえば、哲学的な思考は、たちまち肉体を離れて、純粋思考の中に入ってしまうものですが、東北的なものは、それに抵抗をしめします。不透明な肉体的なものが、純粋思考の歩みにあらがって、それを妨害しようとしているのです。...肉体から離れた、明晰な魂やイデアなどを、考えようとする傾向に、東北的なものは、つねに抵抗するのです。...肉体をかきわけながら、表面へ向かって現れでてきて、その肉体的なものの抵抗感というのは、最後まで消えることがない。... 肉体的なもの、大地のようなものをかきわけ、過ぎ越してくる、そういう感覚が、最後まで残るのです。...それをむしろダンディなことだ、ととらえるのが、東北的センスと言えるのではないでしょうか。」(『哲学の東北』所収「過ぎ越しの賢治」113)

(421) 近代「日本」において、「東北」はしばしば(アイルランドではなく)スコットランドと比較されてきました。東北学院・宮城学院創立者 押川方義は「東北をして日本に於けるスコットランド たらしめん」と言いました。内村鑑三、島崎藤村、大川周名などのほか宣教師クリストファー・ノッス(Christopher Noss, 1869-1934)やアルフレッド・ヒッチコック (Alfred H. Hitchcock)のOver Japan Way (『日本風』; New York: H. Holt and Con., 1917)も同様に「東北」とスコットランドの比較論を唱えました。

(422) しかし、大英帝国内のイングランド人、ウエールズ人、スコットランド人、アイルランド人の言語は互いにまったく「別境」の風であってその相違は「日本」における「東北」と「西南」の違いどころではない、と岩倉使節団の公式報告書『特命全権大使米欧回覧実記』(1871-1873)にあります。また、夏目漱石も1902年秋にスコットランド旅行に出かけ、エディンバラ大学を留学しようかと迷い、結局「エディンバラ辺りの英語は発音が大変に違い、日本の仙台弁のようなものであるから、せっかく英語を学びに来たのに仙台弁を覚えて帰っても仕方がない」と1901年2月9日付狩野亭吉ほか宛書簡に記しています。

(423) この講義の最後にみなさんに伝えたいことは、大英帝国の影響を強烈に受けつつも小国ながら文化・文学大国であるアイルランド人のように、そして、ローマ帝国によって祖国を失いながら、二千年近く世界を放浪し分散しながら、父祖の土地にイスラエルを建国・再建したイスラエルの人々のように、自分たちのルーツ、「蝦夷」と言われた時代、「黄金文化の奥州平泉」を誇りを持ってほしいということです。「日本」や「日本人」、「日本語」という全統思想のヴェールによって覆い隠された、列島諸地域の多様性、多層性にどうか今一度目を向けてほしいのです。自分の生まれた「東北」そして「岩手」の素晴らしい過去の歴史とこれからの無尽蔵の可能性に目を向けてほしいのです。

(424) 私の"Atelier Aterui"という英語サイトは、もちろん、奥州市水沢区の英雄アテルイにちなんだものです。このサイトの設立趣旨は、かつて宮沢賢治が岩手をIhatovと表記したように、岩手をIwateとして、盛岡をMoriokaとして英語で写真を多用して紹介することなのです。

(425) 最近、「グローカライゼーション」(glocalization)という言葉が使われ出しています。それは、「地域の」(local)と「世界化」 (globalization)という言葉を合成したものです。もっと、現在の「日本」に埋没したアテルイや平泉の残した文化遺産に目を向けてみませんか?「日本」の諸地域とは異なる「岩手」の「異文化性」を発掘してみませんか?身近なところでは、「盛岡冷麺」は北朝鮮、「盛岡じゃじゃ麺」は中国との異文化交流が生んだものです。あるいは、かつて平泉が独自に中国やロシアと交易して達成したように、「異文化交流」であなた方もこの「岩手」にわくわくするものを創造しませんか?私たちが住んでいるのは、「東北」の「岩手」という、日本の中では決して経済的に豊かとはいえない土地ですし、ご存じのように全国的にも少子高齢化や過疎化が進む後進地域なのかもしれませんが、少しだけ見方を変えてみてください。何もいつも東京や大都市を基準にしなくてもいいのです。基準は一つではありませんし、一つであってはならないのです。もっと自由な発想で、いろいろな価値観がなければいけません。そして、自由な発想で個性と個性が出会えば、また新たな価値観が生まれ、新たな文化が創造されます。「東北」と「アイルランド」の出会いもそうなのです。たとえば、年代も場所も全く違いますが、アテルイとマイケル・コリンズはその生涯といい、大帝国に対する戦い方(ゲリラ戦)といい、とても共通点があります。それに気がつきましたか?

(426) 平泉の遺構で往時の繁栄を想像することは難しくありません。アテルイの残した遺産は目に見えないものですが、我々が先祖代々受け継いで来た誇り高き「蝦夷」と呼ばれた、おそらくは「日本人」よりは、アイヌ民族に近い民族の血であり、またその精神的遺産なのです。岩手の県境が定まったのは明治初期ですから、まだ、130年あまりしか経っておりませんが、ここは素晴らしい歴史と自然を持つ、まだまだ発展出来る余地と余力がある(必ずしも産業的発展とは限りません)、実に魅力的なところではありませんか!

(427) 本講義で、ことさらに強調したいのは、アイルランドやユダヤの歴史のように、協力な征服者・帝国に何百年・何千年とかけて抵抗しなかった「東北」にも独自の文化、「日本」の他の地域と比較して、また、世界に誇りうる独自性が残されているのではないか、ということです。

(428) 異なる文化が二つ以上出会うと対立・反発し、混合することが多々あります。クレオール化とは、マルチニック生まれの詩人・作家・思想家のエドゥアール・グリッサンの打ち出したコンセプトであり、言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象。狭義には言語学でピジン言語がクレオール言語に変化していく過程を言います。ところが、一方の文化が他方に比較して優勢もしくは強力であるとすべてを飲み込んでしまうように見えます。ちょうど料理において個性の強い素材が個性の弱い素材の特徴を覆い隠してしまうようなものです。

(429) しかし、料理の場合、完全に混ぜるよりも「中途半端に混ぜる」ほうが素材の味が引き立つ場合が往々にしてあるのです。文化と文化の出会いもまた然りです。優勢なものが劣勢のものの個性を完全に消してしまうよりも、敢えて残してやることで多様性が生まれます。その多様性は大変面白いものです。宮沢賢治、石川啄木、高橋克彦といった、強烈な岩手県民意識を保持する文人も、たとえば西洋、あるいは北海道、関西、東京などの異質な文化との出会いがなければあれほどの特異性を放つことはなかったでしょう。この三人はまさに「コーヒーにミルクを入れて、あまりかき混ぜないでいる状態」で作品を描いています。なぜかき混ぜないのかと言えば、かき混ぜることによって自分たちの本来の味がミルクに覆い隠されてしまうのを嫌うからなのです。

(430) どうぞ私のホームページで「東北」の素晴らしさを確認してください。我々は、岩手をIwateとして世界に認知されるべく情報発信しております。また、それを世界にアピールすることで、新たな「異文化交流」がはじまります。みなさんもどうか「岩手」という土地に生まれたこと、生活していることに誇りを持って、我々のルーツである「岩手性」を積極的に活かしてください。そして、新たな出会いを常に求めてください。宮沢賢治石川啄木、最近では高橋克彦がそうであるように、「岩手性」は日本だけでなく、世界に向けて発信できる強烈な個性であり、独創性になるのです。そして、それは、「異文化」を持つ「他者」との交流で常に発展し、新たな文化が生まれる可能性を秘めているのです。




 
 
 
 



 



        


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