エスニック・カルチャーの表象形態としての音楽:ニューヨークとヒスパニック
志柿禎子
tengo el honor de ser hispano/ llevo el sabor del borincano/ mi color
morenito/ ya casi marron/ es orgullo del pueblo/ latino señor
おれはヒスパニック/ ボリンケン(プエルトリコ)の香りがする/ 褐色の肌は/栗色に近いが/ おれのあかしさ/ ラティーノの誇りなんだ、セニョール(Willy Colon, Color Americano)
1、ラテン・ポップとアメリカ
「6月なかば、曇り空の日曜日、五番街沿いは第42回プエルトリカンパレードを見物する200万を超える人出でごった返しした。この催しは、ニューヨークの祭典のなかでも並外れており、パレードでは、プエルトリコ人としての自負と喜びがサルサのメロディーにのって、華やかに繰り広げられた。かつて例をみないほどの盛大なパレードは、アメリカがラテン文化を自分たちのものとして受け入れた長い夏の始まりを告げていた。この夏は、ラジオを付ければリッキー・マーティンかジェニファー・ロペスの歌が聞こえ、テレビのニュースキャスターから有力な大統領候補まで、誰もかれもが、アメリカにおけるラテン系の影響力を認識し、敬意を払った夏でもあった
(On a cloudy Sunday in the middle of June, more than 2 million spectators stood fifteen deep along Fifth Avenue to watch the forty-second annual Puerto Rican Day Parade. It was, even as these New York celebrations go, an extraordinary event: both a dazzling display of ethnic pride and a joyous, salsa-driven party. The parade, the biggest ever, kicked off what would become a summer-long national embrace of Latino culture. A summer when it has been nearly impossible to turn on the radio without hearing Ricky Martin or Jennifer Lopez. A summer when everyone from television newscasters to potential presidential candidates has acknowledged and paid respect to the growing Latino influence in America.)。」
1999年9月、雑誌New Yorkは、ニューヨークにおけるラテン文化の隆盛をこのように伝えた。この記事は、単なる歌謡界の一時的な流行り廃りを伝えているのではない。米国におけるヒスパニック人口の増大という社会現象を扱っている。しかし、なぜこの時点において、ラテン系歌手の音楽がメインストゥリームに現れてきたと特別視されるのであろか。このことは何を意味しているのであろうか。スペイン語圏地域には、多様で豊かな独自の音楽文化が以前から存在し、音楽の宝庫と言われ続けてきたし、アメリカ合衆国(以下、アメリカと略)内におけるラテン音楽ブームの歴史も長く、セリア・クルス、ティト・プエンテ、ルベン・ブラーデスなど数多くのミュージシャンが活躍してきた。にもかかわらず、タイム誌も二十世紀も終わろうとする時期になって出現したラテン・ポップの現象を「コロンブスのプエルトリコ発見"discovering" Latin pop would be a bit like Columbus discovering Puerto Rico」と表現し、アメリカに浸透するラテン化現象の特集を組んでいる。いったい昨今のラテン音楽に何が起きているのであろうか。何がこれまでのラテン音楽ブームと異なるのであろうか。本稿ではこれらの点を解明するために、アメリカ国内におけるラテン音楽の歴史的推移を考察し、昨今のラテン・ポップ流行の現象に表れたエスニック・カルチャーの様相を明らかにする。
2、移住地におけるコミュニティの形成およびその文化の表象形態としての音楽文化の誕生
プエルトリコ社会における移住の歴史は長い。しかし、ニューヨークにプエルトリコ人が多く住み着くようになった経緯に関しては、米国との政治経済的な条件が深く関与している。20世紀以降急増したアメリカ本土移住という現象は、プエルトリコが1898年にアメリカの領土となり、その後、アメリカ市民権を賦与されたことが契機となっている。ニューヨークに移住した最初のプエルトリコ人たちは、マンハッタンのスペイン系のタバコ工場地域に移住し、1920年代の終わり頃にはイースト・ハーレムに住み着くようになった。特にこの時代、アメリカがヨーロッパ系以外の移民を厳しく制限したことが影響し、低賃金労働力の担い手として、移民制限を受けないプエルトリコ人が利用されたことも、多くのプエルトリコ人がこの地区に移住した要因となっている。このような移民の増加に伴い、アメリカ本土内にプエルトリコ人のコミュニティが徐々に形成されていった。スペイン語による雑誌や新聞の発行、スペイン語による芸術活動などが展開され、これらのコミュニティーの形成と歩調を合わせるように、ラテン系社会独自の音楽文化が形成されていった。1917-1940年にかけて、ニューヨークはプエルトリコ音楽の黄金の時期を迎え、多くの音楽家がこの都市に集まっている。プエルトリコ人の移民が頂点に達するのは1950年代で、その時期は「グラン・ミグラシオン(Gran Migracion)」と呼ばれている。また、1990年代のプエルトリコ人移民の増加は、増加率の数値こそ高くないものの、移住者数の多さから、グラン・ミグラシオンに匹敵する移民の時期だと言われている。そして、この二度の移民増加時期を経た後に、アメリカ本土でプエルトリコの音楽文化が開花しているのも興味深い。60年代から70年代にかけて、ニューヨークにサルサが生まれ、そして、21世紀を目前にしてラテン・ポップという音楽の流れを誕生させた。移民が多く集まれば、そこにコミュニティができあがり、そのコミュニティグループの文化活動が生じるのは自然の成り行きである。しかし、そこには、単なる特定のエスニック・カルチャーが形成されるだけではない。ニューヨークという特殊な文化を持つ社会のエキスが注ぎこまれ、新たな文化が育っていった。サルサやラテン・ポップという新しい音楽ジャンルを生み出した原動力はそこにある。そして、この現象は、ほかならず、ヒスパニック・コミュニティの文化の有り様を示している。
3、サルサを生み出したニューヨーク
70年代、ニューヨークのファニァ・レコード(Fania Records)が中心となって、アメリカ合衆国内の音楽市場を焦点として売り出したサルサは、国内にとどまらず、世界的なサルサブームを生み出した。
既に、プエルトリコ人移民が大幅に増加した40年代50年代、ニューヨークではアフロ・キューバ系ジャズやマンボが盛んに演奏されていた。しかし、1961年以降、キューバ革命を契機に米国とキューバの関係が悪化すると、キューバからのミュージシャンの訪問がとだえ、ニューヨークに根づいていたキューバ音楽の系譜は、増加を続けるプエルトリコ人たちの手によって発展していくことになった。このような歴史的条件が、キューバ音楽のリズムをベースにしながら、プエルトリコ人の手によってニューヨークに新しい音楽活動の歴史が刻まれていく要因となっていった。
同時に、20世紀前半から盛んに演奏されてきたキューバ系音楽を中心とするラテン・ミュージックに、ニューヨークという都会の文化が融合し始めていく。ニューヨークというエネルギッシュな都会のスピリッツがミックスされ、テンポが速くなり、攻撃的な演奏に変化し、叙情的な音楽は都会に蔓延する犯罪や貧困を語るようになった。それは、亜熱帯の島キューバに吹く風のもとで演奏されてきた音楽性とは異なるものである。キューバ音楽から変質し、ニューヨークの独自性がミックスされていったのである。
また、60年代から70年代にかけて、ラテン系の人々の音楽や風俗は、ニューヨークの文化に大きな影響を与えるようになっていた。ラテン・ミュージックのコンサートが開催され、ニューヨークで盛んに演奏されているラテン・ミュージックを、「サルサ」としてラジオ番組やテレビ番組が放映し、サルサの専門誌が発行された。75年にはサルサ賞のセレモニーが開催され、ニューヨークのサルサ・シーンが、サルサの発信地として世界のメディアに注目されていくようになる。このようにして、ニューヨークが生んだサルサは絶頂期を迎えていく。
ところで、サルサとは何かという質問に対して、キューバの音楽ソンのこと、と答える者もあれば、プエルトリコの音楽だと答える者もいる。これは、音楽の内実からすれば間違った答えではない。キューバ人から見れば、サルサと自分たちの音楽の何が異なるのか、疑問に思えるかもしれない。確かに、そのリズムは、キューバ音楽であり、プエルトリコの音楽なのである。当のニューヨークのミュージシャン自身が、何十年と同じ音楽活動をしながら、突然、「サルサ」と呼ばれることに戸惑いを見せている。だが、「サルサ」という言葉は、ラテン系ニューヨーカーが奏でるラテン音楽を指していう言葉として生まれたものであり、その意味でサルサとは、ニューヨークのラテン音楽を指しているのである。
70年代80年代にサルサのプロモーションに関わったIzzy Sanabria はニューヨークのラテン音楽をサルサとして売り出したいきさつを次のように述べている。
lways felt that “Latin Music” was too broad a term (for the sound being created by Latino New Yorkers) and that it needed its own name like Jazz, Rock & Roll, Disco, R&B, Blues, etc., in order to define and identify it as an entity unto itself. A new name and image was needed that people could get excited about and be able to relate to. Salsa was easy enough for anyone to pronounce and, remember. I thought Salsa was just perfect."
Izzy Sanabriaが述べているように、彼は、ニューヨークに存在するラテン系の音楽をラテン・ミュージックと呼ぶのではあまりにもとらえどころがなく、そこで生まれている音楽の実体を表しきれていないと感じていた。そして、サルサと呼び表すことで、ニューヨークで生まれているラテン音楽の実体に形が与えられた。それは、そこに多くのラテン系の人々が集い、そこに住む人々が育んでいた文化を具体的に表象する言葉が必要とされていたことを意味する。Izzy Sanabriaは、このことを次のように語っている。
"My idea was to sell Salsa as new music (which it was) and as an integral part of the cultural life-styles of young Latino New Yorkers. … Salsa is Latin Soul. Salsa is Flavor and Spice. Salsa es Ritmo! Rhythm, the basis of Salsa. African slaves brought their rhythms to the Caribbean, mixed with the Indian, European melodies, Spanish lyrics and gave birth to Latin music. The sons and daughters came here, mixed in the high energy of New York, the influence of Jazz, added in some brass, and Salsa was born!" (I always added that Salsa’s rhythmic origins were Cuban, but that it was the young Puerto Ricans that developed and kept it alive in New York City). "
サルサの音楽とは、Izzy Sanabriaが述べるように、奴隷制度を通してアフリカのリズムがカリブ地域にたどり着き、原住民の音楽と融合し、それらの音楽がジャズなどの影響を受けながらニューヨークのエネルギッシュな文化と融合したものである。そして、キューバのリズムをもとに、プエルトリコ人たちがその音楽の系譜を引き継ぎ、ニューヨークに根づかせたものである。それは確かにラテン音楽の伝統を持つものである。ただ、単にニューヨークのラテン系の人間が奏でている音楽という捉え方ではなく、ニューヨークという地域特殊性を持つ独自の音楽として捉え直している。そのことによって、サルサという新たなジャンルが加わったのである。それは、ニューヨークのラテン系のコミュニティが、独自の文化を生み出していることも意味する。つまり、20世紀になって急増したプエルトリコ人移民が、ニューヨークで自分たちの移民文化を作り上げたことを示していた。
同じことが、ラテン・ポップの誕生についても当てはまる。サルサを生み出した同じニューヨークのエネルギーが新しい音楽の波を生んでいく。それは、移民コミュニティの文化の産物である。移民が増加し、コミュニティが形成されると、そこに新しい文化が生まれていく。同時に、その文化のなかで育った次の世代は、さらに新しい文化を生み出していく。そこには、一世代目の移民とは異なる感覚が存在し、自分たちの世代の文化を表すものが必要とされているのである。
次の世代の若者たちは、移民一世たちが作り出したサルサでは不足を感じていた。親の世代、プエルトリコから移民してきた世代は、プエルトリコの文化を背負っていた。彼らにとって、アメリカに移住してきたカリブ地域出身の人間を表象する音楽がサルサであり、それが自分たちのアイデンティティのシンボルでもあった。だが、アメリカで生まれ育った世代は、サルサを耳にしながらも、サルサと同じレベルでロックもディスコ音楽も自分たちの音楽として耳にしている。一世代目の親たちにとって、英語は移住地の言葉であるが、そこで生まれ育った世代にとっては、それは自分たちアメリカの言葉である。言語に対する受けとめ方も親と異なる。ラテン・ポップが生まれてくる背景には、このような世代が増えたことが大きく影響している。
4、プエルトリコ人移民社会の質の変化、新たな世代、文化の出現
移民数の多さから、1950年代のプエルトリコ人移民時代と比較される1990年代、ニューヨークのラテン音楽シーンが、若い世代によって書き換えられた。ラテン・ポップといわれる新しい潮流が生み出された。ラテン音楽にポップを取り入れ、これまでのサルサとは異なる音楽シーンをアメリカにもたらし、世界市場で商業的成功を収めた。この音楽の特徴はニューヨークの街で流れているヒップ・ホップやダンス音楽などの要素を取り込んでいることである。
1990年代に、衰退し始めていたサルサにニューヨークの街の魂を吹き込み直し、ラテン・ミュージックの人気を取り戻したプロデューサーSergio Georgeの仕事をニューヨークタイムズは次のように報道している。
"They are all the sound of New York streets, intelligent, dance driven and, above all, cross-cultural. His music has caught a moment in which salsa has become more inclusive and more representative of the hybrid lives most of its consumers lead, part in the Hispanic world, part in the international world of New York. …
George himself grew up in East Harlem in the 60's and 70's, when it was an intense, culturally fluid neighborhood. His contemporaries were listening to American pop music; their parents, mostly first-generation immigrants from Puerto Rico, were listening to salsa. Local salsa bands, including those of the Palmieri Brothers and Tito Puente, performed in the street, and the sweet mingling of black American music and Afro-Caribbean music was everywhere.
The 80's had been a sterile era for salsa, and New York's Hispanic adolescents had turned away from the music, instead embracing reggae or hip-hop or dance music. George was on a mission to recapture those who were drifting away. In the early 90's, he started working with two former English-language club singers with Puerto Rican roots, La India and Anthony. "そして、Sergio George自身はそのいきさつを次のように語っている。"'I realized that the audience had changed'," said George. 'So I wanted with the first Marc Anthony record to get a hard American sound. I had to target youth, like myself originally, that weren't into salsa.'"
ニューヨークの街には様々な音楽が流れている。ニューヨークは、クロスカルチャーな場であり、ハイブリッドな街と称されている。つまり、ニューヨークはヒスパニックの街であるけれども、同時に世界中のあらゆる文化が混在する街である。
Sergio自身、60年代70年代とヒスパニック・ハーレムで育っている。彼自身は自分をアメリカ人だと考えていて、スペイン語をあまり話さなかったという。移民一世代である親たちはサルサを聞いていたが、彼と同世代の人間はアメリカのポップミュージックを聞いて育っている。街では黒人音楽の影響を受けたサルサが盛んに演奏されていた。しかし、若い世代は英語のロックやポップに親しみ、サルサを古臭いと感じていたのである。また、スペイン語にも興味が無く、両親が身を粉にして働き、疲れきっている姿を見て、早くそこから抜け出たいと願っていたと語っている。
つまり、親世代はスペイン語のサルサに親しみ、プエルトリコ人であることに自分たちのアイデンティティを見出していたが、アメリカで生まれ育った世代の子供たちは親たちとは異なる考えと感覚を持っていたのである。
“'Me and a few other friends were into Latin music,” he said. “But it was mostly considered corny.'…
er was a superintendent in the housing authority, and my mother did factory work as a seamstress. It was rough, and I saw the effect of the stress on them that life gives. I wanted to get out of the neighborhood.'…
'Spanish just wasn’t something my generation was into that much'”
しかし、コロンビアで一年間仕事をしたことを契機に、Sergioはスペイン語を覚え、ラティーノであることに誇りを見つけたと語っている。
80年代はサルサの流行りもおとろえ、レゲエやヒップホップが若者達の人気を集めていた。彼は、英語で歌うプエルトリコ人歌手Marc AnthonyやLa Indiaにアメリカのリズムを取り入れた音楽をプロデュースし、やがて、レゲエやコロンビア、ブラジル、ヒップホップ、サルサの要素を取り入れてスペイン語で歌わせるなどの新しい試みを取り入れて、90年代以降のラテン・ポップの流れを生み出していった。それは、自分たちと同世代の若い人たち、サルサ文化から離れた世代を狙った戦略であった。
“I knew there ware people like me who loved the sound of the language and ware dealing with being between cultures”このように、ラテン・ポップという新しい現象は、ヒスパニック社会のなかの若者たちが生み出したものである。それは、移民一世代のオリジナルのラテン文化とは異なり、アメリカ文化の影響を受けた新たなエスニック・カルチャーであることが分かる。つまり、新たな音楽ブームは、移民社会の変遷に沿って、その文化の有り様も変化をとげていく、ということを語っているのである。
5、新たな移民世代の表象形態としてのラテン・ポップ
キューバ系アメリカ人であるグロリア・エステファンをボーカリストとするマイアミサウンドマシーンは、1985年、キューバ音楽コンガを題名に付した英語の歌を大ヒットさせた。このグループの音楽は、カリブ地域の人々の主食であるライス、ビーンズとアメリカの料理であるハンバーガーを交差する音楽と呼ばれた。スペイン語メディアの普及のなかで育ち、アメリカポップの洗礼を受けたラテン系世代の英語で歌う歌手、クロスオーバー・スーパースター誕生の幕開けである。グロリアたちが音楽活動を始めた当時、ラテン音楽はアメリカで受け入れらない、と音楽業界は冷ややかであったが、実際には、それ以後、ラテン音楽は着実にアメリカ内に浸透していった。そして、昨今のラテン・ポップは、ヒスパニックが最大マイノリティになるアメリカのこれからの音楽とまで称されている。
“With Hispanics poised to become America’s largest minority group within the next few years, this music could be the sound of your future.”
キューバ系グロリア・エステファンから始まった英語で歌うラテン系ポップ歌手の進出は、メキシコ系歌手セレーナ、プエルトリコ系歌手のマーク・アンソニー、リッキー・マーティン、ジェニファー・ロペスと続き、そして最近ではエクアドル系のクリスティーナ・アギレラなどが人気を博し、アメリカの音楽市場を席巻している。これらのラテン系歌手の特徴は英語で歌っていることであり、そのことがこれまでのラテン系ミュージシャンとの大きな違いである。最近のラテン系ミュージシャンの特徴は、英語で歌い、かつヒスパニック市場およびスペイン語圏地域全体の市場を視野に入れ、スペイン語でも歌っていることにある。
これには、前述したように、ヒスパニック人口の増加、社会進出の進展などが影響している。また、このような変化のなかで、アメリカの音楽業界全体、ひいてはメディア全体がスペイン語圏市場の大きさに気づいたことも重要な要因である。この現象は、アメリカがバイリンガル・マルチカルチャリズムの国へと変貌していることを印象づける。
一方でアメリカ内におけるヒスパニック社会自体もその様相は変化している。例えば、プエルトリコ移民がアメリカ内で定着していくに従い、プエルトリコ人としてのアイデンティティもひとくくりにできないほどに多様化が進行している。コミュニティー自体が変化をとげ、コミュニティーにおけるプエルトリコ人のあり方も変化していくのである。
新たな世代の新たな感覚がラテン音楽にアメリカのストリートの音楽であるヒップ・ホップやラップの要素を取り入れさせ、これまでのラテン音楽とは異なる音楽を生み出した。そして、それは、新たな世代の言語感覚、スペイン語話者でありながら、移民一世代とは異なる言語感覚を持った世代が現れたこと、その世代が、ラテン・ミュージックを英語で歌ったこと、つまり、ラテン・ポップとは、このような移民社会自体の変化が生み出した音楽現象だということが理解されてくる。
そして、このラテン・ポップの流行という社会現象から、「スペイン語を話し、アメリカ社会で差別されるヒスパニック」というステレオタイプではくくりきれないほどに、ヒスパニック社会が多様化してきていることも明らかである。プエルトリコ人移民に関していえば、すでにアメリカに住むプエルトリコ人の58%がプエルトリコ生まれではない。また、大統領がスペイン語で演説するほどに、ヒスパニックの存在はアメリカ社会で重要性を増している。このような時代に、プエルトリコ人のアイデンティティーが各人各様に変化していくのも当然のことである。そして、ラテン・ポップ流行という社会現象はそのようなヒスパニック社会の有り様や変化、あるいはラテン文化を背負うアメリカ社会の姿を象徴的に映し出している。
6、異なる文化の融合
ラテン音楽の伝統にニューヨーク独自のエキスが融合していったことは前述したが、このようなニューヨークの特徴である文化の混在または融合という移民社会の特徴はまた、ラテンアメリカ社会の特徴でもあり、ラテン音楽の伝統でもある。
昨今のラテン・ポップのアメリカでの流行、さらに世界市場での商業的成功の理由として、コロンビアの歌手シャキーラは、ラテン音楽の融合性、"fusion"にある、と語っている。
"…riding--Latin pop--we must admit, is also not an entirely new phenomenon. Salsa, rumba, mambo and other Latin musical forms have made inroads on American pop music…. What is new is this: as the century turns to double zero, a new generation of Latin artists, nurtured by Spanish radio, schooled in mainstream pop, are lifting their voices in English… Because Latin pop draws from different cultures, it also has the power to bring people together. 'Latino people have a golden key in their hands, a common treasure,' says Colombian-born pop-rocker Shakira, 22, who is working with Gloria Estefan to adapt her acclaimed 1998 Spanish-language CD Donde Estan los Ladrones? into English. 'That treasure is fusion. The fusion of rhythms, the fusion of ideas. We Latinos are a race of fusion, and that is the music we make. And so at the dawn of a new millennium, when everything is said and done, what could possibly happen besides a fusion?' … Puerto Rico is where it starts. It is an island inhabited by the descendants of black slaves and Spanish conquistadors; here cultures collided, rhythms intermingled, and salsa emerged, inspired by Africa and Europe and by New York City."
多くの人種が混在するスペイン語圏地域には、多様で豊かな独自の音楽文化がつくりあげられてきた。フラメンコやサルサ、フォルクローレ、アフロカリビアンの音楽など、実に多種多様な音楽が存在する。それは、人種の混在が生み出した音楽文化であり、これらの地域が、原住民文化、西欧文化、アフリカ文化をミックスして独自の文化を形成してきたからである。そして、その音楽が、英語で歌われることによってアメリカ文化に融合していったのである。それは、アメリカにおけるヒスパニック勢力の増大によって醸成されてきたものであるが、同時に次々と流入してきた移民たちによって形作られてきたアメリカ社会の姿でもある。ラテン音楽の特色であるfusionという音楽性は、とりもなおさず、世界の文化が混在するニューヨークの文化とも一致するものである。
7、結論
20世紀最後、ラテン音楽をルーツとするヒスパニック歌手の音楽が、アメリカの豊かなエンタティメント産業と結びつき、ラテン音楽のブームをつくり出した。この音楽は、アメリカという移民社会の影響のもとで洗練され、商業的成功を収めている。この現象は、ヒスパニック人口の増大という社会現象と密接に関連しているが、同時に、ヒスパニック社会の影響力の増大は、ヒスパニック社会自体の多様性をもたらした。そして、ラテン・ポップの流行は、このヒスパニック社会のなかの新しい世代が生み出したものである。
このことは何を意味しているのであろうか。それは、ヒスパニックのアメリカにおける存在の大きさを意味していると同時に、ヒスパニックの文化がアメリカの文化と融合し、ラテン文化をアメリカの文化へと変質させていることを示している。この現象を生み出した新しい移民世代は、それまでのアメリカにおけるラテン・ミュージック歌手と異なり、英語でラテン音楽を歌っている。それは、新しい移民世代の感覚から生じてきたものであり、彼らが作り上げたたものである。
つまり、このことは、ヒスパニック社会の影響力の増大とともに、ヒスパニック社会自体も変化し、アメリカ社会と融合しながら、新たな文化を創出していることを示している。
しかしながら、この現象に対して、西欧文化の理想化のなかでのマーケッティングであり、本来のラテン文化のエキスが見失われているという、昨今のエスニック・カルチャーに潜む問題点も指摘されている。プエルトリコ人作家であるエスメラルダ・サンチアゴはラテン・ポップ流行現象に関して次のように警鐘を鳴らしている。
"Still, some longtime aficionados fear that the new pop Latin wave could wash away important cultural connections. Esmerelda Santiago, author of the memoir When I Was Puerto Rican, says the current crop of singers being pushed by the major labels could use some skin-tone diversity. She feels the artists who are being promoted to superstardom mostly look Anglo, leaving the darker performers behind. "It's fascinating to me, and a little upsetting, that this is still the white face of the Caribbean," says Santiago. 'I'm sure that there are equally talented and gifted artists out there whose facial features don't conform as much to the European ideal.'"
この指摘は的を得ている。しかしながら、だからこそオリジナルのラテン・ミュージックそのものではなく、アメリカのラテン・ポップなのではないだろうか。ここに、アメリカのヒスパニック社会の現時点での到達点があり、限界点が表れている。アメリカ社会の文化の影響を受けた新しい移民世代が作り出した音楽である。そこには、アメリカ社会が持つ西欧文化を理想とする社会の側面が潜んでいるとしても不思議ではない。逆に、このような形で異なる文化は融合していくものではないだろうか。西欧文化を理想とする側面というのは、ほかならぬアメリカ社会の現状であり、またヨーロッパ移民が社会の中枢を占めるアメリカ大陸全体の文化の特徴でもある。現状では、このような限界点を持ちながら、しかし、確実にラテン文化はアメリカの文化として浸透しつつある、ということである。