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移民、政治、女性:米国本土におけるプエルトリコ人移民女性と政治

Emigrants, Politics and Women: Puerto Rican Women Migrants in the US

In this paper I would like to discuss how female Puerto Rican migrants have played an important role in the Puerto Rican community in the US.

With the growth of the Puerto Rican emigrant population in the US, their community has become well established. Female Puerto Rican worked to survive in this society by working and fighting in their daily lives. Their political influence is not visible on the national political scene but their influence is felt in grass roots movements and in "women of color" movements.

We can say their activity penetrates minority movements and through this they are changing US society.

1. はじめに

 米国におけるプエルトリコ人移民女性たちは、移民当初からタバコ製造業や繊維産業の分野で重要な稼ぎ手となってきた。また、70年代以降、ヒスパニックを対象とした福祉政策を求めた社会運動、公立学校でのバイリンガル教育プログラム設立運動、大学でのプエルトリコ研究組み込みの運動などでも女性たちは常に重要な役割を果たしてきた。

  これらの女性たちの存在は、既成政党にどのような影響を与えたのであろうか。特に、プエルトリコの政治の焦点である植民地問題をめぐる政治課題に対して、どのような影響を及ぼしたのか、あるいはフェミニズムの議論のなかでナショナル・アイデンティティの問題がどう扱われてきたのか、また、米国二大政党民主党・共和党の政治システムとどう関わってきたのであろうか。これらの疑問点を解明する目的で、筆者は2001年9月にニューヨークにおいてプエルトリコ移民社会に関してインタビューを主とした現地調査を実施した。

  しかし、調査の結果、筆者は筆者が抱いていた疑問点のおき方そのものを再考することをせまられた。インタビューを実施したプエルトリコ研究に携わる米国本土在住のプエルトリコ人研究者たちが、米国の政治に直接影響を与えるようなプエルトリカン・フェミニズムというものは存在しない、という見解で一致したからである。ただし、それは、プエルトリコの女性たちの間にフェミニズムが存在しないということを意味しない。日常の生活改善や草の根運動のレベルでは多くの女性たちがマイノリティグループの一員として活動を行い、そこにフェミニズムの思想が深く浸透している、という指摘も受けた。また、プエルトリコ女性のフェミニズムという観点ではなく、マイノリティ女性、ラテン系女性のフェミニズムとして捉え直す必要性も示唆された。今後、疑問点の設定の仕方をどう再考していくべきか、どういう視点で捉え直していくべきか。本稿ではこれらの点に関して、これまでの調査結果を基に検討を加える。

2. 2001年9月、ニューヨークでのインタビュー調査結果

2001年9月にニューヨークにおいて実施したプエルトリコ移民社会に関するインタビュー調査では、ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジのプエルトリコ研究センター、 センター長フェリックス・V.・マトス・ロドリゲス(Félix V. Matos Rodríguez)、および、同センター、ジェンダー研究の研究員、カリダ・ソウサ(Caridad Souza)、ジーナ・ロペス(Gina Lopez), ニューヨーク州立大学オールバニーキャンパス、ラティーノ・ラテンアメリカ・カリブ研究センター、センター長エドナ・アコスタ・ベレン(Edna Acosta-Belén)、ニューヨーク市立大学シティ・カレッジ 、ラテンアメリカ・カリブ研究学科、学科長イリス・ロペス(Iris López)らにプエルトリココミュニティに関するインタビューを実施した。その結果、以下のような点が指摘された。

・アメリカ合衆国本土に、プエルトリコ人女性のフェミニズムと捉えられるようなまとまりはなく、フェミニストの異なるグループが散在していると表現したほうが的確である。つまり、国のレベルではなく、コミュニティのレベル、州のレベルでプエルトリコ人女性たちが活動している。しかも、活動分野は、健康、教育、環境など多岐に渡る。

・ただし、国家政策のレベルで活動したプエルトリコ人のフェミニスト団体が存在する。National Conference of Puerto Rican Women Inc.がその団体で1970年代に国家政策の場で活躍した。国がヒスパニック人口の増加に気付き、その存在に注目した時期であり、また、アメリカ合衆国でフェミニズムが盛り上がり、国連が女性問題に取り組み始めた時期と一致する。当時、この団体は、アメリカ合衆国連邦政府の各種委員会の会議などに出席し、自分たちの存在を国家政策の立場にいた人々に主張し、少なからぬ影響を与えた。

・最近ではトランスナショナルのレベルで、フェミニストたちが活動しているのが注目に値する。プエルトリコ、ビエケス島(Vieques)米軍基地の問題をめぐる女性たちの動きにも、その傾向が見出される。この運動は、プエルトリコ人女性たちが国境を超えて運動を展開した例として重要であり、今後のフェミニズムの流れとしても研究に価する。

・ここ30年ほどは、プエルトリコの島と米国本土の間で、学術分野での交流も進み、相互理解の機会が増えている。しかし、プエルトリコの島の人間とアメリカ合衆国本土に住むプエルトリコ人の間には大きな隔たりがあり、基本的には、異なる世界に住んで居ると捉えたほうがよい。

・米国本土に住むプエルトリコ人のアイデンティティは島に住むプエルトリコ人としてのアイデンティティとも異なるし、かといってアングロサクソン系のアメリカ人としのアイデンティティとも異なる。プエルトリコ系アメリカ人としてのアイデンティティには、エスニックとしての、あるいはマイノリティとしてのアイデンティティの要素が含まれる多様性を持つものであるが、そこにはアメリカ合衆国本土に特有なアメリカン・ドリームや民主主義、経済的豊かさなどの価値観も包摂されている。従って、マイノリティとしての怨嗟が存在するとしても、それはイコール反米を意味するものではない。

・また、プエルトリコ系アメリカ人としてのアイデンティティの出現は、それまで存在した、白人と黒人とからなるアメリカ合衆国、という認識を変更させた。ヒスパニック系の存在が表面化するに従い、白人と黒人とからなる社会ではなく、多様な人々、多様な文化からなるアメリカ合衆国という認識を社会が受け入れていく結果を生み出している。

・プエルトリコ人女性たちは、ラテン系女性たちとともに、women of colorのフェミニズムの一翼を担っている。このことは、アングロサクソン系アメリカ人女性のフェミニズムに欠落しがちなマイノリティ女性の視点や第三世界の女性たちの視点を米国フェミニズムのなかに持ち込む結果となり、フェミニズムの質の転換を求める勢力として彼女たちは重要な役割を果たしている。

  インタビューをした研究者たちから指摘を受けたこれらの点から、プエルトリコ女性移民を考察するに当たっては、アメリカ合衆国本土におけるプエルトリコ人女性のフェミニズムという単純な捉えかたではなく、アメリカ合衆国に存在するマイノリティ女性、特にラテン系女性のフェミニズムと関連して把握していかなければならないことが理解される。しかしながら、同時に、米国本土のプエルトリコ人女性と政治に関する研究は実際にはまだ数えるほどしかなく、今後のさらなる研究の必要性も指摘された。そこで次に、アメリカ合衆国本土のプエルトリコ人社会を概観し、そのうえで女性が政治の分野でどのような役目を果たしているのかに関して検する。

3. アメリカ合衆国本土におけるプエルトリコ系移民社会の形成過程と政治

 アメリカ合衆国本土におけるプエルトリコ人の政治参加に関しては、その政治参加の割合が低いことが常に問題点として指摘されてきた。米国本土の選挙参加割合が島の選挙参加割合と比較すると極端に低いのである。このことについて、合衆国のプエルトリコ人コミュニティが島と強く結びついているため合衆国本土での政治に対して無関心になる、あるいは、出稼ぎとして一時的に移住しているため米国本土の政治の動向に対する関心度が低い、と言ったことがその要因として挙げられることがある。しかし、実際にコミュニティ社会の歴史を点検していくと、その過程には合衆国本土で暮らすプエルトリコ人たちのサバイバルの闘いが数多く存在し、そこでは、行政への働きかけが行なわれており、コミュニティの人々が地域レベルで政治に深く関わっていることに気付く。ただし、コミュニティ全体の動きとなって政治活動として表面化していくまでには、ある一定の人口の増加や時間を必要とした、ということは言える。以下にプエルトリコ人コミュニティの成立過程と政治、社会運動の状況を考察する。

(20世紀前半プエルトリコ人移民社会形成の時期)

  20世紀に入り開始されたアメリカ合衆国本土へのプエルトリコ人の移民は、1920年代以降、大幅に増加していった。この時期、プエルトリコ人移民社会にとっては、島の政治的地位をめぐる議論が政治上の大きなテーマであった。1898年に米国領土となり、1917年に米国市民権が賦与されたプエルトリコ移民一世代にとって島の政治的地位の問題が重要な関心事であり、また、このようなプエルトリコ人たちの政治的立場が大きく変化していった時期には、その政治的地位の問題が当事者社会の一大関心事であることは当然とも言える。しかし、移民数が増加し、本土内にプエルトリコ人コミュニティが形成されていくのだが、その存在は、アメリカ合衆国内の政治で注目されることもなく、さほど重要性を持っていなかった。この時期、アメリカ合衆国の主流政党のほうでも、ほとんどプエルトリコ人に注意を払っていなかったのである。

しかし、多くのプエルトリコ人が移住先に選んだニューヨークでは、ハーレム出身のイタリア系移民の革新的傾向を持つ政治家、ビト・マルカントニオ(Vito Marcantonio)が、プエルトリコ人たちの支持を受け、議会へ進出し、プエルトリコ人社会の状況改善に努めた。また、1948年以降は、プエルトリコ事務所( la Oficina del Estado Libre Asociado)がプエルトリコ政府によって設置され、その活動にプエルトリコ人コミュニティの人々が参加するようなっていった。この事務所は、プエルトリコ人が政治の場へ参加するよう、選挙人名簿登録の推進のキャンペーンを実施したり、プエルトリコ人の利益代表として議会へのロビー活動などを行ったが、その活動形態としては、政治活動より社会活動や文化活動に力点が置かれていた。そのせいもあり、以前、全体としのプエルトリコ人コミュニティの政治選挙などへの関心は低いままであった。

(1950年代以降60年代前半、プエルトリコ人としての自覚と文化)

  20世紀前半に増加したプエルトリコ人移民によって、ニューヨークを中心として彼等のコミュニティが形成されていったが、その結果、プエルトリコ人たちは、自らのアイデンティティや自分たちの文化社会に目を向けるようになった。1950年代になると、自分たちのルーツであるプエルトリコ文化を自負するプエルトリコ人パレードがニューヨークで開催されるようになり、現在もニューヨークの一大イベントとして続いている。しかし、政治活動に関しては、その焦点は、米国本土における自分たちコミュニティの政治的立場に関することよりは、プエルトリコの政治的地位に関することに重きが置かれていた。そして、プエルトリコを植民地的状況に置いているアメリカ合衆国政府への反発から、一部過激派によるアメリカ合衆国大統領暗殺計画や合衆国上院議員への発砲事件などが引き起こされた。

  一方、この時期になると、一部の島の上層階級出身者が、米国本土において政治の分野に進出し始め、福祉政策などにも関わるようになっていった。だが、顕著な成果をあげるまでには至っていない。

60年代に入ると、アメリカ合衆国連邦政府による貧困撲滅運動が実施されたが、実際に、コミュニティのプエルトリコ人たちの間に、それが広まっていくことはなく、多くのプエルトリコ人移民が福祉の恩恵を受けるまでには至らなかった。

  結局、プエルトリコ人たちがアメリカ合衆国本土の政治の場に本格的に登場していくのは、アメリカ合衆国が、政治運動の渦の時代に入っていった60年代後半まで待たなければならなかった。コミュニティが形成された後に訪れたアメリカの政治の嵐の時期に、プエルトリコ人社会も触発され、次々と彼等の政治活動団体が設立されていったのである。

4、60年代後半から70年代前半、改革の時期と政治への積極的参加

60年代後半以降、プエルトリコ人コミュニティは政治的な改革の時期を迎える。この時期、コミュニティのなかで以下のような団体が次々と設立され、アメリカ合衆国在住のプエルトリコの人々に新たな政治意識改革の影響を及ぼした。

ヤング・ローズ党(Partido de los Young Lords)

プエルトリコ社会主義党(Partido Socialista Puertorriqueño)

プエルトリコ左派運動委員会(Comité Movimiento de Izquierda Nacional Puertorriqueño)

プエルトリコ人学生同盟(Unión de Estudiantes Puertorriqueños (Puerto Rican Student Union))

 また、この時期、連邦政府のコミュニティ・アクション・プログラムなどの貧困撲滅の活動に多くの知識階層に属するプエルトリコ人たちが参加した。このような社会変革の時代に、民族解放運動(Movimiento de Liberación Nacional) や民族解放武装勢力 (Fuerzas Armadas de Liberación Nacional)といった過激な活動団体も出現した。

この政治改革のうねりに触発されて、プエルトリコ人の政治参加も活発になり、「投票の市民キャンペーン(Cruzada Cívica del Voto)」という運動のもとでプエルトリコ人の選挙参加割合は大幅に増加した。1972年にはアメリカ合衆国民主党の大統領候補選出の代表議員に11人のプエルトリコ人が選出され、メキシコ系アメリカ人とともにラテン系代表議員グループ (Latino Caucus)を形成し、その存在を印象づけた。また、この頃から、民主党のなかだけではなく、さまざまな政治の場で、プエルトリコ人が進出する姿が目立つようになっていった。1970年にはプエルトリコ出身のエルマン・バディージョ(Herman Badillo)が、ニューヨーク21区からアメリカ合衆国連邦議会下院議員に当選し、プエルトリコ人の政治舞台への進出のメルクマールとなっている。

5、コミュニティで展開される政治活動

  70年代後半以降、プエルトリコ人たちは政治活動へ積極的に参加するようになり、選挙事務所が次々と設置され、選挙人名簿登録キャンペーンも組織的なものになり、政治や行政の場に数多くのプエルトリコ人が進出していった。1975年に設立されたコネチカット州、ハートフォードの「プエルトリコ人の投票(Voto Boricua)」という組織などは、その草分け的団体として注目される。1984年には、ルイス・カバン(Luis Cabán)のもとで全米プエルトリカン・ヒスパニック選挙参加プロジェクト(National Puerto Rican−Hispanic Voter Participation Project)が設立され、アメリカ合衆国東海岸のヒスパニックの選挙参加運動を展開している。1989年にニディア・ベラスケス(Nydia Velázquez)が、プエルトリコ政府のプエルトリコ人コミュニティ局(Departamento de Asuntos de la Comunidad puertorriqueña)の仕事を引き継ぐと、選挙名簿人登録キャンペーンを積極的に展開し、その結果、東海岸で20万人のプエルトリコ人が選挙名簿に登録された。

1972年には、前章のインタビュー内容でも触れられている女性の政治団体、全米プエルトリコ女性会議National Coference of Puerto Rican Womenが設立され、活発な政治活動を行い、行政へプエルトリコ女性の声を反映させることに努め、プエルトリコ人の社会的地位の向上を推し進めた。その活動範囲は広範におよび、憲法条文へ男女平等を盛り込む要求をしたERAの運動から、家族計画、女性リーダープログラム、保育環境改善など多岐に渡る。

また、同じ年の1972年には、プエルトリコ人およびヒスパニックの法的権利の擁護と教育の推進を行う団体、プエルトリコ法律相談・教育基金団体(Puerto Rican Legal Defense and Education Fund)が設立され、プエルトリコ人社会の待遇改善に取り組み、大きな成果をコミュニティにもたらした。例えば、設立の1972年に「アスピーラがニューヨーク教育委員会に対して行った訴訟(Aspira v. Board of Education of New York)」を担当し、英語をあまり話さない児童のバイリンガル教育を実現させていることなども大きな実績である。また、この団体の選挙権推進プロジェクトにより、プエルトリコ人とラテン系の政治参加や行政参加割合が大きく増加していった。その他にも、この団体はコネチカット州の人種差別的教育制度に反対し、1996年に州高等裁判所で差別的教育制度を改めるよう命じた判決を勝ち取った運動団体の一つでもあることも特筆される。

1977年には、プエルトリコ人の企業家が中心となり、企業家団体である全米プエルトリコ連合(National Puerto Rican Coalition)を設立した。この団体は、政治や社会の現状分析など、幅広い活動を行い、プエルトリコ系企業の発展を企図している。

また、1981年には、プエルトリコ人の利益を擁護するために、主に政策などを研究する目的で、プエルトリコ政策研究所(Institute for Puerto Rican Policy)がアンヘル・ファルコン(Angel Falco´n)の下で設立された。プエルトリコ人の投票行動などの分析や、その社会批判の姿勢に定評がある。また、90年代の選挙区再区画の過程で、プエルトリコ人の利益拡大の上で重要な立ち回りを演じた。

同じ年の1981年、プエルトリコ人の法的権利と人権を擁護し、ラテンアメリカおよびカリブ海地域へのアメリカ合衆国の干渉に反対する団体として、プエルトリコ人の権利を守る全米会議(National Congress for Puerto Rican Rights)が設立された。この団体は、プエルトリコ法律相談・教育基金とは性格が異なり、独立主義の立場をとり、法的アプローチよりは政治活動に力を注いだ。アメリカ合衆国の政治的横暴に反対するデモンストレーションなどの示威行為を行い、また、人種差別に対する運動にも力を入れ、差別に闘う他の団体との共闘にも力を入れた。1999年にはニューヨーク、ボストン、フィラデルフィア、サンフランシスコにネットワークを構築し、この種の組織としてはプエルトリコの団体のなかでは最も大きな団体と自負している。

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このように、70年代後半以降、プエルトリコ人コミュニティのなかから、多くの社会活動団体、政治団体が生まれてきた。そして、このプエルトリコ人たちの政治活動の特徴は、プエルトリコ人が住む地域でのコミュニティ活動にある。そして、アメリカ合衆国連邦議会下院議員となったニディア・ベラスケスを代表として、女性もその流れのなかで、頭角を現わしている。

6、プエルトリコ人の選挙参加行動

1948年当時、選挙権を行使したのは、プエルトリコ移民の45%に過ぎず、1950年でも50%に達していない。移住したばかりのプエルトリコ人たちは、米国本土の選挙活動に慣れ親しめず、参加率が上昇しない。カリブ文化圏である故郷の島の選挙は、賑やかな音楽のリズムに踊りにと賑やかなものであるが、アメリカ合衆国本土の選挙活動はそれと比較すればずっと落ち着いた静かなもので、選挙のやり方ですら文化的に異なる。また、米国本土の政党のほうでも、このプエルトリコ人移民の集団を長いこと無視し続けてきた。

しかし、50年代以降、プエルトリコ政府の移民局やヒスパニック系の情報誌、コミュニティ団体が選挙参加キャンペーンを繰り広げ、プエルトリコ人の投票人数が1954年から56年にかけて、3万5千人から8万5千人に増加している。しかし、すでに1957年の時点で、プエルトリコ人のニューヨークの人口は50万人に膨れ上がっていたのだから、その人口の多さの割には、その存在が、政治的に表面化してはいなかった。政治の表舞台にプエルトリコ人たちが登場していくまでには、しばらく時間を要したのである。

続く60年代も、プエルトリコ人の政治組織は弱体であり、プエルトリコ人コミュニティの政治リーダーたちが、注目を浴びることはなかった。しかし、それは、プエルトリコ人たちが政治の分野へ進出する野心がなかったことを意味してはいない。コミュニティの内部で、プエルトリコ人社会が政治的な影響力を持つためのの努力は続けられた。そして、その結果、プエルトリコ人の存在が、アメリカ合衆国の政治の表舞台に現われ始めるのは、1970年に、プエルトリコ出身のエルマン・バディージョ(Herman Badillo)が連邦議会下院議員に当選してから以降のことになる。以下に、アメリカ合衆国本土における主なプエルトリコ人政治家進出の流れをまとめる。

1970年、プエルトリコ出身のエルマン・バディージョ(Herman Badillo)がニューヨーク21区から連邦議会下院議員に当選。―1978年まで

1973年、マイアミでプエルトリコ人マウリセ・フェレ(Maurice Ferré)が市長に選出される。当時、マイアミは人口40万人でその半数がスペイン語を話したが、投票名簿登録を済ませていたのは、そのうちの15%に過ぎなかった。しかし、この選挙では、その多くがキューバ人である15%の彼らがマウリセに投票し、その結果、ヒスパニックグループが、人数として他のどのエスニックグループよりも大きなグループとなった。

1978年、ロバート・ガルシア(Robert García)がニューヨーク21区から連邦議会下院議員に選出され、バディージョの後を継ぐ-1990年まで

1990年、ホセ・E.・セラーノ(José E. Serrano)がニューヨーク21区から連邦議会下院議員に選出され、ガルシアの後を継ぐ

1993年、ニディア・ベラスケス(Nydia Velázquez)がニューヨーク12区から連邦議会下院議員に選出される。米国議会で初のプエルトリコ人女性となる。ニューヨークタイムス紙はベラスケスの当選を米国におけるエスニックグループの政治的パワー台頭の証と宣言する。

1993年、ルイス・グティエレス(Luis Gutierres)がシカゴ4区から連邦議会下院議員に選出され、イリノイ州で最初のヒスパニック議員となる。

以上、プエルトリコ人もアメリカ合衆国におけるヒスパニック勢力を背景に、徐々に政治の場において発言権を確保していっていることが理解できる、また、国会以外のコミュニティレベルでの政治進出も確実に増加しおり、特に、プエルトリコ人の人口比が高い地域ではその傾向が著しい。

7. プエルトリコ人と社会運動

 上述の政治の場への進出の基にあるものは、プエルトリコ人たちの地域での政治や行政に対する活動である。60年代70年代、貧困撲滅キャンペーンでは、コミュニティのなかに多くの活動団体が出現し、政治的な組織力が培われていった。結局、このキャンペーンで貧困が撲滅されてしまうことはなかったのだが、コミュニティの人々が組織化や政治参加の経験を積んでいく結果となり、エスニックグループとしての強いアイデンティティが確立していった。プエルトリコ人の人口比の高いニューヨークやハートフォード(コネチカット州)で市民活動家や政治活動家が育っていった。特に、コネチカット州のプエルトリコ人の多い地域では、行政や政治の分野に大量にプエルトリコ人が食い込み、どのエスニックグループよりも短期間で政治的パワーを獲得した、と言われている。

 また、選挙で選出される行政官(elected officials)の増加傾向も顕著である。しかしながら、その一方で、依然、全体のプエルトリコ人の投票率は全体の平均投票率より低いという数値が出ている。ただし、意識調査などでは、プエルトリコ系の7割の人が、アメリカ合衆国へ愛着を感じ、8割の人がアメリカ人であることを誇りにしているという結果が出ている。このことを考えると、投票率の低さが、アメリカ合衆国本土への政治の無関心の表れ、とは単純に言えない面があることも予想される。この点に関しては、今後、さらに研究が必要であろう。

60年代後半以降、プエルトリコ人たちが社会運動の場で活躍するようになっていった経緯については、以上の考察から明らかであるが、プエルトリコ人の社会運動が米国政治に与えた影響に関する評価については、定まってはいない。

  前章で触れたインタビュー調査のなかで、ニューヨーク市立大学シティ・カレッジ 、ラテンアメリカ・カリブ研究学科、学科長イリス・ロペス(Iris López)は、筆者に、彼女が大学時代を過ごした70年代、彼女は学生運動から思想的な大きな影響を与えられたと語った。モレーナであるイリス自身のアイデンティティ、労働者階級家庭の子である意味、貧困の意味などを考えるようになり、社会に疑問を持つようになったと語っている。そのなかで、黒人解放運動を歩みをともにしながら、ラテン系としてのアイデンティティも持つようになった過程や、多くのプエルトリコ人がブラックパワーの運動に参加していったこと、参加しながらも一部には自分が黒人であることに違和感を持つプエルトリコ人がいたことなども語られた。しかし、やがてはそのような違和感もヒスパニックとしてのアイデンティティとして運動のなかで確立されていき、アメリカ合衆国のこれまでの白人対黒人といった図式を塗り替えていったことも指摘していた。

現在、彼女は、ラテン系女性の間で行われている避妊に関する調査研究を行っているが、このような研究もラテン系女性研究者たちとの共同研究として実施していること、そこにはフェミニズムの思想が横たわっていること、などを指摘している。また、アメリカ社会にプエルトリコ人のフェミニズムといったものが存在しないことを認めつつ、コミュニティや様々な分野でプエルトリコ人女性たちがラテン系の女性たちとともに活動を行っていることを強調した。

  イリス・ロペスの話しからも、アメリカ合衆国のマイノリティの社会運動が活発化していくなかで、プエルトリコ人の社会がその影響を受けながら、そのなかで、プエルトリコ人たちもマイノリティであるラテン系の人々とともに、アメリカ合衆国におけるマイノリティの社会運動の質を変化させていっていたことが理解される。それは、プエルトリコ人の社会運動という形で顕在化したものではないがために、アメリカ合衆国社会全体への直接の影響という形では見えにくいものである。従って、直接影響を及ぼしたというようなものではなく、社会全体のなかで影響され、影響を与えていったと理解すべきであろう。

そして、その社会運動のなかで、プエルトリコ人女性たちもマイノリティの女性たちとともに地域やコミュニティのなかで積極的に活動を進めていた、ということである。

8. 社会運動のなかでの女性

前章のイリスのインタビューでも語られたように、プエルトリコ人の女性たちも活発に社会運動のなかで活躍している。そのなかでも、エベリーナ・ロペス・アントネッティ(Evelina López Antonetty 1922-1984)は、プエルトリコ人コミュニティ運動のなかでも伝説的な女性リーダーとして知られている。彼女は、「プエルトリコ人コミュニティの母(mother of the Puerto Rican Community)」、あるいは「ブロンクスの女傑(hell lady of the Bronx)」とも呼ばれている。

エベリーナは1933年10才でプエルトリコのポンセから一人でニューヨークへ渡っている。二年後に他の家族がニューヨークに到着するまで、スパニッシュ・ハーレムに住む叔母の家で生活していた。エベリーナは少女時代から正義感が強く、近所の貧しい人々が、福祉の恩恵を受けられるように行政とかけあったりするなど、少女時代から地域のリーダーとして活躍している。その生涯は米国本土で活躍するプエルトリコ人女性作家のニコラス・モア(Nicholasa Mohr)の著書All for the Better : A Story of El Barrio (Stories of America)にまとめられている。エベリーナは、16才で青年共産同盟(Young Communist League)に参加している。高校を卒業したあと、商店の組み合いを組織し、4000人以上のヒスパニック労働者を組合に参加させ、当時のコミュニティの政治指導者であった作家のヘスス・コロン(Jesús Colón)やベルナルド・ベガ(Bernardo Vega)の指導のもと、地域のリーダーとして頭角を現わしていった。

1965年には地域の親たちと教育改革のための組織、ブロンクス保護者同盟(United Bronx Parents)を設立し、その指導力を発揮させ、サウス・ブロンクス地区の大胆な教育改革をもたらし、ヒスパニック系子弟の教育環境を改善させた。バイリンガル教育、社会人教育プログラム、青年リーダー養成プログラムなど、次々と新しい政策を打ち立て、他のコミュニティの教育改革のモデルを示していった。人々を組織し運動を展開し、行政との交渉の場へコミュニティの人々を組織していく彼女の政治力は高く評価された。エベリーナは、学位を持っていなかったが、後には、大学で、黒人、プエルトリコ研究学科などで教鞭を取っている。現在では、ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジ、プエルトリコ研究センター図書館には彼女の名が冠せられている。

 エベリーナの例から分かるように、プエルトリコの女性は、コミュニティの社会活動のなかで積極的に活躍している。移民社会のなかでは、女性のほうが家政婦などの仕事に先に就く例が多く見られ、男女の間の経済的役割分担が、移民家庭で逆転することが研究者の間で指摘されることであるが、プエルトリコ人のコミュニティでも、同様なことが言えるようである。移民社会の厳しい現状にさらされるのは男女ともに同様であり、福祉や教育の場で女性たちも積極的に問題解決に活動していく。その意味で、地域で活動しているプエルトリコ人女性たちを、さらに詳しく調査していくことで、米国本土におけるプエルトリコ女性の政治的影響力のありようが明瞭に浮かび上がってくるように思われる。

9. 結論

以上のことから、米国本土におけるプエルトリコ女性移民と政治という課題を考えていくうえで、地域で行われている生活改善運動や教育環境改善、バイリンガル教育推進などに取り組んでいる女性たちの調査を実施する必要があることが理解された。そして、そのようなコミュニティ運動から生まれた政治家たちが、女性たちと政治の関係をどう捉え、どう組織化していっているのか、プエルトリコ人社会がラテン系社会のなかでどのような立場にあるのか、といったこともさらに研究する必要がある。また、ラテン系の女性たちが、米国のマイノリティ女性のフェミニズムでどのような運動を展開し、どのような影響力を持つのかを研究していくことも重要である。今後は、このような視点を加えながら、米国本土におけるプエルトリコ女性移民と政治に関して研究を深めるめていきたい。

参考資料

インタビュー資料

・ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジのプエルトリコ研究センター、 センター長フェリックス・V.・マトス・ロドリゲス(Felix V. Matos Rodriguez)とのインタビュー録画資料、20019月、ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジのプエルトリコ研究センターにて録画、筆者所有。

・ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジのプエルトリコ研究同センター、ジェンダー研究の研究員、カリダ・ソウサ(Caridad Souza)、ジーナ・ロペス(Gina Lopez)とのインタビュー録画資料、20019月、ニューヨーク市立大学ハンター・カレッジのプエルトリコ研究センターにて録画、筆者所有。

・ニューヨーク州立大学オールバニーキャンパス、ラティーノ・ラテンアメリカ・カリブ研究センター、センター長エドナ・アコスタ・ベレン(Edna Acosta-Belen)とのインタビュー録画資料、20019月、ニューヨーク州立大学オールバニーキャンパス、ラティーノ・ラテンアメリカ・カリブ研究センターにて録画、筆者所有。

・ニューヨーク市立大学シティ・カレッジ 、ラテンアメリカ・カリブ研究学科、学科長イリス・ロペス(Iris Lopez)とのインタビュー録画資料、20019月、ニューヨークにて録画、筆者所有。

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